シルクロードの旅

ヤルカンド近くのポプラ並木
ヤルカンド近くのポプラ並木 ロバ車

                             


                        シルクロードの旅


                     新しい時代だけが持つ大きな鍵が
                     シルクロードの錠前をはずした。

                     世界にただ一つ遺されている
                     神秘な地帯に
                     いま、一條光が入った。

                     天山、崑崙、パミール
                     タクラマカン沙漠
                     タリム河
                     三十五の少数民族が興亡を繰り返し
                     武帝の遠征隊が通過し
                     玄奘三蔵の経巻隊が進み
                     何世紀かに亘って
                     駱駝の群れが絹を運んだところだ。

                                   井上 靖シルクロード詩集より             



 作家、井上靖さんがこう記されたシルクロードを、平成16年9月17日~27日の10泊11日、妻と二人で旅しました。
 毎日がハプニングと感動の連続でした。その思い出の一端を記してみました。
                
 

行程

9月17日 福岡~(青島経由)~西安(飛行機利用)
18日 西安~ウルムチ(飛行機利用) 着後 市内散策 紅山公園他
19日 ウルムチ~ホータン(飛行機利用) 着後 市内散策 マリカワト古城他
20日 ホータン~カシュガル(長距離バス利用) 520km、8時間のバスの旅
21日 カラクリ湖観光  パミール高原の一角にある標高3600mの湖
22~24日 カシュガル散策 エイティガール寺院他
24~25日 カシュガル~ウルムチ(南疆鉄道利用)1588km、約24時間の列車の旅
ウルムチ着後 市内散策 新疆ウイグル自治区博物館他
26日 ウルムチ~西安(飛行機利用) 着後 市内散策 鐘楼他
27日 西安~(青島経由)~福岡


さぁー シルクロードへ
ホータン ポプラ並木



1日目 9月17日(金)


10:00
 天気に恵まれ、我が家を出発。

12:50
 福岡空港国際線ターミナル到着。

13:00
 昼食をとり、気持ちにややゆとりが出る。
 15時40分発中国東方航空(MU290)西安行きの搭乗手続きのため日航カウンターへ。6月西安へ行ったときは、直ぐに搭乗手続きができたが今回は「しばらく待ってください。」とのこと。カウンター近くのロビーで待つこと1時間。

14:00
 西安行きについての初めての情報。「西安空港が霧のため機体の到着が遅れる見込み。福岡発は20時頃になるだろう」との放送がある。

16:00 搭乗手続き始まる
 搭乗手続きが終わったのは17時頃。手続き中に出発時刻を訪ねると、予定時刻より大幅に遅れ、20時30分頃の離陸だろうとのこと。

18:00 西安空港から市内までの交通手段は?
 「中国東方航空(MU290)西安行き」の搭乗者に航空会社より500円の食事券が配られ、空港レストランで簡単な食事をとる。
 西安空港には18日午前0時から1時頃到着予定らしい。西安空港から西安市内までのリムジンバスやタクシーは待機しているのだろうか。深夜のタクシーは安全なのか心配になり、航空会社で空港から西安市内までの交通手段を確保して欲しい」と頼む。
 「それはできないが、多数の搭乗者がいるから空港には何らかの交通手段はあるはず。」の一点張り。
 無事に西安のホテルへ着けるか不安が広がる。搭乗者ロビーで待っている間、出発カウンターの係と何度も交渉するが、結果は同じ。
 西安まで行くグループから「西安市内まで自分たちの車で行きましょう。」と声をかけてもらう。この一言で、どうにか西安市内までは行けると一安心。

19:00 7時のニュースは西安賓館(衛星放送)ではなく福岡空港で
 プロ野球団体交渉は19時の段階でもまとまらず、まだ、交渉が続いているという。

19:30 西安行きが青島止まりに?
 「西安まで搭乗の方は搭乗口までおいでください。」との放送があり、搭乗口まで行くと「搭乗機は20時10分着予定。乗務員の勤務時間の関係で青島止まりの公算が大。ご了解願います」という。
 搭乗者の中には翌朝早くから予定が入っている人、翌朝早い便で敦煌へ行くツアー客などがいる。
 「何とかして今日中に西安まで行けるように手配して欲しい。」と一時混乱する。
 航空会社からは「搭乗機が到着次第、機長と交渉して機長が替わってでも西安へ行くように交渉します。」との回答。

20:20 今夜は青島泊り
 「機長と交渉の結果、今日は青島止まりで、ホテルは航空会社が用意する。明朝早く西安へ向かう」と説明を受ける。
 「西安で、18日の西安・ウルムチ便と27日の西安・福岡便のリコンファームをするようにしている。それができなくなった。どうしたら良いか。また、ホテルの予約取消は航空会社の方でしてくれるのか。明日の西安12時発ウルムチ行きの便に間に合わなかったらどうすればいいのか。」と尋ねると、「リコンファームは航空会社の方でします。ホテル予約取消はご自分でお願いします。ウルムチへの便は後続便があります。」という。
 旅行会社からホテルの予約取消をしてもらおうと電話するが、勤務時間外のため会社の電話は応答なし。事情を留守電に入れておく。
 航空会社からは、「ウルムチ行きと福岡行き2便のリコンファームはできました。」との返事あり。

20:45 搭乗開始
 隣座席に着座した洗車関係の仕事で西安まで行くという広島県の人曰く「この飛行機、落ちないでしょうね。日本では着陸したら2時間ほどかけて整備し、安全を確認して飛ぶのに給油しただけで飛行するとは恐ろしいことだ。」と。

21:00 離陸(私たちは福岡空港に、13時に着いたので結局8時間もいたことになる)
 やっと離陸できた安堵感とこれからも何が起きるかの心配から機内でのことはほとんど記憶にない。明18日の青島発西安行きは8時と聞き、ウルムチ行きの便には十分間にあうことが分かり、ホッとする。

21:40(中国時間 これからはすべて中国時間で記す)青島空港到着
 青島空港では、荷物引き取りにかなりの時間を要した。この間、妻は空港職員にホテルのキャンセルを頼みに行く。
 妻の話によると、優しそうな女子職員を捜して「西安のホテルをキャンセルしたいから代わって電話をして欲しい。」と頼み、テレフォンカード(1枚50元、このカードは後で分かったことだが山東省だけでしか使えない)を買うために特別に外に出してもらい、テレフォンカードを買ってやっとキャンセルができたという。
 (こんなにしてまでホテルのキャンセルをする必要はなかった。ホテル代金は支払い済みであり、ホテル代金は返ってこなかった。)
 ホテルへ向かうバスの手配に時間がかかる。一端乗り込んだバスは運転手がどこに行くかも聞いていないというので隣のバスに乗り換える。

22:50 航空会社用意のバスで宿泊ホテルへ
 佐世保市からのツアー客の人たちは明日の朝早い便で西安から敦煌へ行く予定だったとか。添乗員はスケジュール変更で中国旅行社と連絡を取り合って大変らしい。
 夜間だからかバスは、一般道路を高速で走行する荒っぽい運転に、事故が起きないかと冷や冷やしながら乗車していた。

23:20 ホテル(青島大酒店)到着
 バスから降り、各自が大きなトランクを持ち、ホテルロビーはごった返す。全く知らない者同士が思いもかけぬにわか団体となったため混雑する。佐世保東急ツアーの添乗員さんが全体をコントロールしてくれた。
 「ツアー客34人、個人客34人の計68人が個々にホテルと部屋の交渉をしていたら時間がいくらあっても足りないので、私が代表して部屋割り交渉して良いですか。」と言ってくれるので、全員が拍手でお願いする。
 しかし、部屋割り、パスポートのチェックに時間がかかる。モーニングコールが明朝5時40分、ホテル発が6時30分を確認して部屋に入り、やっと落ち着いたのは、0時を過ぎていた。ホテルは3つ星と聞いていたが粗末な部屋だった。

1:00  就寝  
  
      宿泊ホテル 青島大酒店

シルクロードの出発点は、なぜか青島

2日目 9月18日(土)

05:30 起床。なんとしてもウルムチまで行かねばならない。

06:30 ホテル出発
 昨夜の騒ぎがさめやらぬかのように周りの人の表情は不安げな様子である。
 チェックアウトに手間取り、やっと全員がバスに乗り込んだと思うと、昨夜、空港からホテルまで引率してきた東方航空の若い男性社員が人数を確認しているのか、声を出しながら車内を行ったり来たりして、なかなかバスは発車しない。
 妻が「どうしたのですか。」と中国語で尋ねると、何か言っているが早口で妻は聞き取ることができない。妻はメモ帳を出して「チン シュエ イー シャー」と言うと、「昨天和他一起来的一位女士?」とメモ帳に書く。
 四国から来ていると言っていた男性に、「昨夜、あなたと一緒に来た女性はどこにいますか?と聞いています。」と言うと、男性は「彼女は先に空港へ行った。」と言う。
 このことを若い社員に「她先去了机場(ター シエン チュイラ ジーチャン)」と告げると納得して、やっと6時40分バスはホテルを出発する。1分でも早く空港へと思っているのに、急ごしらえの68名の団体は一つのことを処理するのに相当な時間がかかる。

07:10 青島空港到着

07:30 搭乗手続き始まる
 女性係官が一人で荷物預かり業務から座席指定の業務までしている。急がず、あわてず念入りに仕事をするので時間がかかる。入国カードとパスポートを提示して入国手続きを一人一人する。8時20分、やっと全員搭乗し終わる。この時点ですでに離陸予定時刻より20分遅れる。

08:30 搭乗券の払い戻し
 機内では、敦煌方面ツアー参加の人たちは手に手にパンと牛乳パックを持っている。おそらく航空会社から支給された朝食と思われる。
 「私たちはもらいそこねたね。」と言いながらもいよいよ離陸かとホッとしていると、航空会社の人が数人機内に乗り込み、私たちの搭乗券のチェックをするという。何事かと思っていると、中国人搭乗者(今朝早く一人で先に空港へ行った女性)が「1人あたり200元の払い戻しがある。」と教えてくれた。
 一人一人の搭乗券をチェックし、領収サインをもらいながら68人に200元を払い戻していく。時間はどんどん過ぎ、出発はいつのことか分からないのでいらいらしていると、後部座席の方でなにやら大声が聞こえる。中国人同士のトラブルが起こったらしい。公安がパトカーで機体近くまで来、機内に乗り込んで仲裁に当たっている。
 私たちは、西安空港12時発の便でウルムチへ向かうことから、妻は客室乗務員に「間に合うでしょうか?」と聞く。
 「差不多(だいたい間に合う)。」と言うが、時間はどんどん過ぎる。「これでは、私たちは12時発ウルムチ行きの便に間に合わない。早く離陸して欲しい。」と必死に訴える。
 このやりとりを聞いていた佐世保の添乗員さんが「航空会社の都合で遅れるのだから会社に全部手続きをしてもらって良いです。自分でするのは大変です。」と言う。
 「でも、遅延の証明がいるでしょう、どうすればいいのですか。」
 「遅延の様子はコンピュータで分かるから大丈夫です。」とのこと。
 一応納得はしたものの遅れた場合の対応を全部自分たちで行うことになると思うと気が重くなる。
 搭乗者の中には、今日の午後西安市内で中国人女性と結婚式を挙げるという大阪の青年がいた。「家族はとても心配しているようだが、私がいなくては式も始まらないので私はそんなに心配していない。」と言っていたが、離陸が遅れ、じりじりしているようだった。
 赤ちゃんを抱いている若い母親はミルクやおむつの心配からか乗務員に苦情を言っている。
 払い戻しに約30分を要した。

09:03 離陸
 西安までの距離約1160kmを1時間45分飛行する。機内食が出る。キャベツやニンジンを入れたカレー。それに、小さなパンとビスケット。空腹感がおさまる。外は雲が多く、視界が悪く景色は見えない。

11:00 西安空港着陸
 国際線出口を通って荷物を受け取るためにターンテーブルで待つが、なかなかターンテーブルが動かない。おかしいなと思っていると、佐世保の添乗員が「荷物は国内線の方に行っているようです。国内線の方に移動しましょう。」と言う。
 空港の女性係員が国内線に誘導しようとすると、男性係員が待つよう指示する。2・3度移動しかけては止まるを繰り返すうちに、国際線出口から一端外に出て、国内線出口からターンテーブル前へ移動して荷物をやっと受け取る。
 この間、妻は、一人でウルムチ行きの搭乗手続きを済ませてくる。
 妻の話によると、小走りで搭乗手続きカウンターを探していると「中川さんですか?」と中国人男性に呼び止められ、「早く出発カウンターで搭乗手続きを済ませてください。手続きさえ済ませれば大丈夫です。」と言われたという。
 名前を聞くと「福岡のSさんから頼まれた韓と言います。」と応えたそうだ。昨夜、福岡の旅行会社へ「飛行機は青島止まりとなり、西安のホテルキャンセル、リコンファームのことなどが心配。」と留守電に入れておいたので西安の旅行会社の方へ援助を依頼したのだろう。韓さんは、他の旅行者を迎えに来たついでに、声をかけてくれたのだった。ありがたいことだ。

11:20 ウルムチ行きの飛行機へ搭乗
 国内線出口から出て、再度国内線搭乗手続きカウンターへ小走りで行き、荷物を預け、8番ゲートへ向かう。11時45分に機内に着席し、落ち着く。
 妻は空港内を走り回り搭乗手続きを一人でこなしたので、安堵感と疲れがどっと出た模様。まだ半日も経っていないのに「今日は長い長い1日だったね。」と言う。
 青島のホテルを出発してウルムチ行きのこの飛行機に乗り込むまで、緊張の連続だった。「なんとしてもウルムチ行きの便に乗らねばならない」の一心で気が張りつめていたのだろう。

11:50 予定より10分早く離陸
 約2100kmを3時間あまり飛行する。
 機内から見える景色は感動の連続だった。
  黄土高原に続き茶色の平地や山々。
  黄河と思えるような大河が蛇のように蛇行しながら流れている。
  薄黄色に光るゴビ砂漠の中には、雨水が流れたような跡が無数に見える。
  遠くには、万年雪をかぶった祁連山脈が光って見える。
  広漠たる光景の中、所々に青々としたオアシスが点在している。
  オアシス近くに緑色に輝く湖らしきものも見える。
  離陸後、1時間半ほど経ったとき空港の滑走路が白く光って見える。敦煌空港だろうか。
 
  機内食は、ご飯に野菜と肉を煮込んだもの。パンとパインがでる。

砂漠の中の湖 砂漠の中の河

15:13 黄土、ゴビの砂漠を越えて、ユーラシア大陸のほぼ中心、ウルムチ空港に着陸
 平成5年、蘭州、敦煌、トルファン、ウルムチのシルクロ-ドの旅を終え、北京への飛行機が離陸すると間もなくエンジントラブルでウルムチ空港上空を1時間ほど旋回して着陸し、5時間ほど遅れて北京空港へ飛び立ったことを思いだす。
 空港は近代的な建物に変わり、当時を思い起こさせるようなものはなにもない。

15:35 タクシーでホテル(新疆大酒店)へ向かう
 運転手の荒っぽい運転にびっくり。まさにカミカゼタクシー。高速道路ゲートでは指を3本出して、「高速道路代金、3元」と請求する。高速道路でも車線を変更しながら次々に前の車を追い越し、荒っぽい運転が続く。とてもこわかった。
 道路はきれいに整備され、街の中まで都市高速らしきものが通っている。35分でホテルに着く。車も非常に多いが、どうも回り道をしたらしい。タクシー料金は55元だった。

16:10 ホテル着
 新疆大酒店はきれいなホテル。カウンターに日本語が話せる人がいてホッとする。チェックインして部屋に入る。
 部屋はこれまで泊まったホテルではナンバー2。(ナンバー1は宮崎シーガイアホテル)
 部屋から紅山公園が正面に見える。すぐ横は中学校らしい。校庭で子どもたちがバスケットボールに興じている。ほどなく、ウルムチの新疆中国旅行社 胡献春さんから電話があり、「これからホテルロビーで明19日のことを説明します。」という。
 ホテルロビーで待ち合わせ、ウルムチ発ホータン行きの航空券を受け取り、明朝の出発予定時刻を確認する。
 「朝6時半出発では朝食はとれないな。」と妻と話をしていると、胡さんが食堂に掛け合い、6時から朝食がとれるよう交渉してくれた。

17:00 紅山公園へ
 車の量が多く道路横断は難しいと思いつつ歩いていると地下道がある。いくつかの地下道を利用して道路を横断し、紅山公園へ。
 公園の緑が美しい。公園は高台にあり、市内が一望できる。高層ビルが建ち並ぶ東の方には雪を頂いたボグド・オラ峰が見える。西には妖魔山が見える。平成5年に見た街並みとは趣が違う。

 ホテルで1万円を747元3角に両替する。

紅山公園 紅山公園遠眺楼 立体交差の道路で

20:00 ホテルレストランで夕食
 和食、洋食、中華料理のバイキング形式のレストラン。料理がおいしい。食事らしい食事をした。
 ホテル最上階からの夕日がとてもきれいに輝いて見えた。日没は、中国時間(北京時間)午後8時6分。
 ウイグル自治区では北京時間からマイナス2時間した時刻を官庁などの公的機関以外は使っているらしい。

宿泊ホテル 新疆大酒店 ウルムチ新華北路168号 電話 0991-2818788


ウルムチ(烏魯木斉)
 中国新疆ウイグル自治区の首都。人口200万。ウルムチとはモンゴル語で「美しい牧場」という意味だそうだ。天山山脈東部の名峰ボグド・オラの北西麓にあるオアシス都市。標高887、4m。
 交通の要衝で、7世紀唐朝がここに庭州(のちに北庭都護府)輪台県を置いた時期を除き、長く遊牧諸勢力の根拠地であったが、ジュンガル王国を滅ぼした清朝が1763年ここに迪化城を築き、烏魯木斉都統を置く。以後、中国領となった。
 1884年新疆省の成立に伴って省都となり、中華人民共和国成立後、その名は旧名のウルムチに復した。
 現在、中国内地と新疆を結ぶ蘭新鉄道の終着点で、中国西北部の政治・経済・交通の中心として急速に大産業都市に変貌しつつある。市街地は高層ビルがメインストリートに林立している。
 現在ウルムチ市の人口の約72%は新中国になって流入した漢民族で、商業や工業などに従事し、約13%がウイグル民族で、ウイグル自治区に住むウイグル民族のほとんどは、農業に従事しているという。
 新疆ウイグルにはウイグル民族のほか少数のカザフ、キルギス、タジキスタンなど多くの民族が居住している。

       

ビルが林立するウルムチ 緑豊かな公園 ホテル前通り


西域南道のオアシス ホータン(和田) ホータン 子どもたちと

3日目 9月19日(日)

起床  05:00
朝食  06:00
   洋食 中華のバイキング料理。好物のトマトジュース、牛乳もある。

 まだ暗い中、旅行社の胡さんが運転する車で空港へ。  06:30
 夜明け前でまだ薄暗い中に、道端の露店ではおみやげ用のブドウやハミウリを売っている。カシュガルでとれるウリは、ハミウリと同じ瓜でも「カシウリ」と言い、ハミウリとは味が違うそうだ。
 また、近年、ウルムチでも雨が多くなり傘が必要になったと言う。胡さんが小さい頃(20年ほど前)に比べると、湿気が多くなったとも言っていた。

ウルムチ空港着    07:00 
 胡さんが搭乗手続きをしてくれる。25日は自分たちで西安行きの搭乗手続きをしなければならないので、空港の様子をつぶさに観察し、搭乗手続きの仕方も詳しく聞く。
 ここウルムチ空港ではどのカウンターでも空いているところで、どこ行きでも手続きができるという。胡さんにお礼を言って、私たちだけで搭乗者ロビーへ。

 CZ9993 ホータン行きは定刻通りウルムチ空港を離陸。  08:15 
 胡さんには「窓側の座席を確保して欲しい。」と頼んだにもかかわらず、座席は通路側。がっかりして後ろの座席を見ると、空席がある。「座席を替わって良いですか。」と日本語と身振り手振りで客室乗務員に言うと、「OK」の返事。私はA席へ。妻はF席に移動する。
 離陸間もなく、ゴビの砂地が現れ、それが徐々に丘陵となり、15分もすると、鋭利な刃物のように切り立った峰々が続く天山山脈になる。その峰々の北側の岩壁は万年雪。朝日を浴びて、キラキラと輝き、南側の岩壁は茶色、低い方はこげ茶色。そのコントラストはこの世のものとも思われない美しさ。その美しさに息をのむ。

万年雪を頂いた天山山脈

 万年雪を頂く4000m級の天山山脈の大パノラマだ。天山山脈の上空を40分ほど飛行すると、雲が霞のようにたなびいてくる。白い雲は朝日を浴びて虹色の彩雲となっている。日の出から数時間、この自然界が様々な光のコントラストを見せてくれるすばらしい時間を持つことができた。
 いっぺんの緑も無い、殺伐たる岩の山々が続く天山山脈を過ぎると、今度は荒涼たる砂漠が見える。タクラマカン砂漠上空に出る。風紋が絵に描いたように美しく見える。

タクラマカン砂漠風紋

 ホータンに近づくと高度がぐんぐん下がり、ホータン河の大きなうねりが見えてきた。
 ポプラ並木や用水路が整然と整備されている村々の上空を旋回すると、あたり一面砂地の中の滑走路に着陸する。
 空港の周りは数本のポプラの木と小さな空港ビルがある他は、砂地ばかりでここが飛行場かと見間違うほどである。今日は、風もなくスムーズに着陸できたようだ。
 1時間40分のフライトがあっという間に過ぎてしまった。
 これまで飛行機には数知れず搭乗したが、このような大パノラマの上空を飛行したのは初めてのことで、深い感動を覚えた。

ホータン(和田)空港   09:55
 

 ホータンの空港ビルは完成して間もなくのようでとてもきれい。荷物を受け取り、出口に向かうと、感じの良い女性がにこやかに手を振って私たちを迎えてくれる。
 平成10年、妻がシルクロードの旅をしたときのガイド、成岩(セイガン)さんだ。
 とても懐かしがって「よくいらっしゃいました。」と中国式日本語で話しかけてくる。誠実そうな人だ。
 妻が西域(ホータン、チェルチェン、チャリクリク、ミーラン、敦煌方面)を旅したときは独身だったという成岩さんは、1児の母親になったという。
 「今日は3組の日本人観光客がありましたが、事前に『ガイドを頼みます』という手紙をもらっていたので、自分が喜んで案内を引き受けました。」などと懐かしそうに妻と話している。
 ホータンの日本語ガイドは成岩さん一人しかいなく、日本語ガイドが必要なときは、ホータン師範大学のウイグル人の先生が応援するそうだ。

マリカワト古城   10:30
 「早速、マリカワト古城へ行きましょう。」とマリカワト古城へ車を走らせる。
 これが道だろうかと思うような砂の道を、砂煙を上げながら車は走る。スリップして立ち往生しないか心配するような箇所が何カ所もあったが、運転手は慣れたもの。上手に運転しながら砂漠の中をマリカワト古城へ。
 「この砂漠で写真を撮りたいから、どこかで車を止めてください。」と言うと、ユーロンカーシー河(白玉河)を眼下に見下ろす砂漠の中で停車する。
 写真を撮ったり、成岩さんの話を聞いていると、どこからか少年が5~6人、単車で来る。
 玉らしきものを見せてしきりに買わないかと言ってくる。無視していると「ヤーパン? コーリャン?」と聞いてくる。「ジャパニーズ」と応えるとにっこり微笑む。たばこを吸いながらどこかへ帰っていった。
 15分くらい走って古城の入り口の村へ着く。
 「ここからは車では行けないのでロバ車で行きましょう。」と成岩さんが言う。
 数台のロバ車を見ると、なんと先ほどの少年が「このロバ車に乗りませんか。」と言っている。
 驚いたが少年のロバ車に乗ることにする。道路の砂の深さは5cmはあるだろう。

ロバ車をひく少年

 少年はロバを引きながら、私を見ては玉らしきものを袋やポケットから取り出し、「買わないか?」と言う。
 この村はホータンでも一番貧しい村だそうだ。ロバを引く少年は15歳という。父母はなくなり、姉と二人で生活し、ロバ車代、1回20元が生活費となっているそうだ。
 この村に大きな家が1軒あり、そこの住人は、45kgの玉を見つけ、それが160万元で売れて、大金持ちになり立派な家を建てたと言っていた。
 10分ほどで古城に着く。
 広々とした荒涼たる砂漠の中の古城跡。
 ここに人が住んでいたとは想像もできないが、宇闐国(うてんこく)の時代は緑がいっぱいのオアシス都市だったという。
 古城跡には昔の建物の遺跡らしきものが点在している。
 その一つをよく見ると、土に蘆(よし)らしきものを混ぜて日干し煉瓦のようにして作りあげたのだろうと思われる跡が見える。砂地には、土器の破片がいたるところに落ちている。4cm四方くらいのかけらを拾う。
 写真撮影は禁止と聞いたが、監視員がいなければOKという。誰もいなかったので写真を数枚撮る。
 尿意を催したので遺跡の陰でようをたす。砂地に黒々としみこむ尿を見て、ふと少年時代、道路に小便で字を書き読みあったことを思い出す。

マリカワト遺跡入り口 砂漠の中のマリカワト遺跡 マリカワト遺跡建造物

 遺跡のすぐ横にあるユーロンカーシー河(白玉河)で30分ほど過ごす。
 崑崙山脈の雪解け水が河となって流れている。水はとても冷たく、青白く澄んでいる。ここで玉がとれるという。
 遠くの方では幾人かが河に入り、玉を探している。また、大型ブルドーザーで石を掘り返し探している。
 妻は「私も探してみる。」と靴を脱いで河にはいる。玉は探せなかったが、きれいな小石を数個拾う。
 しばらくしてどこから来たのかウイグル人が「玉を買わないか?」と白いきれいな玉を見せる。「NO」と言うと、なにやら言っているが全く分からない。カメラを見せ身振り手振りで「写真を撮っても良いか?」と言うと、玉を持ってポーズをとる。写真を撮り、習いたてのウイグル語で「ラヒメッティ!(ありがとう)」と言うと、にっこり微笑んでどこかに立ち去った。

 
ユーロンカシ-河 玉を売りに来たウイグル人


タクラマカン砂漠
 ウイグル語で「1度入ったら生きては帰れない場所」という意味で、今から1600年前、この地を横断し、インドへ向かった僧侶法顕は次のように記している。
 「空を 飛ぶ鳥が、地をはう獣が、ただ死人の骨をもって標識となすのみ」と。
 東西約2,000km、南北約600km、日本と同じ面積を持つ世界有数の流砂砂漠。

マリカワト古城
 ホータン市の南約25km、ユーロンカーシー河の西側にある遺跡。漢代から唐代にかけて、宇闐国(うてんこく)が辺境防御のために造った砦であったと考えられている。
 周囲には壁や住居跡と思われる痕跡が残っており、地上には陶器片が散乱している。

ユーロンカーシー河(玉龍喀什河)
 ホータン市の東を流れる崑崙山脈を水源とする河で、カラカシュ河と合流してホータン河となる。冬は水量が少なくなるが、雪解け水が流れ込むと川幅は広がり、砂漠を横断して、タクラマカン砂漠北側のタリム河と合流する。ホータンの特産品の一つである白玉は、この河でも発見されるという。

 

マリカワト古城近く タクラマカン沙漠

ホテルで昼食    13:30
 日本語ガイドの成岩さん、運転手さんと4人で食べる。
 昼食後、成岩さんがチェックインをしてくれる。部屋は1階であまり良い部屋ではない。
 ホテルの宿泊料金は
    デラックスルーム      620元
    スイートルーム       580元
    デラックススタンダード  280元
    スタンダードツイン     180元
 1泊8000円を支払っていたのだが、成岩さんの話によると、なぜだかデラックススタンダード(日本円3920円)の部屋になっていた。
 昼食後は1時間程度昼休みだという。室内でしばらく休む。その後、ホテルの周りを散策する。
 成岩さんは、昼休みの時間に明日私たちが乗車する長距離バスの切符を買いに行っていた。

ホータン市内散策
バザール
 日曜日のバザールは人が多いと聞いていたが、人、人、人。
 車で乗り付ける人(私たちも車で乗り付けた一人だが)、ロバ車で来た人、単車で、自転車で、あるいは徒歩で。
 売っているものを見ると言うより人を見に来たようなもの。はぐれないように必死だ。
 成岩さんが、ナツメと豆を甘露煮風に煮た食べ物を買って「おいしいですよ。」と分けてくれる。
 一つ口にするとなかなかうまい。
 バザールには何でもある。洋服から食べ物、機械類、履き物などなど。特に、野菜や果物、香辛料、羊肉が目につく。
 羊の肉を売っているところでは、まだ毛がついたままの羊の頭をニュッと突き出してみせる。びっくりした。
 カボチャを真っ黒に煮たもの、崑崙の山からか、切り出してきた氷を削ってかき氷として売っている人もいる。
 成岩さんが、農村から買い出しに来たウイグル人は自分の村に帰って、月曜日に売っていると説明してくれた。

絹織物の家内工場。
 主人と奥さんらしきウイグル人を紹介される。2人とも、もう70歳近い人かと思ったら、50歳代だという。
 機織り機で絹織物を織っているところを見せてくれる。模様が西域の感じ。根気の要る仕事だ。

絹織物

ポプラ並木
 「ポプラ並木で写真を撮りたい。」と言うと、「すばらしい並木があります。」と樹齢30年~40年という並木へ連れて行ってくれた。
 写真を撮ろうとすると近くに子どもが数人いたので「一緒に写真撮ろう。」とカメラを見せながら言い、数人一緒に写る。
 それを見ていた大人が数人寄ってきて「自分たちも一緒に撮ってくれ。」と言っているようだ。もう1枚撮る。陽気なウイグル人ならではのことだろう。「ラヒメッティ!(ありがとう)」と礼を言う。
 本当は、もっと素朴な農村のポプラ並木が見たかったが、成岩さんとすれば、いつも見ているポプラ並木の中でも樹齢30~40年という並木を見せたかったのだろう。

ポプラ並木 樹齢30~40年のポプラ並木 ポプラ並木とウイグル少年

人民広場
 成岩さんが、「明日バスの中で食べるものを買っておいた方が良い。」と言うので、妻は、人民広場(団結広場ともいうそうだ。毛沢東がウイグルの老人と握手している大きな像が建っている広場)近くの露店野菜売り場で、ハミウリ、ザクロ、リンゴ、ブドウ、モモなどの果物、トマトにキューリを買う。主食にナン(小麦粉をねったものをかまで焼き上げたもの。やきだごのようなものでウイグル人の主食)を買う。
 この間、私は周辺を一回りする。
 野菜売り場の一角に何もおいていない屋台がある。そこをウイグル人兄弟(兄は10歳くらいか、弟は3・4歳くらいの年格好)が歩いてくる。兄がひょいと弟を抱え上げ、屋台に乗せる。弟は兄の手を取り屋台の上をおもしろそうにぴょんぴょん跳ぶようにして歩いていく。屋台がなくなると、ぴょんと兄の背に飛び移り、二人して楽しそうに帰って行った。
 兄弟愛あふれるほほえましい光景だ。

人民広場 露店野菜売り場

 ホテルに着き、明日の予定を成岩さんに尋ねると、バスは12時発でカシュガルには22時頃に着くという。
 カシュガル到着時刻を22時と聞いた私は一瞬顔が引きつってしまった。私は日本時間の感覚で判断し、「大半は夜道を走るのか。せっかく車窓からの景色を楽しみにしていたのに残念。それにそれからホテルへ行き夕食となると、かなり遅くなるな」と思い、がっかりしてのこと。
 「こちらは20時くらいまでまだ明るいから。」という妻の一言で「あっ、そうか」と安堵した。

ホテルの部屋で夕食   20:00 
 買ってきた、ナン、野菜、果物、そして日本から持ってきたカップ麺、サンマの缶詰をおかずに部屋で食べる。
 21時頃暗くなり、部屋から三日月が見える。車の音、物音一つしない静かなホータン賓館の夜だった。

就寝    22:30 

ホータン(和田)
 タクラマカン砂漠と崑崙山脈にはさまれたオアシス都市ホータンは、シルクロードの天山南路に位置する。
 漢代から宋代にかけ仏教国として栄えた于闐国(うてんこく)の古都で、今も絹織物、じゅうたん、玉など伝統工芸品の生産・加工が盛んだそうだ。
 東方の国(当時の中国)から宇闐に嫁すことになった王女が、その冠の中に蚕の種(卵であったろうといわれている)を忍ばして、この地に養蚕を伝えたという蚕種西漸伝説を報告した玄奘三蔵は、この地の住民は「みな絹と絨毯を織ることに巧み」(大唐西域記)とも伝え、往時より織物の産地として知られていた。
 ホータンは、ウイグル族が90%を超え、ウイグル文字が目につく。
 ホータンでは、街の目抜き通りで毎日曜日にバザールが開かれる。私たちが訪れた日が日曜日であり、人、人、人の混雑であった。バザール通りは陽気な気分があふれ返り、お祭りのような楽しい雰囲気である。
 タクラマカン砂漠はオアシス都市ホータンを絶えず脅かし続けている。
 ホータンの人たちは砂と風との戦いを続け、力を緩めることがなかったおかげで、オアシス地帯は拡大し続けることができたそうである。

 

ホータンの農村ではどの家にもブドウ園があり、畑の中や路傍の空き地でもブドウが栽培されている。
 ホータン賓館の裏庭にもきれいなブドウ棚があった。ブドウが熟す頃になると人々はこのブドウの棚の下を歩いたり、車に乗って回ったりして涼をとるという。

 西域南道を訪れた作家、陳舜臣さんは写真集「西域南道」巻頭言の一節に

  
なつかしさの来源がどこにあるか、私にはわかっていた。
  ここは、玄奘三蔵がインドから帰国するときに通った道であるからだ。
  大袈裟にいえば、私は玄奘の息吹を肩のあたりに感じながら、この地を旅したのである。
  ・・・・風雪、飄として飛ぶ。・・・・
  三蔵法師伝に描写された一節が、断片的に私の脳裏をかすめていく。
  それで言いようもなくなつかしいのだ。
  ただ、現在の西域南道には、玄奘時代の仏教的雰囲気は、ほとんど残っていない。


 と書いている。

宿泊ホテル ホータン賓館 和田市ウルムチ路10号  電話0903-2513563

     

4日目 9月20日(月)

目が覚める   07:20。
 窓からは星が瞬いて見える。空気が乾燥していてすがすがしい。
 ホテル庭園のブドウ棚にはブドウがたくさん実をつけている。その下を散歩する。

ブドウ棚の下で


朝食   08:00
 ウイグル料理のバイキング形式の朝食。
 おかゆ、ナン、麺、野菜、肉料理などが並べてある。羊の乳だろうか(牛乳ではない)おいしい。2杯飲む。
 日本人観光客は誰もいなく、中国人観光客のグループが食事に来た。
 ホータンでの2日間、日本人は一人も見かけなかった。

ホテル出発   09:00
 妻が6年前に訪れたことがあるというホータン大橋へ行く。以前は、ホータンの町の橋はこれ1つだったそうだが、最近、新大橋ができたそうだ。
 朝早いが往来は、ロバ車、車、どこかに出かけるのか5・6人連れだって歩くウイグル人などでにぎわっている。
 大橋を歩いて往復してみる。

ウイグルの人と ホータン大橋

 橋の近くで、ウイグル人と写真を撮る。黒の帽子、コートを着ている。成岩さんはお葬式に行っているのだろうと言う。
 9月下旬のホータン河の川筋は、小川のような流れになっている。10月から5月までは、水は全く流れないそうだ。
 成岩さんが「ニア1号墓地跡から出土したシルク、楼蘭の4000年前の美女のミイラの布、哈密(ハミ)市五堡古墓地から出土したシルクに『五星出東方利中国』という文字があり、その文字をホータンのシルクの中に織り込んでいる。」と教えてくれる。
 『五星出東方利中国』の意味は説明してくれたのだが覚えていない。

人民広場(団結広場)
 団結広場に向かう途中、たくさんの小学生が道路清掃をしている。子どもたちが道路清掃とはすばらしい光景だと思いながら周りを見ると、大人(女の人は頭に白いスカーフを巻いている)も手に手に自分で作ったような箒を持って道路を掃除している。
 団結広場ではたくさんの人が掃除している。日曜日は人出が多く、ゴミが散らかるので月曜日の朝はみんなで清掃をするのだそうだ。
 これから、10時間の長距離バスでの移動となることから成岩さんは「水4本(1人2本は飲むだろうという)と昼食を準備したが良い。」と勧める。水とマントーを買ってバスの旅に備える。果物は昨日買ったものが残っているのでそれを食べることにする。


文明の十字路カシュガルへ長距離バスの旅 カシュガル 職人街

バスターミナル

 成岩さんはカシュガル行きのウイグル人のバス運転手(はな髭を蓄えていたが、髭をとれば私の同級のT君そっくり)に「この2人の日本人を無事にカシュガルまで送ってくれ。」と何度も何度も頼んでいる。
 運転手はその度に「分かった。分かった。」というような顔で笑っている。私たちにも「途中で、気分が悪くなったり、トイレに行きたくなったりしたらどこででも良いから大きな声で『ストップ』と声をかければ止まってくれます。」と繰り返し言う。その誠実な対応がうれしい。
 時間がかなりあるので、ターミナル周辺を散策する。
 トイレは有料だったが管理人がいなくて無料で用をたす。まさに以前の中国のトイレで、大便用トイレには扉無し。
 ターミナル前の通りはにぎやかで、タクシーやロバ車でたくさんの人が乗り付けてくる。
 騒ぎが起きたので何事かと見に行くと、大人2人が取っ組み合いしながら口論している。殴り合いではないところが良い。中に入って仲裁している人がいる。しばらくすると周りに人がたくさん集まり、仲裁に入った人とまで取っ組み合いをはじめ、誰と誰がケンカしているのか見分けがつかない。
 しばらく口論と取っ組み合いが続いたが、仲裁に入った人たちが2人を離してケンカがおさまる。何が原因でケンカが始まったのかは知るよしもないが、取っ組み合いまでして自己主張する人、中に入って仲裁する人、ウイグルの人たちは純真な人たちだと思う。
 日本だったどうだろう。おそらく周りの人は知らん顔をしているのではなかろうか。

 11時50分バスに乗り、出発を待っていると、車掌が乗客の若い兵士に向かって大きな声で喚いている。
 よく分からないがどうやら「乗車券を見せなさい。」と言っているようだ。それに対して兵士は乗車券を見せようとせず、自分の特権を主張しているようだ。それで大声を出して乗車券が必要だと言っているのだろう。後部座席に乗っていた連れの兵士が心配そうに見ている。
 10分間ほど「乗車券を見せなさい。」と言い続けていると、2人の若い兵士はバスから降り、乗車券を購入してきたようだ。この間、バスはターミナルを出て道路脇で待機している。
 バスが禁煙かどうかが気になったので、成岩さんにこのことを聞くと、バスは禁煙だが運転手は眠気防止に運転席の窓を開けてたばこを吸うこともあるという。それは仕方ないかなと納得する。

長距離バス カシュガルヘ   12:00
 バスの乗客はウイグル人と漢人が半々のようで、満席。外国人は私たち2人だけ。
 席は運転席の直ぐ後ろの1番と2番。墨玉県、皮山県、葉城県、洋普県、莎車(ヤルカンド)県、英吉紗県、疏勒県の各オアシスを通り、大小8本の川を渡る520kmを8時間で走行するという。バスの運賃は1人79元。日本円で1100円程度。
 カシュガル到着は22時ではなく20時だと聞いて一安心する。バスは3人の運転手が交代で運転し、ノンストップだという。

 ホータンは広い。バスが走り続けても市街地、緑地が続いている。ポプラ並木が延々と続く。畑はトウモロコシ畑が多い。綿花畑もある。
 30分ほど走って稲作の田んぼが見えてくる。驚いたことには案山子まで立っている。おかしくなる。米も主食の一つなのだろう。
 タクラマカン砂漠の南端をバスは西へ走る。まっすぐな直線道路、上り坂が続く。
 40分から50分走るとオアシスの町にでる。オアシスはどこもポプラ並木で囲まれている。
 ホータンでは、ポプラ並木が珍しかったが、この8時間のバス旅行でポプラはもう十分というくらい目にする。ポプラ並木は防風林、防砂林の役目を果たしているという。
 崑崙山脈の雪解け水でできた河がいくつもある。それも大河だ。湖かダムかは判らないが満々と水をたたえている。
 道路は舗装してあるが、状態はあまり良くない。バスは時速70kmから80kmで走り、振動が激しい。
 1時間ほど走ったところで、一人の若い男性が車を止めるように言う。気分が悪くなったようで、降車と同時にもどしていた。
 たくさんの男性がバスから降り、砂漠の中で用を足す。


 男性乗客の場合はどこでも直ぐに止めるが女性が頼むとすぐには止まらず、木陰か草むらがあり目隠しになりそうな場所に止める。運転手の気配りだ。
 昼食の準備はしたものの振動が激しく、食事をする気にならずマントー1個とブドウを少し食べる。妻はビスケットとブドウを食べる。のどが渇くかと思ったが水もそう欲しくはなかった。とても緊張していたように思う。
 途中にバスの停留所はない。ところどころの道端で手を挙げ「バスに乗りたい」との仕草をする人がいるが、運転手はその人たちを乗せたり、乗せなかったりする。運転手はそのときの気分で乗せたり、乗せなかったりしているのではなかろうかと思うようなところがある。
 ある町の道端で女性が手を挙げたのでバスが止まる。女性は手に持っている機械の部品らしい物を車掌に預け、「○○ホテルの前まで運んでくれ。」と言っている。
 車掌は、はじめは渋っていたようだがそれを引き受け、自分の足下に置くとバスは何事もなかったかのように発車する。2つくらい先の町まで来ると、道端で待っていた男性にそれを渡し、バスはまた走り続ける。物の運搬は無料のようだ。それとも知り合いだったのか。
 砂礫の荒野には時々小さな竜巻が起きている。この竜巻が大きくなると数メートル先も見えないという砂嵐となるのであろう。今日は運良くおだやかな晴天であった。
 次から次へと変化する車窓からの眺めがすばらしく8時間があっという間に過ぎる。

 
砂漠の中でロバ車に会う


カシュガルターミナルに到着   20:00 
 カシュガルの町は、道路は道幅が広くきれいに舗装され、歩道と車道との間には青々としたシロツメクサが植え付けてあり、ここが中国最西端タクラマカン沙漠のオアシスの町だろうかと思うくらいの大都会である。
 ほどなく、各地のオアシスから来たバスや車がいっぱい停車しているバスターミナルに到着。20時といってもまだ明るく、日没にはかなり間がある。バスのトランクから荷物を下ろす。砂埃で真っ白になっている。
 現地旅行社から迎えが来るようになっているが、それらしき人はどこにも見あたらない。バスターミナルの入り口、人混みを探してみるがガイドらしき人はいない。大きな荷物を持ってただじっと待っていると、不安といらだちが募る。15分ほど待っても迎えが来ない。妻は「電話してくる。」と公衆電話を探しに行く。
 妻の話によると、薄暗いターミナルビルで待合室らしいものはどこだか分からず、あちこち探しても公衆電話がどこにあるかも分からず、周りの人に何度も尋ねてやっとの思いで旅行社に電話することができたそうだ。
 電話で「担当者は、今いない。」と言われ、結局連絡が取れなかったと言う。
 不安なまま、私たちだけでタクシーでホテルへ向かうことにする。
 妻が漢字で「色満賓館」と書いたメモを運転手に見せる。ウイグル人の運転手に行き先が分かったのか少し不安になる。荷物が車のトランクに入りきれずトランクを開けたまま走る。
 5分も走ると、ホテルへ着く。着いたところがホテルらしい雰囲気でなかったので「本当にここかな?」と妻と話し合っていると、そのことが運転手に通じたのか「ここに間違いない。」とでもいうように建物の上に書いてある看板「色満賓館」の文字を指さす。
 運転手に礼を言い、5元払う。

                                         

色  満  賓  館


ホテルチェックイン   20:30
 中国の遙か西の果てまでやってきて、迎えもなく心細い気持ちでやっとの思いでホテルまでたどり着き、今度はフロントでチェックインに手間取る。
 「予約している。」と言っても、フロントの係員は直ぐには私たちの名前を見つけることができず、宿泊予約帳らしいものを何度もパラパラめくりながら「どこの旅行社から予約しているのか。」と聞き返す。
 福岡空港で旅行社のSさんからもらった予約状況の書き付けを提示したり、パスポートを提示したりてやっとチェックインができた。一時は、今夜このホテルに泊まれるのだろうかと気が気ではなかった。
 服務員が庭を横切りトランクを押して、私たちを別棟の3号楼に案内する。3号楼入り口で、デポジットとして100元を求められる。エレベーターやエスカレーターはなく階段を荷物を持って3階まで上る。廊下や階段には赤い刺繍のきれいな絨毯が敷かれている。部屋はきれいな部屋で落ち着く。
 日本の旅行社から、「ホータンやカシュガルは迎えのガイドがいないと危険だ」と言われ、安心と安全のためにわざわざ現地案内を6000円で頼んでいたのに、何の役にも立たなかった。
 思いっきり文句を言おうと構えていたところに、フロントの人が旅行社に電話したらしく、アリトリソンという案内人があわててやってくる。
 「予定していたガイドが山から帰ってくるのが遅くなり急にできなくなったので、私が替わってきました。」と言う。
 「ターミナルで20分待っても誰も迎えがないので自分たちでホテルまで来た。」と言うと、「これを持って2時間待合室で待っていました。」と「歓迎 ○○さん」と書いた紙を見せながら言う。
 「私たちは待合室がどこか全く分からない。バスから乗客が降りるところで待つべきではないか。」と強く言うが、「2時間待っていました。」と言うばかり。
 「明日もこの人と一緒にカラクリ湖へ行く。気まずい思いはしたくないのでもう良いでしょう。」と妻が言う。
 「明日の予定を聞きましょう。」と言うと、「アリトリソンと言います。よろしくお願いします。」と自己紹介する。ウイグル人で24歳。髪は茶髪の女性。日本語は西安の短大で2年間勉強したという。短大では、勉強より日本人留学生らとカラオケに行くなどよく遊んだそうだ。ウイグル人は酒やたばこは御法度だが、酒やたばこも吸ったと言う。ホータンの成岩さんと違い、典型的な現代女性だ。
 「明日は、9時半にホテルを出ます。カラクリ湖までは196kmあります。標高は3600mです。途中、検問所がありますのでパスポートを持参してください。空気が薄いので酸素ボンベが要りますか?」と明日の予定を説明する。
 「私はありちゃんと言う。よろしく。明日の予定は分かりました。酸素ボンベは必要ありません。(酸素ボンベは用意するだけで150元必要とのこと)」と確認して、アリトリソンさんには帰ってもらう。
 結局、迎えの業務をすることができなかった謝罪もないまま帰って行った。
 見知らぬ町でもその気になれば、自分たちだけで行動できる(ホテルに行き、チェックインできる)という自信はついたが、高い授業料だった。

 持参したインスタント食品で夕食をとる   21:00
就寝    23:00 

 念願だったカシュガルに着く早々、心細い思いをしたり、腹を立てたりでとんだ旅行になりそうな気分となる。

カシュガル
 カシュガル市は人口32万のウイグル人のまち。新疆ウイグル自治区の最も西、天山南路最西端。ホータン、ヤルカンドと続く西域南路との合流点にある西新疆最大の都市。喀什は地元ではカーシェと発音されるが、一般に「カシュガル」と呼ばれている。
 カシュガルとは「緑色の瑠璃瓦の家」とか「色とりどりの家」といった意味のウイグル語からきているという。また、ペルシャ語で「玉の集まるところ」という説もあるという。
 高くて大きいイスラム式の建物、古色蒼然たる街並み、街角で食物や瓜、野菜を売る露店、ベールで顔を覆った中年、老年の女性、ロバ車に乗った白いひげを生やした年寄りなどなど民族的色彩に彩られた情景をあちこちで見かけることができた。
 前漢の頃、カシュガルは西域36国の一つで疎勅国(そろく)と呼ばれ、『漢書』西域伝には「疎勅国は長安を去ること9350里。個数1510。人口8647。・・・・市列あり」と記されている。「市列」とはバザールのことである。
 玄装三蔵が立ち寄り、マルコポーロも休養した所でもある。





                     カシュガル

             天山とパミールの見える町。
             タクラマカン沙漠の西南の隅っこの町。
             香妃が生まれ、育った町。
             東トルキスタン最大の回教寺院のある町。
             ウイグル人ひしめく大バザールの町。
             五月には沙棗の花の匂いでむんむんする町。
             往古の疏勒国の故地。
             極めて当然のことながら、私が丸一日、
             原因不明の高熱で意識を失っていた町。
 

                                                井上靖 シルクロード詩集より


   

宿泊ホテル 色満(せまん)賓館  喀什市色満路377号    0998-258212


標高3600mパミール高原の一角カラクリ湖 カシュガル カラクリ湖

5日目 9月21日(火)

起床    07:30 

ホテル食堂で朝食    08:00
 妻は昨夜寒気がし、熱が出て眠れなかったと言い、食欲がない。

カラクリ湖へ   09:30 
 10分ほどしてキジル川を渡る。キジルとは赤い川という意味だそうだが、名前の通りに赤い色の水が流れている。ほどなく、パキスタンとを結ぶ中パ公路に出る。中パ公路はパキスタンではカラコルムハイウエイと呼ばれているそうだ。中パ公路は毎年工事が行われ悪路の連続でいたるところが工事中。
 大型ブルドーザーと人の力で道路の直線化と拡幅工事が進められている。全行程の半分、否3分の2ほどが工事中だった。
 ポプラ並木がいとも無造作に伐採され、もったいないなと感じる。

道路工事

 伐採されたポプラの木をロバ車で運んでいる人がいる。家を建てる柱にでもするのだろうか。
 砂ぼこりの中、工事の様子をウイグル老人が道路脇に腰を下ろし眺めている。
 並木の外側にはトウモロコシ畑や棉畑が広がっている。ハイウェイらしいところはわずかであった。
 車中では妻がいつものような元気がない。手を握ると熱がある。「大丈夫か。」と声をかけると「大丈夫。」とは言うものの声にも張りがない。「引き返そうか。」言うと、「心配せんでも良いから、行きましょう。」と言うが車中では目を閉じていることが多い。
 妻の体調を気にしつつもカラクリ湖目指して車を走らせる。

ウパール村に到着    11:45
 トイレ休憩をとる。トイレは有料で1元。
 道端には観光客目当てに西瓜やハミ瓜、ナシ、シシカバブーなどの露店がたくさん並んでいる。さばいたばかりの羊の肉を軒に吊り下げて売っている露店もある。
 この村の住民の98%はウイグル族で、ほとんどの人が中国語を話せずテレビは2つの言語で放送しているという。
 20分ほどして出発。

果物の露店 羊の肉 露店

 やがて崑崙山脈の中に入りガイズ川に沿ってどんどん高度を上げていく。
 ガイズとはウイグル語で灰色という意味だそうだが川の水は澄んでいる。
 白っぽいグレーの山、茶色の山、酸化鉄を多く含んだ赤い山などが次々に表れる。
 赤い山はオユタグという山だと説明してくれる。ウイグル語で赤い山という意味だという。トルファンの火焰山を思い出す。
 観光バスも数台停車していて、日本人観光客がたくさんいる。

赤い山 氷   河

 パミール高原の山々の間を川沿いに走る。途中、落石の危険があるところが数カ所あった。
 アリトリソンさんの話によると、1ヶ月前には落石によりイギリス人旅行者と運転手が犠牲になったそうだ。
 辺方站(トキュー)という検問所に到着。高度は2400mあるという。パキスタンとの国境近くのため、パスポート提示を求められる。1日何人くらい通過するかを確認するためだそうだ。係官は一人一人厳しい目つきでパスポートをチェックする。
 検問所通過(ここだけは歩いて通過することになっている)後、雪に覆われた山が見えはじめたが雲に覆われかすんでいて色が冴えないのが残念。
 川の対岸にはキャラバンサライ(隊商宿)の跡が見える。2000年前に造られ、玄奘三蔵も訪れているという。後から造ったのか周囲の石垣はしっかりしているが宿は崩れ去って何も残っていない。高度は2500mになっている。
 ブルン(布崙口)湖に到着。標高3200mという。湖に写った山の姿が美しい。
 この後、6000~7000mの雪を頂いた山々の間をさらに上る。山と山の間に氷河が見える。初めて氷河を目の当たりにして感動。
 妻も車窓の景色のすばらしさに見とれ、熱があることをしばらくの間忘れているようだ。

カラクリ湖到着    13:00
 カラクリ湖は標高3600m、面積10平方キロメートル、最深部が30mの淡水湖だそうだ。カラクリとはウイグル語で黒い湖という意味だというが、湖面には空に浮かぶ雲が写りきれいに見える。
 車のドアーを開けると外は寒い。防寒のため毛糸のチョッキ、ジャンパーを着込む。
 レストランで昼食をとる。レストランといっても、山小屋より少し丈夫な建物で、円卓が10個ほどあり、3分の2は日本人観光客のようである。
 私たちが座ったテーブルでは、かって同じ職場で一緒に働いたことのあるAさんそっくりの人が肉料理や野菜料理をおいしそうに食べている。これにはびっくり。私たちには、ジャガイモと羊の肉を煮込んだもの、牛の肉を煮込んだもの、ヤクの肉を煮込んだもの、なすを煮込んだものなどが次々とでてくる。ご飯はぽろぽろしておいしくない。
 妻は熱と肉料理で食欲がない。
 食後、湖の湖畔を散策する。

カラクリ湖半

 対岸には7546mのムズタグ・アタ山、7719mのコングル山の白雪が見える。あいにく雲が多く、中腹までしか見えない。
 「せっかくだから駱駝に乗ってみよう。」と駱駝に乗る。馬にはよく乗っていたが駱駝は敦煌鳴沙山以来2度目。駱駝が起きあがるとき、後ろにひっくり返りそうになる。10分ほど駱駝上の人となり湖畔を歩く。
 駱駝が座るときは前のめりになり、危うく落ちそうになった。乗馬では手綱を握りしめ、鐙を踏んでいるので落馬の心配はないが、駱駝は手綱がない、鐙もないで、鞍をしっかりと握りしめていたので落ちなくてすんだ。
 「西安からカシュガルヘ」というシルクロード踏査行を書かれた早稲田大学の長澤和俊さんは、その本の中で駱駝から落ちたことを書いておられる。
 駱駝引きの青年が日本の1000円札を出して、「100元に換えて欲しい。」と言っている。1元は14円程度だから1000円は72元になる。100元で換金すれば、28元損になる。新手の商売か。
 寒かったため、駱駝を背景に写真を数枚撮って早々にカラクリ湖を後にする。
 帰りにウパール村でトイレ休憩。露店でハミウリ、ブドウを買って帰る。

ハミウリを買う


ホテル着    20:00
 カラクリ湖までの距離は片道約196km。
 そんなに遠いところではないが、高度がかなりあるのと工事中の道路を走ったのとで、かなり時間がかかり、とても遠く感じられた。

部屋で夕食   20:30
 持参したインスタント食品、わかめご飯、カップラーメン、缶詰、梅干し、それに買ってきた果物、牛乳、ヨーグルトが夕食のメニュー。
 妻の話によると、昨夜、シャワーを浴び身体を洗っているとき、身体にかかった湯の蒸発で体温も一緒に奪われ寒気がしたとのこと。直ぐに、お湯をため身体を暖めたが寒気がおさまらなかったらしい。
 妻は薬嫌いだが風邪薬も飲んだという。よほどきつかったのだろう。今日はよくぞ200kmの旅行をしたものだ。
 「カシュガルまで来て病気で倒れてなんとする」の思いだったのだろう。
 今夜は風呂にも入らず早く寝るように勧める。かなり熱がある。きつそうだ。
 「明日のカシュガル市内探訪は無理だ。明日は1日部屋でゆっくり過ごそう」と決め、食事の後かたづけ、洗濯をする。
 妻はこれまで3度シルクロ-ドの旅をしているが、下痢どころか熱発もしなかったというのに今度ばかりは念願のカシュガルに着く早々熱を出す。青島空港、ウルムチ空港での搭乗手続き、そしてバスターミナルでの旅行社との連絡、色満賓館での対応などの心労も重なったのだろう。
 全くの偶然だが、井上靖さんの「カシュガル」の詩の末尾にある「私が丸一日、原因不明の高熱で意識を失っていた町。」と同じ状態になったことに苦笑する。と同時に早く体調が回復することを念じる。

就寝    24:00

ウイグル人のまち カシュガル カシュガル 職人街

6日目 9月22日(水)

起床     08:30 
 妻の体調を心配していたが、熱は下がり体調は回復した様子。一安心。

朝食     09:00 
 食堂に行く途中、ホテルロビーに「ユーラシア大陸を尋ねて」という近畿日本ツーリストかJTBのツアーのトランクが10数個ある。
 「そうだ。ここ新疆ウイグル自治区はユーラシア大陸なのだ。」と実感がわく。日本人のグループが先に来て朝食をとっている。
 昨日と同じメニュー。何日も滞在する旅行者はあまりいないのだろう。
 今朝のおかゆはおもゆのようで米粒がほとんどない。他のテーブルから米粒が多く入ったおかゆをもらう。

市内散策
 妻に体調のことを聞くと「ここまで来て寝ておれるものですか。あちこち見て回りましょう。」と言う。市内探訪に出かけることにする。
 出かける前にホテルフロントで1万円の両替をする。720元。
 ウルムチでは「747元だった。今朝のテレビニュースでも1ドル109円だった。」と言うが、「それはどこの銀行か?ここでは720元だ。」と言うのみ。27元は両替の手数料か。
 カシュガル市中心部の地図を見ると、エイティガール寺院はホテルから近い。歩いていくことにする。地図とメモ帳を片手に歩く。途中、何度か地図を指さしながら漢人風の人に道を尋ねる。漢人がいないところではウイグル人に道を聞く。ウイグル人は漢字を読むことはできないが、地図を見ながら丁寧に教えてくれる。
 道端では、シシカバブーを焼く準備をしている露店があり、香ばしい匂いがしてくる。まっ青な晴天で、空気が乾燥していて気持ちがよい。20分も歩くとエイティガル寺院に着く。
 昔の写真を見ると広場は、民族服を着た大勢の人たちでにぎわい、文明の十字路といわれる雰囲気があったのでそれをイメージして来たのだが、広場はコンクリートで舗装され、どこにでもある広場となっていた。
 エイティガール寺院の入館料1人10元。

エイティガール寺院
 大きなモスクで、正面の門をくぐると中は礼拝堂になっている。礼拝堂には絨毯が敷かれ、一度に6、7千人もの人が祈ることができるという。いくつかの時計も設置されている。西安の清真大寺にあるように礼拝の時刻を示すものだろう。
 黄色の煉瓦で作られており、1798年建設だそうだ。
 この寺院に関しては次のような伝説がある。
 1798年、一人のウイグル族の女性がパキスタンへ向かう途中、不幸にもこのカシュガルで病死してしまった。彼女は死んだ時沢山のお金を遺したので、人々はそのお金でこの寺院を建て、エイティガールと名付けたという。

エイティガール寺院 礼  拝  堂 入  館  券

職人街
 寺院前の広場の周りは、商店街。寺院近くは観光客相手の土産物を売る商店。真向かいはカシュガル市民相手に日用品を売っている商店が並んでいる。
 商店街の奥に日干し煉瓦造りの家が並ぶ通りがある。手作り職人の工房が集まる通りである。木工品、金属製品、食器類、アクセサリー、そして楽器・・・。すべて手作業である。
楽器づくり職人 鋳 物 職 人

職人街
 ミニ楽器を買う。ウイグル人は音楽好きだと聞いている。おもしろい形の弦楽器がたくさんある。本物は弾くことはできないのでミニチュアを買う。バイオリンかマンドリン、ベース、ギターかと思わせるような楽器だ。ミニチュアといっても作りは本物そっくり。音を出すことができ、店の主人がウイグルの曲らしい音楽を演奏して聞かせてくれる。

黒地の布に西域模様の刺繍をした買い物袋(壁飾りか)を買う。これも200元と提示された金額の半値の100元で2つ購入。



                             物を買う(値引き交渉のこつ)

 エイティガル寺院入り口近くにずらり並んでいる土産物を売る店をのぞく。刺繍の入ったスカーフ、袋、ウイグル人が被る帽子、子どもの洋服、ナイフ、壁飾りなどが並んでいる。
 主人らしき人が日本語で「今日は。安いよ。」と話しかけてくる。いくつかの店をのぞく。老人の店に入ると、きれいな西域模様に刺繍したテーブルクロスを見せ、「800元。買わないか。」と言う。
 黒地に赤や黄、緑、青、白色の刺繍糸できれいな刺繍がほどこされている。とてもきれい。「高い。」という素振りをすると、計算機を持ち出して「いくらで買うか。」と言っている。
 私は「350元」と計算機で示す。「それは無茶だ。700元ではどうか。」と計算機に「700」を示す。
 再度「350」と示す。すると、「600元ではどうか。」と言ってくる。「350」と示す。「550元。OK」と言う。
 私はあくまでも「350」と言い張る。「500元だ。これ以上まけられない。」と言っているようだ。
 「だったら買わずに帰る。」と帰ろうとする。すると、「450元。OK」と言う。
 妻が「このくらいで良いでしょうよ。」と言うので、計算機に「400」と示すと「400元、OK」と言う。
 最初の提示額の半値で買うことができた。このやりとりはなかなかおもしろかった。これからはこの調子で買うことにする。
 私は半値で買ったのだから得したと思うが、売る方は損してまで売らないと思うので、提示額の半値で売っても儲けているのだろう。


 香妃墓の周りもおみやげ店がいっぱい。
 エイティガール寺院周辺と同じ土産物だが中に入ってみると、こちらが安いような感じがする。
 楽器のミニチュア1つ、刺繍入りの手提げ袋、孫の洋服、そしてウイグル帽子を買う。ウイグル帽子は、赤や緑、紫地に金ぴかの飾りを付けたもの。職人街近くの学校の女子が被っていたものだ。「15個買うから。」とねばり強く値引き交渉し、これまた半値以下で購入。

 荷物が増えたのでタクシ-でホテルに帰り、ホテル食堂で昼食
 ここカシュガルでは、市内にレストランや屋台などはあるものの「箸などは何度も使うので肝炎に注意すること」との記事を読んでいたので、食事はすべてホテルでとることにする。(カラクリ湖食堂での紙コップは何度も使ったものだった。)
 何をどう注文したら良いのか分からず、周りのテーブルで食べている人の品物などを見て何を注文するかを考えていると、パリダさんという日本語ガイドが近寄ってきて、食事の注文の仕方を教えてくれる。
 まだ学生だということであったが親切に教えてくれた。「ラグ麺」「ポロ」「シシカバブー」「ショフラー」などがおいしいと。
 さらに「私にできることがあったら何でも言ってください。」と言ってくれる。
 異国の地でのこのような親切は本当にうれしい。丁重にお礼を言う。
 ラグメンは、うどんの上にトマトやピーマン、羊肉の炒めたものがはいっている。唐辛子がかなり入っているので辛かった。

 時計を見ると、ちょうど14時。14時とは北京時間のことで、新疆ウイグル自治区では役所や学校など公的な機関では北京時間を使っているが人々の毎日の生活では新疆時間を使っているという。
 それは北京時間から2時間引いた時刻だ。それで、14時はちょうど12時に当たる。
 こちらでの生活、特に起床、就寝、食事などには新疆時間がわかりやすい。

香妃墓へ
 ホテルから西域広場(市内発着バスターミナル)まで歩く。所要時間は10分程度。
 そこから20路で終点の香妃墓へ行く。

 バス賃は1人1元。日本円で14円程度。ウイグル人の運転手はバスの中で食事している。昼食だろう。麺を食べていた。教えてもらったラグ麺か。
 運転手は彫りが深く碧眼。妻が「香妃墓」と書いたメモ帳を見せながら「ここへ行きますか?」と尋ねると、首を縦に振り「行く」と言う。
 バスには整理券も乗車券もない。車掌が乗っているが、座席に座っているので乗客かと思っていると、しばらくしてその人が乗車賃1元を集金に来る。
 集金したお金は、バッグにしまうのではなく、手に持っている。金種ごとに輪ゴムで束にしている。おつりもこの札束から渡している。この方法は西安市内と同じだ。
 バスが発車してもドアーは開けっ放し。たばこを吸いながらの運転。なにやら大声で車掌と話しながら運転する。日本では考えられない光景だ。途中、カシュガルの街並みを左右に見ていく。
 道路は広く、車の量は西安と比べると少ない。タクシーの多さが目につく。男性はほとんどがウイグル帽子を被り、女性は赤や白のスカーフを巻いている。既婚女性の中にはスカーフで顔を隠している人もいる。道路で、このように顔の見えない人とすれ違うと、慣れないせいかつい身構えてしまう。
 終点では運転手が「ここが香妃墓だ。ここをまっすぐ行きなさい。」と丁寧に教えてくれる。
 香妃暮だけの入館料は20元であったが、他の2カ所の入館料も含めて30元と書いてある。
 「ここまできたのだから見よう」と3カ所まとめて1人30元の入館券を買う。
 香妃暮は、廟の高さ26メートル、外面を覆う緑や青色のタイルが鮮やかであり、その大きさ、美しさが当時のホージャ一族の権力を物語っている。内部には17世紀にこの地の実権を握ったホージャ家一族5代72人の棺(ひつぎ)が安置してある。
 アバ・ホージャの大きな棺の一番奥の方に、小さいが美しい青いタイルに覆われた香妃の棺が木漏れ日で妖しく輝いていた。 廟内は撮影禁止。しかし、見張り役の人は居眠りしている。このウィグルの地では、女性は母親の、男性は父親のそばに葬られる習慣があるという。
 ここはまた、ウイグル人イスラム教徒の聖地でもある。ホージャ家の廟の傍らには自分の墓を求める人が現在でも後を絶たないという。確かに、香妃墓の外側にはたくさんの墓があった。

香 妃 暮

                         香妃墓   語り継がれている話

 西域を平定した清の皇帝乾隆帝が、夢に西域の美女を見たという。皇帝は方々に人を遣わし捜させて遂に見つけたのが、カシュガルにいたホージャの娘だった。彼女は聡明で、美しく、香水も付けないのに身体からかぐわしい香りが漂っていた。都に召された娘は香妃と呼ばれ、日夜皇帝の求愛を受けたが、香妃は、自分の胸に短刀を当てて皇帝を拒み続け、宮殿の窓辺によっては、西の空を恋い続け、生まれ故郷を偲んでいた。皇帝はカシュガルから砂ナツメの木を運ばせ植え付けたり、香妃に付き添って来た人達に毎夜カシュガルの音楽を奏でさせ妃を慰めた。宮殿の中には青いタイルのお風呂まで作ったりして、妃の心を溶かそうとしたが、香妃の心を開くことはできなかった。こうしたようすに、皇帝の母の皇太后が苛立ち、香妃に辛く当たったという。ある日、皇帝の留守をみはらかって、皇太后は香妃に「お前は何が望みで生きているのか?」と聞くと、「西に帰れぬなら、せめて死ぬことです。」と答えた。「では今日、お前に死を賜ろう。」
 皇太后に虐められた、香妃は自ら命を絶った。倒れても、なおその体から妖しい香りがしていたという。香妃の遺体を運ぶ行列は、3年もかかりながら、カシュガルに送り返され、妃の母の隣で永遠の安らぎについたという。


バスで西域広場へ
 いろんな買い物をし、20路の路線バスに乗って帰る。
 日本の村はずれの細い道を走っているような感じの所があったり、バザールと思われるような所を通って西域広場まで帰る。
 広場の対面にはきれいなスーパーマーケットがある。この店は、近代的な店である。食料品、日用品を売っている。土産にジャスミン茶を買う。牛乳とヨーグルト、アイスを買ってホテルに帰る。

夕食
 料理がたくさん出る。
 野菜と肉を炒めたものが中心。ナン、ナンを油で炒めたもの、果物。ラグ麺もある。ビールも注文する。1人30元。

カシュガル民族舞踊を観賞。
 ホテルロビーに、「毎夜、民族の歌と踊りがあります。1人30元で、時間は北京時間9時からです。」とある民族舞踊を観賞する。
 観客は私たち2人、岐阜から来たという夫婦2人と日本語ガイド、東京から来たという母娘2人と日本語ガイドの3組6人(ガイドは数に入れていない)。
 踊りが始まる前に岐阜から来たという夫婦に「私たちはホータンから来た。」と言うと、「何分くらいかかりますか?」と聞くので、ガイドが「中国では何分というのはありません。」と言っていた。
 知らないこととはいえ、8時間もかかったバスの旅を「何分くらいかかりますか?」には驚く。
 カラフルな衣装でウイグルの歌と踊りを披露。終わりにはみんなで一緒に踊りとても楽しいひととき(約1時間)を過ごす。

踊   る

 ショーが終わって観賞料金を払おうとすると、「1人160元で320元と言っています。」と、母娘の日本語ガイドをしたアりトリソンさんが通訳する。これにはびっくり。先ほどまでの楽しかったことは吹っ飛んでしまう。私たちは1人30元と書いてあるのを見て舞踊を見に来たのだから。
 料金を請求に来た男性(先ほどまで踊っていたダンサー)に、妻は「1人30元と書いてあったから見に来た。」と中国語で言う。
 「1人30元というのは40人以上の団体が見に来たときのこと。今日は6人しかいないので1人160元いただく。」
 「そんなことはどこにも書いていない。1人30元払う。」と60元払おうとするが受け取らない。
 「昼間、この人(妻のこと)はいくらか尋ねた。そのとき1人400元と答えた。」
 「だから、昼間は見なかった。毎夜1人30元と書いてあるので見に来た。」ともうケンカ同然。
 中に立った日本語ガイドのアリトリソンさんは困った様子。
 妻が「ここはあなたには関係ないから、あなたは帰ってください。私たちだけで交渉します。」と言うがそのけんまくに立ち去れない様子。
 妻にもウイグル語はさっぱり分からず、ましてや私にはちんぷんかんぷん。
 私は60元を出し、「これだけ払う。」と日本語と身振り手振りで何度も言う。妻は、中国語と日本語で「ちゃんと1人30元と書いてある。」と言い張る。そのうち、「1人50元で良いと言っています。」とアリトリソンさんが通訳する。
 1人50元といっても20元高いのだから承知すべきではないとも思ったが、疲れていたのと6人という少人数に1時間も歌や踊りを見せてもらったのだからしかたないかなとも思い、100元払って出てくる。
 日本人の母娘は、入る前にガイドから1人180元と聞いて360元払ったという。日本人は金持ちだから言う通りにするという気があるのだろうか。せっかくの楽しいひとときもこのやりとりですべて吹き飛んでしまった。

就寝    24:00 


カシュガルのまち探訪 カシュガル 職人街
       

7日目 9月23日(木)

起床    08:30

朝食    09:00
 食堂に行くと、西洋人がパンとコーヒーの朝食をとっている。妻はウエイトレスにこれと同じものをと告げる。しばらくすると、いつもの朝食に加え、パン、ジャム、コーヒーが出る。
 若い女性で日本人観光客らしき人が2人で朝食をとっている。「失礼ですが日本の方ですか?」と尋ねると日本人という。
 東京の旅行社の最低2人催行のシルクロードツアーで2人で来ているという。添乗員無し、現地ガイド付きだとのこと。今夜夕食を一緒に食べる約束をする。 

ホテル レストラン

市内探訪
 西域広場まで歩く。広場対面のスーパーでヨーグルトを買う。
 レジでは、ウインドーズ98のパソコンで売り上げを管理している。コンピュータがなかなか立ち上がらない。レジの若い女性がパソコンを叩きながら立ち上がらせている。

 市内バス20路で、バザールまで行く。数年前のバザールは写真で見ると露天だったが、今はきれいな建物の中にあった。
 果物を売っている露店は、川沿いに数十軒ずらっと並んでおり、スイカ、ハミ瓜、イチジク、ざくろ、ブドウ、りんごなど、どう考えても一日では売り切れない量が山積みされていた。 
 建物の中に入って手前のほうには、観光客向けに民族衣装やウイグルナイフを売っている店がある。食器を売る店も数軒が近くに固まっており、ベールをかぶったウイグル人の女性がポットや皿を買い求めていた。目だけを出したベールをかぶった女性をよく見かける。
 アリトリソンさんの話によると、「ウイグル人女性は結婚したら自分のきれいな顔は家族にしか見せないという風習があった。街頭ではベールを被り家に帰るとベールを脱ぐそうだ。今ではこの風習を守っている人はだんだん少なくなった。」らしい。
 子供服から大人の洋服まで売っている店もある。観光客向けの民族衣装ではなく、普段着の洋服だ。ウイグル人女性は、たいてい独特のワンピースを着ているが、子供や男性は普通の洋服を着ている人が多く、そのような衣料品店もバザールの入り口付近にあった。
 干しブドウなどの乾物、薬草や朝鮮人参のようなものを売る食品店も数多くあった。銅や鉄製の鍋類、帽子、靴、絨毯、織物、ないものはないと思うくらいの品を扱っている。文房具もあり、漢字練習帳やパンダ柄のノートも見かけた。バザールでは中国語も通じるが、ウイグル人たちはウイグル語を使って話している。

 ウイグル男性が被っている帽子が目につく。85元という。値段の交渉をして25元で買う。
 母への土産を探していると、暖かそうなそして西域らしいショールがある。妻が柄を選び3枚買う。衣類や布の専門店で、観光客相手の店ではなくカシュガル住民対象の店のようだ。120元のところを100元で買う。

 絨毯を扱っている店に入る。西域特有の模様の絨毯が所狭しと並んでいる。欲しいものがたくさんあるが、持ち帰ることを考えるととても買えない。目の保養だけ。
 表通りに出ると、こぎれいなコンパクトな店に「公衆厠」の文字がある。尿意をもよおしたので用をたすことにする。1人1元。中に入ってびっくり。表のきれいさとはうって変わり、大便がそのまま残っている。水洗トイレのようだが、水が出ない。このトイレの表側では厠の管理人がアイスクリームやタマゴ、果物を売っている。

 20路バスで職人街へ。
 バスにウイグル老人が乗車してきた。若い女性がすかさず老人に手をかし、乗車を助けていた。ほほえましい。
 孫とおじいさんらしき客がいた。おじいさんがしきりに孫の鼻くそをとっている。孫を愛おしく思う気持ちはどの民族も同じだ。ウイグル族の人達は生活は貧しいというがお互いに助け合い、心はすこぶる豊かなようだ。

 職人街前でバスを降りる。
 職人街を歩いているときれいな鉄製の壺を売っている店がある。スズや鉛が入っているのだろう。銀色に輝きとてもきれい。いかにも西域らしい壺が目につく。460元。少し小さい壺は150元。2つで610元を600元でどうかと計算機で示しながら店主が言う。私は日本語と身振り手振りで「高い。安くして。」と言うと、計算機を私に渡し「いくらなら買うか?」と聞く。「300元。」と計算機で答える。「そんなにはできない。550元でどうか?」といきなり50元引いてくる。あくまでも「300元」でとおす。私が300元と示すたびに、50元引いたり、20元引いたりして値段を示し、「450元。OK?」と言ってこれ以上はまけられないと言う。
 「他の店に行こうか。」と妻に言って店を出ようとすると、私を引き留め「400元。OK」と言って2つの壺を黒いビニル袋に詰めようとする。私が「NO」と言うと、妻が「もうそのくらいで良いでしょう。中をとって360元でどうね。」と言う。店主は「OK」と言う。
 初め610元と言っていた壺を360元で買う。

 ホテルに帰り、買ったばかりの壺をテーブルに置き眺めると、とてもすばらしく見える。カシュガルの良い土産ができた。

ホテルで昼食
 ブドウ棚の下のカフェレストランで、サンドイッチ、コーヒー、スープ、牛乳を注文する。

再び西域広場へ
 バスターミナルで20路の行き先を示した掲示を見ていると、「国際バスターミナル」という文字が目に入る。そこに行ってみることにする。バザールの1つ手前の停留所だ。道路工事中の砂埃の中を国際バスターミナルへ。
 待合室壁に大きな新疆ウイグル自治区の地図があり、バス路線が記されている。地図を見ると、新疆ウイグル自治区の地形、オアシスの位置関係がよく分かる。改めて「よくぞ西域まで」と思う。
 クンジュラブ峠経由パキスタン行き、トルガルト峠経由ビシュケク行きの国際バスが出ている。

再び、職人街へ

ウイグルの子ども 職 人 街 ウイグルの幼児と

 街並みをゆっくり散策する。学校はちょうど昼休みだろうか。子どもたちが街中を行き来している。きれいな帽子を被った小学校低学年らしき女の子2人にカメラを見せて、「写真を撮っても良い?」と聞くと、1人の子はポーズをとろうとしたがもう1人の子が走り出したので2人とも走ってどこかに行ってしまう。
 高学年らしき子どもたちは、にこにこしながら一緒に写真に収まってくれ、数枚撮った。
 2・3歳くらいの子が100m近く私たちの後をついてくる。1枚一緒に写真を撮るがなかなか帰らない。それを見ていた大人がなにやら大声で言ったら帰って行く。おそらく叱られたのだろう。
 ナンを焼くところを見る。小麦粉をねっている。直径5cm位の鉄の棒で強く押さえながらねっている。よく練ったものを直径10cmくらいの大きさに丸め、それを大きな釜の壁に一つ一つ貼り付けて焼き上げていく。焼き上がったナンに油のようなものを塗りできあがり。焼き上がったナン(50個以上はあると思われる)を大きな風呂敷で包み、20元で買っていく老人がいた。
 1個あたり4角くらいの値段だ。私たちは1個約1元で買うが、これが現地の人たちの相場かも知れない。あるいは、日本でいう仲買人のような人には安く売るのかも知れない。
 ここの職人街では路地で、鉄製品、銅製品などの食器などを作っている。楽器を作っている店もある。中に入ってしばらく眺める。一つ一つが手作りで一つの楽器を作り上げるのに相当の時間を要するだろうと感じられる。
 金の装飾品を扱っている店が数軒並んでいる。値札を見ると、1g100元程度のようだ。ブレスレットひとつが4000元という。 こんな高価なものを一体どのような人が買うのだろう。店の奥では、職人が金の装飾品を作っていた。

バザール通り露店準備 露  店

カシュガルシルクロード博物館へ
 ウイグル人のタクシー運転手に地図帳とメモ帳を見せ、「博物館へ行って。」と行き先を告げる。運転手は返事はしたもののどうも博物館の場所に自信がないらしい。何度も地図帳を見ながら運転している。公共施設のような門の中に入り込み、守衛らしい人と話し合っている。おそらく博物館の場所を教えてもらっているのだろう。場所が分かったらしくにこにこ顔で、ポケットからたばこを1本出して守衛に渡す。お礼であろう。
 運転手は「あぁ、ボーウーグァン(博物館か)。」とうなずいていたので安心していると、大きなホテルの玄関に車を着ける。
 そして「ここだ。」と言う。博物館でないことは見て直ぐに分かったが、降りることにする。
 ホテルの人に博物館はどこかを尋ねると500m先という。ウイグル人は中国語は話せても漢字が読めない人が多いようだ。
 博物館へ行く道路に出ると、道幅は広いが道路工事中で埃っぽい。道路左側には大きなポプラ並木が残っており、以前は左右にポプラ並木があったのだろう。道路はどこもここも工事中である。500m先と聞いたが、1kmは歩いたろう。乾燥地帯ではあるが、日向を歩くとやはり汗が出る。尋ね、尋ね歩いてやっと博物館に着く。
 ちょうど、小学校高学年かと思われるウイグルの子どもたちが見学に来た。博物館内を一緒に見て回る。
 「ヤクシマシーズス(今日は)」と言うとにっこり微笑み返す。
 展示物の英語解説文を声を出して読むと、子どもたちが幾人も着いて来て、まねをして発音する子もいた。
 展示物そのものはさほど目につくものはなかったが、ミイラが何体かある。
 ウイグルの子どもたちも何かの学習の一つで博物館に来たのだろう。子どもたちは徒歩で、先生らしき人は単車に2人乗りで帰っていった。日本では考えられない光景だ。

カシュガル駅へ   


 28路バスで駅まで行く。
 黄葉しているポプラ並木が太陽の光に当たってキラキラ輝いている。
 カシュガル駅は郊外にあり、駅前広場は広いが西安駅や北京駅などと違ってほとんど人がいない。駅舎の前には広場があり、芝が植えてあるが、周りには何もない。南疆鉄道の始発駅にしては閑散とした静かな駅である。列車が到着したり、発車したりするときだけにぎやかになるのだろう。
 乗車券の空き状況を知らせる電子掲示板がある。ここ2・3日はカシュガル~ウルムチの軟臥車(コンパートメント寝台)は満席の表示。
 寝台車乗車賃は、下段が529元、上段が506元とある。日本円で7000円から7500円。利用者が多いことが伺える。

 駅ターミナルにタクシーが1台停車していたので、それに乗ってホテルへ帰る。カシュガル市内だったので5元と思い5元渡すと、運転手は20元と言う。おかしいと思ったが、理由を聞く元気もなく言われるまま20元渡す。

ホテルで夕食    20:00
 ホテル前の露店で、ヨーグルト、牛乳、トイレットペーパーを買う。
 ホテルでは、毎日トイレットぺーパーを少し(1回で使い終わるくらい)しか置いてくれず、自分で買い足さないと足りない。紙はテーブルを拭くなどトイレ以外でもよく使う。店によって1元であったり、1、5元であったりする。紙の質や量が違っているから値段も違うのだろう。
 今朝約束した日本人旅行者が来ているならと、梅干し、海苔、みそ汁を持ちこみ待っていたが二人は来なかった。カシュガル色満賓館最後の夜なので、シシカバブーとビール、それに肉料理を特別に注文する。
 鉄製の串に刺した羊肉(シシカバブー)がとてもおいしい。驚いたことに、いつもより数品多く注文したのにやはり1人30元。
 食後、ホテルの電話センターで次男に電話する。国際電話で日本の携帯にかかるか不安だったが直ぐに通じる。道路脇の電話センターでの通話よりここが感度が良い。9分間通話して31、4元。日本円では440円程度。
 国内通話料金より安いのではないかと思う。電話台の横にはパソコンが数台置いてある。西洋人がしきりに文章を入力している。ここからインターネットでメールを送信できるという。メールアドレスを控えておけば良かったと後悔する。

中国国営のテレビニュース
 私には何を伝えているのかほとんど分からないが、中国国内のニュースやオリンピックで活躍した選手やチームの紹介など放映している。パラリンピックでの活躍も報道している。その他、世界のニュースを報道している。
 世界のニュースで日本のことは4日間、一度も聞くことはなかった。欧米のニュースはよく放送している。不思議なことだ。
 女性のニュースキャスターは美人揃い。毎晩違うキャスターがニュースを伝える。美人で理知的な人ばかり。
 天気予報も毎日放送している。画面いっぱいに中国全土が映し出され、各都市の晴雨のマークが表示される。予報士はいつも画面左側に立って、北京や上海の予報を詳しく伝える。画面左は新疆ウイグル自治区。新疆ウイグル自治区のカシュガル方面は予報士の身体にかくれて見えない。予報もしない。予報士が動いたときだけ、カシュガル地方の天気のマークが見える。
 予報では4日間とも曇に雨のマークだったが、カシュガルもホータンもウルムチも真っ青な晴天の日ばかり。

カシュガル最後の探訪 カシュガル バザール前通り ロバ車
       

8日目 9月24日(金)

起床    08:00 
朝食    09:00 
 東京から来ていた2人の旅行者と一緒に食事する。
 「昨日はカラクリ湖まで行ってきた。天気が良くすばらしい光景だった。」とのこと。2人が持ち込んだハミ瓜をいただく。とてもおいしい。
 私たちの日本語会話を聞き、いろんな情報が欲しかったのだろう。大阪から来たという若い女性が加わり、カシュガルの様子をいろいろ質問する。
 明日はトルファンまで行くという。驚いたことに、トルファンでのホテルの予約はしていないそうだ。若い女性の一人旅、しかも現地でホテルや交通機関を予約しながらの旅。何の不安もないのだろうか。おそらく、中国語や英語がよく話せる人とは思うが一人で旅行とはびっくりした。 
                             

カシュガルバス停


東湖公園へ
 西域広場から20路バスで行く。湖はとても広い。もちろん水は崑崙山脈の雪解け水。ボートが浮かべてあり、朝早くからボート遊びに興じている人がいる。夜ともなると、若いペアーでいっぱいになるという。
 東湖公園バス停にカシュガル地区の観光地図が掲示してある。地図上に飛燕を踏む銅奔馬のマークがいくつかある。
 歴史上の史跡がある所かも知れないと急遽、尋ねてみることにする。

東湖公園 人民公園大樹

班超記念公園   入園料、1人10元
 タクシーの運転手にメモ書きを見せ、案内してもらう。
 タクシーから降り立つと、西域のまちに突如漢の時代の中国が出現したような感じである。
 後漢の軍人、班超と36人の部下の像が祀ってある。

                 「虎穴にいらずんば虎児を得ず」の故事

 班超(33年~102年(建武9年~ 永元14年)中国後漢の軍人。西域に匈奴を追って後漢の勢力を広げ、その後は西域都護として長く西域を保持した。
 鄯善国に使者として行った時に、初めは歓迎されたのが次第に雰囲気が悪くなってきた。その時匈奴の使者も来ていた。このままでは殺されると考えた班超は怯える部下達に「虎穴にいらずんば虎児を得ず」と勇気付けて、匈奴の一団に切り込んだ。
 班超たちは36人しかおらず匈奴ははるかに多かったが奇襲を受けた匈奴の使者達は慌てふためき、見事班超たちの大勝に終わった。

 

班 超 記 念 公 園

ユスフ・ハス・ハジプ墓 入館料1人10元
 班超公園前からタクシーでユスフ・ハス・ハジプ墓へ向かう。
 運転手には「賽衣提里文斯拉軍墓」とメモ書きを示したのだが、タクシーの走る方角が地図とは違うような感じがする。
 おかしいと思いながらもそのまま乗車していると間もなく、瑠璃色のタイルでできた建物の前に到着。
 運転手は「着いた。」と言う。建物の前には「玉蘇甫哈斯・哈吉甫陵墓」と記してある。
 「やっぱり違ったね、でもすばらしい建物だ。入ってみよう。」と入館。
 シンメトリー建築でとてもきれいな建物である。すばらしい。1988年に改修されたという。

ユスフ・ハス・ハジプ墓 ユスフ・ハス・ハジプ墓入館券

賽衣提里文斯拉軍墓へ
 時間が余りなく、とんでもないところへ連れて行かれたら困るので、走ってきたタクシーを停車させては「賽衣提里文斯拉軍墓」のメモを見せて、「知っているか?」と聞き、「?」と首をかしげたら「結構。」と言って別のタクシーを止めて聞くということを4~5人の運転手にしていたら、最初の運転手が、「自分は知っている。」と言うので頼むことにする。
 念のため、ユスフ・ハス・ハジプの係員の所に連れて行き、確かめてもらった。事務所には、漢人とウイグル人がいて、漢人から詳しく場所を教えてもらっていた。
 カシュガルでは日本人にとって、タクシーとバスでは、バスの方が乗りやすく便利のような気がする。タクシーは行き先を漢字で伝えても早く確実に行く保証はない。急ぐときは漢人の運転手が良い。
 タクシーは、サイード・アリ・アスランハンへ向かう。大きな道の真ん中で「ここだと。」言う。見渡すと建物らしいものはどこにもない。おかしいなと思っていると道の反対側を指さし、「道上のあそこ。」だと言っているようだ。なるほど、遺跡らしきものがある。
 運転手に礼を言い、教えられたところに上る。日干し煉瓦で作った朽ち果てた仏塔と建物跡らしいものが残っている。何の手も加えられていなく、素朴で良かった。

サイード・アリ・アスランハン

職人街
 走ってきたタクシーを止めると、女性運転手で客が1人乗っている。にもかかわらず「どこまで行くのか?」と聞いてくる。
 妻が「職人街まで」と言うと、「乗りなさい。」と言うので相乗りすることにした。客は東湖公園近くで降りる。職人街まで5元。市内はどこまでも5元で行ってくれる。
 この職人街で買った壺を2人の息子と友人にも買って帰ることにする。昨日の店の前に行くと、店主が顔を覚えていて「良くいらっしゃいました。」という意味のことを言い、私たちを迎える。
 気に入った壺を3個選んで「ハウマッチ?」と聞くと例により計算機で数字を示しながら620元という。それをねばり強く交渉して300元で購入。バスで、西域広場まで帰り、広場近くのスーパーで今夜、車中で食べるトマトやブドウなどを買ってホテルに帰る。

昼食
 サンドイッチ、コーヒー、牛乳。

カシュガル駅へ
 アリトリソンさんが迎えに来る。
 ホテルのチェックアウトは午前中にすまさねばならないところだが、15時にホテルを出ると妻がホテル従業員に朝から告げていたからだろう。割り増し料を請求されることはなかった。
 「カシュガル駅へ行く前に、ウイグルの音楽CDを買いたいのでどこかに寄ってください。」と言うと、気軽に「いいですよ。」と言う。
 ホテルを出てCDを扱っている店に寄ると、「今日は金曜日。金曜礼拝に行っているようで店は閉まっています。店員は誰もいません。」と言う。
 次の店を探す。アリトリソンさんは「店はどこもあいていません。ウルムチにもありますからウルムチで買ってください。」と言う。
 妻は「運転手が途中でCDを買うなど聞いていない。自分はこれから飛行場まで客を迎えに行かねばならない。時間がないのでこのまま駅へ向かうと言っていたようだ。」と言う。
 駅までの送りにお金を払っているのにと腹が立つ。24歳のアリトリソンさんにはまだ押しがきかないのだろうか。カシュガル国際旅行社の対応には良い印象は受けなかった。
 旅行社は依頼があるとその都度運転手と車を雇い、ガイドが客を目的地まで案内する仕組みだそうだ。今日の若い運転手は私たちが乗っている乗用車とミニバスを1台持っていて忙しいのだそうだ。
 私たちがカラクリ湖に行ったときの運転手は、ガソリン代も自分持ちで自分の車を運転して旅行社から500元もらったそうだ。 ガイドは1日の手当として8元もらうという。
 アリトリソンさんの月給は1000元。政府役人は1600元。ホテルの服務員は500元といっていた。


天山南麓を南疆鉄道でウルムチへ 南疆鉄道 列車



カシュガル駅到着
 直ぐに改札口から駅構内に入り、しばらく待合室で待つ。10分くらい待つと、列車への案内が始まった。
 列車に乗り込むのにホームが低く4段くらい階段を上らなくてはならず苦労する。トランクを一段一段上に上げていたら、ひょいと上から女性乗務員が引き上げてくれる。「シェー、シェー」が直ぐに出た。
 私たちの席はコンパートメント14~17番。部屋に入り、荷物を座席下に置きやっと落ち着く。
 平成5年、シルクロードのツアーに参加したとき、敦煌柳園駅からトルファンまでの列車の旅では座れるはずのコンパートメントに、すでに台湾の人たちが座っており、中国のガイドに強く抗議したがどうにもならず、仕方なく私たちは硬臥の寝台車で中国人と夜遅くまで筆談したりして過ごしたことを思い出す。
 今回は二人旅であることからこのようなことがないようにと早めに駅まで来た。一息ついたところで、「旅行社からのお願いです。今回のガイドの評価をしてください。」とアリトリソンさんが評価カードを渡す。
 言いたいことは山ほどあったが、「もう2度と世話になることはないだろう。また、異国の地で不満だけを残して立ち去りたくない。」との思い、カシュガルでは自分たちだけでも安全に旅行ができたという満足感を味わえた分、高い授業料だったと思えばそれも良しとして、「大変良かった」と記して返す。
 ホームに降り、列車の前でアリトリソンさんと記念写真を撮る。

南疆鉄道2階建て寝台車輌

 カシュガルでの4日間、楽しく過ごすことができたので、アリトリソンさんに礼を言って別れ、列車に乗り込む。
 間もなく、30歳代くらいの漢人(大きな布袋を座席の下に押し込み、大きなカップ麺を3個持っていた)が乗ってきた。
 「自分の座席は下段だが、上段と換わって欲しい。」と妻に言う。
 願ってもないことだったので寝台の位置をかわる。
 もう一人は40~50歳代のこれまた漢人。見るからに人が良さそうで一安心。
 女性の乗務員から身分証明書の提示を求められる。何のことか分からないでいると、同室の若い中国人が自分の身分証明書を示しながら「証明書を見せなさいと言っている。」と教えてくれる。
 パスポートを見せる。その後、別の乗務員から乗車券と引き替えに乗車カードを渡してもらう。このカードは下車するとき、返却して乗車券と交換する仕組みになっている。これをなくすと、弁償金を払った上、なかなか下車できない大切なものである。

南疆鉄道

 南疆鉄道は、1979年にトルファンからコルラまでの470kmが開通。25年前のNHK番組「シルクロード 南
疆鉄道」では、トルファン コルラ間を紹介している。
 ゴビ沙漠を走り天山山脈を貫き、タクラマカン砂漠に至る鉄道である。
 鉄道の沿線には、かつて、古代シルクロードの天山南路が天山を越えて遙か西へとのびていた。
 南疆鉄道は、その古代シルクロード沿いに建設されている現代のシルクロードだ。
 1999年12月にトルファンから東西交易の要所カシュガルまでの1465km全線が開通。
 ウルムチ~カシュガル間の距離は1589km。カシュガルから終点ウルムチまでは約23時間15分を要する。


16:51 カシュガル駅を静かに出発。
17:20 最初の駅 阿図什(アトシュ)到着。
 進行方向右はタクラマカン砂漠。ところどころに草原がある。
 左側は、土の山、岩山が連なり、形状が変化に富んでいる。ところどころに水たまりがある。地下から湧き出た水だろうか。ポプラ並木、畑、放牧中の羊、馬、駱駝の姿も見える。
 青年は寝台上段に上って本を読んでいる。上段に上る梯子はない。わずかに足をかけるステップが一つあるだけ。下段に換わってもらって良かったと思う。コンパートメントには、ドアーがあり、内側から鍵がかかるようになっている。
 車輌にはお湯が出る設備がある。物を洗う設備もある。さらに洗面所、そしてトイレは和式と洋式がある。垂れ流しだが中はきれい。また、車内販売が良く来る。お菓子類、飲み物などを販売している。室内は禁煙で、喫煙はデッキで。コンパートメントの車輌は1輌のみで、2階建車輌。他は部屋無しの軟臥車輌。日本でいうA寝台、B寝台のようなものか。室内では快適に過ごすことができる。ただ、寝台を囲むカーテンはない。
 隣の部屋は西洋人夫婦とガイドの男性3人。2人の西洋人も私たちと同じように車窓の景色が珍しいらしく外の景色をじっと見ている。

車 窓 か ら の 眺 め

19:51 2番目の駅、巴楚(バシュ)到着。

20:15 夕陽が沈む。陽が沈むまで車窓の景色に見とれていた。

20:30 夕食をとる。
 わかめご飯とカップ麺にお湯を入れ、昼間買ったブドウを洗って夕ご飯の準備にかかる。妻が夕食の準備をしながらトイレに行ったときの出来事を話す。トイレの前に手錠をかけられたウイグル人がいて、公安から手錠をはずしてもらい、トイレに入ったと言う。公安は、用が済むまでトイレの前で待っていたそうだ。
 ちょうど、飲み物の車内販売に来たのでビールを2本買う。1本3、5元。わかめご飯がおいしい。魚の缶詰、梅干し、カップ麺をおかずに豪華な夕食となる。食後はブドウを食べる。
 通路の椅子に腰を下ろしている同室の中年の中国人に「どうですか。」と勧めるが、にこにこ笑って「いらない。」と言う。この人は、ウルムチで降りるまで、カップ麺を食べるときもほとんど通路で過ごしていた。青年もほとんど上段ベッドに寝て本を読んでいた。私たちに気を遣ったのだろう。

21:30 就寝。
 夜明けとともに起きようと早めに就寝。上段の青年は夜遅くまで本を読んでいたようだ。
 妻が夜中にトイレに行ったとき、また、公安が手錠をかけた漢人をトイレに連れ来て用を済まさせ、かわって手錠をかけた違うウイグル人をトイレに連れてきたそうだ。私たちが乗車している軟臥車の後ろには、食堂車と硬臥車しかない。硬臥車の乗客と一緒に犯罪者も乗っているのだろうか。なんとも不思議な場面に出くわしたと目を丸くして話をする。

(妻が覚えていた夜間に停車した駅)
 アクス 大きな駅舎で、周りにはビルがたくさんあったと言う。
 コルラ 1979年にトルファンから470kmが開通した南疆鉄道終着駅


                  

雄大な南疆鉄道沿線の風景 南疆鉄道 車窓から

        

9日目 9月25日(土)

起床    06:30
 まだ辺りはうす暗いうちに「外の景色がきれいよ。」と妻が起こしてくれる。
 初めて見る光景に驚く。うっすらと雪を頂いた山々が見える。まだ太陽が昇らないうちから山頂は朝の太陽の光を受け、茶色や赤茶色に見え、光と陰のシルエットで山々が輝いて見える。言葉では表現できない美しさ。上段ベッドでやすんでいる2人の中国人を起こしては悪いと思い、静かにカーテンを開け、景色に見とれる。

朝日に輝く山

日の出    07:40 
 日の出とともに、景色の雄大さに見とれる、真っ青な空と真っ白い雪を頂いた天山の雄大さに息をのむ。時々、馬に乗った人が目にはいる。羊や駱駝の放牧。何時間見ても全く飽きない。
 列車は天山山脈を上っているのだろう。急勾配の坂をあえぎあえぎ上っているように思える。万年雪の天山が間近に見える。天山山脈は東西2千キロ、南北4百キロ、本州がすっぽりとおさまるほどの巨大な山脈である。天山の地下を通る奎先(けいせん)トンネルは標高3000m、最高地点にあるそうだ。長さは6000mという。いくつものトンネルをくぐり抜ける。NHK取材班「天山南路の旅」での南疆鉄道紹介によると、山の中で1回転する夏爾溝(かるこう)トンネルやハルダハト大橋があるが、車中からはどのトンネルがそれに当たるか、どの橋がそれなのかは分からない。ループトンネルは1回転する間に60m登るように設計してあるという。

食堂車で朝食    09:30 
 清潔でセルフサービス形式の食堂。野菜炒め風のおかずや肉料理などがある。主食は、ご飯、おかゆ、マントー、パン、油で炒めたナンがある。温めた牛乳もある。一人10元。美味しい。コーヒー5元。

星源站着     10:30 
 列車は、時には大きくカーブをとりながら、時には大きな橋を渡りながら、時には長いトンネルをくぐり抜けながらだんだんと高い所へと登っていく。列車のスピード、そして走る音などからそのことがよく分かる。まもなく星源站に到着。
 星源站と言う名前からして、ずいぶん高地にある駅なのだろう。同室の壮年の中国人は、朝食のカップ麺を通路で食べている。
 「室内で食べませんか。どうぞ。」と日本語と身振りで話しかけると、笑いながら「自分はここで食べるから気にしないで。」と言い、通路で食べている。この人が室内にいたのは寝ているときだけ。青年もベッドに寝て本を読んでいる以外は通路にいた。
 コンパートメントは私たちが独占する形であった。
 隣の部屋の西洋人夫婦は、いつまでも寝ているのかコンパートメントのドアーは閉まったままになっている。昨日は、車窓の景色を珍しそうに眺めていたのにこんなすばらしい景色をどうしてみないのだろうとよけいな心配をしていたが、昼になってもドアーは閉まったまま。おそらく夜中にどこかの駅で下車したのだろう。全く気がつかなかった。使っていない部屋は乗務員が鍵をかけ、入れないようにしている。
 どうやら始発駅から終点までの乗客はまとめて乗せているようだ。その方が、使うコンパートメントの数は少なくてすむ。乗務員の仕事もそれだけ軽減される。だから、私たちの部屋はカシュガルからウルムチまでの4人だったのだろう。

魚児溝站    11:24 
 停車中に、大きな音と同時に列車が大きく揺れる。どうやら機関車の付け替えをしたようだ。女性乗務員に「ここはどこ?」と聞くと「最高(一番高い所)」と教えてくれた。 

天山を越えゴビへ。
 車窓からの眺めは、真っ青な空と雪を冠った天山の山々。次第にやわらかい山、草原が連なり優しい風景が眼前に広がる。 草原では、羊の群れ、羊飼いの人々、駱駝の放牧、パオ、パオの屋根からは煙がたなびいている見える。
 集落では、子どもが日向ぼっこをしている姿も見える。集落を過ぎると砂漠の中に突然馬に乗った人が現れたり、こんな所に人がいるのかと思うような所に人が立っている。
 山間に川が流れ緑がいっぱいの所が見える。ポプラ並木が色づいている。人が住んでいるのだろう。阿拉渓谷という所らしい。仏教遺跡がいくつも残っているという。
 岩山をくりぬいたトンネルが見える。列車は大きくカーブしながらそのトンネルに入っていく。時々、線路補修作業をしている人も見かける。
 こんな所(山の中や砂漠の中)でどうやって生活しているのだろうと思う。髪は伸び放題、着ている服はぼろぼろ。列車が通り過ぎるのをじっと見ている。しかし、このような作業員のおかげで、私たちは安心して鉄道の旅ができるのだ。
 目を離すのが惜しいくらいすばらしい景色の連続である。私たちはなるべく大きい窓からその景色を見たいと、ずっとデッキに立って景色に見とれていた。

車 窓 か ら の 眺 め

 昔のシルクロードの旅人は艱難辛苦の末、天山を越えていたが私たちは列車で車窓の景色に見とれながら越えてきた。
 トルファン近くになり、風力発電所の風車が見える。無数の巨大な風車が風にゆっくりと回っている。ここは、平成5年のシルクロードツアーではバスで通過した。風が非常に強いところで、達坂城という。
 妻は、朝食に食べた油で炒めたナンとコーヒーが腹にあわなかったようでトイレに行く。直ぐに帰って来たので「もう済んだの?」と尋ねると、「トイレのドアーに鍵がかかっていて使用できなくなっている。乗務員に『開けて欲しい。』というと、『もうすぐ駅だから後30分は使用できない。』と言われた。」と言う。トイレは、垂れ流しのため、駅近くになると20分くらい前から乗務員がドアーに鍵をかけてしまう。それで、駅が近づくとトイレは30分間くらい使用不可となる。

風   車 車内で中国人の子どもと

トルファン着    13:26 
 平成5年、まだ夜が明けやらぬ時刻に降り立った駅である。
 駅舎は大きくなっている。ホームの対面にカシュガル行きの列車が停車している。列車の外観から硬座、軟座、硬臥の車輌が中心のよう。目の前の車輌は硬座の車輌であった。乗客はウイグル人が多く、私たちの方を珍しそうに見ている。
 乗客は列車の窓を開け、食べた果物の皮を捨てたり、空のペットボトル、カップ麺の容器などを捨てたりしている。
 列車の進行方向が逆になる。列車が動き出すと、妻は急いでトイレに行き乗務員にトイレのドアーを開けてもらい、用をたして帰ってきた。

ウルムチ着    16:10
 ウルムチの駅は大きい。たくさんの人、人、人。
 北京駅や西安駅と違いとてもきれい。 ごった返す駅構内を人の流れに乗ってスムーズに改札出口を通って外に出る。
 丁度、女性運転手のタクシーが来たのでその車に乗り、ホテルへ。

ホテル着 
 チェックインすると、旅行会社から明日のウルムチ発西安行きの航空券をホテルカウンターに預けてあった。
 日本語がわかるホテルマンと航空券に記載してある搭乗日時、行き先を確認する。デポジットとして500元を要求される。
 中国元はそんなに持っていないので「日本円の1万円で良いか。」と言うと「OK」と言うので、1万円預ける。 

新疆ウイグル自治区博物館  入館料 1人25元
 時間がなかったのでタクシーで行く。あいにく、博物館本館は建て替え中。学芸員のヤー・リー・クンさんと写真におさまった前庭には草が生い茂り、平成5年に訪れたときの面影はない。展示室がどこにあるかを探していると、大型バスが3台駐車している。日本のJAの貸し切りバスだ。静岡農協がチャーター便でウルムチを訪問しているとのこと。
 入館は17時までとパンフレットに記してあったので急いで入館手続きをとる。博物館の本館は建て替え中のため、新疆博物館の目玉であるミイラ数十点が、すぐそばの臨時の建物に展示されていた。「楼蘭の美女」といわれる、約4000年前の女性のミイラを見ることができた。そのほかにも多くのミイラが保存してあった。
 この地域は乾燥気候のため、自然にミイラができるそうだ。髪の毛や、衣服もそのまま残っていて、とてもリアルだった。
 館内で、新疆ウイグル自治区の地図を10元で購入。後で定価を見ると、8元と記してある。

路線バスで紅山公園まで帰る
 ウルムチは近代都市建設がなされ、高層ビルが林立し、立体交差の道路がきれいに整備されている。立体交差の橋の上から紅山公園の9層の鎮龍塔が夕日に映え美しい。
 路店では、焼きトウモロコシ、焼き芋、ナン、アイスクリームなどの食べ物を売っている。手相を見る易者風の人もいる。
 おかしかったのは、日本のパチンコ風のゲームがあったこと。顔の形を書いた紙を道路上に置き、その上を玉を転がして、目のところで止まるか、鼻で止まるかを競っていた。
 道路横断の地下道で、ウイグルの音楽CDを2枚買う。1枚18元。
 ホテル横は、中学校。夕方であるが門は閉めてあり、門の前で保護者らしい人が数人待っている。校庭では、4列縦隊で行進や団体行動の練習をしているグループがある。バスケットに興じている子もいる。家路に急ぐ子どもたちは門横の守衛の前を通り、帰る。大部分の子どもは連れだって帰っていたが、日本のように迎えに来る家庭もあるのには驚いた。

ホテルで夕食
 洋食、中華料理、西域料理、日本料理もある。焼き肉のそぎ落としも食べる。おいしい。
 サツマイモを焼いたものもある。野菜、ハミ瓜、スイカ、梨、ブドウなど美味い。
 ビールは2本で5元。久しぶりの食事らしい食事で、満ち足りた気分になる。

就寝    23:00  

宿泊ホテル 新疆大酒店 ウルムチ新華北路168号 0991-2818788

        

空路 シルクロードの玄関口西安へ 西安 鐘楼
西 安  鐘 楼
        

10日目 9月26日(日)

起床    06:30

朝食    07:00 

タクシーで空港へ。
 19日にホータン行きの便に搭乗し空港の様子は分かっていたので搭乗手続きはスムースに行く。
 座席も窓側を確保。搭乗手続きをする乗客の中に、ブドウなどの果物を預かり荷物として飛行機に積み込む人の多いことには驚く。土産にするのだろう。搭乗時刻まで時間があったので空港内を見て回る。土産物を扱っている店がいくつもあるが、どこも同じものを売っている。展示の仕方も同じ。
 また、荷物の機内持ち込みが多いのには驚く。一人で数個持ち込んでいる人もいるようだ。私の手荷物は荷物置き棚には置けずに座席の下に置く。

予定より、15分遅れで離陸    10:00
 離陸後、10分もすると、右手に雪を頂いた天山山脈が見えてくる。
 あの刃物のように切り立った険しい峰々から徐々になだらかな山へと変わっていく。ゴビ砂漠上空を飛行。遠くに雪を頂いた祁連山脈も見える。広大なウイグル自治区を後にする。

ほぼ予定通り、西安空港着陸    13:35
 ターンテーブルで荷物を待つが、なかなか荷物が出てこない。
 ウルムチ空港で土産物に買ったと思われるブドウの箱が無惨にも壊れた形で出てくる。中のブドウもつぶれている。そんな荷物が5~6個はある。辺りにはブドウの甘酸っぱい香りがただよっている。荷主はどんな気持ちで受け取ったろうか。やっと私たちの荷物が出てきたが、トランクにはつぶれたブドウがくっついて、べたべたしていた。

空港軽食堂で昼食
 あわてて西安まで行くこともなかったので空港で軽い食事をすることにし、喫茶店に入る。
 サンドイッチが50元、ジャスミン茶が44元。これには驚く。
 ウルムチのホテルでは夕食が98元。西安賓館の朝食は70元。それに比べてサンドイッチが50元とは。
 サンドイッチ2個、お茶1杯を注文し昼食とする。中国の空港レストランや喫茶店は非常に高いと聞いていたが、こんなに高いとは思わなかった。

リムジンバスで西安市へ
 リムジンバスに乗る。
 6月の夜のリムジンバスとはまた違った感じ。乗客はすべて中国人。車掌が乗客一人一人に話しかけてくる。
 「宿泊ホテルは決まっているか、どこに観光に行くか、兵馬俑博物館や茂陵などの観光なら鐘楼前からバスが出る。」など語りかけてきた。
 「6月に、西安はあちこち観光した。今回は西域に行って明日、日本へ帰る。」と妻は答えていた。
 鐘楼前で降りる。
 客待ちをしているタクシーの運転手に「西安賓館までいくらか。」と聞くと、「20元。」と言う。別の運転手に聞くと10元というので、その車でホテルへ。運転手が「これからどうするのか?」と聞いてくる。
 「明日、日本へ帰る。」と言うと、「空港まで100元で行くがどうか?」と言うので予約する。
 名刺をもらう。運転手は、鉄暁釗さん。年格好は40歳くらい。明朝7時にホテルまで来てもらうことにした。

ホテルチェックイン
 6月に7日間滞在したホテルなので様子は分かっている。スムーズにチェックインできる。
 ここでもデポジットとして600元というので1万円を預ける。17日の宿泊キャンセルのことを尋ねるが、全く分からない。
 青島空港で妻が必死で宿泊をキャンセルしたのだがホテルとしては宿泊料をもらっていることでもあるので、予約をしている人が宿泊しようがしまいがどうってことなかった模様。17日の苦労は何だったのか、「骨折り損のくたびれもうけ」とはこのことか。
 部屋に入ろうとすると、6月いろいろと力になってくれたボーイさんがいる。
 「6月一緒に撮った写真を持ってきた。プレゼントします。」と言うと、うれしそうに「ありがとうございます。」と言う。
 荷物を部屋まで丁寧に運んでくれた。写真を2枚やる。「どこから帰ってきましたか?」と聞くので、妻が「ホータン、カシュガル、ウルムチへ行ってきた。」と答えると、「中国滞在長いですね。」と言う。6月からずっと中国にいたと思っているようだ。「3月、退職したから時間があるので今回改めて西域へ行ってきた。」と言うと、「いいですね。」と言う。
 「これから、興慶宮公園に行こうと思う。」と言うと、ホテルの門まで出て、タクシーを探してくれる。
 ホテルの前の通りは車がものすごく多く、なかなかタクシーがつかまらない。「もう遅いので鐘楼まで行きます。」と言うと、「鐘楼ではタクシーに乗ることができるでしょう。」と鐘楼へ行くのを勧める。

鐘楼    入館料は1人、20元
 6月は鐘楼は工事中で見ることも、上ることもできなかった。
 9月1日、工事が終了したとの看板が出ている。色鮮やかに化粧直しがしてある。地下道を通って鐘楼へ。
 NHKシルクロード「長安の都」で陳舜臣さんがこの鐘楼から西安の街を眺め、シルクロードに思いを馳せた当時とは全く景観が違う。
 緑がなくなり、ビルが林立している。自転車に代わって車が増えている。人の通りも多くなっている。

鐘楼から東方面の通り 鐘楼から西方面の通り
鐘楼から南方面の通り 鐘楼から北方面の通り

 鼓楼の前の広場に大勢の人がいるので、行ってみる。親子連れ、夫婦、若い恋人同士、観光客などたくさんの人がぶらぶらしている。広場では、連凧を売っている。たこを100個ばかりつなげて空高く上げている。小さな子どもが父親から買ってもらったばかりの凧をあげてもらい喜んでいる。親子の情愛は日本も中国も変わりない。

夕食
 餃子が食べたくて6月食べた「五一レストラン」で食べる。餃子1皿、それに鍋料理がおいしそうだったので注文する。
 見ている前で鍋料理を調理してくれる。マントーも注文。日本の団子のようなものがある。それも食べる。
 おなかがすいていたのでおいしかった。特に鍋料理が良かった。

ホテルでくつろぐ
 風呂に入り、ゆっくりとくつろぐ。10日ぶり、今回の中国旅行では初めてNHKニュースを見る。
 (6月の西安探訪では毎晩、NHKの衛星放送を見ていた。)また、台風が近づいているようだ。

就寝    22:00
 

宿泊ホテル 西安皇城賓館  西安市東大街334号 86-29-87235311


帰国の途へ 

11日目 9月27日(月)

起床    06:00 

チェックアウトを済ませ、空港へ    07:00 
 世話になったボーイさんがいたので名前をサインしてもらう。名前は劉効譯という。いろいろと今回も気を遣ってくれた。
 玄関には、運転手の鉄さんが待っている。私たちを見つけると手を振っている。7時15分、ホテルを出る。
 運転手の鉄さんは話し好きと見えて大きな声で話しかけてくる。妻がいろいろ答えている。妻に何を話しているのかを尋ねると、「鉄さんは日本が好きで日本語の勉強をしたいと思っている。時間がなくてできないが少しは日本語を知っている」と言っているそうだ。その後、「おはようございます」「こんにちは」「ありがとう」「ちょっとまって」など知っている言葉をたどたどしい日本語で紹介する。
 今朝は霧が深い。霧にむせぶ街並みを指さして「この眺めは良いだろう? 日本にもこんなに霧が立ちこめることがあるか?」と聞いてくる。
 「日本にも霧が深くて5m先も見えないこともある。」「熊本には朝から霧が多く『朝霧町』の名前が付いている町もある。」と応える。
 「ウルムチまで行ったのか。自分はこの車で5日かかってトルファンまで行ったことがある。」とか「四川のパンダは見たことがあるか?」とか「日本の経済はどうか?」とか「車の値段はどのくらいするか?」など高速道路を走っているときも、ハンドルから手を離して身振り手振りで話しかける。
 妻の話によると、発音になまりがなく良く聞き取ることができるという。妻には格好の中国語の勉強の場となったようだ。
 8時に空港に到着する。100元の約束だったが、6月ホテルで頼んだときは150元であったことや鉄さんがとても親切であったことなどから113元(なぜ13元プラスしたかということには理由があるが省略)渡すと、喜んでいた。
 13元は、中国語講師料というところ。

搭乗手続き
 8時15分頃、国際線搭乗手続きカウンターへ行く。6月は朝早かったからか、税関の職員がいなく税関を通らないで搭乗したが、今日は「税関職員がまだ来ていないのでしばらく待つように」と言う。
 30分くらい待っただろうか。やっと税関の荷物チェックを受ける。トランクのオープンを命じられる。
 「楽器や壺が壊れないように一生懸命トランクに入れたのにオープンとは」と気が滅入りそうになるが、エックス線に金属製の壺がひっかかったようだ。
 税関の人も安全飛行のために命じていることであり、トランクを開けると、トランクの中の乱雑さに係官は苦笑している。
 壺を取り出し、2つ見せると、「いくつあるのか?」と聞くので、「ウーガ(5個)」と答えると、「締めて良い。」と言う。
 妻のリュックにはホテルでもらったミネラルウォーターのペットボトルを入れていたが、これもひっかかった。ペットボトルを振ってみるように指示される。振ってみせると「OK」と言う。爆発物か何かと思ったのだろう。

 荷物を預け、待合室へ入ろうとすると、空港の係官が何やら言ってくる。
 後ろを振り向くと、タクシー運転手の鉄さんが手を振っている。何事かと妻が鉄さんの所へ行くと「座席に財布が落ちていた。これはあなたのものだろう?途中で気がつき急いで引き返してきた。」と言って、財布を渡す。
 財布には中国元ばかり200元はいっていた。タクシー代金を払うとき、財布をリュックにしまい損ねたのだろう。
 妻が「ずいぶん遠くまで帰っていたでしょう。どこで気づきましたか?」というと、「很遠(ヘン ユアン)(遠くまで行ったの意味)」とにこにこしながら渡してくれる。
 わざわざ引き返して届けてくれる優しさがとてもうれしい。鉄さんに丁重に礼を言う。鉄さんの善意で初日からのトラブルも一気に解消する。「終わりよければすべてよし」だ。

 15番搭乗口へ向かう。搭乗口には福岡行きの表示があるが、飛行機が駐機していない。予定の9時40分に飛ぶのか心配。 トイレに行ったり、待合室内の土産物売り場をのぞいたりしていると、次第に搭乗者が多くなる。日本人が多い。
 滑走路を見ていると横から「どこから来んしゃったい?」とおじいさんが聞いてくる。
 「熊本から、ウルムチ、ホータン、カシュガルヘ行ってきました。」と言うと「わしらは佐賀の嬉野農協で西安観光に来た。」と話された。
 ウルムチでは静岡の農協の人、西安では佐賀の農協の人、相変わらず農協で海外旅行に行っているのだと思った。

離陸    10:05 
 予定より20分遅れで離陸する。外は雲で何も見えない。

青島着    11:40 
 出国手続き。青島の税関で出国カードとパスポートを提示して出国手続きをする。

福岡着    15:25 
 いろんなハプニングと感動のあった西域旅行から無事に帰れたことに安堵する。一番に旅行社のSさんに帰国の電話を入れる。

我が家へ帰る。
 息子に帰国の電話をする。
 孫が「お帰りなさい。」と言う。
 10泊11日の旅を終える。

結び
 砂漠は年間降雨量が30ミリ以下という。この砂漠の中にオアシスが点々とある。オアシスは、崑崙山脈の雪解け水が作っている。5月の終わりから9月にかけて、崑崙山脈の雪が解け、水となり、川となり砂漠を潤し緑を作っている。NHK取材班撮影の「ホータン河」を見ると、雪解けによって、6月から川が出現し始め、8月には大河となりタクラマカン砂漠を流れる。ホータン市内に架かるホータン大橋の川幅は7~80mはあるだろう。この河幅を満々と雪解け水が流れる。9月から水量が少なくなり10月には水は全く流れなくなる。私たちが見た9月20日は、わずかな水が流れていた。
 「雪解け水がオアシスを作り、緑を育て人を育てている」このことは頭では理解できても、乾ききった砂漠を見ると、こんなことがあり得るだろうかと不思議でしようがない。
 今回の旅行で、ウイグルの人たちが自然と闘い共存している姿に感動した。防風・防砂のためポプラ並木を守り増やす営み、水路を掘り作物を作る営み、そして新たな畑地の開拓を続けている姿の一端に触れることができた。さらに、自然のすばらしさ、自然と共存した人の営みのすばらしさ、そしてウイグルの人々の陽気で優しい姿に接することができた喜びは何物にも代え難い。
 この感動を体感することができたのはたくさんの人々の支えがあったればこそである。人々の支えに感謝し結びとする。


ウイグルの子ども 兄弟 ウイグルの人達と


     世話になった人々
        日中旅行社               Sさん
        新疆中国旅行社            胡 献春さん
        中国新疆ホータン国際旅行社    成岩さん
        カシュガル旅行社            アリトリソンさん
        カシュガル凱瑞旅行社         パリダさん
        西安皇城賓館職員           劉効譯
        西安市長楽汽車公司(バス会社 ) 鉄暁釗さん
        佐世保東急旅行者添乗員さん
        ホータン市内を案内してくれた運転手さん
        カラクリ湖まで案内してくれた運転手さん
        たくさんの中国の人、人、人

           
シェー、シェー(謝謝!)
           
ラヒメッティ