ウルムチ二人旅

トルファン 高昌故城
 トルファン 高昌故城  (後方は火焰山)


 今年もまた妻と二人で、あきもせず中国へ行った。
 新疆ウイグル自治区の首府(日本では県庁所在地)、烏魯木斉(ウルムチ)を「金持ち」ではない「時間持ち」にしかできない気ままな散策を楽しんできた。


行        程
9月20日 福岡~上海(浦東空港)    上海(虹橋空港)~ウルムチ
21日 天地観光       (現地観光バス利用)
22日 ウルムチ市街散策 (路線バス利用)
23日 トルファン観光    (現地観光バス利用)
24日 ウルムチ市街散策 (路線バス利用)
25日 ウルムチ市街散策 (路線バス利用)
26日 ウルムチ~上海(虹橋空港)  上海(浦東空港)~福岡

  

1日目(9月20日)

 8時少し過ぎに福岡空港に着き、搭乗手続きを済ませ、簡単な朝食をとる。
 空港内をぶらぶらしていると福岡銀行空港支店で「円」を「元」に両替できることが分かる。係員に両替方法を教えてもらい、15,500円を両替機に入れると、封筒に入った真新しい1,000元(100元札10枚)が出てくる。
 昨年6月西安へ旅行したとき、空港からのリムジンバス乗車賃として中国元を使うために「円」を「元」に換金するため青島空港でコーヒーを飲み、1,000円からおつりとしてもらった「元」はわずか2元で高いコーヒー代だったことを思い出す。
 日本国内で両替できることは現地で直ぐにお金を使うことができるのでとても便利。

 出国手続きを済ませ、9時40分に中国東方航空機に搭乗。
 予定通り10時に離陸。
 中国語、英語に続き日本語で機内放送がある。日本人乗務員が乗務しているとのこと。英語も中国語も分からない私にはとても心強い。上海までの960kmをおよそ1時間20分で飛行するという放送だった。
 10時20分頃機内食が配られる。水、パン、野菜、フルーツ、羊羹がコンパクトに詰められた軽食。何と水は信濃の水。
 天気があまり良くなく、外の景色はほとんど見えない。機内では自宅から持ち込んだ新聞を読んで過ごす。
 1時間20分があっという間に過ぎ、定刻の10時20分(これからは中国時間)に上海浦東国際空港に着陸。

 入国手続きを済ませ、荷物を受け取り、出口ロビーに出ると、[歓迎 ○○ ○○]と書いた紙を掲げた上海国際旅行社のチャイジュイさんが迎えに来ていた。若くてきれいな女性。

上海空港 チャイジュイさんと


 話す間もなく「直ぐに虹橋空港へ行きましょう。」とリムジンバス乗り場へ。
 7番出口よりリムジンバスへ乗車。乗車賃は1人30元。約50kmの距離を約1時間で走るという。
 11時10分に出発。車の多さには驚く。空港を出てほどなく高速道路へ。真っ直ぐに延びた高速道路。直ぐ横をモノレールが走っている。
 チャイ(紫)さんの話しでは、上海の人口は1,600万人を数えるという。高層ビルが林立し、これからも開発が進み、超高層ビルの建設が予定されているそうだ。
 高速道路はきれいに整備され、中央緑地帯にはきれいな花が植えてある。驚いたことに彼岸花がちょうど満開だった。 我が家の彼岸花も満開。
 30分ほど走ると、反対車線は大渋滞。大型トラックの多さが目につく。妻は「帰りにもこのように大渋滞になるかも知れない。空港移動の時間をたっぷり取っていてよかったね。」と言う。帰りは私たちだけで移動するので、ゆとりをもって飛行機の乗り継ぎの時間が約5時間ほどある便にしていた。
 松果江という大きな河を渡る。吊り橋の鉄橋。外の景色を見ていると、日本だか上海だか分からないような街並みが続く。アパートの作りなどを見ていると、とても派手で「やはり中国だな」と思う。

真っ直ぐに延びた高速道路 右端はモノレール 高速道路脇の彼岸花 吊り橋


 チャイ(紫)さんに「日本人旅行者は多いですか?」と聞くと、「少ない」と言う。
 「やはり、デモが影響しているのでしょうか?」と尋ねると、「何も問題はないのですが・・・。」と言う。
 出発して1時間ほどで虹橋空港に到着。
 空港ロビーで、チャイジュイさんに搭乗手続きをしもらう。26日の帰りの便、ウルムチ~上海間の中国南方航空機のリコンファームも頼む。案内のお礼を言ってチャイさんと別れる。

 空港内のレストランで昼食(五目焼きそば30元、天ぷらうどん38元、ウーロン茶18元)。
 機内への登場は13時30分頃との放送がある。
 13時40分搭乗。外の景色が見えるように窓側の席を取ってもらっていた。座席は33A、B。
 機体は14時10分滑走路へ移動を始めたが、離陸の順番待ちで離陸したのは定刻より15分遅れの14時30分。
 ちょうど午後の西日が真横から当たり、外はあまり見えない。機内はほとんどが中国人。グループ旅行だろうか。互いに大声で話しをしている。特に、前の座席の3人の女性は大声で騒々しい。中国人は携帯電話の声も会話の声も大声。
 妻は「北京語ではなく、広東語で話しをしているようで何を話しているのか全く聞き取れない。」と言う。

 上海ウルムチ間はおよそ3600km。熊本東京間はおよそ900km、この間を2往復する距離にあたる。安徽省、陝西省、青海省、甘粛省上空を通過しての、約5時間のフライトだ。
 15時を過ぎる頃、大きな河が見えてきた。揚子江だろうか。大きな湖も見える。
 機内サービスが始まり、干しぶどうが配られる。コーラをもらったが生ぬるい。「アイスプリーズ」と言って氷を入れてもらい、冷たいコーラを飲むことができた。
 機長の機内アナウンスは私には何のことだかさっぱり分からないが、「ウルムチ」という単語だけは聞き取ることができた。
 15時30分過ぎからイスラム料理の機内食サービスが始まる。パン、野菜、ハム、ケーキ、果物、水がコンパクトに詰めてある。おいしい。
 17時10分頃、のこぎりの刃のよう切り立つ山、雪を抱く山が見え始める。祈連山脈だろう。雪解け水の河が幾筋も見える。湖も見える。それから一片の緑もないこげ茶色の山が続く。40分ほどで山脈が終わり、高原となった。

 
雪を頂く祈連山脈 ゴビタン


 妻は隣座席の人に話しかけている。隣座席の中国人は浙江省から24人の団体でウルムチ・トルファン7日間の旅行だと話してくれた。費用は一人1万元だそうだ。日本円で約15万円から16万円だ。私達の旅行費用より少し高いようだ。中国人は中国の地図を書き、上海の場所を記し、その直ぐ下に丸印をつけてここ(浙江省)から来ていると教えてくれた。また、「四川省の九寨溝は大変いいところです。是非行くといいですよ。」と勧めてくれた。私はその人が書いた地図に台湾と日本の概略地図を書き足し福岡を示し、福岡から来たと言うとうなずいていた。

 10年ほど前、上海、蘇州、無錫、南京方面に旅したときは「万元戸」とよばれる農家が出現し、中国の経済発展が話題となっていた。それが、今では一般の人が1万元も出して国内旅行するようになったのを見て、中国経済の発展を実感する。

 19時20分ウルムチ空港に着陸。まだ、陽は落ちていず明るい陽が差している。荷物を受け取り、タクシー乗り場へ急ぐ。タクシー利用者がたくさん並んでいる。やっと10台目くらいのタクシーに乗ることができた。
 妻が運転手に「新疆大酒店」と書いたメモを示すと「予約しているか」と聞くので「予約している。」と答えると、車はスピードを上げて走り始めた。
 メーターを倒さないで走るのでおかしいと思って妻が「ホテルまでいくらですか?」と聞くと、何やら中国語で言っているが妻は聞き取ることができないようす。
 「英語が話せるか」と聞いてきたので「アイキャンツスピークイングリッシュ」と答えると、「どうしようもないな」とでもいうような仕草をしながら車を走らせる。高速道路を走るのは昨年9月と同じだが、途中から一般道路に出る。そして、紅山公園を左に見る光明路に出た。ほどなくホテルに到着。

 ホテル車寄せに着くと、運転手はホテル従業員に荷物を運ぶ車を持ってくるように言い、私の旅行バッグをトランクからおろし、台車に乗せる。
 妻が「領収書をください。」と言うと、1枚10元の領収書を領収書綴りからびりびりと10枚破り取り、「タクシー代100元」と言う。私も妻もびっくり。昨年は50元程度だった。
 妻は「それは高い。去年9月は50元だった。」と強く言うが、運転手は「グォールーフェイ(過路費だ)」と主張する。
 「それはどういう意味ですか。」言うと、身振り手振りで大声で何やらまくし立てながら「100元」の一点張り。
 私もホテルボーイに日本語で「メーターも倒さなかった。こんなおかしなことをするのは中国の恥ですよ。そうは思いませんか。そう言ってください。」と強く抗議する。「50元だ」「100元だ」としばらく押し問答が続く。後からホテルに着いた車はクラクションを鳴らして私たちが乗ってきたタクシーを動かすように催促する。
 ボーイが「60元でどうか」とタクシーの運転手に言うと、運転手は「仕方ないや」とでもいうような顔でOKした。私たちも仕方なく60元払う。
 金額はわずか40元か50元、日本円にして700円か800円。金額をけちけちして抗議したのではない。交通事情を知らない旅行者から少しでもふんだくろうとする心が許せなかった。タクシー運転手は60元を受け取ると、走り去った。
 今度からタクシーに乗るとき、運転手がメーターを倒さないときは、直ぐその場で抗議しなければならないことを学んだ。

 ボーイにお礼を言って、チェックインする。デポジットとして1万円預ける。
 部屋は18階の1819号室。部屋まで荷物を運ぶ途中でボーイに「タクシー代、100元をどう思いますか?」と尋ねると、「自分も高いと思う。」と言うので私たちが無理なことを言ったのではないと安心した。
 部屋は昨年と同じ北東側に面し、紅山公園や中学校は見えるが、部屋が少し狭く、洗面所も狭いようだ。

 部屋でくつろいで、21時にレストランで夕食をとる。レストラン横のロビーではピアノとヴァイオリンの演奏があっている。
 レストランは昨年利用したので様子は分かっていた。バイキング形式で、新鮮な野菜、豊富な果物、中国料理、西洋料理、日本料理もある。野菜やエビ、麺などを自分で選ぶと、ゆがいてくれる。ごそごそ動いているカニも食材としておいてある。料理はおいしかった。

 夕食後、先ほどのボーイに観光案内をしてくれる信用できるところはないかと尋ねると、直ぐ隣にいた中国人 李万興(リー マンシン)さんを紹介した。この人は今話題のライブドア社長、堀江貴文さんそっくり。観光旅行の斡旋をしている人だという。堀江さん似の李さんに「天地観光はいくらですか?」と聞くと、中国人向けの35人乗りの観光バスで昼食付き、1人120元と言う。トルファンは同じ要領で200元と言う。
 21日の天地観光と23日のトルファン観光を予約する。朝の8時頃電話して、8時半にロビーで待っていることを確認した。
 カウンターで「部屋を変えてほしい。」と頼むが、部屋の変更はしてもらえなかった。

 部屋でゆっくりと風呂に入り、旅の疲れをとり、23時頃床につく。
 今回もウルムチに着く早々、タクシー代金で運転手とトラブルがあった。
 明日からの6日間、たくさんの感動や驚き、トラブルが待っていることだろう。
 どんな旅になるかを楽しみ。



2日目(21日)快晴  中国人ばかりの観光バスで天地観光 1人120元(昼食付き)

天  地


 観光旅行を依頼した堀江さん似の李さんが、8時30分に迎えに来るということだったので、6時40分起床。
 あんなに広い中国だが、時間はすべて北京時間に統一してある。6時40分というのは北京時間のこと。北京と新疆とは時差が2時間はある。外はまだ真っ暗。新疆の生活時刻でいうと4時40分。

 7時にホテルレストランへ食事に行く。既に数組の宿泊客が朝食をとっている。朝早くからの移動だろうか。
 朝食はバイキング。マントーを4個、野菜、ベーコン、タマゴ、牛乳、トマトジュース、ハミウリ、スイカなどを食べる。妻は、肉類は全く食べない。パン、野菜、果物ジュース、タマゴ、それに野菜と麺類を煮込んだ鍋物を食べる。料理の種類は豊富。
 朝食を終え、部屋で待っていると「ロビーで待っている」との電話がある。直ぐにロビーにおり、8時25分、ホテルを出発。 李さんは自分の車で来ているかと思ったら、徒歩かタクシーで来たのだろう。ホテル玄関に待機しているタクシーで観光バス発着所まで案内する。タクシーに乗ると、運転手に「ダオ ディエンインユアン(到 電影院)(映画館前まで)」と告げる。5~6分乗って映画館前で降りた。基本料金6元で行けるところだった。早朝で車も少なくすいすい走った。

 バスは2台止まっている。李さんは「旅行代金はこの人に払ってくれ」と一人の男性を紹介した。2人分240元を払うと、ノートに何かを書いて「バスに乗りなさい。」と言う。李さんはバスが出発するまで旅行関係の人と談笑しながら私達を見送っていた。妻が運転手に「途中でトイレ休憩はありますか?」と聞くと「ない」という。妻はトイレを探しに出て行く。妻は映画館の中に有料トイレがあったのでそこを使用してきたと言う。
 バスにはたくさんの中国人が乗車している。私と妻は最後列に座る。出発する前、女性ガイドが乗客の名前を一人一人読み上げながら確認する。私達2人には「ワイシンレン? 外行人?(外国人旅行者?)」と言う。妻はすかさず「リーベンレンリャンガ(日本人2人)」と大声で応えた。

 8時50分にバスは発車。その時は、かなり空席があったので「こんなに空席があるならゆっくり行けるな」と思っていたら、途中、「友好市場」前と「富成百貨」前の2箇所で客を待つ。途中で乗ってきた人たちは、親子連れ(両親と子)2組、老夫婦2組でした。結局満席の35人で天地1日観光に行くこととなった。
 友好市場前では、回族の人だろうか。白い帽子を被った人たちが大きな鍋に煮込んだものを売っている。たくさんの人出でにぎわい、良い香りがただよっていた。

回 族 (?) の 鍋 料 理


 バスガイドは若い女性。休むことなく次から次に何やら説明している。私にはさっぱり分からない。妻の話によると、天地がどうしてできたのかを説明しているようだ。昨年、西安で茂稜や乾稜を観光したときのガイドもひっきりなしに話しをしていた。それもノー原稿で。専門性というか、自分の仕事にプライドを持って絶えず勉強しているのだろう。
 バスは、高速道路を走る。道路はきれいに整備され快適なドライブ。2時間ほどで山道に入った。曲がりくねったカーブの連続。
 妻が昭和62年に訪れたときは、未舗装で道幅も狭くとても怖かったと言う。「当時とはかなり違っている」とその変わりように驚いている。
 ほどなく、天地の入り口に到着。観光バスが押すな押すなの盛況。順番待ちで10分ほど待つ。
 天地入り口を過ぎると、清流が流れている。タマリスクという木だろうか。大木が至るところに生えている。その木陰にはカザフ族のパオ(テント式住居)が点在している。


天地入り口 パ   オ

 15分ほど走ると大駐車場に着く。ここからは観光バスは通れなく、天地まではシャトルバスで行くそうだ。30人乗り程度の小型バス。トヨタや三菱製のバスが何台もある。 
 順番待ちで待っている間、中国人は相変わらず大声で会話している。会話の中で笑い声や笑顔がなかったらケンカしているように思える。シャトルバス発着所の横にはロープウェイも運行されている。妻はこれにもびっくり。「当時は何もなかった。湖までバスで行ったが、土産物売り場兼レストランみたいな建物が1軒あっただけで観光客もほとんどいなかった」とその変わりように驚いている。
 シャトルバスが走る道路は、きれいに舗装されてはいるものの急カーブの連続。ガードレールはない。運転を誤って落ちたらそれこそ千仞の谷底。にもかかわらず、運転手は慣れたもの、カーブでもあまりスピードを落とさず走る。ヒヤヒヤしながら乗っていた。しかし、窓から見える景色は口では言い表せないほどのすばらしさ。10分ほどで、頂上駐車場に着く。
 そこから10分ほど坂道を歩く。20人ほどを乗せて走る遊覧車も走っている。
 ガイドが「ここからは自由時間です。昼食は14時にレストランでとってください。15時までにバスに乗ってください。」と説明している。妻は念のため、メモ帳を取り出して昼食の時刻とレストランの名前、集合時刻を書いてもらった。
 私と妻は大勢の中国人と一緒に歩いて湖へ向かう。


シャトルバス発着所 天    地 遊 覧 船

 湖につくと、息をのむほどの大パノラマが開けてきた。まっ青な水が陽の光にキラキラと輝いている。静かな湖面を滑るように遊覧船が走っている。正面には雪を抱いた山々。岸辺には黄葉。そして、湖畔は人、人、人。すばらしい景観にしばし見とれる。
 妻が、「かなり寒いのでセーターも準備していこう。」と言うのでセーター、ジャンパーを用意していたが、天気が良かったからかそんなに寒さは感じない。
 湖畔をぶらぶらしていると中国人の老夫婦が「遊覧船に乗りましょう。1人20元ですよ。あちらの船がよいですよ。」と妻に話しかける。この夫婦がなぜこんなに親しく話しかけてくるのか分からなかったが、同じバスの旅行者だった。
 遊覧船発着所まで20分ほど歩く。途中、老夫婦が「どこから来たのか」と尋ねるので「日本です。」と答えると、「自分の娘は日本に行っている」と言う。「日本のどこですか?」と聞くと、「結婚して鹿児島にいる」とのこと。
 発着所までの途中には、シシカバブーや湖でとれた魚を焼いて売っている露店が数店ある。
 船の中は寒くて、おもわずジャンパーを着込む。船からの眺めは湖畔からの眺めと違ってすばらしい。30分間の遊覧を楽しむ。

 湖畔に少数民族「カザフ族?」の貸衣装がある。妻は「衣装を着るので写真に撮って。」と言う。赤い衣装を借りて数枚写真に収める。(衣装借り賃10元)
 隣で同じように写真を撮っていた中国人が「一緒に撮ろう」と言うので、一緒に撮る。中国人の男性はデジカメを私に見せて「こんなにきれいに撮れた」と自慢していた。私が撮ったのは残念ながら女性が横を向いている写真になってしまった。


カザフ族の王女様?

 13時半過ぎ、昼食をとるため、レストランに向かう。レストランの場所がなかなか分からない。レストランらしき建物を3軒ほどさがしてやっと昼食場所を探し当てる。
 レストラン入り口にいたガイドは、私と妻がレストランに来たので「ホッ」としたような顔で「ここが昼食場所ですよ。」と迎える。既にたくさんの人が昼食をとっている。昼食は「麺とご飯どちらがよいか」と問われ、私はご飯、妻は麺をもらう。ご飯はチャーハンのようなものでおいしかった。麺はラグ麺か。香辛料がきいていてかなり辛い。
 同じテーブルに遊覧船乗船を誘った老夫婦がいる。私たちを「日本人だよ」と他の人に紹介してくれた。老夫婦といっても女性は60少し過ぎかと思う人。食事中ずっと何やらしゃべり続けている。中国人は初対面同士でも昔からの知り合いのように自分のことや過去の経験をよくしゃべる。聞いている夫婦も昔からの知人のように相づちを打っている。男性は70前後かと思われる人で、映画「大地の子」の陸一心の父、陸一徳さんを彷彿とさせるような人。

 昼食後、シャトルバス発着所まで歩いて帰る。
 発着所近くの土産物売り場の前で「ナン」をつくり、売っている露店があった。一人の男性はウイグル音楽に合わせて、タンバリンを叩き景気をつけてお客を呼び込んでいる。ナンとは日本のやきだごのようなもの。隣では「シシカバブー」を売っている露店もある。シシカバブーとは、羊の肉を鉄の串に刺し焼いたもので、「中国版焼き鳥」。香ばしい香りがただよっている。

ナンを売る露店 シシカバブーを売る露店


 シャトルバスの発着所にはたくさんの人がバスを待って並んでいる。並んで待っているお年寄り夫婦を係員が見つけ、呼び込み、用意してある椅子に座らせ待たせる。中国ではいたるところでお年寄りを大切にする態度が見受けられ微笑ましい。

 集合時刻の15時、バスに乗り込む際、「紅山公園の前を通るならそこで降ろしてもらえませんか。」と交渉するが「それはできない」と言う。「仕方がない。今朝の出発所からホテルまで歩いて帰ろう」と思っていた。
 帰路、市街地に入って「雪蓮」などの薬草やホータンの玉を売る土産物店にバスは停車する。中国の観光バスも土産物店と提携して客を連れてくるのかと驚く。
 店の前にはブドウやハミウリを売る露店が並んでいる。露店でブドウ1kgとりんご2こを3.5元で買う。玉は昨年、ホータンで見てきたので店には入らず、バスに乗っていると、玉を売るウイグル人がバスに乗り込んだり、窓の外から玉を買わないかとしきりに勧める。「ブーヤオ(不要)」というと何やら言っては他の玉を見せる。知らん振りをすると他の客の方へ行って売り込んでいる。
 木陰で数人の玉売りが集まって情報交換している。20歳代から40歳代くらいの男性グル-プだ。玉の加工品を売って生活している人たちだろうに、ほとんど売れないのにあまり悲観した様子はない。ウイグル人は陽気で暢気というが、この人たちを見ていると本当にそう思う。

 バスは、朝「富成百貨」で乗ってきた人達を降ろして、紅山公園横を通り、中華北路に入る。ガイドが私たちを手招きして「早く降りる準備をしなさい」と言う。途中では降ろせないと言っていたが、ホテル前で降ろしてもらう。このはからいをうれしく思った。
 夕食は、持参したインスタント食品、わかめご飯、カップ麺、鯖の缶詰、それに買ったブドウとリンゴですませた。

 中国人ばかりの団体に混じっての天地観光。とてもすばらしい1日だった。
 中国のスイスといわれる天地は観光地化され、きれいに整備されていた。妻は「20年前の面影はほとんどなかった。」と言う。観光客も多く、人、人、人でほとんどが中国人。20年前の遊覧船は、スイス人と妻と次男が参加した日本人ツアー客だけだったと言う。当時は、中国人観光客はトラックに乗って見物に来ていたそうだ。
 自宅でゆっくりと20年前のアルバムを見ると、妻の言葉のように羊が数匹放牧してあるだけののんびりした写真が貼ってある。

天地
 1982年、中国第1級重点風景名勝区に指定される。海抜1980mにあり、湖の広さは東西1,500m、南北3,000m。深さは最深部が105m。乾隆皇帝が天地(天鏡神池)と命名したと説明書きがあった。それ以前は、瑶池と呼んでいたそうだ。



3日目(22日)晴 薄曇り

路線バス 109路


 朝9時、外へ出ると冷んやりする。
 ホテルロビーで、ボーイに「二道橋へ行くには何番のバスに乗れば良いですか?」と尋ねると、彼は「そんなところに何しに行くのか」というような顔をして「道向こうのバス停から「61路」に乗ればよい」と指さして教えてくれた。
 「61路」バス停「小西門」へ向かう。
 バス停には、停留所名、路線の全停留所名が記してある経路地図が分かりやすく示してある。バス正面には「六大市場(始発停留所名)ー61(路線名)ー貨凌市場(終着停留所名)」などと記してあり、乗りたいバスはすぐに判る。

路線バス車内


 バスの乗車賃は路線間はすべて1元。乗車口にある料金箱に1元投入する。妻は女性運転手に「リャンガ(二人分)」と言って2元入れる。
 私の後から乗車した人はバッグを料金箱横のセンサーに押しつけた。すると「ブー」と音がした。バスの定期券らしいものがバッグに入っているのだろう。
 その後からお年寄りが乗車した。この人もバッグをセンサーに押しつける。すると「ラオレンパイ(老人牌)」という声が聞こえた。熊本市の桜カードのような仕組みがここウルムチでもあるのだろうか。
 定期券などをバッグから出さずにバッグごとセンサーに押しつけると読み取ることができ、利用者にとっては便利な仕組みだ。
 運転手は「ブー」と鳴る音で乗車賃を払ったかどうかを確認している。車内の椅子は木製で、クッションは良くない。しかし、道路が舗装してあるので気にはならない。
 停留所に着くたびに録音した車内放送がどこの停留所に着いたかを知らせる。電光掲示板でも知らせる。私は放送は聞き取ることができないが、文字盤を見てどこに着いたかを確認。
 若い人から席を譲ってもらう。中国では、西安でも、カシュガルでも、北京でもバスに乗るたびに席を譲ってもらう。中国人はお年寄りを敬う気持ちが強いのだろう。日本では忘れられつつある精神だ。日本でもこの精神を復活させたいものだ。

 二道橋近くになって「ここには帰りに寄ることにして、終点まで言ってみましょう。」と妻は言う。私もそのつもりだったのでそのまま乗っていた。
 しばらくすると、車窓から見える街並みが変わってきた。近代的な高層ビルから2・3階建てのビルへ。道を行き交う人も漢人よりウイグル人が多い。ウイグル人が住む町のようだ。ウイグル特有の派手な服を着た若い女性、黒っぽい服を着た男性、髭を生やした老人、顔に布を巻いた女性が目につく。
 歩道には果物や野菜を売る露店も多くなる。モスクも見える。まさに西域。昨年、ホータン・カシュガルの旅で胸躍る思いをしたことを思い出す。
 ほどなく、終点の六大市場に着く。ウルムチ市街からずいぶん離れた郊外。ここはまさしくウイグル人の街。家も平屋で、行き交う車もトラックなどが多く、自家用車はほとんどない。

 市場というだけあってかなりのにぎわい。いろんな店がある。
 道いっぱいにスイカやハミウリを山積みにして売っている人。
 キュウリやトマト、青梗菜やピーマンなどの野菜を売っている露店。
 ブドウやナシを売っている露店。
 羊の肉を丸ごと軒にかけている肉屋。
 ブリキ板でもの入れやバケツなどを作り、売っている店。
 テントを張った露店食堂。
 露店食堂では朝食だろうか、シシカバブーやラグ麺、ナンを食べながら談笑している人がたくさんいる。あたりにはシシカバブーを焼く香ばしい香りと煙がただよっている。
 しばらくウイグル人の町を散策する。
 肉屋の前で「写真を撮っても良いですか。」と尋ねると、気持ちよく写真を撮らせてくれた。隣の肉屋では、私のカメラを見て「俺を撮ってくれ」と言わんばかりにポーズをとっている。写真を撮ると、にっこり微笑んで親指を突き出す。
 羊の肉を見せてもらうと、きれいに皮がをはいであり、腹の方は、内臓を取り出すために切り裂いてある。頭と足先がないだけの羊の肉。
 肉屋の女性は一つの肉の切れ端を取り出し、妻に何やら説明し始めた。後で妻から聞くと、「この肉は羊の首の部分で一番おいしく上等で、一番高い」と説明してくれたとのこと。
 野菜を売る露店で、トマト2個、キュウリ2本を1元で買う。

羊の肉屋 肉の良さを説明するウイグル人女性 トマト、キュウリを買う


 トイレを探しに路地にはいると、小さな子ども達が追いかけっこをしながら楽しそうに遊んでいる。幼児はおしりが開いたズボンをはいている。普段歩いているときはおしりは隠れているが、かがみ込むと布が割れておしりがでるようになっている。用をたすとき、幼児がズボンを脱がなくても良いようにとの生活の知恵だろう。トイレは有料トイレで1人6角(約7円)。
 有料トイレといっても清潔ではない(都市部のトイレはとても清潔になっている)。中国人は日本人と違って、人の身体からでる大便や小便の排泄物は汚いものという意識が薄いらしい。トイレ番の男性は「男性はこちら」、「女性はこっち」とにこにこしながら教えてくれる。とても感じの良い町だった。
 ホテルで地図を見ると、妻が昭和62年に訪れたとき泊まった友誼賓館の近くのようだ。

公 衆 厠 スイカの露店 市場前通り ロバ車


 1時間ほど散策し、「109路」バスで、貨凌市場へ向かう。
 郊外から市街地へと向かう途中、延安公園、動物園前を通る。
 1時間ほどで終点に着く。ここは六大市場と違って私たちにとって見るものはない。建築資材などがあちこちに並べてあった。

 バス停でホテル方面へのバス路線を探すが「小西門」を通る路線はない。仕方なく「紅山公園」を通るバスに乗る。
 紅山公園バス停で降り、昨年9月CDを買ったCDショップに行く。店員さんは私たちを外国の旅行者と見たのだろう。西域の音楽CDを数枚選び出し「これはウイグル音楽のCDです。」と勧める。勧められたCD4枚を66元(924円)で買う。
 ホテルへ帰る途中、焼き芋がおいしそうだったので3個3.5元、蒸しトウキビ1本0.5元で買う。

 昼食は、インスタントラーメン、焼き芋、蒸しトウキビ、トマト、キュウリ。蒸しトウキビはおいしくない。

 ホテルで1万円を708.76元に両替。1元が約14円。

 15時頃、ホテル前のバス停「西大橋」から「104路」で二道橋へ行く。
 ここは、露天バザールだった所をデパート風にした所で、4階建ての建物がある。建物の前には橋の上でものを売っているウイグル人などをあらわしたブロンズ像がある。
 バザールではいろんなものを売っている。市民が毎日の生活に使う日用品、食料や香辛料、衣服、絨毯などの敷物、土産物品、などなど。ないものはないようだ。
 どんなものがあるかをゆっくりと見て回る。店の中にテナントが入っているような感じだ。そのテナントの数の多いこと。同じようなものをあつかっている店が幾つもある。2階は衣料品、3階は、漢方薬、置物などを売っている。
 3階トイレ横の空きスペースでウイグル男性老人が1人イスラム式のお祈りをしていた。

ナイフを売る店 香辛料


 民族歌舞劇場は4階にあると店内案内板にありました。4階への階段やエレベーターを探しますがありません。店員に「4階へはどこから上がりますか?」と尋ねると、「4階はない」と言います。確かに店内案内には「民族歌舞 二道橋大劇院」と記してあるのです。1階におり、総合案内所の受付の人に「民族歌舞劇場はどこにありますか?」と尋ねると、教えてくれますが早口の中国語、しかも地方言葉が混じっているようで妻には聞き取ることができません。何度も聞き直していると、「それではそこまで案内します。」と立ち上がります。後から付いていくと、いったん店の外に出て、北西の玄関口へ連れて行き「ここが民族歌舞劇場です。」と教えてくれました。妻は丁寧にお礼を言いました。私も一つ覚えの「シェー、シェ。」を何度も言って感謝の気持ちを表しました。
 チケット売り場で劇場のことをいろいろ尋ねますと、きれいなパンフレットを示しながら開演は北京時間の21時から。料金は観賞料金160元、送迎料40元と教えてくれました。パンフレットをもらって帰りました。

 道の向かい側には国際大バザールがあります。新しく建ったと思われる建物が5棟あります。モスクもあります。中国というより、中近東ではないかと思わせるほどの光景です。それぞれ1号館、2号館と名付けてあります。バザール入り口には広場があり、椅子とテーブルがセットにして置いてあります。中央には舞台もありました。たくさんの人が思い思いに、アイスクリーム食べたり、ジュースを飲んだり、ハミウリを食べたりして休息しています。
 1号館、2号館、3号館の建物を覗いてみました。どこも同じような品物を観光客相手に売っています。モスク横の高い建物は展望塔でした。

国際大バザール建物 バザール前通り

 そこをしばらく見て回った後で、「104路」バスで市内を回ることにしました。このバスの終点は「温泉」とあります。どんなところか楽しみになり、終点まで行くことにしました。「中山路」を出て、人民広場、南門、市政府前などを通り街はずれまで来ました。民家もあまりなく寂しいところでした。遠くには雪を頂いたボゴダ峰がきれいに見えます。左手には土山に何やら文字が書いてあります。ゴルフ場建設予定地のようです。農家らしき民家もあります。尿意をもよおしたのですぐそばの畑で用をたしました。あまり見るべきものはなかったので「104路」で引き返しました。

 途中の人民広場で降りました。広場にはたくさんの人が憩っています。白い鳩がたくさんいて、小さな子ども連れの家族が鳩に餌をやり、子どもは鳩と戯れています。日本の公園で見る光景と全く同じです。今年は新疆ウイグル自治区が成立して50周年の年だそうです。そのことが大書してあります。そして、50年の歩みが写真で展示してあります。砂漠の土地を開墾して水を引き緑あふれる街にした人々の努力が数枚のパネルから想像できます。広場の中央には高い解放記念碑がそびえていました。記念碑の台座には解放軍と新疆の人々が協力して自治区を作り上げたことを表すレリーフが掘ってありました。
 妻は、ここは20年前「八路軍弁事所」があったところではないかと思うと言います。歴史を紐解くと、毛沢東の弟、毛沢民はこの地で東トルキスタン共和国の財政大臣をしていたそうです。

人民公園 記念塔


 人民広場からホテルそばの「西大橋」へ向かう「101路」バスに乗ったつもりでいたところ、バスは「二道橋」へ着きました。またまた、車の右側通行を日本のように左側通行と間違えてしまったのです。昨年、西安でも西安駅へ向かうはずが全く違う方向へ行ったことがありました。二道橋バス停から再び「西大橋」への「101路」に乗りました。バスの運転手は若い女性です。ジーパンのズボンに開襟の派手な服を着ていました。運転手は皆私服です。あいにく2元がありません。妻が運転手に「両替してください。」と10元出すと、「両替のお金はない」と言います。そして、乗客一人一人に「10元両替できないか」と聞きます。3つ目の停留所の乗客にやっと両替してもらうことができました。運転手は両替用のお金を持っていないということを初めて知りました。

 20時過ぎ、ホテルに着きしばらく休息をとってホテルレストランで夕食を食べました。夕食は1人98元です。10日以内に再度利用すれば一人分は無料になる割引券をもらいました。昨年もこのシステムはありました。ロビーでは、今夜もピアノとヴァイオリンの演奏があっていました。
 テレビでは、新疆ウイグル自治区成立50周年記念番組で経済発展の様子を報道していました。人民政府の努力の結果、砂漠が農地や緑地に変わってきたこと、貧しかった農民が豊かになったこと、都会の発展の様子などが放映されていました。
 天気予報によると、明日のトルファンは最低気温が17度、最高気温が32度とありました。外は40度以上はあるだろうと二人で話しました。明日のトルファン観光に期待して22時30分就寝。



4日目(23日) 晴 トルファン観光

火焰山


 今朝は、集合時刻が早いので6時30分に起きました。ウルムチの生活時間では4時30分頃です。カーテンを開けて外を見ると、真っ暗です。街灯の明かりをたよりに道路を清掃している人がいます。中国では、長いほうきを持ちいたる処で道路を清掃しています。数台のバスやタクシーがライトを付けて走っています。
 7時30分頃薄明るくなりました。

 8時には旅行社の中国版堀江さんこと李万興さんが迎えにきました。タクシーで観光バス発着所まで連れて行ってもらいました。タクシーの中で李さんは「今日は、旅費200元は私にください。」と言います。天地旅行では観光バス関係の人に払ったのに「どうしてかな?」と思いましたが、タクシーを降りて2人分400元を李さんに払いました。

 到着しているバスに、4~5名が乗車しています。一番前の席が空いていたので、元校長のHさんそっくりの運転手に「ここに座っても良いですか?」と尋ねそこに座りました。
 少しずつ、客が集まってきます。集金をしている人に出発時刻を尋ねると、「9時頃になるだろう。しかし、人数がそろい次第出発する」とのことです。時間が少しあるので周辺を歩きました。出勤中の人が忙しげに行き交っています。ゆったりとナンを食べている人もいます。道路を清掃している人もいます。直ぐそばには、3星くらいのホテルがあります。そこに宿泊している人が何人もバスに乗りこんできました。妻は出発前にこのホテルのトイレを使いましたが、トイレは3階にあり、きれいではなかったと言います。私は近くの1人6角(7円)の有料トイレに行きました。ここもそうきれいなものではありませんでした。


 出発予定の9時になっても運転手もガイドも乗り込んできません。この観光バスの世話人らしき人がノートを見ながらバスに乗っている人を確認しています。バスから降りては辺りを見回しながら、人を探しているようでもあります。客同士の会話から推測すると、2人がまだ到着していないらしいのです。既にバスに乗っている人は私達を含めて1時間以上待っていますので少しイライラし始めました。9時20分、二人連れの中国人が乗り込みました。集合時刻を知っていたのか知らなかったのか分かりませんが、遅れたことを悪びれた様子などありません。定められた時刻にきちんと来たというような顔でした。

 運転手とガイドが乗り込んできました。ガイドは集金と客の集まり具合を調べていた人です。35人の定員満席です。一人の男性が乗車口のガイドの席に座りました。運転手かガイドの知人なのか、観光会社の人なのかは分かりませんが、トルファンまで便乗していく人なのでしょう。運転手やガイドと親しく話していたのでトルファンに着くまでそう思っていましたが、この男性も観光客の一人でした。満席後にトルファン観光を申し込んだのでしょう。終日、ガイド席に座っていました。
 バスは、9時20分に出発しました。ウルムチからトルファンまでは、およそ200km余りの距離です。郊外に出ると視界が開けてきます。ゴビタンに入りました。

高速道路


 高速道路の料金徴収所まで来ると、運転手は一生懸命案内しているガイドに何やら大声で言っています。ガイドはマイクを持ったまま案内しながらバス後方に行きました。「何だろう?」と思ってよく観察していると、料金徴収所の前に公安の車が止まっていたのです。入り口近くのガイド用補助席に人が座っています。ガイドは立って案内しています。定員を1名オーバーしていることが直ぐに判ります。この違反にどのような処分があるのかは判りませんが、運転手のあわてようは尋常でなかったので罰則はかなり厳しいのでしょう。その後、何回か料金徴収所を通過しましたが、その度に男性ガイドは通路にしゃがみ込んだりして隠れるようにしていました。ガイド用補助席に座っている男性客が正面から陽が当たり暑いと言うので、ガイドは自分の黒色の折りたたみ傘をさすように言います。おかげでその直ぐ後にいる私たちは傘で前方の視界が遮られ、あまり前方が見えません。男性客は、眠くなると傘をつぼめるのでその時は視界が良くなります。帰りの車中で男性客を見ると、顔はすっかり日焼けしていました。高速道路はゴビタンを一直線に走ります。ゴビタンは砂地のタクラマカン砂漠と違って、小石や砂利、土で、出来ている荒涼としたところです。あちこちに、砂利を積み上げたような光景が見えます。所々に水たまりがあり、草が生えています。羊が放牧されています。周りが白く光った小さな湖もあります。このあたりは太古の昔は海底であったといわれています。湖の水が太陽熱で乾されてできた塩です。
 このゴビタンを通り抜ける高速道路は、1998年に開通したばかりだそうです。平成4年(1992年)シルクロードの旅をしたときは、トルファンからウルムチまで舗装状態が良くないガタガタ道を車は右に左に揺れながら走ったことを覚えています。中国の発展はいたるところで目を見張るばかりです。あの時の道路かと思われる道路が高速道路の横を走っていました。あまりの違いように景色まで違って見えます。

 ウルムチを出て、1時間ほど走ったところに風力発電所の風車群が見えてきました。
 260基、出力10万キロワットで建設された発電所は、今では風車が300基以上、出力は12万キロワット以上あるそうです。達坂城(ターバンチェン)は天山山脈の渓谷に位置し、山脈で隔てられた北疆と南疆の風の通り道に当たり、年間を通じて強い風が吹くところだそうです。トイレ休憩中に辺りを歩くと、風の強さがよく分かりました。

 
風  車


 バスから降りるとき、ガイドは、15分後に出発しますとみんなに伝えていたのですが、15分経っても女性2人がバスに帰ってきません。遅れること5分。この2人の女性は「集合時刻に遅れて申し訳ありません」というような表情でした。ガイドは「これから先、何度か休憩しますが時刻に遅れるとそれだけトルファン観光の時間が少なくなります。時間は守りましょう。」ときつい調子で呼びかけました。何人もの人が拍手するのでなぜ拍手しているのかを妻に聞いて分かったことがこの言葉です。なかなか良いことを言うなと思いました。

 新疆ウイグル自治区の風の名所、達坂城辺りのガソリンスタンドにもトイレ休憩で立ち寄りました。ここも強い風が吹いています。灌木は一様に風下の方に枝を伸ばしています。風の強さと恒常的な風であることがうかがわれます。
 ガイドは、ターバンチェン姑娘の故事をおもしろおかしく説明しています。みんな笑いながら聞いています。妻も少しは分かるらしく笑っています。ガイドが妻に「私が話している内容が分かるのか?」と聞いています。妻が「少し分かります。」と応えると、ガイドは満足そうな顔をしていました。ターバンチェンはとても景色の良いところでした。ガイドは「トルファンには『世界で最も』が4つある。それは乾燥、低地、少雨、暑さ」と紹介していました。

 12時頃トルファン入り口の絨毯展示や土産物を売っている大きな店に着きました。
 店内では絨毯を織っています。カラフルな細い糸を縦糸と横糸にして若い女性が手織りしています。原理は私が小さい頃、どこの農家でも編んでいた「ねこぼく」編みと同じです。手間暇がかかります。きれいな模様の絨毯が織られていました。展示場には8畳敷きくらいの広さのものから足ふきマットくらいのものまで、広さや模様が違うものが数多く展示してあります。見て歩いていると店員が「日本の人ですか? 安くしておきます。これなどどうですか?」と流ちょうな日本語で話しかけます。妻も日本語で話しかけられたと言っていました。中国人に混じっての私たちを日本人と見抜いたことに感心しました。それだけ、日本人の観光客が多いのでしょう。私は買い物が目当てではなかったので外に出て、辺りの様子を見て回りました。トルファン市街のはずれのようです。日なたはとても暑くてすぐに車の陰に入りました。店内の表示では本日の最低気温は摂氏16度、最高気温は35度とありました。日なたは暑くても、湿気がないので日陰ではそんなに暑く感じません。


 13時20分の集合時刻が近づいてきました。言葉が分からない私達が中国人の一行と行動をともにするのに一番気を遣うのは集合時刻です。必ず集合時刻は何時かを聞いてバスから降り、その少し前にはバスに乗っておくようにします。それは、おいて行かれたら大変なことになるからです。特に妻は絶えず神経を使っているようです。妻が1日観光ツアーの翌日は「疲れた」と良く言いますがこのことから来ているようです。
 約束の時刻を過ぎたらガイドは人数をよく確かめもせず、バスが動き出しました。後部座席の方から大きな声が聞こえます。まだ2人乗車していないというのです。土産物店出口で10分ほど待ちました。やっと2人が乗車してきました。そのとき、ガイドは通せんぼのような格好をして笑いながら何やら言いました。車内から拍手と笑い声が上がりました。「これから先、遅れた人からいくらかもらいましょう。そしてみんなで山分けしましょう。」という意味のことを言ったらしいのです。妻も一緒に笑っていたのでガイドが妻に「私の冗談分かりますか?」と聞いてたので「少し」と応えるとガイドはうれしそうな顔をしていました。自分の冗談が日本人にも通じるのだと思ったからでしょう。

 13時半、火焰山をめざして出発しました。
 火焰山はトルファン盆地の北部にあります。東西に長さ約100km、南北に幅約10km、海抜約500mの山地です。夏の最高気温は摂氏47度以上にも達するそうです。この山には草木は生えず、鳥も降り立たないといわれています。その山肌が夏の熱い太陽に照らされて、表面の岩砂がギラギラ光り、灼熱した気流がむくむくと上昇する様はまるで激しい炎が燃え盛るようなことから「火焰山」の名がついたそうです。しかし、中腹部は地殻運動によってたくさんの谷間や峡谷が作られて、緑あふれる美しい景色が広がっています。ベゼクリク千仏洞もここにあります。
 また、火焰山は中国御伽草子西遊記の中にも登場しています。この山の燃え盛る炎により、行く手を遮られた三蔵法師の一行は、その炎を消すことができるという芭蕉の扇を手に入れる為、その持ち主の鉄扇公主と孫悟空が戦ったという物語です。ここは、日本にはないアッと息をのむような光景ばかりです。

火     焰     山

 火焔山を過ぎ、さらに奥地に入っていきます。道路は片側1車線のきれいに舗装された道路です。左カーブにさしかかったところで、バスは前をゆっくり走っている乗用車を追い越しにかかりました。前方は全く見えません。対向車が来たら正面衝突です。本当にびっくりしました。何事もなく乗用車を追い越しましたが、ガイドが運転手に何か言っていました。すると、運転手は「このくらいのこと、訳はない」というようなことを言って自分の運転技術を自慢していました。ホテルに帰って思ったことですが、一番前の座席に座っていた私たちは「このような運転は危険だ。客の命を預かっているのだから安全第一に運転して欲しい。」と運転手に強く抗議すべきだったと後悔しました。

 このとき以外は、運転手の運転ぶりは実に丁寧なものでした。高速道路では必ず車間距離をとって運転していました。前の車を追い越すときは余裕を持って早くから追い越しにかかり、前の車と並んだら必ずクラクションを鳴らし、追い越しにかかっていることを前の車に知らせていました。帰りの夜道では、追い越しにかかる前からアポロを点滅させ前方の車に知らせていました。これは運転手同士の礼儀のようなものでしょう。感心しました。
 作家、陳舜臣さんがシルクロードの魅力と題した随筆で「はじめてトルファン火焔山のなかに足を踏み入れ、ベゼクリク石窟のそばの美しい黄色の砂山が、美女の乳房のように、紺青の空に映えているのを眺めたときの感動は、今も忘れることができない。」と述べている砂山が見えてきました。

見えだした美女の乳房 美女の乳房(黄色の砂山)


 ベゼクリク千仏洞手前に最近造られたと思われる土産物売り場や仏塔などがあり、バスはそこに止まりました。 
 ガイドは、「14時30分まで見学して、あそこのレストランで昼食」と言います。
 時刻を確かめて、仏塔内を見学しました。最近造られたものではありますが描かれている仏像はすばらしいものばかり。押すな押すなの人でした。仏塔から出て、写真を撮るために少し奥まで行くと「地芸園」という看板が出ていました。数枚写真を撮って帰ろうとすると、女性が呼び止め、「ここは写真撮影料6元」と言います。「そんなことは聞いていない。」と言うと、入り口近くに小さく書いてある撮影料6元の文字を示して「ほら、ここに書いてあるでしょう。」と言います。「ここでもか」と思いましたが6元払いました。自然が作った絶景を写真に収めるのが有料だとは釈然としませんが、中国人の商魂たくましさには驚きます。

 昼食をとるレストランがどこだか分かりません。同じ観光バスの乗客らしい人を捜しましたが見つかりません。土をくりぬいて造ったようなレストランが目につきそこに行ってみると、数名が食事をしています。中に入ろうとすると、受付の女性が「どこの旅行社か? ガイドの名前は何というか?」と聞きます。旅行社の名前もガイドの名前も聞いていなかったので答えることができません。仕方なく見知った人が来るまで入り口の木製ベンチで待っていると、受付の女性が奥から私たちの男性バスガイドを連れてきました。ガイドが「奥へどうぞ」と言うので、奥のテーブルに座り中国人と一緒に食事を待ちました。中国人の旅行団に混じって観光するのはこれで3度目ですが、日本と旅行の仕組みが少し違うのでみんなについて行くのは大変です。特に妻は、場所と時刻の確認に必死です。
 レストランの店員が「食事は麺にするか?ご飯にするか?」と聞きます。私はチャ-ハン、妻はラグ麺です。ラグ麺はあまりおいしくありません。

土を掘り抜いてつくったレストラン 孫悟空像


 食事もそこそこに観光バスが待機している所を確認して、辺りをぶらぶらしました。周りは赤い土の火焰山の一部ですが、整備しすぎて13年前の自然のままの良さが失われたような感じでした。

 15時30分、高昌故城に着きました。
 最初の高昌国は匈奴が建国したのだそうです。その後、張氏高昌国、馬氏高昌国、麹氏高昌国などが続々と興りました。麹氏高昌国は、トルファンの歴史においては最も栄えた時期に当り、10代141年続いています。麹氏高昌国の王位を継いだ麹文泰(キクブンタイ)は、西の突厥を後ろ盾に、シルクロードの都市国家と衝突を繰り返しました。ここは貿易が盛んな地域で過酷な税を徴収したり、西域各国から唐に向かう使者や商人を拘束したりしました。また、インドへ仏典を求めに行く途中の玄奘三蔵を歓待しています。唐の太宗は、シルクロードの治安を守り、西域各国の統一を固めるために大軍を派遣して高昌を攻め落としました。
 高昌故城は総面積が200万㎡もあり、城壁も周囲5kmはあったと考えられております。城全体は外城、内城、宮城の3つの部分に分かれています。唐代の長安城を模したものだといわれ、外城の東南と西南には仏教寺院の遺構があり、城の中央北側には赤色の日干しレンガで造られた高台があります。
 西入口から故城内へ入ると、ロバ車を待つ観光客でごった返しています。ガイドや添乗員はロバ車の奪い合いです。平成4年に来たときは、歩いて見て回りましたが、歩いている人は誰もいません。今は歩かせないのかも知れません。
 ロバ車を待つこと数台、やっとロバ車に乗ることができました。1台に10人近く乗っています。雨が降らないため、地面の土は粉状で5~10cm程積んでいます。風が吹いたり、ロバ車が通ると濛々と土ほこりが立ちます。靴は瞬く間に真っ白になりました。
 ところどころに凹んだところがあります。そんなところを通る度にロバ車は大きく揺れます。ロバ車から落ちそうになることもありました。私たちが乗ったロバ車は、ロバの背に鞍の付け方悪く、何度もずれてきてロバは痛さのためか止まろうとします。その度に御者のウイグル人は「シェ」とか「トー」と言いながらロバを鞭打ちます。ロバがかわいそうになります。ロバは首を上下に振りながら、鼻息をはきながらただ黙々と車を引き前に進んで行きます。
 周りは、日干し煉瓦で作った城壁や建物は朽ち果てていて、広大な土地に荒涼とした風景が広がっています。遠くには火焰山が見え雄大な眺めです。10分ほどロバ車に揺られて故城中央に来ました。
 赤茶色の日干しレンガで造られた高台です。付近では彫刻が施された柱の礎石と緑色の瑠璃瓦が発見されており、麹氏王朝の王宮跡と見られているところです。ガイドが何やら説明していましたが私には何のことか分かりません。風景を目に焼き付けました。

高 昌 故 城


 帰りもロバ車で帰りました。ロバ車は1人往復20元です。昨年、ホータンのマリカワト故城ではロバ車1台が20元でした。また、市内路線バスが一律1元と比べるととても高い料金です。

 故城入り口の土産物売り場ではウイグル人が、いろいろな土産物を売っています。その中に中学生くらいの少女がいました。カメラをを向けると、「一緒にとって欲しい」と2人連れてきました。3人の少女をカメラに収め、このように写っているよとカメラで再生してみせるとうれしそうに走り去りました。バスが発車する寸前に一人の少女が走り寄ってメモをくれました。それには「新疆吐魯番市二堡郷火焰山中学初三(2)班 阿籹娵」と書いてありました。

ウイグルの少女


 17時、ブドウ園に着きました。何種類ものブドウが栽培してあるといいます。きれいなブドウ棚の下で、ブドウやスイカをごちそうになりました。マスカットのような黄緑色をしたブドウです。糖分が多いのでしょう。甘みがありとてもおいしくいただきました。別のブドウ棚の下ではウイグルの踊りを披露していました。

ブドウ棚の下での販売 ウイグルの民族舞踊 司会者

 18時、カレーズ観察園(入場料1人20元)に行きました。カレーズに関する古い資料や作業工具などが陳列してありました。野外では観光用に整備したカレーズを見ることができます。また、カレーズを保存し、有効利用を奨励した故鄧小平の文書もパネルに掲げてありました。
 カレーズとはペルシャ語で「地下水道」という意味の言葉です。天山山脈の豊富な雪解け水を、トルファン盆地まで暗渠で導引している地下水道網です。カレーズは、20~30mおきに縦坑を掘り、その縦坑を横に地下水路で繋いでいます。縦坑がある地上部には、土饅頭のような土盛りができているのでよくわかります。一つのカレーズは、長いもので20~30kmもあるそうです。縦坑のいちばん深いもので70m(山側の上流部)、下流部の浅いものでも3mぐらいはあるといいます。盆地の農場まで到達したところで地表に湧き出させる仕組みになっています。カレーズの一組がだいたい3~8kmぐらいはあり、このカレーズを全部あわせると、地下水道網の総延長は5,000kmにも達するそうです。この、カレーズのおかげでたいへんな乾燥地帯(年間降雨量16mm)でも、町や村のあちこちに小川が流れており、農業が成り立ち生活ができるのです。

カレーズ


 最後は、ウイグル人の家屋を改造した土産物店に行きました。村長のような人の家でしょう。広くてとても立派なものでした。ブドウやスイカ、ハミウリ、カリントのようなお菓子をごちそうになりました。(ごちそうと思っていたら、帰りに1人10元の入園料を取られました。)干しブドウや杏などを売っていました。日本の観光客と違い、買う人はあまりいません。味見は誰もがしていました。私も干しぶどうの味見をしましたが風味がありとてもおいしいものでした。

 トルファンを19時半に出発して、ウルムチへの帰路につきました。19時半といってもまだ明るく、トルファン市街地を車窓から見学しました。前回のトルファンは、真夏でちょうどブドウ祭りの日でした。子どもたちの鼓笛パレードなどに出会ったことを思い出しました。

 20時35分くらいから暗くなり始めました。夕日がとてもきれいです。その夕日を写真に収めようと後方座席から1人の男性が運転席横にやってきました。(行きにガイド席に座っていた男性は、トルファンで女性二人が降りたというので後方の座席に座り、ガイド席が空いていました。)
 何枚か写真を撮った後で、ガイドに再生した写真を見せながら「うまく撮れた」と話しをしています。その話しぶりは永年の友と話しをしているような親密さです。中国人のこの豊かな社交性には感心します。
 私も数枚写真を撮りました。次第に暗くなり、手が届くのではないかと思えるように低いところにカシオペア、北斗七星が鮮やかに見えます。
高速道路沿いの達坂城(ターバンチェン)パーキングエリアでトイレ休憩をしました。整備された高速道路、ところどころに設けられているパーキングエリアなど、今新疆にいるとは思えないように便利になっています。
 22時20分、観光バス発着所に帰り着きました。そこは、朝の静けさとはうって変わってお祭りではないかと思うほど人、露店、車、そしてきらびやかなネオンでにぎわっていました。ちょうど通りかかったタクシーに乗りホテルへ帰りました。ホテル周辺の夜は静かですが、市街地の夜のにぎわいにはびっくりしました。
 22時30分過ぎ、ホテルの自室で持参したインスタント食品で夕食をとっていると、高層ビルの間に茶褐色の下弦の月が上ってきました。幻想的な眺めです。
 強行軍のトルファン観光でしたが思い出に残る1日でした。

夕  陽



5日目(24日)晴

シシカバブーを焼く


 中国では飛行機に乗るためには航空券を購入するだけではなく、搭乗予約を再確認する必要があります。このことをリコンファームと言います。搭乗の72時間前までに行うようになっています。

 朝食後、リコンファームを頼もうとホテルロビーに行くと、男性旅行者2名とガイド2名が日本語で話しをしています。男性に断って、日本からついてきたという日本人女性ガイドに「航空券のリコンファームはした方がよいでしょうか?」と聞きますと、彼女は「日航系の航空会社はする必要はありませんが、南方航空だったらした方がよいでしょう。」と言います。航空券を見せると、「ここにOKとあるからしなくても良いと思います。」と言います。しかし、心配でしたのでリコンファームはしておくことにしました。私たちと女性ガイドのやりとりを聞いていた男性旅行者は、私たちが二人だけで新疆を旅行していると聞いて大変びっくりしていました。この人たちは二組の夫婦で、日本人ガイドと一緒に来て、現地ガイドを雇って旅行しているということでした。私たちからもう少し情報を聞きたそうにしていましたが、その人たちを案内する車が来たのでそこで別れました。

 26日の南方航空CZ6995便のリコンファームをホテルカウンターで妻が頼みますが、ホテルカウンターの人はこのことがよく分からない様子です。妻も一生懸命に中国語で伝えますが、相手に通じません。相手も一生懸命応えますが妻には理解できません。あいにく日本語の分かる人がカウンターにはいません。カウンターの係員が日本語の分かる人に電話をして「電話で話をしてください。」と受話器を妻に渡します。妻は電話口でリコンファームをしてくれるよう頼みますが電話の相手方はリコンファームのこと自体分かっていないようです。
 妻はリコンファームのことを中国語で何というかを部屋に帰って持参した本で調べ直して、「確認座位」とメモ用紙に書いて見せながら「チェレンゾウウェイ」とカウンター女性に言うと、直ぐに分かってくれました。ホテル内の土産物売り場の日本語が話せる曽向蓮(ソ コウレン)さんを連れてきました。事情を説明すると「分かりました。すぐそばに南方航空の会社があります。そこでリコンファームすると良いでしょう。地図を書きます。」と地図を書こうとしましたが、「後10分すれば私の用が済みます。待ってもらえますか。私が案内します。すぐそこです。」と言います。

 5~6分待つと、曽さんが「さぁ、行きましょう。」と連れて行ってくれました。ホテル前の車の通りの多い道路を「大丈夫です。私と一緒に歩きましょう。」と手を繋いで横断します。さらにもう一つの通りを横断して、南方航空の支店へ連れて行ってくれました。そして、リコンファームの手続きを頼んでくれました。中国ではこのようにとても心優しい人がいます。今年3月の北京でも若い青年がわざわざ、長安街の地下道をくぐり抜けてバス停まで案内してくれました。
 曽さんには丁重にお礼を言いました。

 ホテルに帰ると妻は、「気分がすぐれないから私は少し休む。あなたは一人でその辺りをぶらぶらしてくるといい。」と言います。昨日のトルファン観光で神経を使い疲れが残っているのでしょう。妻の体調も気になりましたが少し疲れているだけと言うので一人で街へ出ました。

 ホテル前の「新華北路」を南に下りました。ほどなく大きな交差点に出ました。東は「民主路」、西へ向かうと「西河街」です。土曜日とあって、西河街は買い物に来たと思われる人でいっぱいです。西河街を見ることにしました。若い人からお年寄りまでごった返しています。大声を張り上げての売り込みは活気があります。左手に何枚もの布を提げ、きれいな色の布を右手で高々と掲げ大声で売り込んでいます。若い人はアイスクリームを食べながら品定めをしています。ウイグルの女性が店員と値段の交渉をしています。どの顔も生き生きとしてます。

 歩道の街路樹を利用して、テントを張りスイカやハミウリを売っている人もいます。大きな包丁でスイカやウリを切って食べるばかりにして売っています。人でごった返す道路にしゃがみ込んでスイカやウリをおいしそうに食べている人がいっぱいいます。スイカやウリの皮は露店で用意しているビニル袋に捨てていますが、その他のものはすべて道路に捨てます。食べ物の包み紙、焼き芋のかわなど。朝から道路清掃する人がきれいに掃いていますが、このように次から次にチリを捨てます。中国では環境美化の精神はまだ根付いていないようです。


 西河街のはずれでは、露店食堂で朝食でしょうか。たくさんの人がおもいおもいに麺やナン、シシカバブーなどを食べています。
 歩道橋を渡って、人民公園へ行きました。入園料を取るような所はないように思えましたのでそのまま公園に入ろうとすると、後の方から呼び止める声がします。振り返ると、入園券を示して「入園料を払いなさい。」と言っています。引き返して、入園料5元払いました。入園券売り場は少し奥まった所にあり気づきませんでした。
 公園はきれいに整備され、清流が流れています。大小さまざまな木があります。公園内では、人々がのんびりと散策しています。いろんなグループの人が健康体操や合唱、踊り、楽器演奏に興じています。合唱をしている横では、詩を詠ってみせて楽譜を売っている人もいます。京劇風の踊りを踊っている人もいます。また、大きな筆でコンクリートの上で毛筆練習をしている人もいます。
 李白の「春暁」を彫った作り物もありました。「春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少(春眠暁を覚えず 処々に啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落つること知んぬ多少ぞ)」
 隅から隅まで見て歩きたいと思いましたが、時計を見ると約束の12時を過ぎていました。後ろ髪を引かれる思いで急いでホテルに帰りました。

京   劇 李白像


 妻は部屋でのんびり寝ていたかと思いきや、ホテルすぐ横の中学校の運動場で繰り広げられている団体行動の訓練を見ていたと言います。この学校では毎日、人民解放軍の兵士1人が右向け右や回れ右、縦隊や横隊の作り方、行進の仕方など団体行動の在り方を指導しています。18階の窓から運動場を見下ろすわけですから、生徒の表情など判りませんが2時間ばかりの練習で見違えるように上手になったと言います。兵士のかけ声、生徒の応対声、きびきびとした動きがよく分かります。1昨日、私が見ていたときも1時間ばかりで動きが違って見えました。
 「団体行動は軍事教練を思い出す」とか「子どもが主体的にしようと思わないのを強制的にさせるのは教育的ではない」などの理由から、最近の日本ではあまり重要視されていないようですが、30人なり、50人が心を一つにして団体として行動することができるのはとても教育的価値があるように思います。それは自己主張と自己抑制、協調の精神などを団体としても個人としてもうまく調和させないと、一体となった団体行動はできないからです。

 昼食の買い出しに光明路まで出ました。焼き芋3個(4、4元)、ブドウ500g(1元)、焼き栗500g(6元)を買いました。人民公園内では、日本でいう結婚記念の前撮りでしょうか。若い男女が結婚衣装を着て写真を撮っていました。
 昼食は、わかめご飯、ラーメン、それに焼き芋、ブドウ、焼き栗です。ホテルの部屋で食べるのも結構良いものです。

 15時過ぎ、ホテル前の西大橋バス停から「910路」で博物館へ行くため、バス停で待っているとき、女の子と初老の男性からバスの行き先を聞かれました。私には何のことか分かりません。手を横に振って「私には分かりません。」と日本語で言うと、隣の中国人に聞き直していました。私と妻が路線地図を指さしながら博物館へ行くバス路線を探していたからウルムチ住民と思ったのでしょう。私も観光客ではなく、ウルムチ住民に見られたのかと思うとまんざらでもありません。その時思ったのですが、帽子を被っているときは外国人と思われるらしく誰も声をかけてくれません。しかし、帽子を被っていないときは中国人と思われるようです。身なりもそんなに粗末なものではありませんので信用して道を尋ねてくるのでしょう。

 ふと道路に目を移すと、散水車が水を撒いて走って来ました。ちょうど道路を横断していた男性のズボン右足に水がびっしょりかかりました。男性は濡れたズボンをめくり上げて絞り「とんだ目にあったな」とでもいうような顔つきで私たちを見て笑いながら去っていきました。これが日本でのことならどうでしょうか。中国人のおおらかさを見た思いでした。バスが来たので、バスの路線名を確かめようと停留所前に出ると、バスからアイスクリームの包み紙が投げられました。これにはびっくり。「持ち帰って家で処分する」という考えはないようです。「要らなくなったものはその場で捨てる」という考えのようです。だから、道路はチリがいっぱいです。それを道路清掃する人が毎日掃き集めているのです。このような人々の生活の様子を見るのもこの旅の楽しみの一つです。ツアーではこんな光景はあまり見ることができないでしょう。

 ウイグル自治区博物館は20日にオープンしたばかりということです。真新しい建物には、まだ何の説明板も掲示してありません。あちこちで大工さんが打ち付け工事をしています。
 正面玄関を入ると明るく、広いロビーがあり、新疆ウイグル自治区の地勢模型が展示してあります。その模型を見ていると、日本語が聞こえてきます。しばらく聞いていると東北なまりがあります。盛岡から来たとのことでした。一人の男性が「俺たちが昨日行った湖はどこらあたりかな?」と言ったので私はてっきり「天地」のことだろうと思っていると、「カラクリ湖」へ行ってきたとのことでした。よく聞いてみると、1昨日カシュガル市内を観光し、昨日カラクリ湖へ行き、今朝の飛行機でウルムチに着いたというのです。かなりの強行軍のようです。一組の夫婦に「私たちも昨年、カシュガルに行きました。カラクリ湖にも行ってきました。そして南疆鉄道に約23時間乗ってウルムチまで来ました。」と言うと、南疆鉄道に興味を示し、「ぜひ南疆鉄道に乗ってみたい」と言っていました。その人たちもシルクロードに興味を持っていて、私たちが昨年も今年も旅行していると聞いてうらやましがっていました。また、「安全面は大丈夫ですか?」と気遣ってもくれました。

 1階には、少数民族の生活様式をマネキン人形に民族衣装を着せ、パオなどの住居、生活道具などを展示している展示室があります。日本語を話している案内人に「写真を撮っても良いですか?」と聞くと、「写真1枚10元です。係員に払ってください。」と言います。写真を撮りたいと思うような展示物もありましたが写真を撮ることはあきらめました。館内を見て回っていると、女性係員が私たちにそれとなくついて回ります。「あっ、そうか。写真を撮ったら10元とるつもりだな」とカメラをバッグにしまうと、ついてきた係員もいつの間にか帰って行きました。少数民族の展示物は見事なものでした。私に分かったのは、ウイグル族、回族、カザフ族、モンゴル族くらいでした。

 2階は、ミイラが展示してあります。「楼蘭の美女」も展示してあります。3800年も前の人の顔かたちがあんなにもはっきりと残っていることが不思議でなりません。

 オープンしてまだ4日目というのに、トイレはもう汚れています。少数民族コーナーはすばらしいものでしたが、その他はレプリカが多く、あまり感動はありません。日本の博物館でレプリカを見たり、写真集で見るのと同じです。平成4年に訪れたときは、薄暗い館内でしたが、本物の石器や鉄器、木製品、ミイラなどを見てとても感動しました。さらに、妻と次男が昭和62年に訪れたときに知り合いになったという学芸員のヤーリークンさんの事務机に次男の写真が飾ってあるのを見てびっくりしたことを思い出します。

新装なった新疆ウイグル自治区博物館 博物館1階正面ホール 新疆ウイグル自治区立体模型


 博物館前から小型バス「7路」に乗車しました。小型バスには車掌が乗っています。そして、大声で客を呼び込みます。乗車賃は1元です。乗車すると、車掌が乗客に座席は詰めて座るように指示します。そして私に「座りなさい」と言います。赤ちゃんを抱いた若い母親も「どうぞ」と言うようなしぐさをします。かわいい赤ちゃんでした。
 ホテルに帰ると、妻は「私はここから中学校の様子を見ている。」と言います。また、私一人で市街を散策することにしました。

 今度は、「民主路」、「中山路」、「人民路」を通って「解放南路」まで行きました。「地球の歩き方」には、「解放南路」はウイグル人の街とありました。通りはそんなににぎやかではありませんが街並みは中心街と違っています。モスクもあります。道の両側には野菜や果物の露店、羊の肉屋もあります。
 シシカバブーの香りに誘われて1本買いました。人差し指を出して「イーガ」と言いますと、「イーガ?」と聞き直します。直前には50本ほど買った人がいたので1本しか買わない人はおそらくいないのでしょう。それでも1本を丁寧に焼いてくれました。コショウをたっぷりかけぴりぴりとしておいしいものでした。1本いくら聞くことができず(私設通訳である妻はホテルにいます)10元出すと、おつりがなかったのでしょう。近くにいる老人に両替を頼んでいました。老人も替えることができなく、近くの店まで行って小銭に換えてきました。5元札1枚、1元札4枚を丁寧に数えながら9元おつりをくれました。

 いったんホテルに帰り、紅山公園に行きました。入園料は10元です。
 ほとんど起伏が無いウルムチの中央に紅山公園という岩山があります。岩山の頂上にはレンガの鎮竜塔があり、ここからは市街が一望できます。ウルムチ市のシンボルです。
 伝説によると、紅山は「天池」から飛んできた緋色の巨龍の化身といわれ、古来より人々の信仰を集め、祭事の場となっていました。清の乾隆年間にウルムチ河がたびたび洪水を起こした時、人々はこれを紅山の龍の仕業と信じ、紅山は対面のヤマリク山と繋がって、ウルムチを水浸しにしようとしていると考えました。そのため、乾隆53年(1788)に紅山とヤマリク山の頂上に「鎮龍宝塔」を建て、悪龍を鎮めようとしました。以来200年の時が流れましたが、紅山の宝塔はそのままの形で残っています。
 鎮龍宝塔の近くに、清の8代皇帝、道光帝からアヘン撲滅のため欽差大臣に任命され、アヘン販売と吸引を厳禁した「林則徐」の像が建っていました。林則徐は、アヘン戦争勃発の責任を問われ、新疆イリに左遷されたことからこの地に像が建てられたのかなと思いました。
 昨年は、天気が良く市街地や遠くボゴタ峰の雪もきれいに見ることができましたが、今日は霞んでいて天山の山々はあまり見ることはできません。


遠望楼 鎮龍宝塔 林則徐像

 19時過ぎまで公園内を見て回りホテルには、20時近くに帰りました。
 今日は、大半を一人で市街地を散策しました。



6日目(25日)

ウイグル人街
人でごったがえすウイグル人街 通り


 ウルムチ市街を自由散策できるのも今日が最後です。
 「61路」バスで、西大橋バス停から二道橋へ土産物を買いに出かけました。日曜日とあって、これまで以上のにぎわいです。土産は何にするかバザールの中を物色して歩きました。西域をおもわせるスカーフ、きらびやかなウイグル帽子、ナイフ、首飾り、敷物、絨毯、水差し、民族衣装などなどいろんなものが目につきますが、土産にと思う品はなかなか見あたりません。テナントによっては店員が展示している品を買うように勧めます。中には食事をしている店員もいます。カード遊びをしているテナントもあります。

 一つのテナントで、ホータンの玉を加工した腕輪が目につきました。これは二人の息子嫁たちへの土産にいいなと思い、いくつかをショーケースから出してもらいました。真っ白い腕輪、アイボリー色のもの、緑がかったもの、赤茶色、薄い紅色などがあります。妻が「30歳くらいの女性にはどれが似合いますか?」と聞くと、若い女性店員はアイボリー色と薄紅色を自分の腕にはめて「こんな感じです。いい品ですよ。」と妻に話します。それを買うことにしました。1つが180元で360元といいます。値引きの交渉です。計算機を出してもらって「2個買うのだから、2個で200元だったら買います。」と「200」を示しますと、「そんな無茶です。」と言わんばかりの大げさな表情で「これでどうか」と「340」を示します。私は再び「200」と示します。すると「300元にしましょう。」と言いながら包装しようとします。私はやっぱり「200(元)」を示します。それを見て店員は「それではだめ」としまおうとするので、私達も「他を探そうか。」と立ち去ろうとすると「仕方がない。200元にしましょう。」と笑顔で言います。値段の交渉成立です。きれいな箱に詰めてもらいました。昨年、カシュガルで買い物したときの値引き交渉の学習成果です。

 別の店で、ウイグルの若い女性が着ている民族衣装によく使われている柄のスカーフを2枚、値引きして60元で買いました。次男が「壁飾りにできるようなものを買ってきて」と言っていたので、壁飾りを物色しました。絨毯や敷物を売っているテナントを覗くと、いろんな柄でカラフルな色の布が展示してあります。からくさ模様に近い柄で、青みがかった色、茶褐色、深緑色の3枚買いました。これも1枚200元の品を3枚330元で買いました。

 妻は六大市場で作っていた「新疆」という文字が入った水差しが欲しいと言います。
 「609路」バスで六大市場へ行きました。水差しを見てみますが、ブリキ板で作ってある水差しですから「直ぐに壊れるかもしれない」と妻は買うのをあきらめました。

 近くで小学1年生くらいの子がアヒルを抱っこして遊んでいます。妻が子どもに話しかけると、母親が「アヒルを買うのか。1羽50元」と言ったというのです。旅行者がアヒルを買うわけがないのにと二人で大笑いしました。スイカを売っている青年は「スイカ1個 8、5元」と言っていました。横町の電気店では店の奥にテレビがかけてあり、ウイグルの子どもたちが4~5名、入り口付近に座って見ています。50年前の日本の風景を見ているような錯覚を覚えました。この六大市場ではウイグル人の生活の様子を見ることができました。

アヒルを買うのか?  露店食堂


 昼近くになったので、「61路」で一端ホテルへ帰ることにしました。ホテル近くの露店で、シシカバブー1本(1元)、肉入りマントー4個(3元)を買いました。青年男性の露店でブドウを1房買おうとしたら、3房袋に入れようとするので「ブーヤオ イーガ(不要 1个)」と言うと男性は怒ったように3房とも袋から出して「ブーマイ(売らない)」と言い、「あっちに行け」といわんばかりの態度をとります。その態度に非常に腹が立ち、「あなたのぶどうは高すぎる。」と言って立ち去りました。お客に「売らない」なんて言うのは日本では考えられません。こんなことはこれまで全く経験のないことでしたので、つい「あなたのぶどうは高すぎる」などの捨て台詞を言い残したのですが、大人げないことをしたとも思い、また、これも旅のおもしろさの一つかなとも思いました。これまで何度か買ったブドウは1元か1、5元でした。新鮮さは同じように思えましたが、値段が2倍近く違うのは夕方と昼前の違いからでしょうか。

 ホテルの部屋で昼食をとった後、再び二道橋へ買い物に行きました。西域の感じがするキーホルダーが目につきました。また、いかにも西域という感じの少しおどけた表情の人形が目につきました。2人の孫への土産にぴったりのものです。また年老いた母はこんな人形はおそらくみたことないであろうと思いましたので母へも1体買いました。締めて320元でした。妻の願いの水差しも100元で買いました。

 二道橋から新疆民街、山西巷まで歩いて散策しました。ここはウイグル人街のようです。歩道は人、人、人でいっぱいです。日曜日でもあり遠くから親子連れなどで買い物に来ているようです。大きな瀟洒な建物が見えたので道路を横断して行ってみました。建物は外観とは違って中は薄暗く、店もなく数人が行き来しているだけでしたが、建物の前の通りには、色とりどりのきれいな置物用石が所狭しと並べてありました。もちろん売り物です。1個10元くらいのものから、1個何千元もするものまで並んでいます。大きさも手のひらにのるようなものから何トンもあるだろうと思われるような大きなものまであります。ここにどうやって運んで並べ、夜はどうするのだろうかと要らぬ心配までしてしまいました。よく見ると、これまで見たこともない珍しい模様や形の石ばかりです。売っている人は漢人のようです。品定めをしている人はウイグル人が多いようでした。

演説に聴き入る人 瀟洒な建物


 そこから引き返し、洋服などを売っている通りをきょろきょろしながら歩きました。店頭には洋服などが所狭しと掛けてあります。道路は漢人とウイグル人とでごった返しています。道路上で衣服の売り買いをしています。人間マネキンとでもいいましょうか、男性が店頭に立ってコートを5枚ほど重ね着し大声で買わないかと売り込んでいます。また、女性が何枚も洋服や下着を手に提げて売り込んでいます。それらを手で触って肌触りを調べたり、色や柄を見比べたりして買っている人がたくさんいます。なにやら「アジ演説」のようなことをしているウイグル人に耳を傾けている人たちが輪になっているところもあります。

 香港系の貴金属店の開店セールでしょうか。店先では黄色や真っ青のウイグル民族衣装を着た女性ダンサーが、太鼓や笛を吹く男性のウイグル音楽に合わせて道いっぱい使って踊りを始めました。音楽の大きさと踊りの華やかさにつられて通行人が集まり、瞬く間に黒山の人だかりになりました。私達も踊りを見ていると、スカーフを被ったウイグルのおばさんが妻に「これは私達ウイグル人の踊りですよ。きれいでしょう。よく見てちょうだいね。」と言うように誇らしく語りかけていました。妻はウイグル語は分かりませんが、語り口調からそのように感じたと言います。

華麗な踊り 演奏者 ウイグルの踊りを自慢する女性


 30分ほど見て、他を見ようと移動しました。とにかく、人、人、人で人を押し分けながら歩かなくてはなりません。そんな人出の中で道路に布を敷き、洋服類を売っている人もいます。そんな人を青い制服を着た男性が「ここでものを売ってはいけません」とでも言うように追い払っています。追い払われた人は布を丸めてあわてて逃げていきます。制服の人は公安の人でしょう。胸には身分証明書のようなものをぶら下げています。無断で店を出している人を取り締まる係なのでしょう。そんな人が何人も見張っています。しかし、道路の所々で品物を広げている人がいるので見張り官とのイタチごっこのようです。道路でものを売っている人の中には親子連れもいました。
 通り全体がお祭りのようでした。

 「101路」バスでホテルに帰る途中でのことです。6年生くらいの男の子、4年生くらいの男の子、そして2年生くらいの女の子の兄妹がバスに乗ってきました。子どもたちは空いている席めがけて走るようにしてきました。私はてっきり子どもが座るものと思って見ていました。ところが後ろから3、4歳の子どもを連れた母親が来ました。子どもたちは確保した席を母親と幼児に座らせるのです。これにはびっくりしました。日本の子どももこうするでしょうか。おそらく自分が座るのではないかと思います。日本が忘れてしまっている年長者への思いが中国ではまだこうして残っているのです。このような人への優しさを家庭で教えることが大切だと思いました。

 ウルムチ最後の夕食です。レストランで食べました。レストランとロビーは壁なしで隣あっています。ホテルロビーでは毎晩、ピアノとヴァイオリンのデュエットコンサートが開かれています。軽音楽の時もあれば日本や世界の懐かしい叙情歌のメロディーが流れてくるときもあります。今夜はクラシックでした。演奏が終わって拍手すると、演奏者が私達をふり返りにっこりと微笑み返しました。
 早めに部屋に帰り、荷物の整理です。特に土産に買った水差し、人形が壊れないようにトランクに詰めねばなりません。トランクは空港で飛行機に積み込んだり下ろしたりするときは投げやることが多いのでそのショックに耐えられるようにタオルや洋服などで堅くガードして詰め込みました。
 明日が早いので、23時には床につきました


7日目(26日)

ウイグル人街


 5時45分に起きました。新疆時間、つまりウルムチの生活時刻でいうと3時45分です。もちろん外は真っ暗です。
 6時15分、朝食をとり、6時30分にはチェックアウトを済ませました。
 6時35分、ホテル玄関に待機しているタクシーをボーイが呼んでくれました。「早朝だから空港までは100元と言っているがそれでよいか」と言います。早朝だから100元も仕方なかろうと承諾して空港へ向かいました。まだ外は真っ暗ですが、街灯の明かりで掃除している人がいます。露店の準備をしている人もいます。道路は車の通りも少なくすいすいと走ることができます。高速道路を使わずに7時5分には空港に着きました。

 広い空港カウンターの5~6カ所では既に搭乗手続きをしている人がいます。大部分のカウンターにはまだ係員が来ていません。どのカウンターで搭乗手続きをしようとかと見回していると正面カウンターに係員が来たのでそこで搭乗手続きを済ませました。進行方向右側の窓側の席を頼みましたが、搭乗券をみると、通路側になっています。妻は再度係員に窓側の座席を頼みました。

 搭乗ロビーで待っていると、8時10分には飛行機への搭乗が始まりました。中国人は機内への持ち込み荷物が多く、しかも大きなものを持っています。全員が着席してしまうまでかなり時間がかかります。機内はほぼ満席です。8時50分離陸しました。離陸後まもなく右手には雪を頂く天山山脈が見えてきました。席を移動して写真を撮ろうとしたら男性客室乗務員からとがめられました。(右の窓側の席を頼んだのですが私達の席は左側でした。)

 右手の天山が見えなくなってしばらく後には左手に祁連山脈が見えてきました。ノコギリの歯のような山に万年雪が残っています。真っ白い雲が浮かんでいます。昨年のウルムチからホータンまでの感動がよみがえってきました。
 西安上空を11時頃通過するという機長の機内放送がありましたので西安上空通過を楽しみに待っていましたが、あいにく11時頃は雲ばかりで何も見えません。残念でした。

 12時48分、上海虹橋空港に着陸しました。ここは市街地の中にある空港です。ビルが林立する上空を降りました。手荷物受け取りカウンターで待つこと30分。私の荷物はなかなか出てきません。カウンターの表示を見るといくつかの飛行機の荷物を同時に配送しているようでしたが、ウルムチ土産のブドウ箱がどんどん出てきているのに私のは出てこないのです。もう15~6年前のことですが、ヨーロッパの社会教育施設の研修視察に行ったとき、和歌山県の社会教育主事のトランクが全く違う場所へ行ってしまい、彼は2日間不自由な思いをしたことを思い出しました。当時とはチェック態勢が違うとは思いますが、全く違うところに運ばれていたら大変なことになると思いながら不安と苛立ちで待ったので荷物を手にしたときは安堵しました。

 13時35分発のリムジンバスで浦東空港へ向かいました。バスの運転手の運転はとても荒っぽく大型バスにもかかわらず、前の車を急ハンドルで追い越します。最前列に座っていたので車の流れがよくわかりましたが、どの車も荒っぽい運転です。少しでも車間距離が開いていると、直ぐに割り込みます。1台でも2台でも先にと走っているようです。大型のトラックがとても多く走っています。1時間ほどの走行中に追突事故を2~3件見ました。あれだけ乱暴な運転をすれば事故が起きるのも当然だろうと思います。途中、何カ所か渋滞箇所がありましたが14時30分には浦東空港に着きました。あんなに荒っぽい運転をしていた運転手ですが、女性の荷物下ろしをさっと手伝います。それも自然な形で。

 搭乗手続きのためカウンター1番前に並んでいると、横にいた若い中国人男女が何やら質問してきます。妻は質問の内容が分からず「分からない」と言うと、困ったような顔をして、別のカウンターへ行きました。私たちを中国人と思ったようです。この若者たちは福岡まで一緒でした。
 15時、昼食をとりました。空港内ではあちこちから日本語が聞こえてきます。
 出国手続きを済ませ、搭乗ロビーに16時頃入りました。17時50分機内への搭乗案内があり18時過ぎにはほぼ全員が乗り終えました。機内には日本人乗客がかなりいます。日本人客室乗務員も乗っています。上海~福岡間、およそ960kmを約1時間20分のフライトです。

 今回も妻のおかげで楽しい旅行ができました。
 路線バスでの市内探訪でしたので日本では忘れられていることをたくさん体験することができました。妻に感謝しつつ、福岡到着を待ちました。

 20時40分、福岡空港に着陸。

 我が家には、23時少し前につきました。久しぶりに畳に座ると疲れがどっと出ましたが、楽しかった光景が次から次へと思い出されます。来年もまた中国への旅をしたいと思っています。
 三国志ゆかりの地を探訪するのもいいなと思っています。









諸費用

  福岡~上海    往復航空券    114,000円(2人分)
  上海~ウルムチ 往復航空券     156,400円(2人分)
  空港税                    11,110円
  旅行傷害保険              13,490円
  ホテル代                  48,000円(6泊分)
  現地ガイド                  5,000円
  ウルムチ滞在費
     トルファン・天地観光を含む  約28,000円(1,990元)
  土産代金                約15,600円(1,110元)

合計                     391,600円