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No.74〜 2011.11

源六親分と赤獅子

                  雀神社(茨城県古河市宮前町5-9)


雀神社(茨城県古河市)獅子山の獅子は建立当時は鮮やかな朱色に塗られていた
当時猛威を振るっていた疱瘡(天然痘)除けとして塗られていたようだ。

願主の篠崎源六は通称大田屋源六と言い、生業は旅館業で古河宿の脇本陣も務めていたが、もう一つの顔は「目明かしの親分」だったという。


元治元年(1864)の水戸天狗党事件の時は多くの手下を放ってその動向を探り、関東取締出役(八州回り)に伝えたという。
また街道筋の失せ物は源六親分に頼むと、たちどころに見つかったそうだ。
獅子山建立の翌年慶應四戊辰年正月三日、鳥羽伏見で戦いが始まりました。
2月に藩は城下の商人に対し献金上納を指示、7,241両余りを集めた。
源六も120両を負担、見返りとして倅の周助が苗字帯刀を許されます。

譜代である古河藩(土井家)ではあったが、勤皇の誓約をすべく上京、集めた上納金は恭順の意を示す為の献金として使われました。
一方藩主が留守の間に脱藩して戦う者があり、その者達が土井家の刻印のある鉄砲や大砲を持ち出して結城の城で官軍と戦いました。

なお古河の歴史資料として慶應四年五月三日に書かれた「篠崎源六家内りき容体書」、同五月十八日書かれた「篠崎源六帰住歎願書控」が残されている。
やがて明治となり、源六の事件もうやむやとなり、大田屋旅館も元通りに営業、古河に戻った源六は古河町に郵便局が出来た時に初代局長となったそうです。



       奉献 慶應三丁卯年六月吉日(1867)
       願主 篠崎源六         
           
昭和二十九年十二月九日再建
           
大工 代次郎 鳶 常太郎
           
石積 鍋五郎
           
石丁住石工師 豊蔵作 弟子伊之吉

(文・山田敏春/写真・山田、阿由葉)