ウルムチ シャンシャン 二人旅


沙    山    公    園



 今年も9月21日から5泊6日のシルクロードの旅を妻と二人で楽しみ、いくつもの感動がありました。その一端です。
 
                                                   平成18年11月15日


                             日        程

9月21日 福岡~上海浦東空港    上海虹橋空港~ウルムチ
9月22日 ウルムチ~シャンシャン(乗り合いバスで4時間の旅) シャンシャン散策
9月23日 シャンシャン散策   シャンシャン~ウルムチ(乗り合いバスで)
9月24日 ウルムチ郊外(六大市場等ウイグル人街)散策 新疆舞踊鑑賞
9月25日 ウルムチ市街散策
9月26日 ウルムチ~上海虹橋空港  上海浦東空港~福岡

 
9月21日

妖  魔  山


6時30分
高速道路を利用して福岡空港へ向かう
 高速走行の様変わりに驚くと同時に恐怖を感じる。早朝であるにもかかわらず利用車輌がとても多い。一般道路を走行しているのと同じ感覚で、どの車も我先にと急いでいる。追い越し車線を車間距離をとらず、前の車とつながらんばかりに猛スピードで走っている。
 私の車を追い越しにかかる後方の車は直ぐ後ろまで接近して、急ハンドルで追い越し車線に出て、直前で急ハンドルで走行車線に入ってくる。思わずブレーキを踏む。高い幌を付けた軽トラックが、走行車線と追い越し車線をぬう様に走っていく。横転でもしたら、後続車はよけることは出来ないだろう。中央自動車道で、4人が亡くなり10数人が重軽傷を負う多重衝突事故が発生したことが頭をよぎる。
 一般道路と同じ運転では、大惨事が起きても不思議ではない。

8時     福岡空港到着
       中国東方航空カウンター(日航カウンター)で手荷物を預ける。
       空港レストランで簡単な朝食をとる。
       空港内銀行で、両替(16,610円が1,000元)。
       為替レート 1元=16.61円
       搭乗手続きを済ませ、搭乗者ロビーへ
       妻が持参した麦茶入りのペットボトルは、液体検査器(?)にかけ検査をする。テロ対策の一つだ。
10時3分  ほぼ予定どおり離陸
       機内放送は、中国語、英語に続いて日本語の放送がある。
       離陸後20分くらいして、機内食が配られる
       コッペパン2個、ハム、ポテトサラダ、ケーキ、ヨーグルト、水。
       青島ビールを一口飲むが、冷えていなくまずい。
       機内食を食べ終わる頃から、気流の状態が良くないのか機体が揺れる。トイレ利用が禁止される。
       上海近くになって、海面が薄茶色に濁っている。海面全体に膜が張っているような状態である。

10時30分(これからは中国時間) 予定通り上海浦東空港着陸       
 入国手続きを済ませ、手荷物受け取りカウンターへ。
 出口は、大勢の出迎え人でいっぱい。漢字、英語、韓国語、いろんな文字で出迎える人の名前を書いた紙を掲げて待っている。
 昨年は、現地案内人を依頼したが、今回は妻と二人で上海虹橋空港へ向かう。
 6番出口に、リムジンバス乗車口の案内がある。リムジンバスは、2番目のレーンに停車していた。車内は空席がある。最後部座席に座る。発車間際に韓国人らしき6人のグループ、若い中国人カップルが乗車し、やはり後部に座る。

11時30分 バス発車
12時30分 虹橋空港到着 途中、渋滞箇所があったが、ほぼ予定通り
12時50分 搭乗手続き
 搭乗手続きを済ませ、一息ついたところで、空港レストラン昼食。
 レストラン入り口に展示してあるワンタンを食べる。ふつうと小を注文したのだが、どちらが小か分からない。容器も量も同じように見える。味は、薄味でうまい。ワンタン 20元  ワンタン小  18元

14時    搭乗者ロビーへ
 搭乗者ロビー入り口での手荷物検査では、持ち物すべてを検査箱に入れてX線検査を受ける。帽子も脱ぎ、さらに全身を検査する。妻が持参した麦茶入りのペットボトルが検査にひっかかる。係員は「中には何が入っているか?」と聞く。妻が「飲み水です。」と答えると、「飲んでみなさい。」と言う。妻は係員の前で一口麦茶を飲む。それを見ていた係員は「わかった」という。
 福岡では、機械の検査であったが、上海では実際に飲ませるという素朴な検査。これが一番手っ取り早く、確実な検査だろう。
14時20分 離陸。約5時間の空の旅。
 中華日報などの新聞が配られる。隣座席の中国人が読んでいる新聞に「安倍晋三」の文字が見える。
 干しぶどう、飲み物が配られる。 
 福建省からウルムチまで仕事で行くという39歳の中国人男性が、「どこまで行くか?」「天池には行ったか?」「九寨溝には行ったか?」など妻に話しかけている。しばらくすると、「私には4人の子どもがいる。4番目の子は、今年の8月31日に生まれた。」と言って携帯電話に保存している赤ちゃんの写真を得意満面で見せてくれた。また、「日本円の最高お札は1万円札だが、中国では100元札が最高お札。」と言って、財布から真新しい100元札を取り出して見せる。財布の中には100元札がびっしり入っていた。何かを買い付けに行くのだろうか。
 また、「安倍総理大臣についての記事がある。」と新聞を見せる。そして、中国語では「安倍晋三」を「アンパイジンサイ」と発音すると言う。
 「飛行機代はいくらか?」と聞くので、「上海~ウルムチ間は日本円で42,000円」と応えると、「自分は2,500元。」と言う。日本円に換算すると約42,000円。日本人も中国人も同じ料金だと言うことが分かる。福建省から上海までは1,610元(約26,700円)という。
 雲が多く、視界は良くない。
 17時頃、機内食が配られる。
 隣の中国人が、「機内食では、ご飯か麺が出るがどちらが良いか?」と尋ねる。私はご飯、妻は麺と応えると、客室乗務員に「ご飯」と「麺」と注文してくれた。とても親切な人だった。 機内食では、ご飯、小さなコッペパン、サラダ、ケーキ、果物、水が出た。おいしくいただく。
 「飛行場からホテルまでは何で行くか?」と尋ねる。妻が「タクシーで行くが、去年はホテル玄関でタクシーの運転手が100元を請求したので『高すぎる』、『承知したではないか』と押し問答をした。あなたはどこまで行くのか?」と聞くと、「ウルムチの蘇州路へ行く。私と一緒に行こう。50元で行く。」と言う。
 話しぶりや態度から信用できる人のようだったので一緒にウルムチ市街地まで行くことにした。

19時15分 ウルムチ空港着陸
 中国人は、「私も荷物を取りに行く。一緒に行こう。」と先に立って案内する。
 荷物受け取りターンテーブルは、上海からの便が2つ作動していた。私たちが待っているターンテーブルには荷物がなかなか出てこない。中国人は、「このテーブルではないようだ。あちらのテーブルらしい。」ともう一つのテーブルへ案内する。そこには「中国東方航空 CZ6996」と便名が表示してある。待つこと数分。荷物が出てきた。
 この間、中国人は、携帯で誰かと連絡を取っている。荷物を受け取るとすぐに「知り合いと連絡が取れたのですぐに出発しましょう。」と言う。
 外に出ると、すぐにタクシーの運転手らしき人が近寄ってくる。車のそばに可愛い女の子連れの男性が立っている。
 私の荷物を車に載せようとするが、荷物が大きくて、トランクにはなかなか入らない。その男性と工夫してトランクに収める。
 親子連れ、私と妻、中国人の5人が乗車。運転手は、これまでの運転手と違って運転がていねいで安心して乗車していることができる。中国人は、ホテルに着くまでずーっと大声で携帯で誰かと話していた。
 同乗の女の子は5歳という。妻があめ玉をやると、にっこり笑い受け取るとしっかりと握りしめていた。
 車は、紅山公園裏側の通りに出た。そして、紅山公園の東側を通過して、新華北路に出て、ホテルに着く。

20時20分 ホテル到着

ホテル玄関(中央男性 運転手  右男性 機中で知り合った人) 


 玄関で中国人、可愛い女の子、運転手と写真におさまる。50元を払い、丁重にお礼を言う。
 ホテルチェックイン。
 チェックインを済ませ、部屋へ行こうとすると、偶然にも曽紅蓮さんと会う。曽さんには昨年、リコンファームで大変世話になったので、今回おみやげ(日本の景色をあしらった便せんなど)を持参していた。昨年のお礼を言い、お土産をあげると目を丸くして、「ありがとう。お土産をいただくなんて思ってもいませんでした。」と喜んでくれた。
 昨年とは違い、窓から妖魔山が一望できる西側の部屋。眼下には、人民公園を見下ろすことができる。我が家を出発して15時間。やっと落ち着くことができた。ウルムチへの二人だけの旅は3度目とはいえ、通訳兼現地案内人の役目をする妻の気苦労は大変なものであったろう。安堵の色が伺える。 
 20時40分頃、ホテルレストランで夕食
 これまで何度も食事した場所。バイキングのメニューはほとんど変化無し。ただ、料金が98元から74元に下がっていた。その代わりだろうか、2度食事を取ると1度が無料になるサービスはなくなっていた。ロビーでは、昨年と同じ人がピアノとヴァイオリンの演奏をしていた。
 現地旅行社(天馬旅行社)から電話がある。明日は8時30分に迎えに来るとのこと。
 明日からの鄯善(シャンシャン ウイグル語ではピチャン)旅行に向けて、荷物を整理し直す。

23時30分 就寝。


9月22日      鄯善(シャンシャン ウイグル語ではピチャン)へ

6時30分 起床 外はまだ真っ暗。そのはず。ウルムチの生活時間では4時30分。 
7時 朝食
 ホテルロビーには、近畿日本ツーリストのマークが付いたトランクが15~20個ほど置いてある。レストランのあちこちから日本語が聞こえてくる。東京からのツアー客でほとんどが高齢者のようだ。
8時30分 旅行社から迎えが来る
 迎えの男性ガイドは簡単な挨拶を交わすとすぐにタクシーでバスターミナルへ向かう。新華南路を南へ下る。動物園の前を通る。ガイドは、車の中でウルムチの歴史を一通り紹介してくれたが、「ウルムチには去年も来たし、何回も来たことがあります。」と言うと、ウルムチの紹介をぴたりと止めた。
8時50分 南郊長途汽車站(南郊バスターミナル)到着
 ここは、トルファンなど主にウルムチの南方へ向かう長距離バス乗り場。
 ターミナルは大きな建物だが、早朝だからか人は少ない。空気が乾燥しているからか、とても寒く感じる。
 待合室は広々としている。
 ガイドは、さっさと待合室を通り抜け、バスへと案内する。


 鄯善(シャンシャン)行きのバスは全席座席指定。11番と12番。前から3列目の乗降口側。 いったんバスから降り、ガイドに、明日の帰りの切符の手配と帰りの飛行機のリコンファームを頼む。
 ガイドは、携帯電話で誰かと連絡し合った後に、「バスの切符は明日、ホテルで渡します。航空券のリコンファームはしておきます。」と言う。飛行機便名も確かめず、メモもしないで簡単に任せておいてください言うので、やや心配になる。
 妻が「旅行社に帰れば、私たちが搭乗する便名は分かりますね。」と念を押すと「大丈夫。任せてください。」と言う。安請け合いのようで心配したが、その後のバスや飛行機の乗り物は何のトラブルもなく利用できた。
 ガイドはターミナルの外に出て市内バス路線停留所を指さしながら「明日は、あそこから7番線に乗って『小西門(シャオシメン)』で降りてください。直ぐにホテルです。」と言う。
 ガイドに案内のお礼を言い、私たちだけでターミナルの周辺を見て回る。


 立派なシャンデリアが下がっているにもかかわらず節電のためか明かりは点っていない。ウイグル自治区の区都ウルムチのバスターミナルとはとても思えない。
 出発10分前にバスに帰る。割と空いていると思っていたが、客が続々と乗車してくる。しかも、荷物をいっぱい持って。
 荷物たるや、ヤカン、お湯を入れるポット、食器洗い用ボール、マネキン等をシャンシャンからウルムチまで買い出しに来た人たちのようだ。
 車中の通路はこれら乗客の持ち物で一杯になる。乗客より持ち込んだ荷物の方が多い。
 前の席から後ろの席へ大声で何かを言っている人もいる。車内が騒々しくなる。
9時30分 出発時刻を10分遅れて満席で発車
 車内は、中国人ばかり。外国人は私たち2人だけ。座席は前から3列目。妻は、一番前の席が空いたので、車掌に断って前の座席へ移動。
 バスは、昨年吐魯蕃(トルファン)へ行ったときと同じ高速道路を走る。ゴビタンには砂利採集跡などが見える。
 達板城(ターバンチャン)の風力発電所群あたりから、中国兵士の車両が何十台と続く。
 兵士を搬送する車、上陸用舟を搬送する車、燃料車等が低速で走っている。妻はバスのカーテン越しにこっそりとそれら車輌をカメラに収めていた。


 バスは、これら軍の車両を追い抜きながら一路シャンシャンへ。
12時 小草湖サービスエリアに到着 
 10分ほどのトイレ休憩の後、出発。やがて、火焔山を過ぎ、トルファン市街地が見える。
 ガイドは、「シャンシャンへは3時間ほどで着きます。」と言っていたが、どうしてどうして。トルファンまでが約3時間だ。これからあと1時間。やはりシャンシャンは遠い。
 途中、砂漠の中に2カ所オアシスがあった。
 今度はシャンシャンだろうと思っているとバスは通りすぎる。
 どのオアシスの周辺もポプラ並木がきれいに整備されている。そのはず。ポプラ並木は防風・防砂林だからオアシスの周囲にはかかせないものだ。
13時30分 鄯善(シャンシャン)到着

 
鄯善(シャンシャン)市街の大通り


 楼欄王国があった場所も鄯善(シャンシャン)というが、16世紀まではその楼欄をさす。
 17世紀以降、清の乾隆24年(1759年)から、現在の場所をさすようになった。
 シャンシャンはブドウと哈密瓜(ハミ瓜)の生産地として有名。
 中国国内においては、哈密瓜は有名だ。シャンシャンの特産品なのだが、誰かが勘違いして哈密瓜と名前をつけてしまったそうだ。
 バスターミナルには10台ほどタクシーが待機している。バスから降りた乗客の動きを見ていると、乗客のほとんどがタクシーに分乗してターミナルを後にした。
 「地球の歩き方」(個人旅行者用のガイドブック)によると、シャンシャン駅まで30kmあり、汽車に乗るために乗り合いタクシーを使うのだそうだ。
 妻が「宿泊ホテルの『西遊酒店』はターミナルの近くに見えたよ。歩いて行けそうよ。」と言う。 歩いてホテルへ向かう。
 ウルムチと違って車の量は少ない。あまり緊張することなくわりと簡単に道路を横断することができる。10分ほどでホテルへ着く。
 外国人の宿泊は少ないのだろう。カウンターにいる女性は、私たち2人が入っていくと、少しとまどいを見せる。奥から、男性が出てきて「パスポートを見せてください。」と言う。パスポートを提示すると「コピーします。」と言って奥へ引き下がり、5分ほどしてパスポートを返した。
 チェックインに10分ほど要したが、4階の部屋に案内してもらう。
 部屋は、通りに面したきれいな部屋であった。

西  遊  酒  店(孫悟空のマークがついている)


14時 部屋で食事
 インスタント食品、わかめご飯、インスタントうどん、イワシの缶詰、梅干しで昼食をとる。
15時20分 市街地の散策
 大通りに面した建物は2~5階建ての近代的なビルディング。一歩裏通りに入ると、ウイグル人の住居、ブドウ畑、ポプラ並木が広がっている。
 人通りも少ない。住居の上には、乾し草がひろげられている。暑さを和らげようとする工夫か。 ブドウ畑の横に住居建築用と思われる煉瓦が積み重ねられているところがある。日干し煉瓦で作ったブドウの乾燥小屋がある。
 のんびりと、散策する。ブドウの収穫はほとんど終わっており、仕事をしている人はいない。中学生くらいの男の子と出会う。妻が、話しかけるが言葉が通じない。

ウイグル農家の小道 煉瓦の野積み ウイグル人住居


17時30分 沙山公園へ


 路線バスで沙山公園へ行く。シャンシャンのバスは、乗車距離によって運賃が違うようだ。
 妻が2人分2元出すと、車掌は「どこまで行くか?」と聞く。
 「シャーシャンゴンユワン(沙山公園)」と言うと、1、1元と言う。あわてて1元追加すると、車掌は手に持っている切符に鉛筆で斜線を入れて渡し、輪ゴムで束にしているお金から0、8元を抜き出しておつりをくれる。
 車掌は、乗客から受け取った運賃をお札の種類ごとに輪ゴムで束にして持っている。カシュガルの路線バスがこうであった。
 「楼蘭」という停留所があった。

バス停留所「楼  蘭」 路 線 バ ス   車 内


 終点が沙山公園。広い駐車場だが、車は2台停車しているだけで閑散としている。
 沙山公園入園料は1人30元。
 公園内はきれいに整備されている。マリーゴールドが咲き誇っている。
 ポプラ並木の通りを抜けると正面に、赤御影石で作られた50段ほどの階段がある。
 階段を上りきると、正面には、砂丘が幾重にも広がり想像していたとおりの砂漠が広がっている。 「うわぁー」という感嘆の声が出る。すばらしい光景だ。
 新疆ウイグル自治区の地図を思い描くとタクラマカン砂漠の最北端にあたる砂漠だろう。この沙山公園が今回の旅の目的の一つであった。その光景にしばし見とれた。
 たくさんの人が訪れたのだろう。砂丘は、人の足跡がいっぱい。正面に木製の展望台が作ってあり、散策路として、板が敷き詰められている。また、石像に見せたコンクリートの彫刻が作ってある。これには興ざめ。自然のままにしておけないものだろうか。
 駱駝がのんびりと草を食べている。砂丘の奥を数人が歩いている。小高いところには、赤いパラソルのようなものが見える。砂漠の熱療法でもしているのだろう。4輪駆動車が走った跡も見える。
 散策路をしばらく歩いて回る。砂漠の夕陽、砂漠の月、星を見て、ロマンチックな気分にひたろうとの思いから、日没過ぎまでいることにする。

ポプラ並木 沙漠散策路

沙     丘

駱   駝 作  り  物 風   紋


 いったん、砂丘から引き返し、階段近くの休憩所で休憩する。
 ハミウリがうまそう。半分を10元で買う。おばさんが、笹舟の形の6個に切ってくれた。水分が少なかったがおいしい。お腹いっぱいになる。
 休憩所は、水が湧き出ていて、大きな木が生い茂っている。しばらくその当たりを散策する。
 驚いたことに人口の広い池がある。魚を釣っている人がいる。フナのような魚を数匹釣り上げていた。
 公園管理人たちが、落ち葉をかき集め掃除している。
19時30分 砂が入っても良い靴に履き替えて、再び砂丘へ
 かなり陽は西に傾いているが、まだ陽は高い。ただ、曇ってきたので夕陽は見えそうにない。 砂丘に入ると、足首くらいまで埋もれる。歩きにくい。
 3~4人のグループが2組遠くの小高い砂丘を目指して歩いている。
 行けるところまで行ってみようと尾根伝いに歩く。尾根は、少し硬くて歩きやすい。尾根を下るときが、ぬかるむ。尾根へ上るのに、かなりの力を要する。
 人が足を踏み入れていない所は、きれいな風紋が残っている。
 トカゲのような小さな生き物がいる。
 北側を振り返ってみると、防砂林の向こうにシャンシャンの街並みが見える。
 陽は西に傾くが、雲で夕陽を見ることはできない。頭上の空も雲でいっぱい。星も見ることはできないだろう。
 月は、あいにくと新月にあたり、例え晴れていても見ることは出来ない。
 小さい頃口ずさんだ「月の砂漠」の光景を味わおうと思っていたのだが・・・。
月の砂漠
作詞 加藤まさを・作曲 佐々木すぐる
一 月の砂漠をはるばると 旅の駱駝がゆきました 金と銀との鞍置いて 二つ並んでゆきました
二 金の鞍には銀の瓶 銀の鞍には金の瓶 二つの瓶は それぞれに 紐で結んでありました
三 先の鞍には王子様 後の鞍にはお姫様 乗った二人は おそろいの 白い上着を着てました
四 曠い砂漠をひとすじに 二人はどこへゆくのでしょう 朧にけぶる月の夜を 対の駱駝はとぼ  とぼと 砂丘を越えて行きました 黙って 越えて行きました

21時   バスでホテルへ
 バスに乗り、「シーヨウ ファンディエン(西遊飯店がある停留所前まで)」と言うと、乗車賃は1、2元という。外は暗く、どこを通過しているのか分からない。バスターミナルが見える。もうそろそろだなと思っていると車掌がわざわざやってきて、「西遊飯店前で降りるのでしょう?」と確認に来る。中国人は、つっけんどんに大声で話すので叱られているのではないかと思うときがあるが、外国人にはこのようにわざわざ確かめに来たり、道を教えたり、降りる場所を教えてくれる。その優しさに感心する。
 ホテル前「交警大隊」で下車。
21時30分 ホテル横中華レストランで夕食
 新疆碑酒(ビール)を注文。ビールとひまわりの種を持ってくる。ひまわりの種はつまみらしい。 食べてみるとおいしい。
 ウェイトレスは、15~16歳か、初々しい。
 夕食は、隣のテーブルを指さして「これと同じもの」と注文する。

 


 スープ、豆腐のようなもの、羊の肉と焼きそばふうのものイカかアワビのようなこりこりしたもののトマトあえ、果物(スイカ、ハミウリ、リンゴ)
 ビールも含めて2人分が106元。ウルムチと違ってかなり安い。
 前のテーブルでは、漢人6人がアルコールを交えて食事をしている。同じ職場の人のようだ。
 グループの長らしき人がひとしきり一人で話しをしていた。他の人は皆黙って聞いている。
 そのうち、二人ずつ話を始め、気持ちが通じ合ってか立ち上がって乾杯をする。3組が乾杯したが、一組は真剣に議論している。その様子が険しくなる。
 見ていると、今にも立ち上がって取っ組み合いのケンカになりはしないだろうかと思うような雰囲気。周りの人はしらけたようにビールを飲んだり、食事したりしている。長らしき人は心配顔。 なかなか議論が収まりそうになく、長らしき人が声をかけてやっと議論が終わり、二人は立ち上がって乾杯を交わした。
 日本も中国も同僚との意見の衝突はあるんだと思う。
 食事は食べきれず、ずいぶん残した。申し訳なかったので「吃不了(チーブリャオ)」と言うと、ウエイトレスが「多すぎましたね。」と言った。
22時30分 夕食を終えて部屋に帰る
 風呂に入ろうとすると、シャワーは壊れていて使えない。湯船にはお湯が出る。お湯はふんだんに使えたのでゆっくりと湯につかり、沙山公園の砂を洗い流す。足の指の間に残っていたのだろう。排水後、湯船に砂が少し残っている。
 トイレの水の出が悪く、何度もコックを引かないと排水できない。しかし、困るほどではない。
 ホテル前の大通りは、ハミに通じる道路。夜の方が車の通行量は多いようだ。夜通し車が通る音が聞こえていた。
24時 就寝


9月23日 

シャンシャン大通り(後方は沙山公園)


8時30分 起床
8時40分 ホテルのレストランで中華バイキングの朝食
 マントー、ご飯、おかゆもある。牛乳もある。おいしい。客はすべて中国人。
 妻は、朝食を早めに済ませ、ホテル周辺を散策。
 ホテル横の酒屋に入ると、めずらしい葡萄酒があったと、4本買ってきた。
 どうやって日本に持ち帰ろうかと心配になる。妻は時々、このような大胆な行動を取る。葡萄酒は1本6元だったと言う。
10時 予定を変更し、市街地散策
 予定では、シャンシャンとトルファンの中央にある新疆で第三番目の規模を持つといわれる「吐峪溝千仏洞」と吐峪溝麻扎(トヨク・ホジャム)(イスラムの聖者廟)を見学するようにしていたが、タクシー運転手の話によると半日はかかるらしい。それで、シャンシャンを散策する。
 荷物はホテルに預け、身軽で散策。
 バスターミナル西側の、ウイグル人の民家周辺を散策する。
 大通りはきれいに舗装されているが、民家が続く通りは、道幅も狭く未舗装で埃っぽい。煉瓦造りの家、民家の横はブドウ畑が続く。


 「電力局」停留所から「楼蘭」停留所までバスを利用。1人0、8元。
 大きな近代的な公園がある。作られた公園を散策するより、農村風景を散策した方がおもしろいものに出会えるだろうと農村を回る。
 民家とブドウ畑の間の路地に入りかけると、一人のウイグル人がたたずんでいる。足下にはシャモが2羽いる。「ヤクシマシーズ。ブドウの収穫は終わっているのですか?」と聞くと、「しばらく待っていなさい。ブドウを持ってくる。」と言う。ブドウをごちそうするのか、ブドウを買いなさいと言うのか、そのあたりの微妙なところがよく分からない。あわてて、「ブドウは要らない。」と言って、その場を立ち去る。(おそらくブドウをごちそうすると言ったのであろう。)
 ブドウ畑では、ところどころで残りブドウを収穫している。
 3歳くらいの男の子が道ばたで遊んでいる。「いくつ?」と聞くと、恥ずかしそうに後ろ向きになる。
 妻があめ玉をやるとうれしそうな顔をして、ブドウ畑に入っていく。
 働いている親に何かを言っている。私たちがその人達に軽く会釈をすると、「ありがとう」と言っているようだ。

ブドウ畑入り口 幼    児 ウイグル農家


 こんな小さな子がものをもらってきちんと親に報告するとは感心なものだ。
 ブドウ畑の入り口に綿花を植えてあるところもある。紫色の朝顔も咲いている。
 空は真っ青で空気はカラッとしている。ポプラがその青空に向かってまっすぐに伸びている。
 風がポプラの葉をサラサラとゆらしている。もうあと10日もすれば、黄色に色づくのであろう。 日差しは夏のようだが、青空の中のポプラの様子は秋である。
 のんびりとロバ車が通る。おじいさんと孫だろうか。妻は一緒に写真におさまる。
 ブドウ畑を過ぎると、民家が建ち並んでいるところへ出た。モスクがある。幼稚園もある。
 妻と話をしながら散策していると、耳慣れない声が聞こえるので何事かと思ったのだろう。
 1軒の家から、老夫婦が路まで出てくる。二人ともイスラムの帽子を被り、ウイグル人特有の服を着ている。
 妻が話しかけるが言葉が通じない。私はカメラを指さし、身振りで「写真を1枚」と言うと、快く応じてくれた。

まっ青な空に伸びたポプラ ウイグルの老夫婦と ロバ車の老人と子どもと


 大通りに出ると、焼き芋を露店販売しているおじさんがいる。
 妻がなにやら話しかけると「この焼き芋はおいしいよ。どこから来たのか? コーリア?」と言う。
 「日本から来た。」と応えると「日本にも焼き芋はあるか?日本より安いだろう。一つ買っていかないか。」と言う。
 「差不多(チャーブートォー)値段は日本とあまり変わらない。」と応える。
 焼き芋を2個買う。5元。

焼き芋を売るおじさん


 「一中前」からバスに乗車。終点の「双水磨」まで1、5元。
 シャンシャンのバス路線は「双水磨」から「沙山公園」へ行く1路線のようだ。しかも大通りだけを通っていく。非常に分かりやすい。今朝買った葡萄酒は、双水磨で作られたものだった。
 「西遊酒店」ホテル前の「交警大隊」を通り、「商業賓館」を通りすぎた頃から道が二手に分かれる。大きい道は哈密(ハミ)へ通じる。バスは狭い方の道へと進んでいく。いなか路へと変わる。道路の舗装状態も悪くなる。気のせいか運転手の運転も荒くなったよう。ポプラ並木がきれいに植えられている。
 終点「双水磨」は、いなかの中心地らしい。それなりのにぎわいがある。
 自動車やバイク、自転車、ロバ車の修理店などがある。修理店の横ではロバがのんびりと草を食べている。ナンを売っている露店もある。
 ポプラ並木に沿って歩くと、並木の後ろは一面トウモロコシ畑。

 
ロバ車・自転車修理店 「双水磨大通り


 しばらく写真を撮ったりして散策する。帰る時刻が近づき、「双水磨」バス停まで引き返そうと思ったが、かなり引き返さねばならない。歩き疲れてもいた。
 「ここで手を挙げたらバスは止まってくれるかも知れない」と「沙山公園」行きのバスに手を挙げて乗車の意思表示すると、バスが止まる。
 停留所でないところでバスに乗り、ホテルに帰った。中国のおおらかさはこんなところにもある。 運転手も車掌も愛想はなく、ときどきイヤな思いもするが、こんな良さに接すると帳消しになる。
 「交警大隊」まで乗車。乗車賃は1元。
13時10分 ホテル横の食堂で昼食 ラグ麺、スープ、ナン、果物を食べる。
 ウエイトレスと記念写真を撮る。19歳というウエイトレスは、「一緒に写真を撮ろう」というと、「えっ、私が・・・・」というような顔をしてうれしそうに肩に手をかけてくる。客にこんなことを言われたのはおそらく初めてなのだろう。

ホテルレストランで

14時10分 シャンシャンバスターミナルへ
 14時30分発なので少し早めにターミナルに着く。バスはまだ到着していない。
 出発予定の14時30分になってもバスは来ない。ターミナルの職員が行き来しているが、遅れていることについての説明はない。
 妻が、「ウルムチ行きのバスはまだ発車しないのか?」と係員に尋ねると「ウルムチからまだ到着していない。」の一点張り。
 10年ほど前の中国旅行では、飛行機や汽車が定時に出発することはまずなかった。
 1時間から2時間遅れるのがふつう。
 初めてウルムチに来た時、朝早く離陸して北京に向かう予定の飛行機が、午後2時過ぎに離陸して北京観光が出来なかった。このときは丸半日、空港に足止めを食った。
 15時過ぎても来ない。待合室正面には電光掲示板があり、長距離バスの行き先の距離や乗車賃などを示している。
 シャンシャン・ウルムチ間は288km、45元。
 シャンシャン・トルファン間は、103km、12.08元とある。

 
男子職員が待合室で待っている人達(私たちも含めて)の荷物に、パンパンとシールを貼りだした。
 何のシールかと見てみると、「手荷物検査済」というシールだ。危険物の検査済シールなのに検査もしないでただ貼っていく。それも、出発時刻を1時間ほど過ぎた頃に思い出したように。これこそ帳面消し。
15時30分 ウルムチからのバスがやっと到着
 ウルムチからの乗客を降ろすと同時に、私たちウルムチ行きの乗客を乗せる。
 運転手は休む間もなく、出発。疲れで事故を起こしはしないかと心配。
15時40分 1時間10分の遅れで出発 座席は一番前
16時20分 火焰山ターミナルに到着

火焰山ターミナル


 ここは、日本人観光客など止まらないだろうと思う路線バスの停留所。左に曲がると高昌故城、右に曲がるとベゼクリク千仏洞、ウルムチへは直進。
 若い車掌は、ビニル袋に小さなパンがいくつも入った食べ物とペットボトルに入った水を2組買ってくる。1組を運転手に渡す。
 バスが発車すると、車掌はパンを食べ始める。シャンシャンで休む間もなく出発したので昼食を食べていないのだろう。運転手は、何やら言いながらたばこを吸い始める。
 しばらく走ったあとで、運転手も運転しながらパンを食べ始める。
 車掌は運転手がパンを取り出しやすいように、ビニル袋を少し破く。運転手への心遣いだろう。
 トルファンを過ぎ、車窓の景色がきれいになり写真を撮る。
 それに気づいた運転手が車掌に席を替わるように言う。
 車掌の席は一段低いところにあるのでフロントガラス越しに前景を大きく写すことができる。
 車掌席で2枚ほど撮る。写した写真をカメラのディスプレーで車掌に見せると、車掌は親指を突き出して「すばらしい」と言う。
 達板城(ターバンチャン)の景色はみごと。緑の草原、遙か彼方には雪を抱いた天山。とてもきれいだ。
 牛や羊が放牧されている。道路脇の川の水量は多くはないが、至るところに流木が転がっている。 夏はかなりの水量に達することが伺える。

達板城(ターバンチャン) 雪解け水の川 高速道路

 ターバンチャンサービスエリアで、トイレ休憩。
 トイレは有料トイレで2人で6角。
 妻は露店で豆を砂糖でまぶしたものを買う。大豆はターバンチャンの特産物。
 店のおばさんから「韓国人ですか?」と聞かれたそうだ。
 中国ではよく「コーリヤ?」と聞かれる。日本人と韓国人は似ているのだろう。

ターバンチャンサービスエリア

 豆を少し食べてみる。なかなかおいしい。車掌にも分けてやる。
 車掌はそれを運転手にも勧めている。運転手は食べないと言っている。話しの様子からどうやら運転手は歯が悪いらしい。車掌が一人で食べてしまった。
 ウルムチ市街に入った頃から、何となくアルコールの匂いがしてくる。
 バスのトランクに積んだ葡萄酒の瓶が割れて葡萄酒が漏れているのではないだろうかと心配になる。
 漏れた葡萄酒で他の乗客の荷物を汚してはいないか気になる。妻は、「その時はその時タイ」と言う。神経がかなり図太い。
19時50分 ウルムチ南郊バスターミナル到着
 人、人、人。バスを待つ人でごった返している。それもすべてがウイグル人。
 その中をバスは、ブレーキも踏まずに進んでいき、ターミナルの横に止まる。
 心配した葡萄酒の瓶は割れていなくて安心した。4時間の長旅だった。車掌に「シンクーラ(辛苦了)」とお礼を言って分かれる。
 ターミナルを出て、歩道橋を渡り、路線バスの発着場、「三屯碑」へ行く。
 7番のバスを待っていると712番のバスも「小西門」前を通るように示してある。712番でホテルへ帰る。
20時20分 ホテル着
 もう、辺りは薄暗い。ウルムチに帰るとホッとする。
 ホテルに着いた安堵感からか、疲れがどっと出る。
 夕食は、昼間買った焼き芋、日本から持ってきたインスタント食品の赤飯、秋刀魚の缶詰、梅干し、コーンスープで済ませる。焼き芋は冷たくなっていたがおいしい。
23時 就寝


9月24日

国際大バザール

8時20分 起床
8時30分 日の出 高層ビルディング群の東の空から太陽が昇る
9時    朝食
10時20分 ウルムチ市街散策
 路線バス「7」路で、ホテル前「西大橋」停留所から博物館へ行く。
 昨年は建替えオープン間もなくで、展示品が少なかったので先ずは、博物館へ行く。
11時 新疆ウイグル自治区博物館見学(入館料は1人25元)
 見学者は少なく閑散としている。
 ロビーの新疆ウイグル自治区のパノラマを見ながら妻と話をしていると、学芸員らしい人が近寄り、「日本の方ですか?日本語ガイドを付けましょうか?」と言う。「自分たちで見て回りますから必要ありません。」と丁重に断る。
 新疆民族風情陳列で少数民族の蝋人形や民族生活を復元した陳列物を見て回る。
 日本人のグループが2組、それぞれ日本語ガイドから説明を受けている。
 ウイグル族、カザフ族、回族、キルギス族、タジク族、ロシア族などの服装、住居、生活道具などが陳列されている。興味深い。

新疆ウイグル自治区博物館 ミイラの展示品 少数民族生活様式展示品

 歴史コーナーでは、土器や青銅器などの出土品などが展示されている。
 ほとんどがレプリカ。感動が湧いてこない。
 2階に上がるとミイラが数体展示してある。今年は、楼蘭の美女の展示はなかった。
 10数年前の博物館は、古い建物、薄暗い部屋にミイラが展示してあった。人の魂と向き合っているような厳かな気持ちになったが、きれいな建物、明るい照明のもとでミイラを見ると、単なるモノを見ているようで感動はない。
 館内は撮影禁止。帰りに博物館のパンフレットを買う。50元。
13時30分 昼食
 ホテルに帰り、自室で昼食をとる。持参したインスタント食品。
14時10分 紅山(ホンシャン)公園 入園料 1人10元
 紅山は、大部分が赤褐色の砂岩でできているため、この名前がつけられたそうだ。
 鎮龍宝塔が建っている所を目指して上る。
 公園の一番高いところにあるため、道は急でかなりきつい。登り切ると、ウルムチ市街の西側がよく見える。高層建築物が立ち並んでいる。はるか遠くには妖魔山が見える。
 伝説
 紅山は天池から飛んできた緋色の巨龍の化身と言われ、古来より人々の信仰を集めるとともに、祭事の場となっていた。清の乾隆年間にウルムチ河がたびたび洪水を起こした時、人々はこれを紅山の龍の仕業と信じ、紅山は対面の妖魔山と繋がって、ウルムチを水浸しにしようとしていると考えた。そのため、乾隆53年(1788年)に紅山と妖魔山の頂上に「鎮龍宝塔」を建て、悪龍を沈めようとした。
 以来200年の時が流れているが、紅山の宝塔はそのままの形で残っている。1987年妻が、次男と一緒にこの地を訪れたときの記念写真を見ると、塔は青銅色。今は赤茶色。塗り替えてあるようだ。このときのビデオには、妖魔山の鎮龍宝塔が写っている。

昭和62年当時の鎮龍宝塔 現在の鎮龍宝塔


15時  二道橋(アルダオチャオ)バザールへ 7番線
 昨年買ったウイグル人形店へ行く。スイカを売る老人の表情が何とも愛嬌がある。
 その他、キーホルダー、鉛筆立てを買う。この店は、外国人相手に土産物を売る店とは違ってなかなかまけてくれない。300元のところをやっと260元にまけてもらう。

 バザール内の土産物店で、お盆の飾り物が目にとまる。色鮮やかでとてもきれい。
 店の若い女性は「これはインド産です。」と言うが、2年前カシュガルで同じ模様の壺を買ったときは「パキスタン産」と店の男性は言っていた。おそらくこの盆もパキスタン産だろう。
 値段の交渉に計算機を持ってこさせ、数字を示すと、隣の店から中年の男性を連れてくる。
 男性は、棒で盆をパンパンと叩きながら「これは本物の銅で出来ているから高いのだ」とものすごい勢いでしゃべる。
 店の女性に頼まれて値段の交渉役を引き受けているようだ。
 「まけないなら、買わない」と立ち去ろうとすると、100元まけるという。
 部屋の装飾用に260元で買う。
 道向いの国際大バザールを見て回る。土産物はだいたい同じものが並んでいる。きらびやかな装飾品、ナイフ、ウイグル帽子、香辛料、絨毯などなど。

きらびやかな装飾品


 玄関横に、民族舞踊、「新疆風情」の案内が出ている。4階の劇場へ行ってみる。
 なかなか大きな劇場だ。パンフレットや看板を見ると、おもしろそうだ。観劇することにした。 食事付きだという。西安では、食事抜きで観劇だけできたので「観劇だけはできないか?」と尋ねると、食事無しはダメという。
 受付係が座席まで案内して、下見をさせてくれた。
 舞台に近いところと遠いところでは50元くらいの差があったが、せっかく見るのだから前の方で見ることにする。1人238元。
 チケットを見ると、「自助式(セルフサービス)」と書いてある。約300人ほどの人が一度にセルフサービスとはどんなになるのだろうか。
 劇場の外に出て、バザール広場で休憩を取る。
 広場には、椅子着きテーブルが並べてある。たくさんの人が飲んだり、食べたりして談笑している。コーラ(4、5元)を飲んで休息。
 二道橋周辺の道路は人でごった返している。その上、道路に衣服や食料品を並べて売っている。大変な人混みだ。そんな中をあちこち見て回る。
 人混みの中で写真を撮ろうと、妻が私に声をかけるので振り向くと、ウイグルの若い少年(まだ16~17歳くらいか)が妻のショルダーの中から財布を抜き取ろうとしているではないか。
 私はとっさに「あっ、何ばしよるか!」と大声を発した。
 妻はびっくりして横を向き、「何ばしよるとね!」と少年の手をたたき、財布を奪い返した。
 私たちの剣幕にびっくりした少年は、バツが悪そうに何度も何度も私たちをふり向きながら人混みへ消えていった。
 近くにいる人達は日本語は分からないので、「何かあったのか」という顔つきで私たちを見ている。
 少年は出来心で妻の財布を盗もうとしたようだ。
 ものを盗むのに慣れた者だったら、妻を突き飛ばし、財布を取って逃げただろう。
 ウルムチの街に慣れ、何度も行く場所だったので警戒心が薄れていたと反省する。
 貴重品は常に警戒心をもって、持っていなければならないことを学んだ。ちょっと気がゆるんでいたのでよい教訓となった。

「あっ、何ばしよるか!」 国際大バザール広場 国際大バザール


18時  土産物を置きに一旦ホテルへ
19時 新疆風情劇場へ
 観客はまだ誰もいない。最初に行ったから、一番前のテーブルの一番前の席に案内してもらう。 場内を見渡すと、席は300席はあるだろう。かなり広い。照明装置も整っている。舞台も広い。
 10分も過ぎると、グル-プごとに連れ立って客が入ってくる。
 私と妻が座っているテーブルには、同じ職場の者だろう6人が着席。
 20分も過ぎると、食事の係員が、コップやビール、葡萄酒、老酒をテーブルに置き始める。
 私たちのテーブルには何も置かない。予約らしい。
 食べ物を置いてある方を見ると数人が食べ物を取りに行っている。やっぱりセルフサービスだ。 混まないうちにと思い、食べ物を取りに行く。
 中華料理やウイグル料理がそろえてあるが、品数はあまり多くない。
 野菜を炒めたもの、マントー、ラグ麺、スープ、果物、シシカバブー(羊の肉を鉄串にさして焼いたもの)をもらう。
 妻は、肉料理は全くだめで、野菜炒め、麺、スープ、果物をもらってきた。
 シシカバブーは、香辛料がきいてピリピリするがおいしい。4本食べる。
20時  開演
 ショーが始まる。ウイグルの踊りが男女ダンサーによって次から次へと繰り広げられる。
 豪華絢爛たる踊りだ。踊りの合間に電光掲示板でどこの地方の踊りで、どんな願いがこめられているかを表示している。
 私にはちんぷんかんぷんだが、妻には少し意味が分かるらしく、時々私に解説してくれる。
 清楚な踊り、可憐な踊り、力強さがみなぎる踊り、お色気たっぷりの踊り(2mはあるだろうと思われる蛇を首に巻き付けて踊る)などの披露があった。
 終わりでは、いつものように観客も舞台に上がりダンサーと一緒に踊る。
 私も妻もダンサーに手を取られてステージに上がり、ダンサーの踊りを見よう見まねで踊る。
 楽しい1時間30分であった。



22時20分 
 ライトアップされた国際大巴扎(バザール)は、幻想的でとても美しい。 

ライトアップされた国際大巴扎


 バスでホテルへ帰る。
23時30分 就寝


9月25日

国際大バザール


8時 起床
8時30分 朝食 
9時30分 市街地散策
 路線バス「61」路で終点の六大市場へ行く。ウイグル人街の素朴さが気に入り、今年も行く。
 行き交う人はほとんどがウイグル人。大きなトラックに満載したハミウリを数人で手渡しながら下ろしている。それを待っているかのように数人の女性が買っている。


 路地に入ると、保育園児と保母だろうか。小さな子どもが5~6人、保母が2人歩いてくる。  一人はターバンを巻いている。顔が見えないのは何となく不気味。


 露店のそばで、小さな箱の上でウイグル文字を練習している小さな女の子がいる。一生懸命文字の練習をしている。靴修理の店を出している父親らしい人に、「照相可以似嗎(ジャオシャンクーイーマ) 写真を撮っていいか?」と聞くと、自慢げに「6歳だが学校には行っていない。自分が教えている。立派な人になって欲しい。」と言う。
 ウイグル文字の書き方を見ていると、右から左の方に書いていくので、ノートを右肩上がりにして書いている。
 中国は漢民族言語(北京語)だから、ウイグル人はウイグル語と中国語の両方を習得しなければならない。中国社会の上層部には、ウイグル人はいないところをみると、ウイグル人にとってはなかなか大変なことだと思う。

ウイグル文字を練習している幼児 幼児の父親


 バス停近くの羊の肉店街がどうも気になる。そこに行こうとすると、妻は「あなたは未年生まれで、羊が気になるとだろう」と言う。
 全く意識はしていなかったが、どこかにそんな気持ちがあるのかも知れないと苦笑いする。
 ちょうど、ウイグル人がライトバン型の車の荷台から羊の肉をおろしている。
 皮をはぎ、頭、手足、内臓を切り取った羊の肉が20体は積んであったろう。
 車から降ろした肉を店先に吊り下げている。
 「写真を撮っていいか?」とカメラを向けると、ポーズを取る。 それを見ていた肉店の男性が「自分も撮ってくれ」と言い、吊り下げられた羊の肉に肉切り包丁を刺してポーズをとる。カメラで再生して見せると、満足そうに笑顔を返す。子どもたちとも写真におさまる。
 この辺り一帯は羊の肉のおろし問屋(?)の集まりのようだ。少し奥まで歩くと、羊の足ばかり並べて売っている店がある。腸ばかり売っている店もある。心臓か肝臓か赤黒いどろっとした固まりを売っている店もある。頭だけ並べている店もある。女性が売っている。
 2年前、和田(ホータン)のバザールで、まだ赤い血がついている切り取ったばかりと思われる羊の頭をニュッと突き出されびっくりしたことを思い出す。
 臭いが強烈であったのとあまりの生々しさに、直ぐに立ち去る。
 ウイグルの人たちは羊のどの部分も無駄にしないと聞いていたが全くその通りだ。

車に積まれた羊の肉 羊の肉


 兄弟らしい小さな男の子が抱き合って私たちを眺めている。
 妻は公衆トイレ(1人3角)から出てくると、ウイグルの男性となにやら話している。
 「『韓国人か』と聞かれたので違うというと、『不是 日本人(ブーシー リーベンレン)』と『ヤーポン?』と中国語とウイグル語で話しかけてきた。あの人は漢民族の顔かたちであったが、ウイグル人だった。」と妻が言う。六大市場の様子を説明してくれたらしい。本当にのどかな街だ。

ウイグルの男の子 ウイグル人と会話?(話は全く出来ません) 幼い兄弟



11時50分 国際大巴扎(バザール)へ
 二人の孫におみやげを買うために、再び国際大巴扎(バザール)へ行く。
 車窓から第16中学校が見える。運動場にはバスケットコートがある。ここ、ウルムチではバスケットが盛んなのだろう。どこの中学校でも子どもたちがバスケットに興じている。
 バザールの中で、土産物を物色する。
 駱駝を型どったきれいな小物入れが目につく。女の子が喜びそうな品物だったので買う。
 別の店では、胡楊の木の一刀彫りが展示してある。仙人ふうの人物の彫り物が気に入り買う。
12時30分 南門(ナンメン)を散策
 南門(ナンメン)はウルムチ市街の繁華街の一つ。
 ロータリーを中心に近代的な商店、レストラン、モスクなどがある。路線バスの分岐点でもある。
 道路横断のため地下道に入る。地下道は、中央は階段ではなく平らな傾斜になっており、両側が階段になっている。自転車を利用する人のためだろうか。
 その傾斜道で、8~9歳くらいの男の子が滑り台で滑降するようにして遊んでいる。母親らしい人が注意するが男の子は聞かない。すると、彼女は大きな声で子どもを叱り、頭を叩いている。子どもは叩かれて滑り台遊びを止めた。してはいけないことをする子をこのように厳しく注意する母親の姿を見て驚いた。当たり前のことだが、最近の日本ではあまり見かけない光景だったので驚きと同時にある種の感動を覚えた。
 中国では大人も子どもも、年寄りや妊婦、乳児を連れた母親など社会的弱者に進んで席を譲る。かって日本ではどこにでも見られた光景だ。
 日本も厳しいしつけ、他への思いやりを早く復活したいものだ。これが安倍総理大臣が提唱している「美しい国、日本」であろう。
 モスクをカメラに収めていると、「ハッピー バースデイ ツー ユー」の音楽を流しながら散水車が来る。
 道路を横断していた男のズボンに水がかかる。その人は、「あーぁ、水をかけられてしまった」とでも言うようにして、歩道に駆け上がりズボンを絞っている。散水車の運転手に文句を言うではなく、「仕方ないや」とでもいうように歩き去った。微笑ましいというか、日本では考えられないことだ。

南門界隈


13時10分 ホテルで、昼食
14時30分 八路軍駐新疆辨事処記念館へ
 ホテル近くの光明路「西大橋」バス停近くで、ウルムチ市街地図を見せながら「八路軍駐新疆辨事処記念館」を指さして、「何番のバスに乗り、どこで降りたらいいか?」と、通りがかりの2~3人に尋ねるが、皆「不知道(ブージーダオ)」と言う。
 中年の男性に尋ねると、眼鏡を外して地図を見てしばらく記憶をたどるように考えていたが、やっと思い出したように「延安路を通るバスに乗りなさい。降りるところは運転手に聞いたらよい。」と教えてくれた。
 「南門で乗り換えますか?」と聞くと、「乗り換えなくても良い。」と丁寧に教えてくれる。
 延安路を通るバスに乗る。妻が「八路軍駐新疆辨事処記念館へ行きますか?」と聞くと、運転手は「延安路」とつっけんどんに言う。
 「延安路」バス停で下車するとき、運転手は「この道をまっすぐに行けば直ぐに記念館がある。」と丁寧に教えてくれた。
 バス停から歩くが、記念館らしき建物はない。少し高いところから見渡すと分かるかも知れないと横断歩道に上るが分からない。
 通りがかりの若い女の人に「八路軍駐新疆辨事処記念館はどこにあるか?」と尋ねると、「そんなものは知らない。お年寄りなら知っているだろう。」と言う。ここ中国でも、歴史は風化しているのだろうか。
 お年寄りに尋ねると、「この坂道を登り切った所。」と教えてくれた。
 記念館には数本の赤旗がはためいていた。門は閉ざされ、カギがかかっている。事務所らしきものはあるがドアーは閉まっている。

八路軍駐新疆辨事処記念館


 記念館横の建物の入り口の門番らしい人に「記念館は今日は休みか?」と聞くと「休みではない。門から大声で『開けてくれ』と呼びなさい。」と教えてくれた。
 引き返して、門の外から受付事務所を覗くが大きなカギがかかっていて、人がいる気配はない。 ほとんど見学者はいないのだろう。あきらめて周辺を散策する。

※八路軍(はちろぐん)
 1937年から1945年における第二次国共合作は、1936年の西安事件および翌年の盧溝橋事件を背景として結成された抗日民族統一戦線とされていた。
 1937年(昭和12)8月22日、中国共産党は、抗日のための国共合作の結果、27年創設の紅軍を国民革命軍に改編し、そのうち、華北主力を第八路軍とした。一般通称は「八路」。
 八路軍は、1軍編成(軍長は朱徳、副軍長彭徳懐)で、第115師(師長林彪)、第120師(師長賀龍)、第129師(師長劉伯承)からなり、当初兵力は約4万5000人であった。
※西安事件
 1936年10月、国民政府主席蒋介石は、紅軍(共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じた。この攻撃に参加していた張学良は、父である張作霖が殺害されたことから抗日的気運が高く、共産党の内戦の停止、一致抗日の主張に対して共感しており、紅軍に対する攻撃が消極的となっていた。蒋介石は消極的な張学良を督戦するため、12月4日に西安に行った。西安に来た蒋介石に対し、張学良は内戦を停止するように説いたが、蒋介石にこれを拒絶された。このことを切っ掛けに、蒋介石を監禁した。
※盧溝橋事件
 盧溝橋事件(中国では七七事変ともいう)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。
16時10分 並木がすばらしい中医院(ジョンイーユエン)周辺へ
 延安路から南門まで引き返し、3路に乗り換える。中医院前で下車。
 道の両側は噂通りの並木が整備されている。しばらく散策する。
 みごとな赤御影石で作られた「ウイグル自治区交通庁」の門の前でしばらく休む。
 門の前で休んでいる妻を撮ろうとカメラを向けると、守衛らしき人から「写真は撮るな!」と注意される。
 門の中の様子を撮ろうとしていると勘違いされたらしい。丁重に謝る。

 
中医院の並木


17時  人民公園 1人5元
 この公園は、1884年清朝の時代から建設が始まり、1918年までに現在残っている主な建物が完成したそうだ。
 中華民国時代は中山公園と呼ばれていた。中山というのは孫文のこと。
 ウルムチの街路にも中山路という名前の通りがある。中華人民共和国になって、人民公園と名前が変わったそうだ。
 昨年は、日曜日でもあり午前中に来たのでかなりの人出だったが、今日は閑散としている。
 公園清掃の人たちが落ち葉を掃き集めたり、チリを掃いたりしている。
 芝生や林がきれいに整備されているが、やたらと赤や黄色のミニテントが張ってある。清掃員の休憩場所らしい。清掃員にとってはなくてはならないテントかも知れないが、見学者にとっては目障りなものだ。
 中央の池のそばにやってくると、妻は「NHKの旧シルクロードで、池にボートを浮かべて大勢の人が遊んでいる場面があったが、この池がそうらしい」と言う。
 公園を出ようと、東出入口はどちらだったか見渡すがどちらか分からない。
 3人でトランプに興じている清掃員らしい男性がいる。近づいて「東出口はどこですか?」と聞くと、一人がゲームを中断されたのに腹を立てたのか「まっすぐに行け!」と言う。
 妻はムッとしたような表情を見せたが、言い返す中国語が見つからないようでそのまま東出入口へ向かう。
 公園の東端には小川が流れている。きれいな水が滔々と流れている。

李白銅像 小川


18時  ホテルへ
 繁華街の一つ小西門(シャオシメン)周辺は大変な人出だ。
 大音量の音楽が流れている。歩道一杯に洋服を並べて売っている。若者が多い。アイスを食べながら買い物をしている。
 広い歩道は、駐車場になっている。たくさんの車が止まっている。
 車の会社名を見ていると、20台のうち6~8台は日本車。トヨタ、日産、ホンダ、三菱の4社。日本車が多いのに驚く。
 ほどなくホテルに着く。妻は疲れたから休むと言う。
 「昨年も一人で町を散策したでしょう。まだ散策したかったら一人行ってきて」と言う。
 一人で散策に出る。ホテル前の新華北路を南へ下る。
 学校帰りの中学生、勤め帰りの人、買い物に来た人など人で一杯。
 小西門繁華街を過ぎ、人民路(レンミンルー)と新華南路の交差点へ出る。人民路を東へ向かう。 行き交う人は次第に漢人からウイグル人が多くなる。
 解放南路へ入る。小さな店が野菜、ナン、雑貨などを売っている。道端ではお年寄りがトランプに興じている。将棋のような遊びをしている人もいる。
 あちこち歩いていると南門へ出る。陽が傾いて、昼間の南門の雰囲気とは少し違って見える。 新疆民街 山西巷(サンシーシャン)へ出る。この辺りはバスで何度も通ったところ。

歩道まで展示された商品 高層ビル街 小西門界隈


 時計を見ると19時を過ぎている。妻が心配しているだろうと、急いでホテルへ帰る。
20時 ホテルレストランで夕食
 夕食を食べようとレストランへ行くと、土産物売り場の曽紅蓮さんが来る。
 「教えてください」と言うので何事かと思うと、「ボーイがトランクを移動中に壊してしまいました。トランクの持ち主は日本人で○○さんです。この○○さんの読み方をひらがなで書いてください。」と言う。
 私も初めて目にした名前だ。読み方が難しい。すべて音読みで読むと、日本人の名前らしく思える。「おそらくこう読むのでしょう。」と教えると、曽さんは「ありがとう。」と丁寧にお礼を言う。
 詳しく聞くと、旅行中にトランクなどが壊れた場合は、保険金で保障される。壊れたことを証明する書類を作り、トランクの持ち主には応急トランクを買い与え、日本に帰ってからその人が買った領収書を取り寄せる。かなりの労力と時間、費用がかかるとの事だった。
 また、曽さんは次のようなことを話す。
 「先日、日本人旅行者がものすごい剣幕で『日本人がこんなに宿泊しているホテルに日本語を話せる人がいないとは何事か。日本語が話せるものを連れてこい。』と言っている。私はホテルの職員ではないが頼まれて行ってみると、『これから食事に出るが、シシカバブーのおいしい店はどこか教えてくれ』と言っているところだった。中国のホテルに泊まって『日本語が話せる職員がいないとは何事か』とはおかしな話しですよね。」と。
 私は「そんなことを言う日本人がいるとは、日本人として恥ずかしいです。日本の恥です。」と応えた。
 昨年は、このホテル前で、法外の運賃を要求したタクシーの運転手に日本語で「そんなことをするのは中国人の恥ではないですか!」と抗議した。何とも複雑な思いであった。
 最後の夕食、ゆっくりと味わって食べる。夕食は2人で147元。

最後の夜


21時  荷物の整理
 シャンシャンで買った葡萄酒4本をどうやって持ち帰るかが問題だ。
 トランクに入れることを考えたが、飛行場で荷物の積み降ろしはほとんど放り投げている。乱暴に扱われると瓶は割れてしまう。機内持ち込みで持ち帰るようにする。 日本から持ってきていた新聞紙、タオルなどでがっちりガードして手提げバッグに収納する。
 その他、土産物が壊れないように丁寧にトランクに荷物を収納する。
22時30分 就寝
 明日の朝が早いので早めに就寝

9月26日
5時50分  起床(新疆時間では3時50分)
 外は真っ暗。
 窓から外を眺めると、数台の車が行き交っている。
6時 朝食
 こんなに早い時間でも、既に食事している人がいる。
 妻がチェックアウトをしている間に私はホテル玄関に泊まっているタクシーの運転手に「エアーポート」と言ってタクシーを確保する。
 ボーイが料金を交渉してくれた。「朝早いので80元と言っているが良いですか?」と言う。
 昨年は、100元だったので「OK」する。
 車は少し小型。トランクが車の後部トランクに入りきれずに助手席に乗せる。
 「朝早いので高速道路は通らないで一般道路で行くと言っています。」と言う。
6時50分  ホテルを発つ
 ちょうど、曽さんがいたので別れの挨拶をする。玄関まで見送ってくれた。
 曽さんは私たちが出発する時刻に合わせて、朝早くから出勤していたのだった。義理堅い人だ。


7時50分  空港に着く
 空港はまだ客がまばら。昨年はどのカウンターでも搭乗手続きが出来たので、あまり人が並んでいない中程のカウンターに並ぶ。
 私たちの番になる直前に男性が横から入って手続きをする。要人の手続きかと思い待っていると、続けて若い女性が横から手続きを始めようとする。しかも手には何人分ものパスポートを持っている。旅行社の関係者らしい。
 妻が「次は私の番ですよ。」と横入りを咎めると、笑いながら「すみません。時間がないので」と言う。
 「私たちも時間がないから朝早くから来ました。横入りするのは許せません。どこの旅行社ですか?」ときつく言うと、応えず無言のまま。
 女性は手続きを済ませるとそのまま走り去った。日本語を話すが日本人ではなかった。
 私たちの番になり、航空券とパスポートを見せると「上海行きは23番カウンター」と言う。
 10分以上並んでいたのに。
 23番には並んでいる人がいなかったので直ぐに搭乗手続きを済ませることが出来た。
 ガイド無しの二人旅行では搭乗手続き一つするのも一仕事だ。
 少し時間があったので、ロビーを見て歩く。職場への土産物を買う。
 搭乗者ロビーに入るとき、X線検査で酒は持ち込めないと指摘された。それもものすごい剣幕で。 私は言葉が理解できないので、てっきり酒類を持ち出すことは出来ないと言われたのだと思った。
 「どうしようか」と妻と話していると、妻はどうすればよいかを係員に尋ねる。「手荷物に預けなさい。」と教えてくれる。
 昨夜の荷造りは、機内持ち込みを想定したものだったので、X線検査場のそばで荷造りをし直す。
 バッグから葡萄酒を取り出し、新聞紙とタオルでくるみ2本ずつガムテープで巻き付けていると、係員がまたものすごい剣幕で何かを言う。
 「急ぎなさい。間に合わない!」と言っている。
 どうにか荷造りを終え、「どこから搭乗手続きカウンターへ行けばよいか?」と聞くと、「ここから行きなさい。」と言う。
 搭乗ロビーへ入ってくる客の間をすり抜けるようにして搭乗手続きカウンターへ急ぐ。
 再び、飛行機の切符、パスポートを提示して手荷物検査を受ける。
 「酒か?」と聞かれたので「そうです。」と応えると、ワイングラスのマークがついた割れ物注意の札を附けてもらった。妻は、くたくたになっているようだった。
 再び、搭乗者ロビーに入ると先ほどの女性係員が「どこまで行くの?」と聞くので「上海まで。」と応えるとにっこり微笑んで「間に合って良かったね。」と言う。この心遣いがうれしい。
7時50分 21番搭乗口につき、一息つく
8時25分 搭乗
8時51分 離陸
 天気が悪く、飛行機は雲の上を飛ぶ。残念ながら天山山脈も祁連山脈も見ることはできない。
10時15分 機内食 パン、ナン、麺、フル-ツ
12時55分 上海虹橋空港に着陸
13時35分 リムジンバスで上海浦東空港へ
 上海浦東空港へはほとんどが高速道路を走る。
 高速道路だが、トラック、バス、乗用車が車間距離をとらずに走る。
 日本の一般道路と同じようにわずかな車間にも割り込んでくる。これで良く事故が起きないものだと思っていると、30分ほど走ると大渋滞。ワゴン車とトラックの接触事故が起きている。運転手らしい人が渋滞の車の間を縫うように歩きながら携帯で誰かと連絡を取っている。日本では考えられない光景。


14時43分 上海浦東空港到着
 昨年と同じ空港レストランでラーメンを食べる。1つ 50元。飲み物のサービスはない。水筒に入れているお茶を飲む。
 搭乗手続きをで、トランクのオープンを命じられる。
 何がひっかかったのかとトランクを開けると、係員が沙山公園の砂を入れていた薬の瓶を指さす。
 瓶を取り出し、砂を見せると納得してくれた。テロ対策で検査はなかなか厳しい。
 その後、空港内を見て回る。
 搭乗者出口には、たくさんの出迎えの人がいる。それぞれに名前を書いた紙を頭上に掲げている。 昨年は初めてのことだったので柴珏(チャイジュイ)さんに迎えに来てもらったことを思い出す。


 搭乗者ロビーで待っていると、後ろから「ご夫婦でご旅行ですか。うらやましいですね」と初老の男性から声をかけられる。
 話を聞くと、京都市役所を退職したあとは独り身であり、年に数回しかも長期間中国旅行しているとのこと。
 その男性からリコンファームの仕方を教わる。到着した空港で利用飛行機会社のカウンターでリコンファームをするのが簡単で確実だという。良いことを教えてもらった。
 あちこちから日本語が聞こえてくる。
17時45分 搭乗
18時10分 離陸
18時30分 機内食が配られる ご飯、魚のすり身、野菜、コッペパン、果物。
20時30分(日本時間)福岡空港着陸
22時40分 帰宅

 今年も妻が通訳兼現地案内人をしてくれ、ウルムチ・シャンシャン旅行を楽しんだ。
 高知県立龍馬記念館の森さん(「新疆大学留学記」の著者)は、新疆旅行は季候も良く、旅費も安い5月頃がよいと言っていた。
 毎年9月に行っているので、来年は5月頃シルクロードの旅をしたいものだ。



                              費      用

旅 費 福岡~上海 往復 65,000(1人分)   130,000円
上海~ウルムチ 往復 84,000(1人分)   168,000円
空港税 国際線部分  9,065(1人分)    18,130円
国内線部分  3,240(1人分)     6,480円
現地手配 ウルムチ~シャンシャン バス手配  4,000(1人分)     8,000円
ホテル宿泊 ウルムチ・シャンシャン  1,600(1泊分)    53,000円
小 計   383,710円
滞在費 中国国内バス賃        218元    約3,620円
食事代        828元   約13,750円
入園料        596元    約9,900円
土産代        963元   約16,000円
小 計   約43,270円
費用総計 約427,000円

                              
 宿泊ホテル
  新疆大酒店   ウルムチ新華北路168号
  西遊酒店    シャンシャン県新城東路2965号



平成年10月18日 朝日新聞「声」掲載

                 車間距離確認標識を増やせ

 先日、久しぶりに高速道路を利用して福岡まで出かけた。早朝にもかかわらず利用車輌は多かった。どの車も我先にと先を急ぐ。追い越し車線を車間距離をとらず、猛スピードで走っていた。
 私の車を追い越しにかかる後方の車は直ぐ後ろまで接近して、急ハンドルで追い越し車線に出て、私の車の直前で急ハンドルを切り走行車線に入ってくる。危険を感じ、思わずブレーキを踏んだ。
 高い幌を付けた軽トラックが、走行車線と追い越し車線をぬうように走っていく。横転でもしたら、後続車はよけることは出来ないだろう。
 一般道路と同じ運転では、大惨事が起きても不思議ではないと思う。多重衝突事故を起こさないために、運転者すべてが高速道路の運転方法、つまり、法定速度厳守と社会距離を保つことを肝に銘ずることを切に望む。
 さらに、関係者に次のことをお願いしたい。高速道路上に車間距離確認標識を増やし、車間距離を守るよう促すこと。運転免許証更新時に高速道路走行の仕方を厳しく指導することである。


平成18年11月14日 熊日新聞「読者の広場」掲載

                   子のしつけは親の自己責任

 教育基本法改正をめぐる衆院特別委員会で「教育の外部化」が進んでいるとの指摘があった。私はこの「教育の外部化」という言葉を聞いて、2つの事を思い出した。「最近は、子どもが布団におねしょをするのを嫌って、おしめをはずすしつけができていない家庭が多く、保育園でしつけている」との保母の話。「勉強は塾で教えてもらうから、学校ではしつけをしてくれと真顔で頼む親がいる」という小学校の先生の話。これらは極端な例だが、まさにしつけの「外部化」である。
 この秋、新疆ウイグル自治区の区都ウルムチを旅した。ウイグル人街で靴の修理の合間に娘に文字を熱心に教えているウイグル族の父親がいた。彼は「娘は6歳だが学校に行っていないので、ウイグル語は自分が教えている。勉強をして立派な人になって欲しい」と言っていた。また、地下道の平らな斜面を滑り台代わりに遊んでいる男の子を、平手でたたいて「ここは遊ぶところではない」と厳しく指導している漢族の母親がいた。男の子は遊びたい様子であったがしかられてピタリとやめた。
 最近の日本ではあまり見かけない光景に私はある種の感動を覚えた。親が愛情と厳しさで生き方をしつけることで、親子の絆は深くなるのではと思った。子どものしつけは外部化ではなく、親の自己責任で行いたいものと思う。