大満喫! トルコ10

平成22年8月30日~9月8日

ツアー参加者


トルコ共和国
 トルコは、西アジアのアナトリア半島と東ヨーロッパのバルカン半島東端のアジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる国で、首都はアナトリア中央部のアンカラです。
 北は黒海、南は地中海に面し、西でブルガリア、ギリシャと、東でグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと接しています。国土の大半はアナトリア半島にあり、国民の約99%がイスラム教を信仰しているそうです。
 オスマン帝国の時代からTurkeyなど、「トルコ人の国」を意味する名で呼んできました。
 トルコ最大の都市であるイスタンブールは、古代からさまざまな民族・文明が栄えたところです。

トルコの歴史

新石器時代~  青銅器時代
(紀元前8000~
 紀元前2000年)
ヒッタイト

(紀元前2000~ 紀元前700年)
ペルシャ帝国による征服
(紀元前700~
 紀元前334年)
ヘレニズム・ローマ時代
(紀元前334~
   紀元後395年)
ビザンティン帝国時代

(395~1071年)
セルジューク朝時代
(1071~
     1243年)
オスマン朝時代

(1299~
       1922年)
共和国時代

(1922年~   )
 アナトリアに人が住み始めたのは旧石器時代からといわれています。
 新石器時代には、農耕が始まり宝石が装飾品に使われたり粘土の小像が作られ、崇拝されるようになりました。
 紀元前3000年頃になると、銅と錫を混ぜた青銅器で、武器や道具を作るようになりました。
 シュリーマンが1873年に発掘したトロイはこの頃が最盛期といわれています。
 アナトリア地方の最初の統一国家は、ヒッタイト古王国です。
 ヒッタイトは、黒海を渡ってきた北方系民族で鉄器を初めて使用したことで知られています。
 エーゲ海地方はギリシャの植民地化が始まり、エフェソスなどの都市が繁栄しました。
 紀元前546年、ペルシャはアナトリア地方を含む強大な帝国に発展しました。
 アナトリア地方は、若き英雄アレキサンダーの支配下に入ります。
 アレキサンダーは、ギリシャ、エジプト、アジアにまたがる大帝国を建設します。
 アレキサンダーの死後帝国は彼の将軍達によって分割されます。その一つベルガモン王国は、アナトリア地方の文化・経済の中心地となり栄えました。
 ローマは、アナトリア地方全域を支配していきます。エフェソス、ベルガモンなどにローマ帝国時代の遺跡があり、その繁栄ぶりが偲ばれます。
 330年、コンスタンティヌス大帝はビザンティウムに遷都し、コンスタンティノーブルと地名を改めました。
 以後、ヨーロッパと東方とを結ぶポイントとして栄えました。
 このビザンティン帝国時代の代表的な建築物がアヤソフィア大聖堂です。
 中央アジアに興ったイスラムのトルコ系王朝であるセルジューク朝スライマン・ビン・クタルムシュによって創設されました。
 クルチュ・アルスラン1世の時代に首都をコンヤにおき、13世紀に繁栄しました。
 この時代のメヴレヴィー教団の墓がコンヤにあります。
 オスマン朝の成立は1299年。
 1402年、中央アジアから怒濤の進軍をしてきたアムール・ティムールにアンカラの戦いで敗れ、一時滅亡しますが、まもなく復興します。
 1453年コンスタンティノープルを占領し、ビザンティン帝国を滅亡させます。
 1517年にはエジプト、北アフリカまで領土を広げ、16世紀のスュレイマン大帝の時代に最盛期を迎えます。
 第1次世界大戦では、ドイツ側につき敗戦国となりました。
 オスマン朝時代の建物として、スルタンアフメット・ジャーミィ、トプカプ宮殿などがあります。
 1923年10月29日、ムスタファ・ケマルがトルコ共和国を成立させ、初代大統領となりました。
 ケマルは、「アタチュルク(トルコの父)」と呼ばれ、国民に敬愛されています。



1日目 8月30日

 成田空港発     13:35 TK0051
 アタチュルク空港着 19:40
 空港着後、ホテルへ
 ホテル:イスタンブール エアポートホテル

2日目 8月31日

 ホテル発   8:00  特別バスでトロイへ(約340km)

3列シート特別仕様バス ゆったりした気分で移動できました


昼食 フェリー発着場近くで

 
昼   食

フェリー乗船(ダーダネルス海峡をフェリーで航る)

 
トルコの少女 フェリーからの眺め

ヒササルクの丘 トロイの遺跡
 トロイの遺跡はエーゲ海北部のヒササルクの丘に在ります。
 トロイの遺跡は紀元前3000年から、ローマ時代の紀元前334年までの都市遺跡です。
 この中でホメロスが描いたプリアモス王のトロイは一般的に紀元前1275~1240年と言われています。
 考古学から検証すると、木馬どころかトロイ戦争があったのか、トロイ人とはどんな民族なのかも、まだ解っていないそうです。
 シュリーマンは「トロイの財宝」に目が眩み、彼が手にした財宝は、エーゲ海交易の中心地として繁栄した紀元前2500~2200年時代のものだそうです。

 トロイの遺跡は直径約600m程の小さな城塞で、それ程大きなものではなく、石垣ばかりでした。

劇場跡(紀元前85年~西暦500年)

 トロイの木馬もおもちゃのようなものでした。

トロイの木馬

ギリシャ叙事詩「イリアス」から
 トロイ戦争
 トロイの王子パリスが女神アフロディーテの助けを借り、スパルタ王メネラオスの妃である絶世の美女ヘレネを奪ったことから物語は始まります。
 妃を奪われたヘレネの夫メネラオスは怒りが収まらず、兄アガメムノンを大将にギリシャ軍を組み、トロイへの攻撃を始めます。
 10年もの長い戦争のさなか、足首以外は不死身のアキレウスや冷静沈着なオデュッセウスらが活躍します。
 トロイ軍はパリスの兄ヘクトルの奮闘により優位に立ち、アキレウスの友人パトロクロスを殺してしまいます。
 怒ったアキレウスはヘクトルを討ちますが、パリスの射た矢がアキレウスの唯一の弱点である踵(アキレス腱という名はこれに由来する)にあたり、ついにはアキレウスも倒れてしまいます。
 ギリシャ軍は大きな戦力を失いましたが、アキレウスの息子を迎え、士気も新たに盛り返します。パリスは毒矢に射られ命を落とします。しかし、なかなかトロイは陥落しません。トロイ軍を破るためには何か策略が必要だとオデュッセウスは考えます。
 その策略とは。
 ギリシャ軍はただ一人の生け贄と巨大な木馬を神に捧げるような形で残して、舟で全軍が引き上げ、戦いをあきらめたかのように見せかけます。
 トロイ軍は戦いは終わったと思い、この木馬を城内に引き入れて勝利の大饗宴を始めます。
 実は空洞と思われたこの木馬には、大勢のギリシャ兵が隠れていたのです。大饗宴が終わりトロイ軍が寝静まった頃、潜んでいたギリシャ兵は城に火を放ち、タイミングを見計らって引き返した兵とともに再び攻撃を開始します。
 この策略により、難攻不落を誇ったトロイはあっけなく陥落してしまいました。
 そして、ヘレネは再びメネラオスのもとに戻り、10年に及んだトロイ戦争は終わったのです。


アイワルクへ(約150km
  アイワルクは、エーゲ海沿いのリゾート地です。途中の海岸は海水浴客でいっぱいでした。

 
海水浴客で賑わうエーゲ海ビーチ  サンセット
エーゲ海 ホテルプライベートビーチ

ホテル グランドホテル テミゼル


3日目 9月1日

 ホテル発 8:00 ベルガマへ(約60km)
  朝起きると、空一面あつい雲に覆われ雷鳴がとどろき稲妻が走っていました。
  天気を心配しましたが、朝食が終わる頃は、空も明るくなりどうにか天気は持つかなと思って一安心しました。
  出発前、荷物をバスに積み込もうとしたとき、突風が吹き、黒い雲に覆われ、今にも大粒の雨が降り出しそうになりました。
  急いでトランクから雨具を取り出し、バスに乗り込むと同時に大粒の雨が降り出しました。
  現地ガイドは、「私は晴れ男です。これまで雨に降られたことはありません。ベルガマに着く頃は雨も上がっているでしょう。」と言います。
  次第に空も明るくなり、希望を持ってベルガマへ向かいました。

ベルガマの遺跡 
 ベルガマ王国の遺跡が数多く残るベルガマは、エーゲ海み近いトルコの西にある都市です。
 小高い丘の上にある古代の遺跡が、現代のベルガマの町を見下ろすかのようにありました。
 遺跡見学途中で大粒の雨が振り出し、大きな木の陰で雨宿りをしました。しかし、強い風が吹き雨雲用をなしません。びしょ濡れになりました。

アクロポリス
 アクロポリスはヘレニズム文化の代表的な遺跡です。
 「芸術・学問のみならず様々なものが集まり、華やかな文化を作り上げていた」、こんなことを想起させる遺跡でした。
 高台にあり、美しい遺跡です。

 

聖なる道 アクロポリスの丘に建つトラヤヌス神殿
大劇場 アクロポリス

アスクレピオン
 アスクレピオンは、紀元前4世紀から紀元4世紀、約800年間も「総合医療センター」としての役割を果たしていたそうです。
 薬草による治療だけでなく、心理療法も行っていたらしいということです。
 アスクレピオンには診療施設だけでなく、劇場や図書館なども備わっていたそうです。

総合医療センター アスクレピオン 蛇の彫刻 生まれ変わる生き物 再生のシンボル アスクレピオンへの通路

 ベルガマの遺跡観光を終えバスに帰ると、バスの運転手が機転を利かせて車内は暖房が効いていました。
 雨に濡れた上着をシートの背もたれにかけ、乾かしました。
 


昼食 ドネル・ケバフ(ピラフに似たものと羊肉の燻製)

ベルガマ町並み


エフェソスへ(約190km)
 靴から下着まで濡れていましたが、いつの間にか乾いていました。
 エフェソスは、ベルガマの天気が嘘のよう。真っ青な晴天となりました。

エフェソスの遺跡
 エフェソスは、アルテミス崇拝で知られたギリシア人によりつくられた都市です。
 現在は遺跡が残っているのみです。

クレテス通り
 ドミティアヌス神殿からセルシウス図書館へ伸びる道路です。
 道路右側には、オデオン(音楽堂)、市公会堂、メミウスの碑、へラクレスの門、トラヤヌスの泉などがあります。

セルシウス図書館
 ローマ帝国の亜細亜州執政官だったセルシウスの死後、息子が造ったものです。
 現在の形は、1970年代に修復されたそうです。
 正面には、知恵、運命、学問、美徳の4つの意味を象徴する女性像がありました。
 アレキサンドリアの図書館、ベルガモの図書館と並ぶかつての世界三大図書館の一つです。

マーブル通り(大理石通り)
 図書館から大劇場まで続く大理石の道です。
 大理石で作られた大通り、下水管の設備や、娼婦の館の広告などもここにあります。両側には太い柱や遺跡があり昔をしのばせます。
 あのクレオパトラもこの地を闊歩していたと思うと、古代へのロマンが広がりました。

ヘラクレスの門
  この石柱に、ライオンの毛皮をまとったヘラクレスのレリーフがあることから、ヘラクレスの門と呼ばれています。
 当時はこの石柱の上に勝利の女神のニケのレリーフが置かれていたといわれています。

勝利の女神ニケ
  「ニケ」は英字で書けば「NIKE」であり、「ナイキ」の名前のルーツだと言われ、右手下の流線型のラインを参考にナイキのマークがデザイ  ンされた言われています。

大劇場
 ヘレニズム時代に建設され、ローマ時代に拡張され、2万4千人が収容できたということです。直径154m、高さ38mの半円形の形の劇場です。
 4世紀頃には、剣士対猛獣の戦いも行われていたそうです。
 演劇の上演や全市民参加の市民会の会場にもなったそうです。

アルカディアン通り
 港から大劇場を結んだ大理石の道路で、幅11m、長さ500mあるそうです。当時は、街灯も灯されていたといいます。
 通りの名は、皇帝アルカディウスにちなんで名付けられました。

トラヤヌスの泉 ハドリアヌス神殿 ポリオの泉
メミウスの碑 幸運の女神 ケイテ メドゥサの彫刻
オデオン(音楽堂) オデオンの階段 獅子の足首を彫刻 勝利の女神 NIKE
大理石通り クレステ通り クレディア通り
ヘラクレスの門
セルシウスの図書館
大  劇  場
レリーフ 遺跡と美女
アルカディアン通り 正面はエーゲ海 アルカディアン通りから見た大劇場

クサダシへ(約20km)

 エーゲ海沿いのリゾート地としての歴史も古く、多くのヨーロッパ人にも愛されてきたクサダシは、エーゲ海クルーズの停泊地でもあります。
 
 ホテルのプライベートビーチでは海水浴客が波と戯れていました。

 ホテルのプールサイドでは日光浴をしている人でいっぱいでした。

リッチモンドホテル泊 

4日目 9月2日

 ホテル発 8:30

 シリンジェへ(約60km)
 途中、革製品工場に立ち寄る。

 
道路標識 クサダシから


シリンジェ村
 古い街並みが残るまちで、いかにもヨーロッパの古いまちと思わせる素朴な感じでした。
 皿を土産に買いました。買う
 葡萄酒の試飲ができました。いろんな味(果物味)の葡萄酒がありました。おいしい。

シリンジェ村中央広場 坂道の石畳 ドライフラワー店
クルミを割るおじいさん 人形の店 白い民家が斜面に沿って並ぶ

昼食(高台の見晴らしの良いところ)


パムッカレへ(約170km)

パムッカレ

 パムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味だそうです。綿は昔からこのあたりが良質の綿花の一大生産地であることによるものです。
 二酸化炭素を含む弱酸性の雨水が石灰岩に浸透し、炭酸カルシウムを溶かした地下水となり、その地下水が地熱で温められて地表に湧き出て温泉となり、その温水中から炭酸カルシウム(石灰)が沈殿して、純白の棚田のような景観を作り出したものです。
 棚田の畦の部分に流れてきた植物片などがひっかかり、これに石灰分が沈着して次第に堤のように成長します。
 このような景観が約200mの高さにわたって形成されています。
 石灰棚には、温泉水があり水着姿の外国人でいっぱいでした。
 ズボンをめくりあげ、靴を片手に温泉が入った石灰棚を散策しました。藻があるところは滑りやすく歩くのに苦労しました。
 温泉は開発ラッシュのため枯れつつあるそうで、温泉水道管の蛇口があり、水を調節していました。

炭酸カルシウム(石灰)が沈殿して、純白の棚田のような景観を醸し出している


途中のトイレ休憩所でトルコ名物の菓子を買う。

サーマル・パム・ホテル(温泉風呂)


5日目 9月3日

ホテル発  7:00
コンヤへ(約440km)


昼食 キャラバンサライを改築したレストランで 外国人がいっぱい

キャラバンサライを改装したレストラン


コンヤ
 1228年、中央アジアのバルフ(現在のアフガニスタン北部)に生まれたイスラム神秘主義者、ルーミー(メヴラーナ)がトルコを代表する神秘主義教団であるメヴレヴィー教団を開きました。
 ルーミーの墓廟はオスマン帝国期にはメヴレヴィー教団の道場に使われていたましが、1927年に神秘主義教団が解散され、ルーミー廟は閉鎖されました。
 廟は現在はメヴラーナ博物館として一般公開されています。宗教性が薄められた今もなおコンヤを代表する建造物です。
 この他、コンヤにはアラエッディン・モスクやセリミエ・モスクなど多くのモスクがあり、アナトリア随一の宗教都市として繁栄したかつての姿を現在に伝えていました。

メヴラーナ博物館
インジェ・ミナーレ博物館

 
カッパドキアへ(約230km)

ホテル
 ウチヒサール カヤホテル(2連泊)

カヤホテル


6日目 9月4日
ホテル発 8:45

カッパドキア

 カッパドキアは、標高1000メートルを超えるアナトリア高原中央部に、100km²近くにわたって岩石地帯が広がる台地です。
 キノコや煙突のような形の奇岩が林立し、巨岩がそびえる景観はまさに自然の驚異です。この不思議な風景は、火山によって堆積した硬い層と柔らかい層の浸食作用によって生み出されました。
 一風変わった自然の造形美を味わうことができました。
 地名「カッパドキア」は、「美しい馬の地」を意味するペルシア語に由来するそうです。
 7世紀のカッパドキアはいくつかの地下都市があり、主に初期キリスト教徒によって、隠れ場所として使用されたいいます。
 柔らかい地層は掘って洞窟住居として1950年頃まで使われていたそうです。
 "妖精の煙突"と呼ばれる多様な奇岩、ギョレメ谷、ギョレメ国立公園、岩窟教会、カイマクル・デリンクユの地下都市、ゼルヴェ谷、ウチヒサルの岩の要塞、鳩の谷、ラクダ岩、エセンテペ、ローズバレー等を4輪駆動車で見て回りました。 
 



カイマクル地下都市

ジュウタン工場見学

昼食

洞窟民家でティータイム
 
ウチヒサール カヤホテル


7日目 9月5日

ホテル発 9:30

ギヨレメ野外博物館

 30以上の岩窟教会があるそうです。 

 
トルコ石工場見学
昼食

カイセリ空港へ(約100km)

カイセリ空港発 16:25

アタチュルク空港着 17:55

夕食 ボスポラス海峡ディナークルーズ

 
船内でのディナー ライトアップされたルメリ・ヒサール

ホテル
 コンラッド インターナショナル イスタンブール(2連泊)

階上レストランからの眺め


8日目 9月6日

ホテル発9:00
イスタンブール
 イスタンブルは、トルコ共和国西部の大都市です。
 日本では「イスタンブール」と呼ばれています。
 ボスポラス海峡をはさんでアジア側とヨーロッパ側の両方に拡がる大都市です。
 都市圏人口はおよそ1052万人(2010年の国際連合の統計)、文化・経済の中心地です。
 オスマン朝がこの町を征服した1453年を境にして「コンスタンティノープル」から「イスタンブル」と言い換えています。
 イスラムの支配下となり、聖ソフィア大聖堂(アヤソフィア)をはじめ多くのキリスト教の教会が強制的に接収されモスクになりました。

スルタンアフメット広場
 ピポドロム(ローマ時代の大競技場跡)
 かっては縦500m、横117mのU字型の競技場です。戦車競技などが行われていたそうです。
 ベン・ハーの戦車競技のシーンを思い出しました。
 広場には、オベリスクが建っていました。

古代エジプトのオベリスク

 
オベリスク オベリスク台座
 紀元前1500年頃にエジプトのヒエロポリス神殿前に建っていたものを4世紀にコンスタンテュヌス1世がアレキサンダー王国にイスタンブールに捧げて欲しいと伝え、運び込まれたと伝えられているそうです。
 エジプトの象形文字が刻まれていました。


コンスタンティヌス・ポリフィロゲニトゥスの石柱(オルメストゥス)
    

 幾人かの皇帝の名前が刻まれているそうですが、誰によって建造されたかは分からないそうです。
 皇帝の偉業をたたえて建造されたものでしょう。


スルタン・アメフット・モスク(ブルーモスク)
 オスマン朝のモスクなどに倣いながら建造され、内装も使用されたタイルの青の基調の色合いからブルー・モスクと称されています。
 スルタン・アメフット1世(1603~1617年)が「誰であろうとも神のために一つの祈祷の場を設ければ、その者のために天国の一角を分け与える」という夢の暗示に従ってこのモスクを建造させたという説があるといいます。

 6本のミナレットにまつわる伝説
  一般的にモスクのミナレットは2本です。イスラムの正統派を主張するモスクのミナレットは4本です。
  スルタン・アメフット1世が、「ミナレットは黄金(アルトゥン)で造れ」と命じたのを6(アルトゥ)と聞き間違えて6本のミナレットになったとい うことです。
  6本のミナレットを持っているモスクはここだけだそうです。


トプカプ宮殿(宝物殿・ハーレム)
 トプカピ宮殿は、ボス歩ラス海峡を望む小高い丘に建てられています。
 オスマン朝一族の生涯を送るために、ファーティフ・スルタン・メフメットにより、1460~1478年にかけて建造されました。
 ここに、大砲が設置されていたことからトプ(大砲)カプ(門)サライ(宮殿)と呼ばれるようになったという逸話があります。 

地下宮殿

昼食


グランドバザール


夕食はベリーダンスを鑑賞しながら


コンラッド インターナショナル イスタンブール


9日目 9月7日
ホテル発 10:00

アヤ・ソフィア大聖堂
 アヤソフィアは、コンスタンティヌス1世(324~337年)により教会として建造が始められ、360年コンスタンティヌス2世の時代に完成しました。
 建造後、916年間は教会として、1453年オスマン朝がこの町を征服した後はモスクとして481年間、1935年以降は博物館としてビザンティン建築の最高傑作と評され、歴史的役割を担い続ける建造物です。

ブルーモスク側から見たアヤソフィア大聖堂 大聖堂内部 階上ギャラリーから見た内部
ステンドグラス マリアとヨハネに囲まれたイエスの壁画 後陣

ガラタ塔
 ガラタ地区に建つガラタ塔は、当時ここがジェノバ人の居住地であったことがその名の由来だそうです。
 1349年、ジェノバ人によって建造されました。
 ビザンチンの文献では、大きな塔の意味を持つメゴラス・プルゴスと名付けられたとされているそうですが、ジェノバ人の文献ではキリストの塔という意味を持つクリステア・トゥリスと記されているそうです。
 19世紀以降は火事の監視塔として使用されていたそうです。


イスタンブールの街並


昼食(トルコ風中華料理)


アタチュルク空港発 18:30 TK0050
機内泊

10日目 9月8日
成田着 11:45

 世界遺産等を通して、トルコの歴史、文化、自然のすばらしさに触れることができました。
 楽しい旅でした。
 機会があればもう一度訪れたいところです。