人権尊重の精神がみなぎる学校
人権教育フォーラム in 宇城
美里町文化交流センターひびき

レジュメ
                       人権尊重の精神がみなぎる学校

1 はじめに
  名前に込められた親のおもいを大切にしましょう。
  学級開き時から、「人を大切にすること」の大切さを感化し続けましょう。

2 今こそ命のぬくもりを伝える教育を 
  ○後を絶たないいじめによる自殺
  ○3.11東日本大震災のできごと
  ○父の死

3 人権教育の目標 〜人権教育指導法の在り方について第3次答申から〜
  (資料1)「人権教育を通じて育てたい資質・能力」
  「自分の大切さとともに他の人の大切さを認めること」ができ、様々な場面や状況下で具体的な 態度や行動に現れるとともに、人権が 尊重される社会づくりに向けた行動につながるようにする。
 
4 人権教育成立の基盤(人権尊重の精神がみなぎっている家庭・学校・地域)
(1)人権教育の視点
  ○「自分の大切さとともに他の人の大切さを認めること」ができる力を培いましょう。
   ・他の人の考えや気持ちなどがわかるような想像力、共感的に受け止め理解する力
   ※「傷つけられた人」や「きつい思いをしている人」の心の痛みを想像する力
  (資料2)「太陽の子を読んで」中学生の感想文
   ・自分の考えや気持ちを適切に表現し、伝え合い、わかり合うためのコミュニケーション力
   ・人権を擁護しようとする意欲や態度を実際の行為に結びつける実践力
  (資料3)新聞投稿文「人権感覚持つ子ら育てたい」
(2)人権感覚をはぐくむ
  ○人権感覚とは 
   人権感覚とは、具体的な場面に遭遇したとき、とっさに迷うことなく人間として当然あるべきあり方を行動として示すことのできる感性  を指しています。それは、そうせずにはいられない直感的情動に基づく行動であり、正義感と言っても理屈の上ではなく、ごく自然に湧き 上がってくる感性の行動化にほかなりません。桑原 律「心しなかやか『人権感覚』」より
 (資料4)「人権感覚」ってなんですか

5 他者の痛みや感情を共感的に受容できるための想像力や感性の育成
(1)物事を正しく学び、正しく理解し、相手の立場に立って判断し、実行に移しましょう。
  ○「みんなが言うから」で判断することはありませんか。
  ○マイナスイメージで見たり考えたりすることはありませんか。
(2)情動体験を通して心を育てましょう。
  ○「一冊のノート」から
 (資料5)「一冊のノート」
  ○「苦海浄土」から
 (資料6)「水俣病の体験から」
(3)生活体験や社会体験を豊かにして心を育てましょう。
 (資料7)新聞投稿文「子どもたちに生命の尊厳を」

6 自尊感情をはぐくみましょう
  ○自尊感情を支える4つの感覚とそれを育む環境を作りましょう。
   ※ 誰かが見守ってくれている、誰かが寄り添ってくれているという肯定的な「まなざし」を実感できる家庭・学校・地域
  ・包み込まれ感覚
    自分の身近にいる人が自分を温かく包み込んでくれているとか、自分を愛してくれているなど、だれかが自分の気持ちをわかってく  れているという気持ち
   ・社交性感覚
    友だちが言ったことは自分はよくわかる、自分の言ったことは友だちがよくわかってくれる、という友だちとの心の通じ合いができて  いるという気持ち
   ・勤勉性感覚(自己効力感)
    何かをやりはじめたら最後までやり通すのだという気持ち
    自信
   ・自己受容感覚
    自分が好きだとか、自分の性格が好きという気持ち
 (資料8)新聞投稿文「子どもを褒めて自己実現増幅」

7 おわりに 恕の精神  
 (資料9)第63回人権週間のテーマ
    論語 衛霊公第十五412
     子貢問うて日く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。
     子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。

        
皆さん、おはようございます。
 ただいまご紹介いただきました中川です。よろしくお願いします。
 少し自己紹介をします。ただいま「なかがわありとし」さんとご紹介いただきました。「有紀」と書いて「ありとし」と読むのですが、「ありとし」と読んでいただく方はいません。「ゆき」または「ゆうき」と読まれます。
 昨年、荒尾市の人権・同和教育推進協議会主催の講演会では、副会長さんが「講演会のチラシを見て、『今年の講師は女性の方ばいな』と思って来ました。男性の方とは思いませんでした。」とおっしゃいました。先日は、フィギアグランプリ中国杯の後で、○○有紀さんという女性の方がNHKテレビで、浅田真央さんの練習の様子を紹介していました。このように女性と間違われる名前ですが、私は自分の名前が大好きです。こんなすばらしい名前を付けてくれた父を敬愛しています。「有」という文字は、上に「保」という文字を付けると「保有する」と言う熟語ができます。このことから「有」は「保つ」という意味があります。父の名前は「有」一字で「たもつ」でした。「紀」は「21世紀」の「紀」で、「年」という意味があります。そこで、「紀(年)を重ねて年相応の分別ができるような人間になれ」との願いを込めて父が付けてくれた名前です。父の願いに沿うようにと努力はしていますが、なかなか年相応の人間にはなれません。生涯、学習だと思っています。
 69歳になりましたが、今でも小学校や中学校時代の幼なじみからは「ありちゃん」とよばれています。私は「ありちゃん」と呼ばれることを嬉しく思っています。
 大好きな名前ですが、私は小さい頃、上級生などから、「おっ、アリの来よる。アリば踏みつぶそう」と足で踏みつぶす仕草をしてからかわれたりいじめられることがありました。そんなとき、「俺はアリじゃなか。ありとし」と言って体当たりでぶつかっていました。
 わたしの小さい頃のように、名前でからかわれたり、意地悪されたりして悔しい思い、悲しい思いをしている子がいるかもしれません。
 先生方、そんなとき、みんなの前でその子の名前に込めた親御さんの思いを語って下さい。名前に込められた親御さんの願いや思いを知ったら、からかったり意地悪したりすることの愚かさにきっと気づくと思います。
 保護者の皆さん、お子さんが低学年であれば、背中に手を回して膝の上に抱っこして、目を見つめ、赤ちゃん誕生時の感動を思い起こしながら、名前に込めた親の思いを、誕生日でや進級・進学の時など節目節目に語ってやってください。背中に手を回してということには意味があります。背中に手を回して抱っこすると、子どもは包み込まれ感を実感します。親の愛情を実感します。後でも触れますが、これが自尊感情を高めます。
 高学年や中学生のお子さんは、手を取り目を見つめ親の思いを語ってください。お子さんはきっと親の愛情を実感し、自分の名前を好きになり、誇りに思うことでしょう。
 先生方にお願いです。事前に子どもの名前にかける親の思いを聞いておいて、学級開きの時、子どもが自己紹介をした後で「中川有紀とは、大きくなって年相応の人間になるようにとの親さんの思いから名付けられたそうだね」などと紹介してください。子どもはそのことで「先生は私を大切に思ってくれている」と実感するはずです。このことを通して、自分たちの先生は一人一人を大切にしてくれる先生だと思うはずです。「人を大切にすること」を学級開きの時から感化し続けてください。
 感化とは、薫陶とも言いますね。背中の教育とも言います。日頃の先生の言動から人を大切にすることを感化し続け、命の尊さや人のすばらしさに感動したとき、感化と感動が相まって感性をさらに豊かにすると思います。これが人権感覚をシャープにする源と私は思います。
 親の語り、先生の感化によって、きっと子ども達は自分の名前をこれまで以上に好きになり、誇りに思うでしょう。自分の名前を好きになり誇りに思うことは、自分自身を好きになり誇りを持つことにつながります。これが自尊感情を育み、自分も周りの人も好きになることができる人に育つと思います。私はこのことが人権教育の礎であり、スタートだと思っています
 いきなりですが、レジュメの空いているところにコップの絵を描いてみてください。
 皆さんとてもすばらしいコップの絵を描いていらっしゃいます。どなたかこのホワイトボードに描いてもらえませんか?(2人に描いてもらう)
 ○○さん、△△さん、とてもすばらしい絵を描いていただきました。ありがとうございました。
 皆さんにお尋ねします。
 △△さんのコップ(水飲みコップ)に近い方? (大多数)
 ○○さんの絵(握りての着いた湯飲み)にちかいコップを描いた方? (約40〜50名程度)
 お二人のコップとは違うコップを描かれた方?(1人挙手)
 描いてもらえますか?
 ◇◇さん、ありがとうございました。
 ◇◇さんのコップ(左右に握り手があるコップ)に近い方(数人)
 私は講演会で、コップの絵を描いてもらっています。中には、ビールを飲むジョッキに似たコップを描く人もいます。コーヒーカップに似たコップを描く人もいます。
 皆さん、ちょっと考えて下さい。私は皆さんに「コップの絵を描きましょう。」と言いました。「コーヒーカップを描きましょう。」とも「水を飲むときのコップを描きましょう。」とも「言いませんでした。でも、皆さんが描いたコップには3種類がありました。
 どうしてこんなことが起きるのでしょう?
同じことを聞いても、受け止め方が人によって違うことがあるということですね。ですから、話をするときは丁寧に話をすることですね。また、形は違ってもみなコップですね。違いを認め共に生きていく人権尊重の精神にも通じるものです。
 この3つのコップの絵を見て下さい。3つの絵に共通するものがあります。何だと思いますか?(握り手がついている)の反応あり。握り手もついていますがまだほかにもあります。
 3つに共通するのは、どれも上を向いていることです。3人とも上向きのコップを描かれました。会場の皆さんの中に下向きのコップの方はいらっしゃいますか?(返答なし)
 皆さん上向きのコップですね。コップが上を向いているということは、飲み物を注げば貯まります。私たちの周りにはたくさんの情報があります。しかし、聞こうとする気持ちがなかったらいくら情報があってもコップにはたまりません。素通りしてしまいます。聞こうとする気持ちがない人の心のコップは、伏せられているのです。いくら情報があっても、すばらしい話に出会っても何も溜まっていきません。もったいないことですね。
 今、皆さんは私を見つめ、一生懸命聴いていらっしゃいます。心のコップが上を向いていると思います。このことは子どもたちに是非伝えて欲しいと思います。
 今、いじめを苦にした中高校生の自殺が後を絶ちません。大きな社会問題となっています。
 将来大きな花が開くであろう可能性を持った子どもが、いじめにより 我が命を我が手で殺めなければならなかった心情を推しはかると何とも痛ましく、思いとどまるすべはなかったのかとやるせない気持ちになるのは私一人ではないと思います。
 こんな事は絶対起こしてはならないことです。しかし、現実には今、この問題が大きな社会問題となっています。熊本県でも起きていました。だからこそ、子ども達に命の教育をしっかりと根付かせることが大切だと思います。命のぬくもりを伝える教育は喫緊の課題であると思います。 
 私の父は、21年前になくなりました。父は生前、「我が家で死を迎えたい」と言っていました。父は我が家で、家族や親族が見守る中、眠るがごとく息をひきとりました。息をひきとるまで、母は、両手で父の手をしっかり握りしめ、父を見つめ、何かを語りかけていました。叔父・叔母達は「たもっちゃん、たもっちゃん」と父の名前を呼び続けました。私たち子は「父ちゃん、父ちゃん」と、孫たちは「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼び続けました。次第に冷たくなる父の手や足をみんなで必死でさすりましたが、父は眠るが如く逝ってしまいました。みんなは泣きながら父の体を抱きしめました。私は、「父ちゃん、これまでありがとう。これからも俺たちを見守っていてはいよ」と父に語りかけました。
 ノンフィクション作家柳田邦夫さんは自著「壊れる日本人」で、次のように述べています。


 死を目前にしている患者が入っている病室に、心拍数、心臓の鼓動の波形などを示すモニターを病室に設置しているところが多い。病室に詰めている家族の目は、どうしてもモニターに向かう。患者の枕元で手を握り、顔を見つめて、別れの言葉をかけるという別れの行為を誰もが忘れていることに誰も気付かない。医者から「ご臨終です」と言われて家族は死者の顔を見ることになる。

 私は、人の誕生や死に立ち会い、心が揺り動かされる中で「生きる」を考えたいと思います。心が揺り動かされる体験が豊かな心を育むこと確信しています。今の子どもたちには、心が揺り動かされる体験を数多くさせたいものです。
 放課後子どもプラン推進事業研修会で、文科省地域・学校支援推進室係長、長田徹さんの話を聞きました。長田さんは、3月まで宮城県仙台市教育委員会の指導主事だったそうです。講演で、震災時のたくさんの写真を見せられました。仙台市では、津波の時の避難場所として校舎はほとんどが3階建てということです。その3階の教室に車が押し流されていました。卒業式後のお別れ会のプログラムが残っている黒板は、波で汚されていました。それらの写真を見せながら3.11大震災のことを話されました。その中のいくつかを紹介します。
 想定を遙かに超えた大津波は3階の教室まで押し寄せたそうです。校舎屋上に避難している6年生の子たちがとった行動です。
 学校そばの電柱につかまっていた男性を発見して、みんなでじゃんけんを始めたそうです。男性に声をかける順番を決めじゃんけんだったのです。
 「おじさーん、眠らないで−」「おじさーん、がんばってー」「おじさーん、もうすぐ夜が明けるよー」など、思い思いに一晩中声をかけ続けたそうです。
 夜が明け、津波が引き、助かった男性は「いつ波にさらわれるかの恐怖、寒さ、そして睡魔に襲われ、何度も電柱から手を離しそうになった。そのたびに子ども達の励ましの声が聞こえ、がんばることができた。今生きているのは一晩中声を掛け続けてくれた子どもたちのおかげ。」と話したそうです。
 別の学校の校長先生が取られた行動です。津波でヘドロの海水に頭までつかっていた校長先生は、子ども達の安否が分かるまでは死ねないとの思いから、引き波の時に背伸びして息をし、押し波で頭までつかり、また引き波で息をして押し波で海水に沈む、この行動を3時間続けたということです。そして津波が引いた後で、子どもや先生方の無事を確認されたそうです。大多数の子ども達は自主的に津波から逃れていたそうです。津波の恐怖と必死で戦いながら子どもの安否を心配する校長先生の気持ちが痛いほど伝わってきました。
 我が家が流されているのを屋上から見ていた子どもの話です。
 家が流されているのをじっと見つめているだけ。中には、流される窓に人影が見えることもあったそうです。家族の一人だったかもしれません。ただ呆然と見ているだけで何もできなくて、悔しくて悔しくて。悲しみと無力感でいっぱいだったと泣きじゃくりながら言っていたそうです。そんな子ども達が、「あんなときにこそ何かができる人になりたい。そんな人になるために勉強をがんばる」と今勉強をがんばっているそうです。また、「自分は生かされている。母が見ている。だからがんばる」と震災から必死に立ち直っているそうです。
 いじめ問題について考えます。
 私が勤めていた小学校の登校班の中でいじめが起きました。1年生から6年生までの登校班で登校していました。その地区は、学校まで5kmくらいの山間地です。朝の6時40分頃家を出てます。冬場はまだ暗く、空に明けの明星が光り輝いています。子どもの足で1時間以上要する道を1年から6年生までが一緒に歩いて登校するのです。体の大きさが違います。歩幅も違います。歩くスピードも違います。1年生のスピードに合わせると遅刻します。それで、初めは高学年の子が1年生に対して「急げ!」などの声かけだったようですが、背中を押したり、ランドセルのひもをつかんで引っ張ったりしている内に、段々エスカレートして足を蹴ったりしたようです。
 このことをおじいさんから学校に訴えがあり、担任はじめ地区担当が事実を聞き取り指導していたのですが、解決には少し時間がかかりました。おじいさんは週に1度くらい学校に来ては、私にいろいろ話をされました。私は話を聞いたあと、「お孫さんは、学校では元気に過ごしていますよ。」と言い、教室へ案内し、勉強ぶりや掲示してある作品を見てもらっていました。孫の元気な姿や掲示物を見て安心して帰っておられました。
 2学期の終業式の夜、地区の公民館で、いじめられた子の祖父母、保護者、地区の保護者、区長、公民館の役員の方々が集まり、このいじめ問題について話し合いました。2時間ばかり過ぎたとき、高学年の子の父親がおじいさんの前に出て、手をついて謝ろうとしました。そのときです。おじいさんは「あんたは何ばしよっと!謝らんちゃよか!こんいじめは誰が悪かつでんなか。わしの孫に『いじめんで』といじめを跳ね返す力が身についていなかったこと。いじめた子に『弱い者をいじめるのは愚かなことだ』ということに気づく力が身についていなかったこと。周りの子に『弱い者をいじめることは恥ずかしいことだ』といじめをやめさせる力が身についていなかったこと。この3つの力がなかったけんいじめが起きた。わしや孫のようにきつか思いをする者がこの地区から出らんごつ、皆で子ども達に3つの力をつけさせようじゃなかな。」と言われました。
 この3つの力は、いじめ根絶の力でもあり、差別解消の力です。
 「すべての子どもにこの3つの力を付けさせることが人権学習の目標である」と職員で確認し合いました。
 今朝(平成24年11月6日)7時のNHKニュース番組でいじめをなくす取り組みの紹介があっていました。その中で、ある大学の先生がいじめをなくすには「すべての子に、感性、自信、社会性、コミュニケーション力を身につけさせることだ」と提唱しておられました。
 本日は、人権教育研修の場ですからいろんな人権課題について触れなければならないところですが、皆さんは人権課題についての研修を積み重ねておられます。本日は人権尊重の精神を育むことに焦点を絞って考えてみたいと思います。
 私は、先生方が人権教育の教材研究を深め、すばらしい教材・教具を駆使し、指導力を発揮して人権教育を熱心に推し進められても、学級や学校内に「人権尊重の精神」がみなぎっていなければ人権教育は子ども達の心には届かないと思います。上滑りをすると思います。
 資料に付けています「人権感覚持つ子ら育てたい」を見てください。
 孫娘は、未熟児で生まれ、元気に育つだろうかと心配しましたが、本人の強い生命力、両親の深い愛情、そして病院の先生方の心温まる看護で元気に育ちました。しかし、同学年の子より体格的にも運動能力的にも下回っています。その孫が4年生の時のことです。


 小学4年生の孫娘に電話すると、いつものような元気がない。訳を聞くと、「明日体育の授業でリレーがある。去年、リレーの時、私が走るのが遅いので私の組はビリだった。みんなからとても嫌なことを言われた。明日、またリレーがある。嫌だな」と言う。妻は、「リレーであなたの走りが遅くて負けたのなら、みんなにごめんなさいと言いなさい。それでも、みんなが文句を言うなら先生に相談しなさい。泣いたり怒ったりしては駄目」とアドバイスした。孫娘は、「分かった」と言った。周りから「おまえのせいで負けた」と責められると、「自分はダメな人間」と思いこみ、自信喪失になる。不登校や引きこもりになりかねない。
 孫の憂鬱は、人権感覚を育てることに直結する問題だと思う。人は自分の短所や欠点を他人に話すことには抵抗がある。しかし、自分のことを理解してもらうには自分のありのままの姿をきちんと話さなければならない。このような時、所属する集団に、互いの違いを認め、共に生きる感性や人権感覚が育っていれば素直に話すことができる。子どもの生活場面に起きる具体的な事例をもとに、豊かな人権感覚を持った子ども達をはぐくんでいただきたいと願う。

 学級や学校に互いの違いを認め、共に生きる感性や人権感覚が育っていることが人権教育推進の基底に座っていなければならないと思っています。
 人権教育の指導方法等に関する調査研究会議は、「自分の大切さとともに他の人の大切さを認めることができ、様々な場面や状況下で具体的な態度や行動に現れるとともに、人権が尊重される社会づくりに向けた行動につながるようにする」には、人権に関する知的理解を図るとともに人権感覚を醸成することで、自分の人権を守り、他の人権を守ろうとする意識・意欲・態度が培われ、自分の人権を知り、他者の人権を守るための実践行動につながると説いています。
 私はこの人権感覚が、人権教育成立の基盤であると思っています。
 人権感覚について桑原律さんは次のように述べています。
 人権感覚とは、具体的な場面に遭遇したとき、とっさに迷うことなく人間として当然あるべきあり方を行動として示すことのできる感性を指しています。それは、そうせずにはいられない直感的情動に基づく行動であり、正義感と言っても理屈の上ではなく、ごく自然に湧き上がってくる感性の行動化にほかなりません。(桑原 律「心しなかやか『人権感覚』」より)と。
 また、桑原律さんは、「人権感覚って何ですか」という詩を綴っています。資料につけています。一緒に読んでみましょう。


    「人権感覚」って何ですか   桑原 律
 「人権感覚」って何ですか  
 それは ケガをして   
 苦しんでいる人があれば
 そのまますどおりしないで 「だいじょうぶですか」と 助け励ます心のこと

 「人権感覚」って何ですか
 それは 悲しみに
 うち沈んでいる人があれば
 見て見ぬふりをしないで 「いっしょに考えましょう」と 共に語らう心のこと

 「人権感覚」って何ですか
  それは 偏見と差別に
 思い悩んでいる人があれば
 わが事のように感じて 「そんなことは許せない」と 自ら進んで行動すること

 「人権感覚」って何ですか
 それは すどおりしない心
 見て見ぬふりをしない心
 他者の苦悩をわが苦悩として 人権尊重のために行動する心のこと
            (ヒューマンシンフォニー 光は風の中により)

 この人権感覚を培うことは、人権教育の目標の一つでもあります。
 私は、人権感覚を育むとは、他の人の考えや気持ちなどがわかるような想像力、共感的に受け止め理解する力を育むことだと思っています。言い換えれば、「傷つけられた人」や「きつい思いをしている人」の心の痛みを想像する力を育むことです。、この心の痛みを想像する力が不足しているように思えてなりません。「傷つけられた人」や「きつい思いをしている人」の心の痛みを想像することができる人は、人を差別したりいじめたりはしないと思います。この心の痛みを想像する力を子どもたちに育んでいきたいと思います。
 灰谷健次郎さんの「太陽の子」に、こういう台詞がでてきます。
「人間いうたらどんなときでもひとりぼっちやとおもとったけど、そやなかった。たしかに人間はひとりぼっちやけど、『ちむぐりさ(肝苦りさ)』の心さえ失わへんかったら、ひとりぼっちの人間でもたくさんの人たちと温こうに生きていけるということがわかったんや。てだのふあ・おきなわ亭にきて、そのことがようわかったんや。」
 「ちむぐりさ」とは、沖縄の言葉を理解できていない私が説明できるような言葉ではないのですが、簡単にいうと、人の痛みを自分のものとして胸を痛めることだそうです。
 このことを中学生が感想文に記しています。
 長い文ですので、前半と後半は割愛します。後で是非読んでください。


                  「太陽の子」を読んで              中学2年 Y・E

 (冒頭略)

 沖縄では、「かわいそう」とは言わず、「肝苦りさ(胸が痛む)」、と言うそうだ。その人がどのような状況に置かれているのか、どのような感情なのか……。背景を知らなくても、「かわいそうね。」と人は言う。何故言うのだろうか。おそらく情け深い人の「ふり」をしているのだろう。相手の表面しか知らないのに、言っている本人は、相手を理解して同情したつもりなのかもしれない。しかしそれは本当の「情け」なのだろうか?言うだけなら、誰にでも言えるのではないだろうか。
 沖縄の人達は、あのむごい第二次世界大戦を目の前で、嫌というほど見てきている。殺すということ。殺されるということ。敵に対する恐怖。家族を失う悲しみ。一人で生きていかなければいけないという将来への不安。孤独との戦いー。これらは経験したことのない者にとっては憶測でしか考えられない。
 「おそらく沖縄の人々は本当に痛い、ということがどれだけ痛いか、苦しい、ということがどれほど苦しくなることなのか、辛い、ということがどれほど耐え難い辛さなのかを知っている。そして残酷さも知っているのだろう。」
 知っているからこそ、その人を深く知らずに「かわいそう」などと軽々と口には出せないのだと思う。相手を知り尽くした上で今、置かれている境遇を理解し苦しみを推し測る。そこで初めて出てくる言葉が「肝苦りさ」なのだろう。私が沖縄に感じる奥深さの一つに、このことが関係しているのではないかと思う。
 (以下略)

 また、自分の考えや気持ちを適切に表現し、伝え合い、わかり合うためのコミュニケーション力、人権を擁護しようとする実践力を養うことが求められています。
 知的理解については、物事を正しく学び、正しく理解し、相手の立場に立って判断し、実行に移す力を養うことが大切だと思います。
 私たちは、「みんなが言うから」で判断することがあるように思います。また、マイナスイメージで見たり考えたりすることがあるように思えてなりません。
 平成22年6月、中央アジアの国、ウズベキスタンを旅行しました。ウズベキスタンは、緑あり、砂漠あり、歴史遺産あり、暮らしている人々の優しさありとそれは素晴らしい国でした。ところがこの旅行に参加する前にいろいろありました。
 はからずも、マリカさんという日本語ガイドさんが私たちにこう尋ねました。
 「みなさんの中で、ウズベキスタンに行くと言ったら『あんな危ない国には行かない方がいいよ』と言われた人はいませんか?ウズベキスタンにやってきてどうですか?危険な国と思いますか?」 実は、私は知人から「あんな危ない国には行かない方がよかバイ」と言われていたのです。知人どころか私自身が「ウズベキスタン 青の都サマルカンドを旅するツアーに参加しよう」という妻に「危険地域だからウズベキスタン旅行は止めよう」と言っていたのです。ウズベキスタンの隣国はアフガニスタンです。外務省が出している外国の治安情報ではアフガニスタンの国境周辺は「渡航の是非を検討して下さい」です。それ以外も「十分注意して下さい」です。でも、妻はどうしても行きたいと言います。それで、治安について旅行会社に問い合わせました。「治安が心配されるような所には行きませんから問題ありません」という返事です。外務省にも問い合わせました。外務省からは、「個人旅行する人も含めて治安情報を出しています。旅行会社のツアーだったら心配ないでしょう」とのことでした。
 行ってびっくりでした。私たちが訪問した、タシュケント、ブハラ、サマルカンドの都市は穏やかで人々はとても明るく治安の心配などみじんもないところでした。ある一つの情報をそのまま信じて「○○は○○だ」と思い込むことのおかしさを実感しました。
 また、マリカさんはウズベキスタンの大学で日本語を学び、法政大学に留学して日本語を学んだということでした。日本の旅行も楽しんだということでした。京都が印象に残っていると話しました。金閣寺や銀閣寺はとてもきれいだったが、最も心を動かされたのは竜安寺の石庭だった。竜安寺の石庭を見つめていると、心が癒されたと言いました。この竜安寺の石庭を造ったのは、被差別部落の人だと言われています。室町時代、能を創りあげた観阿弥、世阿弥も被差別部落の人だと言われています。また、江戸時代、前野良沢、杉田玄白と日本で最初の解剖をした人も被差別部落の人だと言われています。被差別部落の人々が日本文化や産業の発達に貢献した功績は大きいのです。プラス面に視点を当てて観ると、ものの見方が変わってくると思います。
 私は、心を揺り動かされる体験のことを情動体験といっています。この情動体験を通して心を育てて行きましょう。
 資料に中学生向け、文部省道徳教育推進指導資料集第4集「一冊のノート」を付けています。長い文ですが、読んでみてください。時間をゆっくりとることができません。斜め読みでお願いします。精読は帰られてからお願いします。また、家族にも是非読ませていただきたいと思います。
 では、どうぞ。(各自読む)
 まだ、終わりまで読み終わっていない方もいらっしゃると思いますが、終わりの部分を読んでみます。


 (前文略)

 それから1週間あまりすぎたある日。捜しものをしていたぼくは引き出しの中の一冊の手あかに汚れたノートを見つけた。何だろうと開けてみると・・・
 それは、祖母が少しふるえた筆致で、日ごろ感じたことなどを日記風に書き綴ったものであった。見てはいけないと思いながら、つい引き込まれてしまった。最初のページは、物忘れが目立ち始めた2年程前の日付になっていた。そこには、自分でも記憶がどうにもならないもどかしさや、これから先どうなるのかという不安などが、切々と書き込まれていた。普段の活動的な姿からは想像できないものであった。しかし、そのような苦悩の中にも、家族と共に幸せな日々を過ごせることへの感謝の気持ちが行間にあふれていた。
 「おむつを取り替えていた孫が、今では立派な中学生になりました。孫が成長した分だけ、私は歳をとりました。記憶もだんだん弱くなってしまい、今朝も孫に叱られてしまいました。自分では気付いていないけれど、ほかにも迷惑をかけているのだろうか。自分では一生懸命やっているつもりなのに・・・・あと10年、いや、せめてあと5年、なんとか孫たちの面倒をみなければ。まだまだ老け込む訳にはいかないぞ。しっかりしろ。しっかりしろ。ばあさんや。」
 それから先は、ペ−ジを繰るごとに少しずつ字が乱れてきて、判読もできなくなってしまった。最後の空白のページに、ぽつんとにじんだインクのあとを見たとき、ぼくはもういたたまれなくなって、外に出た。
 庭の片隅でかがみ込んで草取りをしている祖母の姿が目に入った。夕焼けの光の中で、祖母の背中は幾分小さくなったように見えた。ぼくはだまって祖母と並んで草取りを始めた。
 「おばあちゃん、きれいになったね。」
 祖母は、にっこりとうなずいた。

 私はこの文を読むたびにこみあげてくるものがあり、声がつまってしまいます。お聞き苦しかったことと思います。
 この資料を使った道徳の授業を参観した人の話です。


 一人の男子生徒が、読み終わると泣いていました。ワークシートの半紙の上に涙がぼろぼろ落ちました。それを必死で袖でぬぐっている様子を見た私も涙が止まらなくなりました。隣の女子生徒の目にも涙がいっぱい浮かんでいました。結局この子は、ワークシートには何も書くことはできませんでした。先生はこの子をどう評価するのだろうと、担任の先生に尋ねると、先生は「ここに涙のあとがあります。何かを書いたのより彼の気持ちが分かります」とおっしゃいました。

と。
 これが人権感覚だと思います。
 水俣病を題材とした石牟礼道子さんの「苦海浄土」を読んだ方がいらっしゃると思います。石牟礼さんは長年にわたって水俣病患者さんと交わり支援したことをこの本に表しています。この本の中には、胎児性水俣病患者さんのことがたくさん書いてあります。その中で、江津野杢太郎さんのことを書いた箇所があります。杢太郎さんのおじいさんが石牟礼さんに語りかける場面です。


 杢は、こやつぁ、ものをいいきらんばってん、ひと一倍、魂の深か子でござす。耳だけが助かってほげとります。何でもききわけますと。ききわけはでくるが、自分が語るちゅうこたできまっせん。生活保護いただくちゅうても、足らん分はやっぱり沖に出らにゃならん。わしもこれの父も半人前もなかもん同士舟仕立てて、いいふくめて出る。杢のやつに、留守番させときます。すると時間のたつうちにゃ、ぐっしょり、しかぶっとりますわい。
 しかぶっとるか、しとらんか、顔みりゃすぐわかる。じゅつなか顔しとります。気の毒しゃして。気いつこうて。肉親にでも気いつかうとですけん。冬でのうてもぐっしょり濡れて、寒さに青うなっとる。
 このじじばなが死ねば誰がしてくるるか。親兄弟にでも、人間尻替えて貰うとは赤子のときか、死ぬときか。兄貴も弟も、やがては嫁御を持たにゃならん。そんときこれが、邪魔になりゃせんじゃろか。そんときまで、どげん生きとれちゅうても、わしどま生きられん。
 ほら、わしがこの目、このように濁っとります。もう大分かすみのかけて見えまっせんと。この目ば一生懸命ひっぱってあけて、この前のごつお迎えのバスの来れば、ああいう風に、病院にも、背負うて連れて行きます。からえば、腰の曲がってちぢんどるわしよりか杢の方が、やせてはおるが足の長うなって、ぞろびくごてござすとばい、もう数え年は十でござすけん。
 わしも長か命じゃござっせん。長か命じゃなかが、わが命惜しむわけじゃなかが、杢がためにゃ生きとろうござす。いんね、でくればあねさん、罰かぶった話じゃあるが、じじばばより先に、杢の方に、はようお迎えの来てくれらしたほうが、ありがたかとでございます。寿命ちゅうもんは、はじめから持ってうまれるそうげなばってん、この子ば葬ってから、ひとつの穴にわしどもが後から入って、抱いてやろうごたるとばい。そげんじゃろうがな、あねさん。

 あねさんとは、おじいさんが石牟礼さんに語りかける言葉です。
 おじいさんも息子さんも、そしてお孫さんも水俣病にかかっていても、それを受け入れ、必死に生きていこうとする水俣の人々の生きる強さ、優しさがひしひしと伝わってきます。
 亡くなられましたが、水俣病語り部をしておられた杉本英子さんはお父さんの言葉として「のさりばい。誰もうらんではいけんとばい」と言っておられました。
 資料の水俣病の体験からを見てください。一部割愛して読みます。


 私が「死にたい。」と叫ぶようになったとき、父は「人様は変えられんとばい。自分が変わっていこばい。」と教えてくれました。「魚を捕るもんは、まず、木ば大事にせんばんとばい。水ば大事にせんばんとばい。あんたは誰よりも人様ば好きにならんばんとばい。」と言うことを毎日聞かされました。あの時代「人様を好きになれ。」という父の言葉が信じられませんでした。「鬼になった村の人たちを、どうして信じらんばならんか。」ということで、毎日、父に納得するまで聞きましたが、父は、村や親戚からあったことは聞いてくれても、そのことを教えてはくれませんでした。
「もう出て行こい。父ちゃん、出て行こい。」と、本当に泣き狂いしたんですが、「母ちゃんも連れて行かんとばい。母ちゃんば連れて行けば、死にに行くようなもんばい。我が家で死のうばい。」と父は言いました。
 人様を信じることができなかった私には、父の言葉だけを信じて生きて行こうと決めるのに、とても長い時間がかかりました。でも、父が、母だけじゃなく他の患者さんにもいろいろと親切にする姿を見たとき、「やっぱり父ちゃんと母ちゃんと死にたい。」と思いました。
 私が死のうとしたとき、父から「自分が命は自分が大切にせんばつまらんとばい。命ち大切ばい。」と命の大切さ、人の営みを教えてもらい、「人様から好かれんだったっちゃ、嫌われたっちゃ、海から山から嫌われんごつせんばいかんばい。みんな守ってくれとっとばい。」というようなことを聞いて育ってまいりました。

 人権学習で水俣病問題を取り扱う時、このような水俣の人々の気持ちを推し量って授業づくりをすることが大事ではないでしょうか。学習したことが胸にすとんと落ちることが人権学習では大事なことと思います。
 今の子ども達には、体験活動が不足しているとはよく言われることです。
 資料に付けています「子どもたちに命の尊厳を」を読んでみます。


 以前の日本では、毎日の生活の中で命に直面していた。弟妹誕生の産声を聞く。家族の死をみとる。牛馬の出産を介助し飼育する。巣から落ちたひな鳥に給餌するなどなど。人は、このような現実の命にふれるたびに、自らが生かされていることの価値を自覚し、無意識に命の尊厳を学びとってきた。しかし、いつの間にか、私たちの身の回りからそれらがなくなってしまったようだ。
 ペットショップで買ったカブトムシが死んだとき、「カブトムシの電池が切れた。電池を替えて」のわが子の言葉にがくぜんとした父親は、その子を連れて山へカブトムシの採集に行った。そこで採集したカブトムシが死んだとき、「お父さん、カブトムシが死んだ。お墓を作ろう」と言うわが子の目を見て安堵したという話を聞いたことがある。
 (以下略)

 カブトムシ採集などの自然体験、人が生きるために牛馬や野菜など動植物の命をもらわねばならないという矛盾に悩むことなどを通して、命の尊厳を受け止める子どもたちを育てていきたいものだと思います
 人権尊重の精神を支える基盤に自尊感情があることは、研修会でよく耳にします。この自尊感情を支える4つの感覚があります。
 それは、「包み込まれ感覚」「社交性感覚」「勤勉性感覚、言い換えると自己効力感」、そして「自己受容感覚」です。
 「包み込まれ感覚」とは、自分の身近にいる人が自分を温かく包み込んでくれているとか、自分を愛してくれているなど、だれかが自分の気持ちをわかってくれているという気持ちのことです。乳幼児期に子どもが泣き声や微笑みなどの信号を発信したとき、親や周りの人がそれに反応することで子どもに安心感を与えています。これが自分は受け入れられている、包み込まれているという感覚です。
 この4月、次男夫婦に赤ちゃんが生まれました。今、6ヶ月です。じじバカですがそれは可愛いです。手足をばたばたさせて笑ったり、べそをかいたり、大声で泣いたり、そばにあるものを手に取り、口に持っていきます。そのたびに両親は、「おじいちゃん、おばあちゃんがいて楽しいね」「おしりが気持ち悪かったね」「このおもちゃが大好きだもんね」など声をかけています。このような親の反応が、小さな赤ちゃんに安心感を持たせるのですね。私が抱こうとすると、私の顔をじっと見つめて、大声で泣きだします。母親が抱きかかえると、今まで泣いていたのが嘘のようにぴたりと泣き止み、私を微笑みながら見つめるのです。生後、6ヶ月くらいから人見知りが始まりますが、自分を包み込んでくれている人は、自分の安心・安全を託すことができる人。あまり接触していない人は、自分の安心・安全を託すのが不安な人です。だから怖くて人見知りするのでしょう。
 この包み込まれ感覚が自尊感情が育まれる大部分を占めています。しかし、乳幼児期に、いろんな都合で包み込まれ感覚を十分に実感できなかった子もいると思います。学校で社会でこのような子に寄り添い、温かいまなざしで見つめ、包み込まれ感覚を体感させて欲しいのです。
 豊野町子供会育成会長さんから聞いた話です。


 学校で勉強はしない、悪さはする、ずる休みはするという一人の中学生、仮にA君とします。A君は、地域でもあの子は「よくない子」とレッテルを貼られていたそうです。「家庭でも学校でも地域でもよくない子というレッテルを貼られている子だからこそ、子供会で一緒に活動をさせ、地域の子の一人として中学校を卒業させたい」との会長さんの強い思いから、子供会がある度に誘って一緒に活動させていたそうです。そのA君が中学校を卒業して仕事に就いた6月頃、「悪ごろといわれていた私が中学校を卒業し、就職できたのもおじさんが子供会に誘ってくれたから。もうすぐ夏休み。自分が子供会で一番思い出に残っているのは海水浴でのスイカ割り。今年も海水浴でスイカ割りがあるだろう。その費用の一部に使って欲しい」との手紙を添えて初めてもらった給料の中から数千円を同封して送ってきたそうです。この手紙を海水浴に行くバスの中で読み上げたら、みんなが自分の行為を恥じました。

と話してくださいました。
 A君は子供会育成会長さんの誘いを通して地域からの包み込まれ感覚を実感したのですね。そして、人の道としての「生きる力」を身に付けたのです。
 学校生活の中でも、温かく肯定的な眼差しで子どもたちを見つめ、「自分は学校・学級の中で温かく包み込まれている」という感覚を実感できる学級経営が大切だと思います。
 「社交性感覚」とは、友達が言ったことを自分はよく分かる、自分の言ったことは友達がよく分かってくれる、という友達との心の通じ合い感覚です。周りの人とつながり感を実感していることです。絆を実感し、互いを信頼し合うことです。冒頭話しました3.11大震災では、釜石の奇跡と言われた「津波てんでんこ」とは、家族も友人も、それぞれがそれぞれの判断できっと生きのびている、だからわたしも自分のことだけ考えて逃げよう、「きっときっと生きて再会できる」という家族に対する信頼と期待の言葉ですね。
 「自己効力感」とは、何かをやりはじめたら最後までやり通すことができる、自分にできるという気持ちのことです。自信をもつことができることです。
 「自己受容感覚」とは、自分が好きだとか、自分の性格が好きという気持ちのことです。
これまで見てきました自尊感情は、自分だけの独りよがりでははぐくまれません。周りの人の肯定的な眼差しや周りの人との関わりの中ではぐくまれます。学校・家庭・地域社会で自尊感情をはぐくむ環境を作って欲しいと思います。
 子どもたちに自尊感情を育み、子ども達一人ひとりの心に落ちる人権教育を推進してください。
 毎年、12月人権週間が設定され、人権啓発が行われています。昨年の人権週間のテーマは、「みんなで築こう人権の世紀 〜考えよう相手の気持ち 育てよう思いやりの心〜」でした。このテーマそのものを孔子が言っています。
 孔子の教えは論語に記されています。その論語の「衞靈公第十五の二十四」に
 子貢問うて日く、一言にして以て身を終うるまで之を行うべき者有りや。
 子日わく、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ。
と言うのがあります。
 これは、孔子の門弟の一人 子貢が孔子に人生の生き方を問うているものです。
 「先生、私が先生から教えられたたった一文字を大切に生きれば、人間として誤らずに生を全うできるという字があったらお教えください」と問うのです。
 「その文字は恕だ。そして、自分がして欲しくないことは他人にもしないことだ。」と教え諭したのです。
 「恕」の意味は、「常に相手の立場に立って、ものを考えようとする優しさ、思いやり」のことです。
 常に相手の立場に立ってものを考えようとする優しさ、そして自分がして欲しくないことは人にはしない、自分がして欲しいことを人にする、これが人権教育の基本だと思います。
 人権尊重の精神がみなぎる学校・家庭・地域となりますことを祈念して話を終わります。
 ご静聴ありがとうございました。


資料


 資料1

      「太陽の子」を読んで              中学2年 Y・E
 青く澄んだ海、一風変わった伝統、温かい島の人達。これが私の沖縄に対するイメージだった。でも、悲惨な過去があってこそ今の美しさがあるということを、私はこの本に教えてもらった。
 ふうちゃんの両親が営む、「てだのふあ・おきなわ亭」。そこは沖縄を愛する沖縄人のたまり場のような存在だ。おきなわ亭に訪れる人達は皆温かい。はじめは気の荒かったキヨシ少年もこの人達の優しさに触れて本当の優しさを表に出すようになった。なぜおきなわ亭の人達はここまで優しく、温かいのだろうか。
 沖縄では、「かわいそう」とは言わず、「肝苦りさ(胸が痛む)」、と言うそうだ。その人がどのような状況に置かれているのか、どのような感情なのか……。背景を知らなくても、「かわいそうね。」と人は言う。何故言うのだろうか。おそらく情け深い人の「ふり」をしているのだろう。相手の表面しか知らないのに、言っている本人は、相手を理解して同情したつもりなのかもしれない。しかしそれは本当の「情け」なのだろうか?言うだけなら、誰にでも言えるのではないだろうか。
 沖縄の人達は、あのむごい第二次世界大戦を目の前で、嫌というほど見てきている。殺すということ。殺されるということ。敵に対する恐怖。家族を失う悲しみ。一人で生きていかなければいけないという将来への不安。孤独との戦いー。これらは経験したことのない者にとっては憶測でしか考えられない。
 「おそらく沖縄の人々は本当に痛い、ということがどれだけ痛いか、苦しい、ということがどれほど苦しくなることなのか、辛い、ということがどれほど耐え難い辛さなのかを知っている。そして残酷さも知っているのだろう。」
 知っているからこそ、その人を深く知らずに「かわいそう」などと軽々と口には出せないのだと思う。相手を知り尽くした上で今、置かれている境遇を理解し苦しみを推し測る。そこで初めて出てくる言葉が「肝苦りさ」なのだろう。私が沖縄に感じる奥深さの一つに、このことが関係しているのではないかと思う。
 ふうちゃんのお父さんの病気も戦争の傷跡によるものだ。お父さんがパニックになった時、おきなわ亭のみんなでお父さんをフォローする。オジやんは、「沖縄の島々では、心の病人はみんなで大事にした。ー心の病んでる者ほど、人の心が必要なんじゃ。」と言う。これはふうちゃんのお父さんに限らず、現代の世の中にも言えるのではないかと思う。親から愛情を受けられずに育ってしまった子供。薬に溺れる若者ー。足りないのは心ではないかと思う。薬に依存するのは心が満たされないからではないか?薬に依存する人が多いのは、心が満たされていない人が多いからではないかと思う。
 誰かが、「自分を愛せない人は他人も愛せない。自分を大事にしない人は他人も大事に出来ない。」と言っていた。自分を愛する、というのは難しい。しかし自分を好きになることで初めて心が満たされるのではないかと思う。そして自分を好きになるためには周りから、「自分が愛されている。」と実感することが大事だ。ふうちゃんは、おきなわ亭の人達みんなに愛されている。だからふうちゃんはお父さんをはじめ皆に愛を配ることが出来るのだと思う。
 私もよく、「フラフラして死にそう。」とか言っている。けれど「死ぬ」という言葉を軽々しく使ってはいけない、とギッチョンチョンに教えてもらった。「死」という言葉が持つ意味を、真剣にとらえて初めて使うべきだし、真剣に考えれば軽々しくは使えない。
 私をはじめ、このように戦争を知らない者が増えている今、世の中は平和なように感じる。しかし一方、ふうちゃんのお父さんのように、戦争が終わっている今もなお傷跡に苦しんだ末、間接的に戦争に殺された。すなわち二極化しているのである。これを解決するにはどうすれば良いのか。戦争を知らない私達は、忌まわしい出来事の真実を知る努力をし、少しでも苦しみを共有してみてはどうだろうか。そして、今尚苦しんでいる人の傷をいやすことのできるような社会を作り上げることが、戦後生まれてきた私達の義務だと思う。
 生活の中の一つ一つをもっと重くとらえ、自分を変えていければ、と思った。


資料2

  「人権感覚」って何ですか   桑原 律

「人権感覚」って何ですか
それは ケガをして
苦しんでいる人があれば
そのまますどおりしないで
「だいじょうぶですか」と
助け励ます心のこと

「人権感覚」って何ですか
それは 悲しみに
うち沈んでいる人があれば
見て見ぬふりをしないで
「いっしょに考えましょう」と
共に語らう心のこと

「人権感覚」って何ですか
それは 偏見と差別に
思い悩んでいる人があれば
わが事のように感じて
「そんなことは許せない」と
自ら進んで行動すること

「人権感覚」って何ですか
それは
すどおりしない心
見て見ぬふりをしない心
他者の苦悩をわが苦悩として
人権尊重のために行動する心のこと

              (ヒューマンシンフォニー 光は風の中により)


資料3

「一冊のノート」     北鹿渡 文照

 「おにいちゃん、おばあちゃんのことだけど、このごろかなり物忘れが激しくなったとおもわない。ぼくに、何度も同じことを聞くんだよ。」
 「うん、今までのおばあちゃんとは別人のように見えるよ。いつも自分の眼鏡や財布を探しているし、自分が思い違いをしているのに、自分のせいではないと我を張るようになった。おばあちゃんのことでは、おかあさん、かなりまいっているみたいだよ。」
 弟の隆とそんな会話を交わした翌朝の出来事であった。
 「お母さん、ぼくの数学の問題集、どこかで見なかった。」
 「おかしいな、一昨日この部屋で勉強したあと、確かにテレビの上に置いといたのになあ。」
 学校へ出かける時間が迫っていたので、ぼくはだんだんいらいらして、祖母に言った。
 「おばあちゃん、また、どこかへ片づけてしまったんじゃないの。」
 「私は何もしていませんよ。」
 そう答えながらも、祖母は部屋のあちこちを探していた。母も隆も問題集を探し始めた。
 しばらくして、隆は隣の部屋から誇らしげに問題集をもってきた。
 「あったよ、あったよ、押し入れの中の新聞入れに昨日の新聞と、一緒に入っていたよ。」
 「やっぱり、おばあちゃんのせいじゃないか。」
 「どうして、いつもわたしのせいにするの。」
 祖母は、責任が自分に押しつけられたので、さも、不安そうに答えた。
 「そうよ、なんでもおばあちゃんのせいにするのはよくないわ。」
 母が、ぼくをたしなめるように言った。ぼくは、むっとして声を荒げて言い返した。
 「何言っているんだよ。昨日、この部屋を掃除してたのはおばあちゃんじゃないか。新聞と一緒に問題集も押し入れに片づけたんだろう。もっと考えてくれよな。」
 「そうだよ。おにいちゃんの言うとおりだよ。この前、ぼくの帽子がなくなったのも、おばあちゃんのせいだったじゃないか。」
 「しっかりしてよ、おばあちゃん。近ごろ、だいぶぼけてるよ。ぼくら迷惑してるんだ。今も隆が問題集を見つけなかったら、遅刻してしまうところじゃないか。」
 いつも被害にあっているぼくと隆は、いっせいに祖母を非難した。祖母は悲しそうな顔をして、ぼくと隆を玄関まで見送った。
 学校から帰ると、祖母は小さな机に向かって何かを書き込んでいた。ぼくには、そのときの祖母のさびしそうな姿が、なぜかいつまでも目に焼き付いて離れなかった。
 祖母は、若いころ夫を病気で亡くした。その後、女手一つで4人の息子を育て上げるかたわら、児童民生委員や婦人会の係を引き受けるなど地域の活動にも積極的に携わってきた。そんなしっかりものの祖母の物忘れが目立つようになったのは、65歳を過ぎたここ1・2年のことである。祖母は、自分は決して物忘れなどしていないと言い張り、家族との間で衝突が絶えなくなった。それでも若い頃の記憶だけはしっかりしており、思い出話を何度もぼくたちに聞かせてくれた。このときばかりは、自分が子どもに返ったように目を輝かせて話をした。両親が共稼ぎであったことから、ぼくたち兄弟は幼いころから祖母に身の回りの世話をしてもらっており、今でも何かと祖母に頼ることが多かった。
 ある日、部活動が終わって、ぼくは友だちと話しながら学校を出た。途中の薬局の前で、友だちの一人が突然指さした。
 「おい、みろよ。あのおばあさん、ちょっとおかしいんじゃないか。」
 「ほんとうだ。なんだよ。あの変てこりんな格好は。」
 指さす方を見ると、それは季節はずれの服装にエプロンをかけ、古くて大きな買い物かごを持った祖母の姿であった。確かに友だちが言うとおり、その姿は何となくみすぼらしく異様であった。ぼくは、あわてて祖母から目を離すとあたりを見回した。道路の向かい側で、二人の主婦が笑いながら立ち話をしていた。ぼくには、二人が祖母のうわさ話をしているように見えた。
 祖母は、すれちがうとき、ほほえみながら何か話しかけた。しかし、ぼくは友だちに気づかれないように、知らん顔をして通り過ぎた。友だちと別れた後、ぼくは急いで家に帰り、祖母の帰りを待った。
 「ただいま。」
 祖母の声を聞くと同時に、ぼくは玄関へ飛び出した。祖母は、大きな買い物かごを腕にぶら下げて、汗を拭きながら入ってきた。
 「ああ、暑かった。さっき途中であった二人は・・・・。」
 「おばあちゃん。なんだよ、その変な格好は。何のためにふらふら外を出歩いているんだよ。」
 ぼくは、問い詰めるような厳しい口調で祖母の話をさえぎった。
 「何をそんなに怒っているの。買い物に行ってきたことぐらい見れば分かるでしょ。私が行かなかったらだれがするの。」
 「そんなこと言っているんじゃない。みんながおばあさんのことを笑っているよ。かっこ悪いじゃないか。」
 「そうして、みんなで私をバカにしなさい。いったいどこがおかしいって言うの。だれだって年をとればしわもできれば白髪頭になってしまうものよ。」
 祖母のことばは、怒りと悲しみでふるえていた。
 「そうじゃないんだ。だいたいこんな古ぼけた買い物かごを持って歩かないでくれよ。」
 ぼくは腹立ちまぎれに祖母の手から買い物かごをひったくった。
 「どうしたの。大きな声を出して。おばあちゃん、ぼくが頼んだものちゃんと買ってきてくれた。」
 「はい、はい。買ってきましたよ。」
 隆は、買い物かごをぼくから受け取ると、さっそく中身を点検し始めた。
 「おばあちゃん、きずばんと軍手が入っていないよ。」
 「そんなの書いてあったかなあ。えーと、ちょっと待ってね。」
 祖母は、あちこちのポケットに手を突っ込みながら1枚の紙切れを探し出した。見ると、それは隆が明日からの宿泊合宿のために祖母に頼んだ買い物リストであった。買い忘れがないように、祖母の手で何度も鉛筆でチェックされていた。
 「やっぱり、きずばんも軍手も、書いてありませんよ。」
 「それとは別に、今朝、買っておいてくれるように頼んだだろう。」
 「そんなこと、私は聞いていませんよ。絶対聞いていません。」
 「あのね、おばあちゃん・・・・。」
 隆は、今にもかみつくような顔で祖母をにらんだ。
 「もうやめろよ。おばあちゃんは忘れてしまったんだから。」
 「なんだよ、おにいちゃんだって、さっきまで、おばあちゃんに大きな声を出していたくせに。」
 ぼくは不服そうな隆を誘って買い物に出かけた。道すがら、隆は何度も祖母の文句を言った。
 その晩、祖母が休んでから、ぼくは今日のできごとを父に話し、なんとかならないかと訴えた。父は、ぼくと隆に、先日、祖母を病院に連れて行ったときのことを話し出した。
 「お前たちが言うように、おばあちゃんの記憶は相当弱くなっている。しかし、お医者さんの話では、残念ながら現在の医学では治すことはできないんだそうだ。これからもっとひどくなっていくことも考えておかなければならないよ。おばあちゃんは、おばあちゃんなりに一生懸命やってくれているんだからみんなで温かく見守ってあげることが大切だと思うよ。今までのように、何でもおばあちゃんに任せっきりにしないで、自分でできることぐらいは自分でするようにしないといけないね。」
 「それはぼくたちもよく分かっているよ。だけど・・・。」
 これまでの祖母のことを考えると、ぼくはそれ以上何も言えなくなった。
 その後も、祖母はじっとしていることなく家の内外の掃除や片づけに動き回った。そして、ものがなくなる回数はますます頻繁になった。
 ある日、友だちからの電話を受けた祖母が、伝言を忘れたため、ぼくは友だちとの約束を破ってしまった。父に話したあと怒らないようにしていたぼくも、このときばかりは激しく祖母をののしった。
 それから1週間あまりすぎたある日。捜しものをしていたぼくは引き出しの中の一冊の手あかに汚れたノートを見つけた。何だろうと開けてみると・・・
 それは、祖母が少しふるえた筆致で、日ごろ感じたことなどを日記風に書き綴ったものであった。見てはいけないと思いながら、つい引き込まれてしまった。最初のページは、物忘れが目立ち始めた2年程前の日付になっていた。そこには、自分でも記憶がどうにもならないもどかしさや、これから先どうなるのかという不安などが、切々と書き込まれていた。普段の活動的な姿からは想像できないものであった。しかし、そのような苦悩の中にも、家族と共に幸せな日々を過ごせることへの感謝の気持ちが行間にあふれていた。
 「おむつを取り替えていた孫が、今では立派な中学生になりました。孫が成長した分だけ、私は歳をとりました。記憶もだんだん弱くなってしまい、今朝も孫に叱られてしまいました。自分では気付いていないけれど、ほかにも迷惑をかけているのだろうか。自分では一生懸命やっているつもりなのに・・・・あと10年、いや、せめてあと5年、なんとか孫たちの面倒をみなければ。まだまだ老け込む訳にはいかないぞ。しっかりしろ。しっかりしろ。ばあさんや。」
 それから先は、ペ−ジを繰るごとに少しずつ字が乱れてきて、判読もできなくなってしまった。最後の空白のページに、ぽつんとにじんだインクのあとを見たとき、ぼくはもういたたまれなくなって、外に出た。
 庭の片隅でかがみ込んで草取りをしている祖母の姿が目に入った。夕焼けの光の中で、祖母の背中は幾分小さくなったように見えた。ぼくはだまって祖母と並んで草取りを始めた。
 「おばあちゃん、きれいになったね。」
 祖母は、にっこりとうなずいた。
                   文部省道徳教育推進指導資料集第4集(平成6年3月)



資料4

水俣病の体験から
水俣病語り部の会 杉本 栄子

 私は、水俣の茂道の網元の家に生まれました。そこでは、村中が親戚のようになかよく暮らしていました。しかし、昭和34年、突然、けいれんを起こした母が病院に運ばれ、母の病名がラジオで「マンガン病」と放送されました。当時は原因が分からず「その病気はうつる。」と誤解されたため、村の人は誰も家に寄りつかなくなり、雨戸に石を投げられることもありました。あいさつしても無視され、「道を歩くな。」とも言われました。親戚の人たちにさえ、「この恥さらしが。」となじられました。
 村であったことをいろいろ話して私が泣けば、父は泣いて聞いてくれましたし、「死にたい。」と言えば抱きしめてくれました。「母ちゃんより早う死ねんとばい。母ちゃんな誰が介抱すっとかい?」と。
 そして、毎日、隔離病棟に父が通うようになったとき、「仕事も辞めようばい。母ちゃんが寂しか思いばせんごつ。親子三人、うつって死んでもよかがね。母ちゃんから離れんが。」父の言葉を聞いて、私はとてもほっとしました。隔離病棟に入れられた患者さん達の親子は「地獄」のようでした。母が10年間入院している間に、たくさんの死に様を見ました。家族も親戚も見舞いに来ないのです。
 私が「死にたい。」と叫ぶようになったとき、父は「人様は変えられんとばい。自分が変わっていこばい。」と教えてくれました。「魚を捕るもんは、まず、木ば大事にせんばんとばい。水ば大事にせんばんとばい。あんたは誰よりも人様ば好きにならんばんとばい。」と言うことを毎日聞かされました。あの時代「人様を好きになれ。」という父の言葉が信じられませんでした。「鬼になった村の人たちを、どうして信じらんばならんか。」ということで、毎日、父に納得するまで訊きましたが、父は、村や親戚からあったことは聞いてくれても、そのことを教えてはくれませんでした。
「もう出て行こい。父ちゃん、出て行こい。」と、本当に泣き狂いしたんですが、「母ちゃんも連れて行かんとばい。母ちゃんば連れて行けば、死にに行くようなもんばい。我が家で死のうばい。」と父は言いました。
 人様を信じることができなかった私には、父の言葉だけを信じて生きて行こうと決めるのに、とても長い時間がかかりました。でも、父が、母だけじゃなく他の患者さんにもいろいろと親切にする姿を見たとき、「やっぱり父ちゃんと母ちゃんと死にたい。」と思いました。昭和34年、母が「マンガン病」と放送された日から、私たちは死を覚悟せんばならん時代でございました。これまでの生活の中で、父が人様の悪口を言うのを本当に聞いたことがありません。母がうつる病気として隔離病棟に入れられてからも、仕事を辞めてからも、もっともっと親切にする父の姿を見たとき、父だけを信じて生きて行こうという気持ちになりました。
 私が死のうとしたとき、父から「自分が命は自分が大切にせんばつまらんとばい。命ち大切ばい。」と命の大切さ、人の営みを教えてもらい、「人様から好かれんだったっちゃ、嫌われたっちゃ、海から山から嫌われんごつせんばいかんばい。みんな守ってくれとっとばい。」というようなことを聞いて育ってまいりました。
 水俣病の本を読み返すとき、私は何にも知らなかったんだなということがわかりました。これは罪なんだ。知らないことは罪なんだということを知りました。
              (熊本県人権啓発学習資料「こころ豊かに共に生きるU」平成15年版)



資料5

朝日新聞「声」 平成20年5月17日 掲載

                人権感覚持つ子ら育てたい

 小学4年生の孫娘に電話すると、いつものような元気がない。訳を聞くと、「明日体育の授業でリレーがある。去年、リレーの時、私が走るのが遅いので私の組はビリだった。みんなからとても嫌なことを言われた。明日、またリレーがある。嫌だな」と言う。
 妻は、「リレーであなたの走りが遅くて負けたのなら、みんなにごめんなさいと言いなさい。それでも、みんなが文句を言うなら先生に相談しなさい。泣いたり怒ったりしては駄目」とアドバイスした。孫娘は、「分かった」と言った。
 周りから「おまえのせいで負けた」と責められると、「自分はダメな人間」と思いこみ、自信喪失になる。不登校や引きこもりになりかねない。
 孫の憂鬱は、人権感覚を育てることに直結する問題だと思う。人は自分の短所や欠点を他人に話すことには抵抗がある。しかし、自分のことを理解してもらうには自分のありのままの姿をきちんと話さなければならない。このような時、所属する集団に、互いの違いを認め、共に生きる感性や人権感覚が育っていれば素直に話すことができる。子どもの生活場面に起きる具体的な事例をもとに、豊かな人権感覚を持った子ども達をはぐくんでいただきたいと願う。



平成20年5月18日 熊日「読者の広場」掲載
子どもたちに生命の尊厳を
 水戸市内湖畔のコクチョウやハクチョウの無惨な死は、中学生が面白半分に棒で殴ったものだった。
 以前の日本では、毎日の生活の中で命に直面していた。弟妹誕生の産声を聞く。家族の死をみとる。牛馬の出産を介助し飼育する。巣から落ちたひな鳥に給餌するなどなど。人は、このような現実の命にふれるたびに、自らが生かされていることの価値を自覚し、無意識に命の尊厳を学びとってきた。しかし、いつの間にか、私たちの身の回りからそれらがなくなってしまったようだ。
 ペットショップで買ったカブトムシが死んだとき、「カブトムシの電池が切れた。電池を替えて」のわが子の言葉にがくぜんとした父親は、その子を連れて山へカブトムシの採集に行った。そこで採集したカブトムシが死んだとき、「お父さん、カブトムシが死んだ。お墓を作ろう」と言うわが子の目を見て安堵したという話を聞いたことがある。
 子どもたちが命を現実のものと受け止める機会を数多く作りたい。人が生きるためには牛馬や野菜など動植物の命をもらわねばならないという矛盾に悩むことなどを通して、命の尊厳を受け止める子どもを育てることは喫緊の課題である。




平成18年1月13日熊日新聞

子供をほめて自己実現増幅
 小学校1年生の孫が通知票を持って来た。通知票には、学習の様子、係の役割、出席状況、身体の様子、そして子どもの学校での暮らしぶりが所見として担任の先生の心温まる言葉で、実に丁寧に書き記してある。
 所見を声に出して読み、「うわー、2学期は1日も休まなかったんだね。体が丈夫になったね。『計算ができる』や『本読みができる』は、三重まるになっている。勉強もがんばっているね。係の仕事も一生懸命している。お友達とも仲良く遊んでいる。すごいぞ!」とほめると孫は、はにかみながらもうれしそうに「学校は楽しいよ。」と声を弾ませて応える。家族一人ひとりに通知票を見せながら、学校での様子を話している。その得意げな顔。瞳が輝いている。
 自分がしたことを人から認められたり、ほめられたりすることで存在感や有用感を実感する、いわゆる「自己実現」を味わっているのであろう。この自己実現が、現在はもとより生涯にわたっての学習意欲をかきたてる源であるという。公民館講座やカルチャーセンターなどで学んでいる意欲旺盛な人のほとんどは、小中学生時代に「自己実現」を実感する機会が多かったようだ。
 子どもたち一人ひとりの学習や生活の様子などつぶさに観察し、通知票にまとめて保護者に伝えることは大変な労力であろう。先生方のご苦労に頭が下がる。心を込めて作られた通知票をもとに家庭でも子どもたちを認め、ほめ、励まし、伸ばしたい。このことが子どもたちの「自己実現」を増幅させ、学習意欲旺盛で主体的に生きる人づくりにつながるはずだ。


資料6

 国際連合は、昭和二十三年(1948)十二月十日の第三回総会で、自由、正義、平和の基礎である基本的人権を確保するために、世界人権宣言を採択しました。
 昭和二十五年第五回総会で、世界人権宣言が採択された十二月十日を「人権デー」と定めました。

  ※世界人権宣言第一条
    すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。


日本では、法務省と全国人権擁護委員連合会が、昭和二十四年から毎年十二月十日を最終日とする一週間を、「人権週間」と定めました。
 この期間中、人権尊重に関する啓発活動を集中的に行っています。


 「第六十三回人権週間」のテーマ
 「みんなで築こう 人権の世紀 
     〜考えよう 相手の気持ち 育てよう 思いやりの心〜」


論語

子貢(しこう)問(と)うて日く、一言(いちげん)にして以(もつ)て身(み)を終(お)うるまで之(これ)を行うべき者(もの)有(あ)りや。
子日わく、其(そ)れ恕(じよ)か。己(おのれ)の欲(ほつ)せざる所(ところ)は、人に施(ほどこ)すこと勿(なか)れ。


「人として一生涯貫き通すべき一語があれば教えて下さい。」

「その字は恕。つまり相手の身になって思い・語り・行動することです。自分がして欲しくないことは人にしてはなりません。」



人権教育フォーラムinうき 感想

○先生が、自分自身を振り返りながら、思いを込めて話され、心に伝わるものがあった。
○具体的な資料を使った講演で、最近の人権教育の講演の中では、大変感動する内容であった。
○資料も豊富に提供していただき、大変参考になる講演であった。
○たくさんの資料、新聞投稿記事等、具体的でわかりやすかった。
○いろいろな体験をする中で、相手の気持ちを推し量ることができる子どもをめざし、明日から自分自身プラスの面に目を向けていきたい。
○誰かが困っていたら黙って通り過ぎず、一緒に悩み考え行動できる教育を日々取り組んでいきたいと思った。すばらしい講演ありがとうございました。
○人権感覚のすばらしい方は、心を動かす話をされるのだと感じた。「情動体験」を体験的に学ばせていただいた。
○長年実践されてきた人権教育に関して、具体的な事例を示しながらの講演は、とてもわかりやすく学ばせていただいた。もっと長い時間聞きたいと思う講演でした。
○講演がとてもよかった。校内研修などでもお願いしたいと思いました。
○自分の考えとぴったり重なる講演でした。
○今の学校、家庭、地域に最も必要なことをお話しいただいたと思います。涙が何度もこみあげてきました。
○自尊感情を支える4つの柱が参考になった。
○いじめに立ち向かう3つの力が印象に残りました。
○子どもの人権感覚を高めるためには、子どもたちに関わる教師・大人の人権感覚が研ぎ澄まされていないといけないと思った。
○講演内容にうなずきながら、涙しながら聴かせていただきました。心に染みいりました。
○中川先生の人権教育に対する思いがよく伝わった。自分自身も含め、様々な体験を通して、豊かな人権感覚を磨いていきたい。
○職員組織を活性化させたいと考えていたので、講演は大変参考になった。職員自身の感性を磨く取組を考えて実践したい。
○講演により、普段何気なく使用している言葉の意味や重さを改めて感じた。日常、目にするTVや新聞雑誌などの中にも、人権教育と十分つながる記事や出来事がたくさんある。そのことにハッと気づく感性を磨く必要があると思った。
○親の思いをいかに子どもに伝えるか、背中の教育など、とても実感の湧く講演だった。人の違いを認め、共に育つことの意味や、たくさんの体験をすることで相手の気持ちを考えることができるようになることなど、明日からの実践に役立つものばかりだった。もっと話を聞きたいと思う内容だった。これから子どもたちや周りの人々の自尊感情を高められるようがんばっていきたい。前向きになれる講演であった。
○現在の学校としての課題である「保護者や教師の成長」について、ヒントとなることを学ばせていただいた。
○自分自身が人権教育の在り方について整理できてよかった。
○「名前」の持つ意味を知ることが自尊感情を持つことにつながることを理解することができた。
 コップを題材に、多面的な見方を学ぶことができた。
○情熱を感じました。私に一番かけている部分だと思うので心に響きました。
○自尊感情を育てることの大切さを丁寧に説明していただき、とても心に響く内容でした。
○自尊感情を4つの感覚(包み込まれ感覚、社交性感覚、自己有用感、自己受容感覚)で説明されたのはとてもわかりやすかった。学校に持ち帰ってみんなに広めたい。
○講演は、自分の中でモヤモヤとまとめ切れていなかったものをすっきりまとめていただいた感じがして大変参考になった。
○ご自分の体験から話されたので、やはり人権教育は自分を語らないといけないなぁと思いました。○人権尊重の精神がみなぎる学校づくりに向けて、全職員で行動を起こしたい。
○最近、「なぜ、いじめは起きるのか」「どんな人権感覚が必要なのか」考えることがあり、今日の講演は学べることが多かったと思いました。
○語りがわかりやすく、人権教育の視点でよくまとめられた講演だった。
○心に響く言葉がたくさんあり、お話を聞くことができてよかったと思いました。
○子ども達が情動体験や有用感を感じられる場面をたくさんつくり、人権感覚を磨いていきたいと思います。
○「子ども達にこんな体験、経験を!」と中川先生のご経験を交えたお話があり、とてもわかりやすく思いました。人権感覚を養っていくには、毎日の少しずつの積み重ねが大切になることも感じました。
○とてもわかりやすく、大切なことを思い出させてくれるお話でした。
○心が揺り動かされる情動体験を自分自身がしていかなければと思った。知識から行動へと、しっかり実践していきたい。
○「なるほど、たいせつだな」と話を聞いて思うことがたくさんあった。特に、名前の話やコップの話、水俣病、認知症のおばあさんの話(資料から)が心に残りました。私自身の感性をもっと磨いていきたいと思います。
○親につけてもらった名前のことからも、子どもの自尊感情を高める方策はあるんだと、中川先生の情熱的に訴えられる講演から学ばせていただきました。
○具体的な講演でとてもわかりやすかった。ぜひ、保護者、職員にも聞かせたいと思いました。
○いじめ不登校アドバイザーとしての取り組みもうかがいたかった。
○被差別部落出身という言い方が何となく引っかかります。血縁、血筋、を連想します。被差別部落の人でいいのではないかと思います。