シルクロード天山南路 クチャ二人旅

キジル千仏洞

 新疆ウイグル自治区天山南路のオアシス都市クチャを妻と二人で旅しました。
 天山の麓に拡がる雄大な大地が織りなす自然美、スバシ古城、キジル千仏洞をはじめ奈良正倉院までつながるシルクロード悠久の歴史、そして通りすがりの外国人である私たちを旧知の友のように招き入れるウイグルの人々の陽気でおおらかな人柄にふれた楽しい旅でした。
 その旅行記です。

                              日      程

月 日 予  定  等 交通機関等 観       光 ホテル等
9月3日 自宅~福岡 自家用車 中国新疆ウイグル自治区ウルムチへ ウルムチ
福岡空港~上海浦東空港 中国東方航空
虹橋空港~ウルムチ空港 中国南方航空
9月4日 ウルムチ~コルラ 南疆鉄道利用 南彊鉄道で天山山脈を越える コルラ
9月5日 コルラ~クチャ チャーター車 ゴビタンを走る クチャ
9月6日 クチャ郊外観光 チャーター車 スバシ古城 キジル千仏洞  狼煙台 クズガハル千仏洞観光 クチャ
9月7日 クチャ郊外観光 チャーター車 天山秘境大渓谷 ポプラ並木 ウイグルレストラン他 クチャ
9月8日 クチャ市内観光 路線バス クチャ王府 亀玆古城 モナエシディンマザール廟
農貿バザール解放新橋バザール 金橋越市散策
クチャ
9月9日 クチャ市内観光 路線バス 団結新橋 解放路 ウイグル人居住地域散策 車中泊
ウルムチへ 南彊鉄道 南彊鉄道の旅
9月10日 ウルムチ市内観光 路線バス 二道橋界隈 小西門界隈 散策 ウルムチ
9月11日 ウルムチ市内観光 路線バス 人民公園 新疆博物館 二道橋・国際大バザール 紅山公園散策 ウルムチ
9月12日 ウルムチ~上海 中国南方航空 帰国
上海~福岡 中国東方航空
福岡~自宅 自家用車

       雄大な自然 歴史の重み 人の情にふれたクチャの旅


ウルムチ(烏魯木斉)

 世界で最も内陸に位置する都市として知られるウルムチは、中国の省・自治区の中で最大の面積を持つ新疆ウイグル自治区の首府であり、政治・文化・経済の中心地です。
 新疆華運国際旅行社の李洲さんの話によると、20年前の人口は120万人だったのが現在は360万人。自家用車台数は5年前約20万台だったのが現在は40万台だそうです。その発展ぶりはめざましいものがあります。道路は至る所で大渋滞を引き起こし、これまで歩道だったところが駐車場になっています。気の弱い人は車の運転はできないと言っていました。
 漢民族、ウイグル族、カザフ族、モンゴル族、回族など42の民族が暮らしています。
 訪れたのは9月上旬でしたが、気温は27度が最高と言います。年間を通して、晴れの日が多く降水量は少ないそうですが、天山山脈のボゴダ峰をはじめ周囲には万年雪を頂く高峰が連なり、雪解け水で水量は豊富です。
 9月4日の朝、雪を頂いたボゴダ峰がくっきりと見えていました。
 ウルムチの歴史は古く、前漢時代に西域都護府が置かれ、中国王朝の支配下に入りました。その後は、中国王朝の勢力が弱まるたびに遊牧民族が奪い返し、独立国家を建国するという歴史が繰り返されました。
 明代になって、モンゴル族がウルムチを築城し都市として発展させました。
 清代には、満州八騎兵をウルムチに駐屯させ、ウルムチを新疆支配の中心地としました。
 19世紀には、ロシア帝国の侵入に対する軍事拠点として開発が進められ発展しました。
 清朝末期には混乱しました。
 中華人民共和国の建国後は、中国西域地区の拠点として開発が進められ、飛躍的な発展を遂げています。
 現在のウルムチは高層ビルが建ち並び、ニューヨークの摩天楼街と見間違うほどです。
 3日間の滞在期間中、日本人を始め外国人特に欧米の人をほとんど見ませんでした。2009年7月の暴動事件から外国人観光客がめっきり減ったと聞きます。現在の観光客は中国人が主だそうです。
 ウルムチの課題は、地方からウルムチへ出稼ぎに来る若者が後を絶たず、地方の過疎化ウルムチの過密化、それに伴い水消費量が激増していることと李さんは言います。
 李さんは楼蘭を例に、「楼蘭の滅亡は、伝染病の蔓延による人口の死滅などいろいろとその原因が説かれているが、一番の原因はロプノールの水が干上がったことだと思う。人が生活して行くには水が必要。今のように急激に人口が増え続けると今は豊富な水も今後どうなるかわからない。心配です」と話していました。


クチャ(庫車)

 天山山脈の南側にあるクチャは、人口約50万人、北新疆のイーニンやアルタイと南新疆のカシュガルなどを結ぶ交通の要衝です。古くは亀茲国が栄えた土地です。
 亀茲国は、前漢時代にできたオアシス都市国家です。後漢時代には西域都護府、唐時代には安西都護府が置かれ、西域支配の中心都市として10世紀頃まで繁栄しました。キジル千仏洞をはじめ、幾多の石窟が、3世紀にはこの地に仏教が伝来していることを伝えています。4世紀後半に仏教を漢訳したクマラジューの母親は、亀茲国の王族だったそうです。唐の時代、玄奘三蔵もインドへの途中この地に立ち寄っています。
 ガイドの葛軍さんの話では、クチャの人口50万人のうち漢民族はその15%で政府関係の仕事や商いに従事しているとのことです。他はウイグル族です。ウイグル人は、新疆ウイグル自治区内のオアシス都市に住んでいますが、その都市都市で、トルコ系、ギリシャ系、モンゴル系など違いはあるが、自分たちが本家のウイグル人だと互いに言っているそうです。

1日目 9月3日 新疆ウイグル自治区天山南路オアシス都市クチャへの旅


6:25 4年ぶりの新疆ウイグル自治区への旅
 胸膨らませ、自宅を出発しました。
 早朝で、一般道も高速道路も混雑なく福岡市の民間パーキングに予定時刻に着きました。

8:00 福岡空港国際線ターミナル着
 「土曜日から海外旅行に出かけよう」の思いはみんな同じでしょうか。手荷物検査場は、大小のトランクやバッグを手にした人で長蛇の列です。
 20分程並んで、搭乗続きを終えました。座席は、中国東方航空機25A・B席です。
 空港内の福岡銀行両替所で両替をしました。両替機での両替です。14000円で100元札を10枚束にした1000元、おつりが150円でした。
 1元は13、85円です。

8:30 簡単な朝食
 機内食は出ますが、おなかがすいていたのでうどんを食べました。
 海外で使える携帯電話機の返却カウンターと返却時刻を確認しました。返却カウンターは9時半過ぎまでと聞いて安堵しました。
 (帰国機の到着時刻は8:30の予定)

9:30 機内へ
 出国手続きを済ませ、搭乗しました。機内はほぼ満席です。ラフな服装の観光旅行者やスーツ姿のビジネスマン風の人、それぞれです。

10:05 約15分遅れて離陸
 離陸して20分程過ぎて、機内食がでました。サンドイッチ、野菜、果物、水、それにピーナツです。少量でしたが、おいしくいただきました。
 曇り空のため、機外の景色はほとんど見えません。上海上空にさしかかって、しっとりとした緑、高層ビル群が見えてきました。中国の経済成長を窺い知ることができます。

10:27(これからは中国時間)浦東空港に着陸
 ほぼ定刻に上海 浦東空港に着陸しました。入国手続きを済ませ、虹橋空港へのリムジンバス発車場へ行きました。1番発着所です。荷物をバスの運転手がトランクに入れてくれます。私の荷物を持って「ウワー、重い」と日本語で言います。びっくりしました。私は片言の中国語で「シェー シェー」と感謝の意を表しました。 

11:10 リムジンバス浦東空港発車
 車内は満席です。最後部に座りましたが若い人で一杯です。発車してまもなく、すぐ前の若い男性が隣の男性にメモを見せ何か話しかけます。話しかけられた成都から来たと言っていた若い男性は携帯電話に電話番号を入力し、隣の男性に貸しました。二人とも中国の若者と思っていたら電話を借りた若い男性は日本人です。中国語と日本語で通話して、携帯電話を返し、ガムを出しました。お礼にと思ったのでしょう。中国人は受け取りません。
 二人のやり取りはそれだけです。日本人男性はその後は、イヤホーンを付けてなにやら聴いていました。

12:10 リムジンバス虹橋空港着
 4年前までの虹橋空港とはどうも様子が違います。空港の建物も場所も、バスの停留所も違っています。心配になって前の座席にいた若者に、「ここは国内線ターミナルですか?」と聞くと、「自分も初めてなので分かりません」と言います。後で聞くと、第2ターミナルが今年の2月(?)にオープンしたということでした。

12:30 搭乗手続きカウンター
 搭乗手続き前の荷物検査がありません。不思議に思いながら搭乗手続きをすると、このカウンターで荷物検査も同時にするのです。搭乗手続きは出来たものの搭乗券は渡してくれません。別室で荷物検査をして、その後、「ここに戻ってきなさい」と言うのです。私たちの前の外国人にもそのようなことを言っていました。
 別室に行くと、私たちのトランクがあり、すぐにオープンを命じられ、開けるとすぐに、妻が持参したトランク内の高度計を手にしました。懐中電灯、目覚まし時計、そしてペットボトルを指さして、何に使うのかを訊きます。妻が使い方を説明すると、懐中電灯を点けて壁を照らしてみました。ペットボトルは私が身振りで「飲み物」と言うと、OKが出ました。空の安全を期すためとはいえ、有無を言わせない強引な検査でした。
 搭乗手続きカウンターに戻り、搭乗券をもらいました。座席は53A・Bです。すぐに搭乗口へ行きました。持ち物はすべて検査機をとおします。携帯電話、ベルト、財布、上着、帽子、靴までです。チェックがとても厳しくなっていました。さらに、身体検査ゲートをくぐり、全身を手で触れて検査します。ポケットに入れていたティッシュまで出して見せました。私はズボンの裾上げをしていますのでそこも入念に検査されました。これも安全・安心のためと思うと、さして苦になりません。しかし、こんなに厳しい検査をしなくもよい世界になって欲しいと思います。

13:00 ファーストフード店で、昼食
 妻は麺類、私はカレーを食べました。口に合い、わりとおいしい味でした。

14:15 搭乗
 横3列 4列 3列の大型機です。座席はあいにく翼の上です。

14:43 離陸
 予定より8分程遅れての離陸です。平成の初め、中国旅行したときは飛行機の発着時刻などあってなきがごとしでした。午前の便の予定が何の説明もなく空港で何時間も待たされ、昼食を渡され、夕方旅立ったこともありました。ほぼ定刻に飛行できるようになったことは、国力の発展とも大いに関係があるのでしょうか。
 離陸して1時間程過ぎた頃、飲み物のサービス、そして機内食が配られました。飲み物でコーラをもらいましが、冷えてはいません。機内食は、パン、ミニトマト、ハム、麺です。おいしくいただきました。
 飛行機はずっと雲の上を飛行しています。見えるのは雲ばかりです。

機 外 か ら 見 え る 山 々

 18時頃から視界が広がり、荒涼とした砂漠、岩肌むき出しの山、遠くには雪を頂いた崑崙山脈か見えます。ウルムチに近づくにつれ、緑の大地、高層ビルが見えてきました。

19:15 ウルムチ空港に着陸
 予定より30分早くウルムチ空港に着陸しました。
 到着ロビーには、4年前大変お世話になった李洲さんが迎えに来ていました。4年前の礼を言い、李さんの車(ニッサン車ティーダ)でホテルへ向かいました。

20:40 ホテル(屯河華美達酒店 ラマダホテル)着
 古びた感じで、老舗のホテルのようでした。ホテルチェックインは李さんが済ませてくれました。デポジットとして200元納めました。李さんとは明朝の迎えの時刻、8時30分を確認して別れました。

21:00 ホテルレストランで夕食
 レストラン入り口に写真付きのメニューが掲示してありますが、全て中華料理です。二人で食べるには量が多過ぎます。食欲をそそるようなものもありません。メニュー選びに時間を要しました。客がいません。寂しい思いをしながら食べ始めると、10人くらいの若者グループが2組来ました。彼らは、何か一つ話がまとまると立ち上がって紹興酒で乾杯を何度も繰り返して盛り上がっていました。
23:00 就寝


2日目 9月4日 南彊鉄道でコルラへ
                                

南彊鉄道の旅

                                 南疆鉄道

 南疆鉄道は、トルファン~カシュガル間を結ぶ全長1,451kmの天山山脈の南麓、タクラマカン砂漠の北縁を通る天山越えの山岳鉄道です。
 トルファン~コルラ間が1976年に着工し、わずか3年間の突貫工事で1979年末に開通し、1981年から営業運転が開始されました。
 コルラ~トルファン間に掘られたトンネルの数は29、架けられた鉄橋の数は36にも達すると言います。
 コルラ~カシュガル間は、1996年から敷設工事が着工され、1999年に全線開通しました。
 車中から、トルファン 魚兒溝 巴倫台 和静 焉耆などの駅名をいくつ見られるか楽しみです。


6:00  起床

6:40  朝食
 朝食は、中華料理のバイキングです。マントウやおかずを選んで朝食をとっていると、同じテーブルに日本人らしき人が一人来ました。その人は少量食べただけで引き上げました。「今の人は日本人らしかったね」と話しながら食事していると、隣のテーブルに来た6~7人のグループの人は日本語で話をしながら食事を始めました。しかも九州弁どころか熊本弁に聞こえます。さらに私たちのテーブルに4人来ました。「日本の方ですか?どちらからお出でましたか?」と尋ねると、なんと「熊本から」と言います。熊本県民向けの阪急旅行社のツアーで、北京からウルムチに来て、これからトルファン、敦煌に行くと言っていました。熊本県民と同席するなんて奇遇です。

7:55  日の出
 (中国は東西に長い国にもかかわらず全ての地域が北京時間で生活しています。北京とウルムチでは2時間くらい時差があります。)

8:15  チェックアウト
 「部屋の様子を確認してくるから待ってくれ」と言って、部屋の様子を確認に行きました。飲み物を飲んでいないか、部屋が破損していないかなどを確認したのでしょう。確認を終えて、デポジット200元を返してもらいました。
 李洲さんとの約束の時刻には間があったのでホテルの前を少し歩きました。濃い緑の大きな街路樹が道路の両側に生い茂り、乾燥地帯にもかかわらずしっとりとした雰囲気を醸し出しています。
 早朝にもかかわらず、通勤でしょうか。車が行き交っています。橙色ジャンパーを着た道路清掃の人がほうきで道路を掃いています。

8:30  ウルムチ駅へ
 李さんが来ました。ホテルを発ってウルムチ駅に向かいました。駅への道路は早朝のため割と空いていましたが、駅前の道路の混雑は初めて見る光景でした。走行レーンなどお構いなしです。我先に、先へ進もうと無秩序に車が進入します。接触事故が起きないのが不思議なくらいです。列車に乗り込むまでの送りを頼んだのですが「駐車場までしか送れない」という言うので渋滞の合間に、列車に乗り込む注意などを説明してもらいました。
・正面入り口で荷物の安全検査を受ける。
・2階の軟臥待合室で駅員の指示があるまで待つ。
・乗車ホームは駅員が示してくれる。

ウ ル ム チ 駅

 駅駐車場入り口前で10分くらい待って、どうにか駐車場に入りました。李さんに礼を言って駅へ向かいました。驚いたことに駅正面の入り口両側には自動小銃を手にした兵士が立って、あたりに目を光らせています。治安維持に目を光らせていることがわかりました。
 荷物の安全検査では、空港と同じく持ち物は全て検査機会を通します。身体検査もありました。駅に入り驚いたことは、駅と空港の客層が違うことです。空港は漢民族が多く、駅は漢民族が少なくウイグル族などの少数民族が多いことです。それだけ、貧富の差が大きいということでしょうか。

硬臥車待合室 軟臥車待合室

 さらに驚いたことは、硬臥車と軟臥車の待合室の違いです。硬臥車待合室は、スチール製のイスです。しかも人でごった返しています。軟臥車の待合室は、革張りでゆったりとくつろげるシートです。外国人が3人、私たち2人、他は漢民族の人達です。
 待合室でゆったりとしていると、駅員が何かを告げると数人がホームへと入って行きますがほとんどが座席に座っています。そのままゆったりしていましたが、発車時刻まで30分を切りました。まだ案内がないのはおかしいと妻が男性駅員に乗車券を見せ、「まだ案内はないのか?」と尋ねると、「早く行きなさい」と言い、女性駅員を呼びました。
 女性駅員は、「まだいたのか」というような顔をして私たちをホームへ案内します。ホームへのドアーにはカギがかかっているところがありました。「3番ホームに行きなさい」と言いますが、何の表示もなく重い荷物を持って階段を上り下りして通路を歩いて行くと、上のホームから男性駅員が「こっち」と声を掛けました。やっと3番ホームに上り着きました。上り着いたところが軟臥車の乗車口でした。
 待合室の電光掲示板では、いくつもの列車の発車時刻が表示されていたので、ホームに向かっている人たちは他の列車に乗る人たちだろうと思い、のんびり座っていたのは大変な勘違いで、危うく乗り損なうところでした。
 南疆鉄道は、ホームと乗車口の高さが違います。ホームから列車乗車口の階段を3段程上ります。重い荷物を持ち上げようと苦労していると、乗車口から女性乗務員がヒョイと持ち上げてくれました。一つ覚えの中国語で「シェーシェ」と礼を言いました。
 列車は2階建てです。下の階に行き、座席番号を探しましたがどこの座席かわかりません。乗務員に乗車券を見せると、乗車口から2番目のコンパートメントへ案内しました。車内は、4年前より古びた感じでしたが、4人掛けのコンパートメントに私たち2人だけのようです。

乗車券 ウルムチからコルラ 整理券

 程なく、乗車券のチェックに来ました。パスポートと乗車券をみせました。中国の列車では、乗車券チェックの時に、乗車券と整理券とを交換します。乗車券は乗務員が保管して、乗客は整理券を持っています。降りる10分位前に乗務員が乗車券と整理券を交換に来るのです。始めて鉄道を利用したときは、この整理券をどこにしまったかわからずおおごとしましたので、大事に保管しました。 

9:58  発車
 定刻通り発車しました。1時間くらい走ったでしょうか。トルファンの風力発電所の風車群が見えてきました。

11:46 トルファン着

 トルファン駅は大河沿と言う所にあり標高は800mです。
 トルファン駅は、蘭新鉄道(上海~ウルムチ)と南疆鉄道(トルファン~カシュガル)の分岐点で、大きな駅です。 
 ホームでは、ブドウやハミウリ、パン、カップ麺等をリヤカーに似た車に積んで売っています。女性乗務員がホームに立ち、乗客を待っています。写真を撮って欲しいと頼みますと、「服務中だからできない」と断ります。一緒に写ろうと傍に立ちますと、これまた「服務中」と、横を向きました。勤務時間中の服務規律が厳しいようです。
 12時過ぎ、ホームに降りて乗客を待っていた乗務員が列車に戻りました。ホームの物売りの車もシートをかぶせて店じまいしました。まもなく発車かと思いましたが、なかなか発車しません。

12:19 発車
 やっと列車が動き出しました。進行方向が逆になりました。これまでは蘭新線を走り、ウルムチからトルファンまで来ました。これからは南疆線を走り、トルファンからカシュガルへ向かうのです。それで、進行方向が逆になりました。

12:30 昼食
 持参したインスタントおにぎりに列車内のお湯を注ぎ、サンマの缶詰め、駅で買ったパンで昼食にしました。コンパートメントの室内は私だけでしたので、ゆったりとくつろいだ昼食がとれました。
 食後、熊本の次男に電話しました。次男は小学6年生の時、妻とウルムチからトルファンまで行く予定でしたが、洪水のためトルファンへは行くことができませんでした。それで、今トルファンにいることを知らせました。
 窓外は、荒涼たる砂漠ですが、ところどころでトラックが土煙をあげて走っています。7年前に見た天山山脈を貫く南疆鉄道沿線の素晴らしい景観を再度見ることができると思うと、心が高揚します。

13:18 紅山渠駅通過
 車窓には廃墟となった煉瓦作りの建物群があちこちに見られます。鉄道建設時の作業基地だったのでしょう。

14:42 魚児沟駅着

 列車は砂漠の中を走ります。所々に川が流れ、ポプラの緑が見えます。列車はどんどん天山を登っているのがわかります。

15:30 星源駅通過

16:00 ループトンネル通過

南 彊 鉄 道  車 窓 光 景

 車窓の緑が増えてきました。ごつごつした岩肌の山に苔が生えたように緑が見えてきました。少し耳が痛くなりました。ウスト(烏斯得)という2900mくらいの所を走っているようです。半円を描く橋や一直線の橋などのいくつもの大橋が架けられています。
 草原が拡がってきました。牛や馬、羊の放牧、ラクダも放牧されています。石積みの囲いがあります。放牧した牛や羊が外に行かないようにするためでしょうか。
 左右に雪を頂いた山並みが見えてきました。列車はかなり高く登ってきたようです。長いトンネルに入りました。全長6,000mといわれるケイセントンネルと思われます。
 この辺りは標高3,000mのウラス(烏拉斯)台渓谷でしょう。緑の谷が続きます。西部劇の世界を思い起こさせる光景です。その雄大さにしばし見とれました。
 列車は下り始めたようです。これからはタクラマカン砂漠の方へ下ります。

18:29 巴倫台駅着

19:40 和静駅通過 夕食
 ほとんど平地になり街並みが見えます。わかめごはん・五目ごはん・カップ麺にお湯を入れ、夕食をとりました。

20:04 幸福灉着
 だんだん辺りは暗くなりました。道路を走る車は、薄暗くてもヘッドライトを点けていません。トラックがスモールランプを点けている程度です。
 女性乗務員が、乗車券と整理券を交換に来ました。
 コルラ駅到着予定時刻10分くらい前にデッキに移動しました。列車は真っ暗な中をスピードを上げて走ります。到着予定時刻(8:42)を過ぎても、駅らしいものは見えません。車内販売の女性が「次で下りるの?」と笑顔で声を掛けてきました。デッキに移動して30分、辺りは真っ暗です。真っ暗な中をホテルまで行かねばなりません。不安になりました。

21:00 焉耆着
 遠くに灯りは見えますが、駅らしいものはありません。待ちくたびれて、通路のイスに座り込みました。

21:32 コルラにやっと着く

コ ル ラ 駅 出 口

 予定より50分遅れ、デッキに移動して1時間経ってやっとコルラに着きました。辺りは真っ暗です。
 コルラ駅は4年前に訪れていますので駅前の様子はある程度わかっています。タクシー乗り場へ急ぎました。タクシー乗り場では、若いカップルの男性が、今にもつかみかからんばかりに興奮してタクシーの運転手と大声で怒鳴り合っています。相乗りをさせるかどうかで言い争っているようです。後のタクシーがクラクションを鳴らすので、運転手は捨て台詞を残して発車しました。
 そのカップルが乗車したタクシーが出た後は、タクシーが来ません。ロータリーの手前で曲がってしまいます。「もう乗客はいないと思ってタクシーはここまで来ないのだろう。道路まで行こう」とロータリー先の道路まで行き、やっとタクシーを拾い、ホテルへ向かいました。

22:20 君瀾ホテル着
 チェックインに少々手間取りました。予約カードを見せると、パスポートを預かると言います。これまでもパスポートを預けたことはありました。少し不安でしたが預けました。パスポートと引き替えに部屋のキーをくれましたが、明日の朝食券はありません。妻がそのことを尋ねてやっと朝食券を渡してくれました。さらに、「隣の部屋に、明日クチャまで案内するドライバーが泊まっている」と言います。
 部屋で荷物をほどいていると、ノックの音が聞こえます。何事だろうとドアーを開けると、クチャまで案内するドライバーの朱玉成さんです。「明日は7時30分に食事をし、9時に出発します」と言います。疲れていたので10時出発にしてくれないかと言いますが、10時では遅くなると言うので9時出発にしました。
 風呂につかって今日一日の疲れをとろうと風呂をのぞいてみると、バスタブはなく、シャワーだけです。仕方ないのでシャワーを浴びて就寝しました。
11:30 就寝



3日目 9月5日 クチャへの旅

クチャのポプラ並木

6:45  起床

7:30  朝食
 朝食はホテルレストランかと思っていたら、近くの食堂だと言います。宿泊したホテル(君瀾酒店)は、シャワーだけの部屋といい、ホテル内にレストランがないことといい、日本でいうビジネスホテルのようです。4つ星クラスのホテルを頼んでいたのに、3つ星クラスのホテルです。宿泊代は4つ星ホテルで支払っています。釈然としません。
 外に出ると、辺りはまだ真っ暗です。少しひんやりします。「馬氏牛肉面」の看板が掛かった食堂前では、ナン(麦の粉を棒状にしたもの)を大きな鍋で揚げています。朝食は、その揚げ物とコーンスープの薄いもの、野菜の炒め物です。おいしく食べました。
 日本人は来ない食堂のようで、若い店員さん達が遠くから私たちが食べるのを見ています。

9:00  出発
 出発前に、ホテル周辺を散策しました。4年前に宿泊した銀星ホテルが近くと聞き、ホテルまで行ってみました。当時のことが懐かしく思い出されます。クチャへ行く前に、コンチェ川まで連れて行ってもらおうと話しながらホテルへ帰ると、ホテル玄関で、ドライバーの朱さんが誰かと話しています。その相手が日本語で「これからクチャですね」と話しかけてきました。日本語ガイドだそうです。これ幸いと、「コンチェ川まで行きたい」と言うと、朱さんに伝えましたが、朱さんはどう行けばいいのかわからなようです。その男性が同乗しました。
 コンチェ川へ行きました。この川岸を散策したことが懐かしく思い出されました。4年前は6月でしたので、水量が豊富で、子どもや大人が泳いでいましたが、水量はかなり減っていました。この大都市のコルラ(人口100万、新疆第2の都市)の真ん中にある川に12月~3月になると白鳥が飛来すると聞いて驚きました。

コンチェ川

9:30  コルラ発
 朱さん運転の車は、中国製の黒塗りの紅旗です。4輪駆動車を頼んだのですが、ウルムチで欧亜博覧会があり、そちらに出払っていて4駆はないと言うことでした。高速道路を時速80~90kmの速さで走って行きます。
 車窓の風景が次々と変化していきます。「ゴビタンを走っている」と朱さんが説明しました。タマリスクのピンクの花がきれいです。ヤルダン(草の根本に風により砂や土が吹き付けられてできた塚)が見えてきました。

ヤルダン

10:30 トイレ休憩
 砂漠の真ん中にトイレがぽつんとあります。トイレより外で用をたした方が気持ちがよいような感じのトイレです。数分の間に、乗用車や小型バスが数台停車して何人もトイレに入りました。中には、トイレではなく外で用をたしている人もいます。
 そこを発ってまもなく、真っ黒なパイプラインが見え始めました。建設中の所もあります。石油か天然ガスを運ぶものでしょうか。石油らしきものを掘削している所では細長い煙突のてっぺんには炎が燃えています。途中から高速を降りて、一般道路へ入りました。

11:20 ガソリン給油

12:00 輪台砂漠公路入り口

沙 漠 公 路 入 り 口

 砂漠公路入り口に来ました。西日本日中旅行社との事前の打ち合わせでは、砂漠公路入り口に行くには、通常の経路から100kmほど離れていて、料金も7000円ほどアップするということだったのであきらめていた場所です。そこに案内してくれたのでびっくりしました。ここに来るために、途中から一般道路へ降りたことがわかりました。朱さんの心遣いがうれしくなりました。
 砂漠公路は、ここ輪台の砂漠公路入り口から、タクラマカン砂漠を横断して西域南路の民豊(ニヤ)まで続いているのです。公路入り口を過ぎると、車窓は一面草原です。右遠方には、雪を頂いた天山が見えてきました。
 赤茶けた土が一面に拡がってきました。水たまりもあります。しばらく走ると、白茶色に変わりました。地中の水分の量で土の色が変わって見えるのでしょう。地表に塩が噴き出しているところもあります。

13:00 牙哈鎮
 ポプラ並木に囲まれたウイグル人集落に入りました。牙哈鎮とありました。NHKテレビの「シルクロード」で見たウイグル人集落そのままの民家が続きます。今回の旅行で一番の心残りは朱さんに牙哈鎮で、「ここで車を止めて」と言い出せなかったことです。現在はどこのウイグル集落も今風に改築された家並みに変わっていますが、牙哈鎮は、人々の服装やロバ車の行き交う風景、家の前を流れる用水路、ポプラ並木等々、シルクロードの映像そのものでした。ここをゆっくりと散策したかったと思うと心残りで仕方ありません。
 むらの境には、むら人が手で遮断機を上げ下げして通行する車を一時止めています。重りには大きな石が結わえ付けてありました。私たちの車が通過する時、遮断機を上げてくれなかったので朱さんはむら人に何事か大声で怒鳴っていました。
 ほどなく、クチャ市内天山東路に入りました。前方に「庫車飯店」と大きな字で書いた看板が見えてきました。

牙  哈  鎮

13:30 クチャ飯店到着

 日本語ガイドの葛(かつ)軍さんがホテル玄関で待っていました。簡単な挨拶を済ませ、葛さんがホテルのチェックインを済ませてくれました。部屋は、9号楼4階9407です。
 明日は朱さんの車、葛さんの案内でクチャ郊外観光です。出発時刻9時を確認し、市街地への路線バスの経路や乗り方を教えてもらい、別れました。

14:00 ホテルレストランで昼食
 ホテル中庭は、温室のようになっています。観葉植物がたくさん植えてあります。プールもあり、泳いでいる人もいます。レストランがいくつもあります。一つのレストランでは宴会のようなものがあっていました。そこへ入ると、「昼食はあちら」と別のレストランを指さします。大きなレストランに行くと、玄関右手に写真入りメニューが展示してあります。味はわかりませんが、どんなものかはわかります。注文するには便利です。麺、青梗菜、茄子の炒め、スイカ、ハミウリを注文しました。104元です。  

16:00 路線バスで市中心街へ
 ホテル前の停留所へ行くと、行き先の案内表示がありません。市街地へは、2路・6路・8路に乗ればよいと聞いていましたので、ちょうど来た8路に乗りました。バスは市内どこまでも1人1元です。
 バスに乗車すると、ウイグル人女性車掌に1元を払います。車掌は私服で車内が空いていると、乗客が座る座席に腰を下ろしていて、乗車賃を収納するバッグなどは持っていないので誰が車掌かわからないときがあります。お金は手に束にして持っています。硬貨はなく、すべて札だからできるのでしょう。10元と1元を上手に仕分けて持っています。運転手も私服です。
 車掌が時々、「ヤッテキマシタ」などと日本語のようにも聞こえるウイグル語で次の停留所の案内をしています。バスは、天山路から文化路へ入り、解放路へと来ました。そこは、大勢の人で賑わっていました。どこの停留所だか分からないままあわてて降りました。新華書店や中国銀行があるので中心地ではあるようです。道路はウイグル人でごった返しています。
 農貿バザールに行きました。バザール内には買い物客はあまりいません。日用品、衣料品、帽子、靴、食料品、刃物、ノートや鉛筆などを売っている文房具店などいろんな店がひしめき合っています。数年前の新疆と違っているのは、民族色豊かな衣料品が少なくなり、現代風の衣料品が多くなっていることです。妻は、衣料品店で100元のブラウスを70元で買いました。
 その後、金橋超市(スーパーマーケット)へ行きました。入口に2人の男性が椅子に座っています。何かを監視しているようです。私に何か言いましたが言葉がわからないのでそのまま入りました。中は、日本のスーパーと全く同じです。電気製品をはじめいろんなものを扱っています。食料品コーナーのレジがある所から入ろうとすると、入場を拒否されました。「『ここは出口。向こうの入り口に回りなさい』と言っている」と妻が言います。昨年旅行した青島のスーパーでもこのような仕組みであったことを思い出しました。
 500ccのミネラルウォーターを6本買いました。7.5元です。昨年、青島でおつりにもらった1元硬貨を2枚持っていたので、5元札と1元硬貨2枚、5角札をレジに出すと、店員はレジの台に硬貨を何度も落として、音や転がり方を確かめています。おかしくなりましたが偽物でないことを確かめているようです。そういえば店では、必ず札は手触りとすかしを確認しています。
 万引き防止のためでしょうか。レジで代金を払い出口に行くと係員がいます。その人にレシートを見せると、パンチで穴をあけます。代金を払ったかを確認するのでしょう。同じ中国でも土地土地で、買い物の仕方が違います。それになれるのに一苦労です。
 私と妻は、クチャのスーパーでの買い物の仕方を知らずに自分のバッグを持って入りました。それで、入り口で不審がられたのでしょう。ここではバッグを持って入ってはいけないのです。このことは、2日後、朱さんから教えてもらい知りました。
 少し疲れたので、タクシーで帰りました。市内は5元と言いますが、ホテル敷地内の9号楼まで乗ったからでしょうか6元でした。

農 貿 バ ザ ー ル 周 辺

19:00 夕食 クチャ飯店レストランで
 レストランでは、従業員が結婚披露宴会場づくりで慌ただしく動き回っています。「食事ができますか」と妻が聞くと、「できる」と言います。
 8人掛けのテーブルが3~40はあったでしょう。その一つ一つに真っ赤なテーブルクロスを掛け、グラスや皿を載せ、準備をしています。前方のステージには照明係が照明のセットをしています。2階から下りてくる階段手すりには、ピンクの布を巻き付けています。どのテーブルに座ればよいだろうと思っていると、女性店員が最後列の中央テーブルへ案内しました。店員がせわしげに働いている中で2人だけが食事をしました。
 写真のメニューを見ながら牛肉とジャガイモを煮込んだもの、麺、野菜、マントー、ビールを注文しました。周りが慌ただしく動いているので落ち着いて食事はできません。注文したマントーは何度催促してもとうとう出てきませんでした。
 レジで、68元払うとき、これも青島旅行でおつりにもらった端っこがほんの少しちぎれている20元札を見つけて、「この札は使えない」と言います。妻が「おつりでもらった20元ですよ」と言いますが、レジの女性は20元札を両手で持って「受け取れない」と頑として受け付けません。その態度は見事なものでした。日本人なら、「申し訳ありません」とか愛想笑いして「受け取れません」と言うところですが、その女性はにこりともせず、ダメなものはダメの一点張りでした。仕方なく別の20元札を渡しました。
 部屋に帰って、風呂に入りました。風呂はバスタブとは別にシャワー室もあります。バスタブで体をリラックスさせたり洗ったりして、シャワー室で洗い流すことができるのでとても快適です。
21:30 就寝



4日目 9月6日 クチャの歴史に触れる

ス  バ  シ  古  城

6:50  起床

7:30  ホテルレストランで食事
 宮崎県から来たという旅行団と一緒でした。
 団員の話によると、団長が20数年前新疆ウイグル自治区のカシュガル、ホータン、タクラマカン砂漠などを旅行した話を聞き、自分たちも行ってみたいということになり、団長が旅行行程を計画し、旅行社に依頼して30数名で来たと言うことです。おおまかな行程は、宮﨑から北京、ウルムチ、クチャ、クチャ郊外観光、クチャから砂漠公路をバスで横断しニヤ、ホータン、カシュガルへ行き、カシュガルから南疆鉄道でウルムチ、そして敦厚、西安を回って帰国という14日の行程だそうです。高齢の方が多かったので、厳しい行程だと思いました。
 団員は、新疆の自然や歴史、文化に触れる観光を楽しみにしていると喜々として話しました。

9:00  スバシ古城 キジル千仏洞 塩水渓谷 クズルガハ千仏洞 狼煙台観光
 日本語ガイドの葛さんと朱さんがロビーで待っていました。挨拶を済ませ、スバシ古城へと向かいました。

10:00 スバシ古城 入園料1人25元

ス  バ  シ  古  城

 緑のないチョルダク(チョルダクとはウイグル語で不毛の山という意味)山の麓 クチャ河の右岸、左岸に広がる亀茲国最大の寺院跡 スバシ古城に着きました。城壁跡が点々とあります。日干しレンガを土で塗り込んだ壁や仏塔です。川を挟んで東寺と西寺に分かれた広大な土地で、最盛期には僧侶が1万人もいたということがうなずけます。
 全く緑のない場所ですから想像もできませんが、当時は緑に囲まれた豊かな土地だったといいます。1万人の僧侶が生活していたので燃料になる木々の伐採がかなりの規模で何年も続き、植林も特に行われず、そのうちに雨で土壌が流出して「砂漠化」したと聞きました。
 スバシ古城は玄奘三蔵が記した「大唐西域記」に出てくる「昭怙釐寺(しょうこりんじ)」と言われ、「一河水をへだてて二伽藍あり。同じく昭怙釐と名づけ、東西相対す。仏像の装飾はほとんど人工を越ゆ」と記しています。
 入場券裏に次のような文が綴られています。


                スバシ古城遺跡紹介

 スバシ仏事遺跡は、一般にスバシ古城という。学名は昭怙釐大寺という。クチャ県の北23km、クチャ河龍口両岸に位置する。魏晋時代に、建てられ始めた。中国の著名な三大仏教翻訳者の一人、亀茲の高僧鳩摩羅什は、かってここで仏教を講話した。寺は随・唐ににいたるまで興隆を極めた。唐の初め、インドへ行って仏教・経典を中国に持ち帰るため西行していた玄奘は、2ヶ月あまり逗留した。その後、大唐の僧侶が続々とやってきて「晨鐘暮鼓」(朝夕鐘や太鼓を鳴らすこと)し、火が消えることはなかった。その後、だんだんと衰え、寂れていった。
 寺では、当然大量の珍貴な文物が出土した。1958年、黄文弼先生は、西寺で発掘を行い、陶器、銅銭、木簡経巻等が出土した。1978年、典型的な亀茲美女の骨格及び副葬品が出土し、現在クチャ亀茲博物館が収蔵している。20世紀初め、日本の某探検隊が考古学の名の下に彩色の舎利箱を盗掘し、現在、日本の東京国立博物館にある。文物保護はみんな(人々)の責任。

10:40 キジル千仏洞へ

 車窓に広がる、光景に圧倒されます。風雨の浸食によって形成された大小のヤルダンが延々と続きます。上下に延びる地層が山の表面に現れています。トルコのカッパドキアの奇岩奇石よりスケールが大きいものばかりです。
 道路横に赤柱林の看板が見えます。山が赤茶けた色をしています。

ヤルダン 赤茶けた山肌 塩水渓谷

 塩水渓谷に着きました。ここは天山山脈の支脈にあたり「塩水渓谷」と呼ばれているところです。はるか昔、玄奘三蔵が仏典を求めてこの渓谷を通って天竺に向かって行った由緒ある地です。この渓谷を流れる川は天山山脈の雪解け水が流れ込む時期を除くと、ほとんど水はなく、川床には結晶した塩が白く残っています。
 このような厳しい自然の道なき道を歩き、天竺から仏典を持ち帰り、仏教の興隆に大きな足跡を記した玄奘の偉大さにあらためて頭が下がる思いがしました。

11:30 キジル千仏洞 参観料1人55元 日本語ガイド料300元

キジル千仏洞入場券

 キジル千仏洞は、新彊最大の石窟といいます。キジルはウイグル語で「赤」を意味していると葛さんドが教えてくれました。
 キジル千仏洞は、ムザルト河に沿った南向きの断崖に、3世紀から8世紀末にかけて掘られた石窟で、仏教芸術の宝庫です。掘鑿が開始されたのは、敦煌の莫高窟より少し早いそうです。
 石窟の正面に、鳩摩羅什の坐像があります。クチャに生まれた鳩摩羅什の父はインドの宰相を務める名家出身で、母は亀茲国の王の妹だといいます。鳩摩羅什が漢訳した法華経、般若経は、今でも使われています。後には長安で暮らし、仏教の発展に大いに貢献した人です。
 キジル千仏洞は、ラピスラズリに彩られた「青の世界」で知られています。ラピスラズリとはアフガニスタン山中で採れる不思議な青い輝きを放つ石で、亀茲国の人々は、それを顔料として千仏洞の壁面を装飾しました。
 資料によると、キジル千仏洞には236の石窟があり、そのうち135窟が保存されているといいます。保存されてはいるものの、ほとんどの石窟の像は破壊されたり持ち去られています。壁画も多くが破損したりはぎ取られてしまっています。現在は、ドイツや他の国の博物館等に保存されているそうです。
 キジル石窟は砂岩です。それに直接色を塗り付けると岩が色を吸い込んでしまいます。そこで、厚さ5mm程度に粘土を貼ってそこに絵を描いたそうです。
 ドイツ人探検家ル・コックは、その絵の一部を剥ぎ取って、ベルリンに持ち帰りましたが、戦争によってかなりの絵が消失したそうです。
 どの石窟も描かれている壁画の釈迦や菩薩をはじめとした人物の顔の部分が、全て無残にも人間の手によって破壊された痕跡が残っています。
 石窟を案内したガイドは、石窟の仏像や絵が損壊した理由について、長い年月による風化、地震による崩壊、探検家による盗掘、イスラム教徒の偶像信仰否定による破壊、そして毛沢東が指導した文化大革命による破壊が考えられると言っていました。
 第8窟の天井には伎芸飛天が抱える五弦の琵琶が残されています。正倉院の螺鈿紫檀五弦琵琶と全く同じ形をしています。シルクロードは、遙か日本の奈良とつながっている証であるといわれる所以です。
 五弦琵琶は唐時代には亀玄玄(きじ)琵琶とも言われていたそうです。


      五絃弾(ごげんだん) 白居易

  聴く者耳を傾けて心寥寥(れうれう)たり
  趙璧(てうへき)は君が骨に入りて愛するを知り
  五絃 一一(いちいち) 君が為に調(ととの)ふ
  第一第二の絃は索索(さくさく)たり
  秋の風松を払つて疏韻(そいん)落つ
  第三第四の絃は泠泠(れいれい)たり
  夜の鶴子を憶(おも)うて籠(こ)の中(うち)に鳴く
  第五の絃の声は最も掩抑(えんよく)せり
  隴水(ろうすい)凍(こほ)り咽(むせ)んで流るること得ず       

17窟弥勒説法図 38窟釈迦の本生譚 唐代 飛天の図
 

13:10 昼食 ラグメン 40元 30元 70元 
 石窟近くのレストランへ行くと、先に宮崎県の旅行団が来ていました。「又、会いましたね」と言葉を交わしました。
 売店の主に、1万円を750元に換えてもらいました。クチャではホテルでも両替ができずに困っていましたので少し高くつきますが仕方ありません。1元が13円30銭に当たります。
 ガイドは、「2日前には傘を差さないと濡れるくらいの雨が2時間ほど降った」と言いました。年間総雨量は100mm程度と言います。幸い、今日はぬけるような青空でした。

13:30 狼煙台へ

          運転手の朱さんと                          

 途中から高速道路へ入りました。高速道路の検問所近くになったら朱さんも葛さんもシートベルトをします。これまではシートベルトをしていなかったのにどうして?と思っていると、検問所には銃を肩から提げた警察官がいました。朱さんは大声で警察官に「今日も来た」と話しかけました。警察官も冗談で朱さんに「あなたは中国人か?」と言い、朱さんは笑いながら「違う」と言って通り過ぎました。お互い顔見知りとは言え、そんななれ合いのようなことでよいのだろうかと後部座席でそのやりとりを眺めていました。
 おかしなことに検問所を過ぎると、二人とも直ぐにシートベルトを外しました。

15:50 クズルガハの烽火台(狼煙台)  入場料1人15元  30元

クズルガハの烽火台

 漢の時代の烽火台。漢は班超を遣わし西域諸国を平定しました。その時、クチャには西域都護府が置かれています。匈奴との戦い、諸オアシス都市との抗争の最前線での情報伝達のために多くの烽火台が10~15kmおきに築かれたといいます。そのなかでもクズルガハ烽火台は最も古い部類にはいると考えられれているそうです。高さは16m。
 烽火台を狼煙台と記しますが、狼の糞を乾燥させて燃やしたことからこのように表記されると言います。「狼の糞の煙は重たくて風に左右されにくく、まっすぐ上るから」と葛さんが教えてくれました。烽火台の周りはきれいに整地され、遠くまで見渡せる場所でした。ここから長安まで1週間程度で急を知らせることができたそうです。

16:30 クズルガハ千仏洞  1人40元 80元

クズルガハ石窟入場券 クズルガハ石窟

 2世紀~7世紀にかけて46窟が開鑿され、そのうちの11窟に壁画が残っているそうです。どの石窟も落書きや傷が付けてありほとんど昔の面影はありません。案内してくれた姚殷(ヤオイン)さんの話によると、ほとんどが文化大革命の時に壊されたそうです。
 壁にある「1960 ○○」などの落書きから、文化大革命の時に壊されたことがよく分かります。中には「1923 17/v1 RC」など、外国人の落書きもありました。
 弥勒菩薩像は手や足などに肌色がきれいに残っていました。飛天の像もきれいに残っていました。6月、マグニチュード5クラスの地震があり、石窟の一部が壊れたと言っていました。雨が降らないので、通路は粉状の土が1cmほどの厚さにぽくぽくしていて靴は真っ白になりました。
 石窟管理人の男性は、毎日ここに寝泊まりしているそうです。一人で24時間、管理全般をしているそうです。見学者もたまにしか来ないので、葛さんが見学者を連れてくると言うと、喜んでいつまでも話し込むそうです。あまり家に帰ることができず、奥さんとの仲も悪くなり2度離婚したと葛さんが言っていました。
 また、ここには毎年1回、同じ日本人がやってきて保存状態を調べているそうです。その日本人は、管理人が好きなたばこを必ず土産に持ってきてくれるそうです。
 帰りにガイドの姚殷さんは、私たちの車に同乗して、クチャの繁華街で降りました。
 私たちが景色に驚嘆しているのを見て、葛さんは「自然美が好きなようですね」と言います。「天山の麓まで行ってみたい」と言うと、「天山の麓でとてもすばらしいところがあります」と言います。「そこに行きたい」と言うと、朱さんに交渉してくれました。
 朱さんは「明日、行きましょう」と言います。朱さんの車で明日の朝9時、出発することにしました。そして、「夕方は、ウィグル人の民家に連れて行きます。そこで夕食を食べましょう」と言います。
 車1日チャーター代が400元、夕食代は二人で100元です。朱さんが「日本円が欲しい」と言うので1万円を750元に両替してもらいました。

ヤ ル ダ ン

17:20 ホテル着
 ホテルに早く着いたので妻は、下着やシャツを洗濯しました。妻は、シャツなど4・5枚洗濯して、東側の避難階段のドアーが開いていたのでその踊り場で30分ばかり洗濯物を干していました。乾燥地帯なので30分でもかなり乾いたと言っていました。また、下を見ていると、畑のトマトを調理人が収穫して、調理場の方へ持って行ったと言います。レストランで注文したトマトはここで採れたもののようです。

19:00 夕食
 麺やご飯のインスタント食品が今晩の夕食です。そこで、クチャレストランにビールを買いに行きました。私は言葉は全く分かりません。レジの前に置いてある冷蔵庫のビールを指さし、「これを1本下さい」と日本語で言うと、ビールを出してくれました。7元です。
 夕食メニュー 梅ご飯 わかめご飯 カップ麺 鰯の缶詰 昨日買ったトマトとピーナツ
 結構おいしい夕食を取りました。
20:00 就寝 クチャはまだ宵の口でしょう。夕焼け空が残っていました。



5日目  9月7日 天山神秘大峡谷へ

天山神秘大峡谷

6:40  起床

7:00  朝食 
 ホテルレストラので中華風バイキングです。マントーがおいしい。牛乳もありましたが味が薄く口に合いません。
 部屋に帰って、前日金橋超市で買ったミネラルウォーターを湧かし、持参したお茶っ葉でペットボトル3本分のお茶を煎れました。

9:00  ホテル発
 朱さんは既にロビーで待っていました。朝の挨拶を交わし、出発しました。
 街の中は、通勤の人たちが行き交っていました。小学校はまだ門が閉じられています。子どもたちは門の外でおしゃべりしたりふざけあったりして開門を待っているようでした。
 市街地を出ると、ウイグル人集落に入りました。道路の両側のポプラ並木の葉が朝日を浴びて白く見え、花が咲いているようです。トウモロコシ畑が続きます。羊飼いが30~50頭ほどの羊を横断させています。時速50~60km位で走っている車は、羊が横断してしまうまで停車して待ちます。のどかな光景です。

 集落が終わると、大平原が続きます。羊や牛が放牧されています。ラクダが放牧されているところで車を止めてくれました。のんびりと草を食んでいます。
 さらに車が進むと、正面には雪を頂いた天山、右下には朝日に水面を光らせたクチャ川、その奥には焦げ茶色の岩肌を見せる山、左には赤茶けた岩肌を見せる山。山々が織りなす息をのむ光景です。絶景に見とれていると、100頭以上はいるだろう羊の群れがやってきました。羊飼い6人ほどで、草を食む羊、水を飲む羊、群れから離れようとする羊、これら羊の群れを棒を振り上げたりして上手に誘導しています。映像で見たような光景が目の前に繰り広げられます。このような光景を見に、はるか天山南路まで来たようなものでタイミングよく羊の群れにでっくわして運がよかったなと思いました。

 さらに車は進みます。右・左に次から次へと奇岩が息つく暇もないほど現れ、絶景が続きます。紅山赤林の看板が見えます。辺りの山はどれも赤茶けた色をしています。鉄分が多い岩石でできた山でしょうか。途中、把音布魯克(バインブルク)まで200kmという標識がありました。
 日が昇り温度も上昇しているのでしょう。空気も乾燥しているのでのどが渇きます。ホテルで煎れたお茶がとてもおいしく感じます。

10:40 天山神秘大峡谷  入場料1人40元 80元

 正面にそびえる山肌は真っ赤に近い色です。真っ赤な山が2つに割れてる間から真っ青な空が見えます。赤と青のコントラストが何とも言えない光景です。山肌は、天山ができるときの造山活動の激しさを物語っているようです。
 朱さんは、駐車場で待つというので約1時間見学して11時半くらいには帰ってくると言って出発しました。
 峡谷には誰もいません。こんなすばらしいところを2人で満喫できるなんてこんな贅沢は他にないと思いました。反面、100m以上はあるだろうと思う高さにそそり立つ岩と岩の間に2人しかいないので心細さも感じました。
 「こんなすばらしいところに我々二人ではもったいない」と話ながら峡谷の奥へと進んでいると後ろから声が聞こえます。振り返ると、帽子や服装から日本人と思える2組の夫婦が来ます。仲間ができたと少し気持ちにゆとりが出ました。待っていて、「今日は」と挨拶すると怪訝な顔をします。「ニーハオ」と言うと、笑顔で「ニーハオ」と返してきました。日本人かと思ったら中国人でした。妻が話しかけると山東省から来たと言っていました。

 地面は水量は多くありませんが、水が流れています。手を付けると湧き水の冷たさです。地中には水脈があるらしく湿っているところ、乾いているところがあります。しばらく進むと、通路高台に「安全島」と書いた所がいくつもあります。階段が作られていたり、ロープが張られていたり。出水の時は通路が川となるのでしょう。そのときの避難場所だと思われます。
 水が湧き出ているところがあります。「健康水」と書いてあります。妻はひとすくい飲み、「おいしい」と言います。私はお腹の異変が心配で口にはしませんでした。
 奥に進むにつれ、岩と岩の間が狭くなります。辺りには、地震などで落石したのだろうと思われる岩が転がっています。途中、若い男性が2人、急ぎ足で私たちを追い抜いていきました。
 人一人通れるような場所に先ほどの男性が、パイプイスに腰を下ろしています。どうやら安全管理人のようです。奥に進もうとする私たちに「気をつけて」と注意を促しました。
 石窟もありましたが、そこは通行禁止にしてありました。その石窟は阿蓬(アアイ)石窟といい、1999年3月、一人の若いウィグルの男性が薬草を採りに岩を上っていて発見したそうです。現在は上るのに危険なため、進入禁止になっていて、唐の時代の7~8世紀頃造営され、安西都護府と密接な関係があるようです。
 赤い岩と岩の間を進めば、眼前に雪を頂く天山が飛び込んでくると期待を込めて1時間ほど奥へ奥へと入りましたが、入場券の裏に示してある峡谷案内では、まだ半分しか来ていません。天山を見るのをあきらめて引き返すことにしました。途中で、もう一組の夫婦の男性が「私は67歳。見たところ、私とあまりかわらない歳と思うがいくつか?」と聞いていると妻が言います。「68歳」と応えると、ニッコリして「仕事を辞めたので、観光旅行に来ました」と言います。「私たちも同じです」と妻が応えました。
 約2時間半、朱さんとの約束を約1時間半もオーバーしましたが、これまで目にしたことのない自然が作り出した峡谷を満喫しました。
 天山は、本当に想像を絶する様々な姿を見せてくれます。

13:30 昼食
 蒜合炒肉 38元  紅焼茄子 18元 米飯 2元 
 おいしくいただきました。朱さんは、奥で一人で食べました。

14:20 出発

 妻は、ホテルに帰るまでに朱さんにお願いしたいことを文章にしました。
 1 途中ポプラ並木で売っていた拝城県で採れたハミ瓜を買いたい。
 2 昨日、姚殷さんが降りた所にあるスーパーでミネラルウォーターを買いたい。
 朱さんに見せると、朱さんは「好約」と言って了解してくれました。
 大きなポプラ並木の根本でスイカとハミウリを売っています。路端に車を止めてもらいました。
 ウイグル人がハミウリを切って1切れずつ食べさせます。糖分が多くておいしい。1個18元で買いました。

 朱さんは、携帯を取りだし誰かと話し始めました。「ウイグル人の家には6時過ぎに行くので、いったんホテルに帰り6時頃再び迎えに来ます」と言います。数年前、トルファンでもウイグル料理を食べたことがあります。どんな料理が出るか楽しみです。
 金橋超市(スーパーマーケット)の前で停車しました。「ここはバッグ類を持っていくことはできないので道路の前にあるロッカーに預けます。今日はバッグは車に置いて行って」と言います。それで、一昨日このスーパーに行ったとき、肩からショルダーを下げている私に、入り口で男性が何やら声をかけた意味がわかりました。おそらく万引き防止でバッグ類を持って中に入れないのでしょう。
 妻はバッグは持たずに入りました。私はウェストポーチを巻いて入りました。またしても、係員が何やら言います。意味がわからないので戸惑っていると、「いいから入りなさい」と言っているようです。そのまま店内に入りました。ミネラルウォーターを6本(5.4元 ビニル袋代 0.2元)買ってホテルへ帰りました。
 ホテルへ帰る途中、朱さんの携帯の着信音が鳴り、誰かと話し始めました。そして、進路を変え、街路樹がきれいな道路で車を止め、「昨日・・・・(妻は聞き取れません)」と言います。どうしたのだろうと思っていると、路向かいの店から葛さんが出てきました。「息子がCDをよく聴くのでCDの収納箱を買ってきた」とご主人が勤めている店から出てきたようです。彼女のガイドは昨日1日だけでしたが、今日のウィグル人宅に案内すると言います。

15:30 ホテル着
 部屋掃除がまだ済んでいなかったので掃除を頼んだ後、妻は少し疲れたのでロビーでくつろぐと言います。私は一人で、ホテル周辺を散策しました。
 大通りは、小さな店、単車や農機具などの修理店、ホテル、大きな病院などがあります。役所らしき建物の前には芝が植えてあり、腹筋や脚力などを鍛える健康器具が取り付けてあります。大通りの交差点には、ウイグル女性が踊っている銅像が建っていまた。
 表通りから1歩中に入ると、ウイグル人の住居があります。家の周りにはポプラが植えてあり、家は日干し煉瓦造りです。小さな用水路が流れています。1時間ほど散策してホテルに帰りました。

18:00 ウイグル家庭へ
 朱さんと葛さんが迎えに来ました。途中で、モナエシディンマザールと亀玆古城跡を訪れました。モナエシディンマザールは、イスラム教指導者の墓と言うことです。今もお祈りが行われており、10分間ぐらいしか見学はできないということです。亀玆古城跡は、案内してもらわなければ見過ごしてしまうようなところにありました。しかも、亀玆古城跡を示す案内は埃で何も見えません。近くに土を積み重ねて作られた城壁跡がありましたが、ゴミだらけで亀玆古城遺跡とは思えません。

モナエシディンマザール 亀玆古城跡

葛さんは、「中国人(漢民族)の金持ちは威張っていて貧乏な人を見下すが、ウィグル人はどの人とも公平に付き合い、互いに分け隔てをせずみんな仲がよい。だからウィグル人が好き」と言っていました。
 朱さんは、小さいときからウィグル人と遊んでいて、ウイグル人家庭の奥さんとは知り合いだそうです。屋敷に入ると、ウイグル人の女性が待っていました。そして、「ウイグル人は食事の前には3度手を洗います」と言い、水差しを差し出します。その水で手を洗いました。
 部屋に案内されました。見事な刺繍をした壁飾りが壁にかけられています。床には真っ赤なジュウタン。テーブルにはナン、菓子、干しぶどう、杏、リンゴ、ピーナツ、スイカなどの食べ物が並んでいます。干しぶどうがとてもおいしい。ナンは固いけど香ばしい。ラグメンがおいしいというので注文しました。
 葛さんが「麺ができるまで外を散歩しましょう」と言うので外に出ると、屋敷を案内しました。ブドウやイチジク、ひょうたんがたくさん実を付けています。ひょうたんは日本と同じく、加工して飾りや水などの入れ物に使うそうです。杏の木もありました。軒下の番台で、息子の嫁と紹介された若い女性がメリケン粉に水を混ぜ、練り上げたかと思うと上手に麺にしていきます。それを茹でるのです。そして、野菜を煮込んだものをかけて食べます。おいしいのでおかわりしました。
 食後庭に出ると、嫁さんが生後40日という赤ちゃん抱いてきました。あやすとニコッと笑うかわいい子でした。息子さんも帰ってきました。家族と一緒に写真を撮りました。 
 帰りかけたとき、嫁さんのお母さんという人と親戚と言う人が単車で来ました。親戚づきあいが濃密のような感じがしました。
 


22:00 就寝


6日目 9月8日 クチャ市街地散策

ウイグル人居住地域

7:00  起床
7:30  朝食 ホテルレストラン 中華風バイキング
 宮﨑旅行団もいなく、日本人は私たちだけでした。外国人のグループが食パンを食べていました。エレベーターで「ダンケシェーン」という言葉が聞こえたのでドイツ人でしょう。外国人はこのグループだけでした。

10:00 クチャ王府へ
 ホテル前の大通りは車の往来が多くて、横断するのに神経を使います。中国は、交通規則があってなきがごとしです。横断者は上手に車の間を縫って横断しますが、通行帯の違い(中国は右側通行)による左右確認の不慣れや車速の判断が難しく、道路横断は必死です。中国人が横断しているときはその人達について横断しますが、横断者がいないときは横断には勇気が要ります。
 クチャ王府へ路線バスで行こうと思いましたが、なかなか横断ができなく、方向は違いますが目の前に来たタクシーを拾いました。クチャ王府のメモを見せると、タクシーは当たり前のようにUターンしてクチャ王府へ向かいました。車が旧市街地に入った頃、白バイが追いかけてきて、停車を命じました。警察官は私たちには目もくれず、運転免許証とタクシーの許認可プレートのようなものを提出させ、「乗客(私たち)をクチャ王府まで送ったら○○まで来るように」と言いました。何で駐められたのかはわかりませんが、降りるとき運転手はニコニコしていたので妻は、「別旦心(心配ないよ)」と元気づけました。タクシー代5元です。
 クチャ王府は、クチャの王宮が復元されたもので、中は博物館になっていました。スバシ古城やキジル千仏洞で発掘されたものが展示してありました。

ク チャ 王 府

 受付で、「中国人か?」と訊かれました。中国人客には中国語ガイドが付いて説明をするからでしょう。2組の客にガイドが説明していました。日本人である私たちにはガイドはつきません。

11:30 クチャ大寺へ
 王府前の林基路街の警察官詰め所でクチャ大寺への道を尋ねました。警察官は詰め所から外に出て路を指さしながら丁寧に教えてくれましたが、半分も聞き取れなかったと妻は言います。「10分くらい歩けばよい」と言うので指示された方角へ歩きました。途中、クチャ県重要文物「清城墻遺跡」「子城南門」と記した日干し煉瓦や土を塗り固められた城壁がありました。10分以上も歩き、天山南路の大通りへ出ましたが、クチャ大寺らしき建物はありません。

 そこで、また、バス発着所の警察官詰め所で尋ねました。ここでも若い警察官が路にまで出て丁寧に教えてくれました。しかし、話は半分も分からないと言っていました。言葉が早いことと日本で言う方言のためだろうと妻は言います。天山南路の大通りを市街地の方に歩きました。大通りを羊の大群がゆっくりと横切っています。羊飼いが手にした棒を振りかざして羊を追いますが、羊は急ぐ風でもなくゆっくりと渡ります。車は止まって通り過ぎるのを待ったり、避けたりして走っています。大通りは日射しが強く日陰もないので、ウイグル人民家の通路を歩くことにしました。

 「10分くらい歩いた所」と警察官は言いましたが、それらしきものはありません。このとき、「中国で歩いて10分というのは1時間くらい」だと聞いたことを思い出しました。

ウイグル人民家の通路で

 三叉路に40代くらいと思われるウイグル男性が4人で談笑しています。その人たちに「庫車大寺」と書いたメモを見せて「クチャ大寺にはどう行けばよいか」と聞きますが、「字が読めない」と言います。今の子どもたちは学校でウイグル語と漢語を学んでいるそうですが、この年代のウイグル人は漢字を読める人は少ないそうです。男性たちはメモを見ながら何やら話し合っていましたが、鼻髭をたくわえた男性が、メモを持ってすぐそばの民家の木戸口に立ち、大声で呼び掛けますが、応答がありません。木戸で遊んでいた3~4歳くらいの女の子が「家には誰もいない」と言っています。男性は、「この子の父親は、漢語が読めるから声を掛けたがいないようだ」と言います。そして、携帯を出して誰かに尋ねているようでしたが結局わかりません。
 この間、他の男性が「どこから来たか」と尋ねますので、「ジャパン」と言うと、笑顔でオウム返しに「ジャパン」と言い、納得したような表情を見せました。
 さらに歩きますが、大寺があるような所は見あたりません。門から単車を出し、出かけようとしている若者にメモ帳を見せて道順を聞きますが、やり取りから若者は言葉が通じていないと思ったのでしょう。「連れて行く」と言うように歩き出しました。「自分たちで探す」と言って若者の厚意を断りました。
 途中、集落の小さなモスクはありましたが大寺はとうとう見つかりませんでした。

集落内にあるモスク

 民家の路地を歩くと、どこの民家にも「文明家庭」「幸福家庭」と書いたシールが門の軒下に貼ってあり、検査者の顔写真と証明書のようなものが貼ってあります。
 天山南路のバス停近くで4~5歳くらいの男の子が3人、自転車のタイヤを転がして遊んでいます。写真を撮り見せると、何やら話しかけてきますがさっぱり分かりません。そして、妻が手に持っていたバス賃2元をめざとく見つけると、「1元! 1元!」と大声で言い、何やら話しかけます。何を言っているのか分かりません。相手にしないでいると、いつのまにかいなくなりました。しばらくすると、また来て、ズボンのポケットから10元札を取り出し、私たちに見せます。家に帰って10元持ってきたようです。「僕は10元持っている」と自慢でもしているようでした。首から家のカギらしきものを提げていたので、おやつ代(?)としてもらっているもののようでした。

 バスもなかなか来ません。仕方なくタクシーで団結新橋まで移動しました。団結新橋界隈はバザールが開かれる所です。人、人、人でいっぱいです。路上にスイカやハミウリ、香辛料、乾物などを広げて売っています。中に、とぐろを巻いた蛇を乾燥させたものを売っている人もいました。小さなナンを2個買いました。1個1元です。

団 結 新 橋 ウイグルの若い母親 乾     物

 路線バス3路で、団結新橋から人民路を通って文化路へ移動しました。文化路の交差点横の店でピーナツを買いました。10元です。

13:20 昼食のため、タクシーでホテルへ
 部屋で食事です。メニューは、ナン、トマト、イワシの缶詰、インスタント味噌汁、ハミウリ、ピーナツです。
 ナンは固くてそのままでは固くて食べられません。小さくちぎって味噌汁に付けて食べました。結構おいしい。

14:00 クチャ駅へ

 バス停でバスを待っていると、中年女性が妻に「どこへ行く?」と訊くので、妻は「火車站」と答えると、「6路に乗るとよい」と教えてくれました。6路バス停でバスを待っている人は、ほとんどが駅へ向かう人らしく、中には30kg袋を持っている人もいます。
 まもなく来た6路バスで駅へ向かいました。駅前バス停は駅まで300mほど手前でした。周りには何もなく、寂しいところです。暑い中、歩きました。30kg袋を持った男性は背に担いだり、抱いたりして、休み休み運んでいました。バス停が駅ターミナル内にあれば、重い荷物を持った人はずいぶんと楽になるのだが思いますが、誰一人文句も言わず駅に向かっています。そのほとんどはウィグル人でした。
 駅舎正面は出口です。右手に切符売り場があります。左手が乗車口です。数人が大きな荷物を背負い入り口へ向かっていました。それだけを確かめて、再び市街地へ向かいました。

14:30 文化路界隈散策
 交差点横にある本屋で、クチャ観光写真集とクチャ県の地図を買いました。20元です。本屋の品のある案内員らしき人が「どこから来ましたか?」と聞きます。妻が「日本から来ました」と応えると、「クチャはいいところです。スバシ古城やキジル石窟には行きましたか?」と言います。妻が「一昨日行きました」と応えると「クチャを楽しんで下さい」と笑顔で言いました。お金を払うとき、その店員が妻に「何歳ですか?」と訊くので、妻は「64歳」と答えると「ずいぶん若い」と言います。クチャの人より日本人は若く見えるのでしょうか。

 スーパー前の歩道に、女性が漕ぐ人力タクシーが客を待っています。妻が「乗ってみよう」と言います。値段を交渉すると、農貿市場まで3元と言います。乗ることにしました。平坦な道のようですが、少し坂になっているようで、力いっぱいこいでいます。バスやタクシーなど交通量が多い交差点を横断するときは少し怖い思いをしましたが、歩道を走るときは安心して乗っていることができました。歩いて見る光景とは違います。路行く人々の所作が見え、これまで味わったことのないおもしろさがありました。

 農貿市場は、人、人、人です。店の軒下で肉やナンを焼いている人、路上の屋台でナンを売っている人、路上に野菜や果物・香辛料を並べ商売している人、路上の食事場で食している人、金物を道路の縁石で加工している人、そしてそれを品定めしながら買っている人などなど。

 焼きパンを1個買って食してみました。少し硬いが香ばしくておいしい。肉や野菜が詰めてありますが、どれだけ火が通っているかわからないので食するのは止めました。
 しばらく散策して、スーパーまで引き返しました。スーパーへ入るにはバッグ類をロッカーに預けねばなりませんが、それが億劫で私が妻のバッグを持ち外で待つことにしました。待ち合わせ場所でじっと待っているのも退屈でしたので私はそこから少し離れたバス停、そこはスーパー出入り口の正面です。月餅を売っているテントを張った臨時の店はあるもののスーパーから出てくればすぐに気付くだろうと移動していました。そこで路行く人を見ていました。妻は、なかなか出てきません。20分くらい待ったでしょうか。「水を買うだけでこんなに時間がかかるはずはない。何かあったのではなかろうか」と心配になりました。
 待ち合わせ場所に行ってみると、妻は不安そうな表情で辺りを見渡しています。妻曰く「ここにいないし、いつまでも来ないので誰かに連れ去られたのではなかろうかととても心配した」と。
 私は出入り口を注意して見ていたのですが妻が出てくるのに気づきませんでしたし、妻は私が少し移動しているなど思いもせず、テントの奥までは見なかったそうです。自分の考えだけで、相手もこうしてくれるだろうとよい方に思うことの間違いに変なことで気付かされました。
 おそらく日本国内だったらこんな心配はしないでしょう。知らない土地ではちょっとしたことが不安になります。
 葛さんに訊くと、中国では中秋の名月には、家庭円満を願って月餅を食べたり、知人や友人に送ったりするそうです。それで、路上にテントを張って販売しているのでしょう。(ウルムチの海徳酒店でもロビーに臨時の店を出して豪華な包みの月餅を販売していました。)
 南の空がみるみる真っ黒になりました。風が吹き始め、砂埃が舞い上がり、落ちているビニル袋も舞い上がっています。砂嵐がやってくるようです。思わず鼻と口を覆いました。風雲急を告げるという表現がぴったりです。日本なら大粒の雨が今にも落ちてくるという空模様です。傘の用意がなかったので雨宿りしなければなりません。スーパー前にテントを張った交通指導員(?)の簡易詰め所があります。丸イスがおかれ、市民も数人、イスに腰掛けアイスクリームを食べていました。雨宿りには格好の場所です。そこで雨宿りをすることにしました。雨がぽつりぽつりと落ちてきました。路行く人は雨を気にすることなく平然と歩いています。空は真っ黒ですが、雨粒は強くなりません。風が急に強くなり、気温が急に下がったようです。冷気が吹き付けます。雨がぱらぱら降り出しました。それでも傘をさす人はいません。もっとも傘など準備している人はいないのでしょう。道路を走る車もワイパーを作動させていません。

 テントの中で妻と日本語で話しているのを聞いてでしょうか。小学4年生という男の子5人が話しかけてきました。「ウイグル語で話すので何を言っているかわからない」と妻は言います。「Can you speak english?」と言うと、ぽかんとしています。身ぶり手ぶりで「勉強していますか」などと話し、男の子たちと写真に納まりました。後から来た先生らしい男性に何やら話しています。後ろを振り返り振り返り手を振って去っていきました。とても人つっこく落ち着きのある子どもたちでした。

18:00 ホテルへ
 6路バスでホテルへ帰りました。
 テレビのニュース番組は何チャンネルかフロントで聞くと、「1チャンネルで19時から30分間」と言います。ニュース番組をしばらく見ましたが、中国国内ニュースだけで国際ニュースはないようだったのでレストランへ行きました。

19:30 夕食 99元
 レストランの写真メニューを見ながら、若い女性3人が話し合っています。「写真メニューにはないけどご飯もあると言っているよ」と妻が言います。
 ご飯、牛肉とピーナツの炒め、豆腐と肉の煮込み、生野菜、ビールを注文しました。

 食事していると、先ほどの若い女性の1人が、「日本の方でしょう?私は名古屋から来ました」と話しかけてきます。てっきり中国人と思っていたのでびっくりしました。中国語が堪能です。尋ねると、ご両親の仕事で小さいとき中国に住んでいたそうです。「西安から30時間かけて列車でウルムチまで来て、それからバスで、コルラ、クチャに来ました。これからカシュガルまで行き、アフガニスタンまで行きます」と言っていました。一人旅の途中、ホテルで連れの中国人と知り合い、一緒に旅していると言うことでした。食事後、一緒に写真に納まりました。「帰国したらホームページで旅行記を公開します。『ありちゃんのホームページ』を見て下さい」とメモを渡して別れました。
 食事後、ホテル玄関で偶然にも葛さんに逢いました。葛さんは東京から来る旅行者を迎えにホテルへ来ていたのです。
 葛さんに、「明日のチェックアウトは14時だが、17時30分まで荷物を預かってもらう」ことをロビーの係員に確認してもらいました。さらに南疆鉄道乗車についての注意事項を教えてくれました。
22:05 就寝


7日目 9月9日 クチャ市街地散策

7:00  起床

8:00  朝食

9:40  クチャ大寺へ
 昨日は、とうとうクチャ大寺に行くことができなかったので今日は1番に行くことにしました。
 ホテル前の通りでタクシーを止め、「庫車(クチャ)大寺」のメモを見せ、「ここに行ってくれ」と言いますと、「わかった。乗りなさい」と車を走らせますが、どうも運転手はわかっていないようです。信号待ちしているとき、メモを隣のレーンのタクシー運転手に見せ、何やら聞いています。聞かれた運転手もわからないようです。次の信号待ちでも同じように他の運転手に聞いています。そして、健康路の方に右折しました。
 「こちらではない」と私が日本語で言うと怪訝な顔をします。信号停車で妻が地図を示すと、地図片手にもとの天山路へと戻ります。
 団結新橋先の交差点で降りました。交差点で交通指導員らしき女性に「庫車大寺」のメモを見せ、道順を聞くと、指さしながら丁寧に教えてくれます。しかし、妻にはあまり聞き取れないようです。方角と10分くらい歩けばよいと言うことは分かったと言います。10分くらい歩いてもそれらしきものはありません。

 道ばたに腰を下ろしている回族(白い帽子をかぶっている)の老人に尋ねました。この人も丁寧に身ぶり手ぶりで教えてくれました。「引き返して、次の十字路を左に曲がりなさい」と言っているようです。左に折れると、それらしいものがあります。モスク入り口には「庫車回族大寺」と記されています。そんなに大きくありません。

クチャ大寺ならぬクチャ回族大寺

 庫車回族大寺内に入っていくと、左側の建物に洗藻堂と記してあります。覗くと、薄暗くよくわからないけれど体洗い場のようです。横にはトイレもあります。きれいではなかったのですが、用を済ませ、右側の建物にいる受付らしい女性に「いくらですか?」訊くと、「不要」と言います。
 どうも、ここも探しているクチャ大寺ではないようです。周辺を探しますが、大きなモスクはありません。
 「庫車大寺を地元のウイグル人が知らないとはどういう事だろうか?それとも呼び名が違うのか?」と妻と話しながら、クチャ大寺に行くのはあきらめました。2日がかりで探して、探しあぐねたのですから。
 団結新橋界隈は昨日ほどの賑わいはありません。今日は金曜日だから「金曜バザール」で賑わうはずなのに午前だからでしょうか。団結新橋下を流れる川の堤防沿いはバザール時、ロバ車の臨時駐車場になるそうですがロバ車も停車していません。

 道端では、お祝い用の赤い卵を売っている人もいます。トランプでポーカーをしているグループがいます。地面にトランプやお金を置き、白昼堂々公衆の面前で賭け事をしているのです。また、その横では、数人の老人がしゃがみ込み、地面に線を書き、石ころを並べ、囲碁か将棋のようなものをしています。岡目八目とはよく言ったもので周りで見ている人が、あーだ、こーだと言っています。土産物売りの小さな店で、色彩豊かな肉などをたたくものを買いました。40元
 若い男性が妻に日本語で話しかけてきました。本をやるから家に来いと言っています。妻は、「日本語が上手だから、もっと勉強して日本語ガイドをしたらどうですか」などと逆に諭していました。

肉屋のおじさん ハミウリとスイカ

 カメラ片手に歩いている私を後から呼び止める者がいます。肉を売っているウイグル人が「私を撮ってくれ」と言っているようです。カメラを向けるとポーズをとります。撮った写真を再生して見せると、親指を突き出し「グッド」と言っているようでした。
 3路で、スーパー前まで行き、8路に乗り換えホテルへ帰りました。
 このとき、学校帰りの小学3年生くらいの少年がバスに乗車してきました。少年はシートに座ると持っていたペットボトルを振り回したり、窓を開け身を乗り出して道行く同級生らしき子に手を振ったり、顔を出して大声で話しかけたりと危険な行為を繰り返しています。「危ないよ」と注意しようにも言葉が分からず注意できないでハラハラして見ていると、若いウイグル人の女性車掌が少年の席につかつかと歩み寄って、少年に毅然とした態度で厳しく注意して窓を閉めました。少年はその後は静かにしていました。その車掌がバスから降りる少年に、先ほどの厳しい態度とはうって変わって、笑顔で一言二言優しく語りかけ少年を降車させます。車中での危険な行為は毅然と叱り、降車時の安全を守る行為は注意を促し優しく見守る若い車掌の姿に感動を覚えました。

12:30 部屋で昼食
朝食でいただいたマントー にぎりめし 味噌汁 ピーナツ ハミウリ 

13:00 荷造り

13:30 荷物を受け付けに預け、最後の散策

 ホテル近くのウイグル人地区を散策しました。用水路の橋の上で涼んでいるウイグル人の年配の女性にカメラを取り出し、シャッターを押す真似をして写真撮ってよいかと聞くと、頷きます。撮った写真を見せると、私の手を取り、「家にどうぞ」と言っているようです。
 妻は「どうする?どうする?」と言いながらも足は家の方に向かっていました。戸惑いながらも庭に入ると、ブドウだなにはブドウがたわわに実っています。鶏が2・3羽歩き回っています。縁台には赤い絨毯が敷かれています。家人を大声で呼んでいます。返事があると、家の中に案内しました。
 そこには、真っ赤な絨毯が敷かれ、壁には見事な刺繍の壁掛けが架けられていました。テーブルの上には、ナンや菓子、ブドウ、ナツメ、リンゴなどが並べられています。それを指さし、ウイグル語で「食べなさい」と勧めているようです。突然の出来事に戸惑いながらナンとブドウを口にしました。ナンは香ばしくブドウは甘酸っぱくておいしい。家人がお茶もいれてくれました。

 メモ帳を出して、「ここに名前を書いて下さい」と身ぶり手ぶりで言うと、住所と名前らしきものを書いてくれました。私は、「中川有紀」「中川良子」と書いてローマ字で発音も書き、渡しました。
 妻がメモ帳に書かれた文字をもとに発音すると、「その発音は違う。こう発音するんだ」と言うように「シンジャン クチャ ノォヒヤ サカゴ ダーヂュイ シッキン ゾー ミジテ イーメン トォールスンハニ」と大声で発音を教えてくれます。その発音を真似して妻が発音すると、手をたたいて喜んでいます。妻と私は「ナカガワアリトシ リョウコ」と教えます。名前の読み方を通じて心がふれ合えたように感じ、とても嬉しくなりました。冷えたスイカも出してくれました。
 20分くらい経って、私たちは歓待への感謝の気持ちを日本語と身ぶり手ぶりで伝え、おいとましようと腰をあげると、「まだゆっくりしていきなさい」と言っているようです。「もっとあちこち見てみたいから」と伝えると、名残惜しそうにリンゴと菓子を手に持たせ、橋まで送ってくれました。

 通りすがりの外国人である私たちを旧知の友のように招き入れる、陽気でおおらかなウイグル人と楽しい一時を過ごすことができ、心が和みました。
 昨日行った朱さん知り合いのウィグル人宅よりトォールスンハニさん宅での出来事が、今度の旅行で一番心に残る出来事でした。
 しばらく歩くと、小さい子が用水路の橋の上で遊んでいます。写真を撮り、再生してみせるととても喜び、家にいる兄弟姉妹を呼びます。5人の子どもと乳飲み子を抱えた女性が出てきました。その人たちとも写真に納まりました。橋の上で涼んでいる高齢の男性とも写真に納まりました。
 路地に入ると、5年生くらいの男の子が「ニーハオ」と言います。私も「ニーハオ」と返すとにっこりして、ズボンのポケットからひまわりの種を取り出し、「あげる」と言います。それをもらって食べてみると香ばしくとてもおいしい。始めてひまわりの種を食べましたが、こんなにおいしいとは思いませんでした。

 ただぶらぶら歩いているだけで、誰かが話しかけてきます。農村地帯のウィグル人の人なつっこさに接すると、2年前 2009年の暴動がウソのように思えます。
 集落のモスクに、ロバ車に乗った人、単車に乗った人、農耕車に乗った人、タクシーの運転手などなどが続々と集まってきます。お祈りが始まるのでしょう。

 近くの公園で休んでいると、携帯電話が鳴ります。電話に出ると、熊本からです。電話の声は日本で通話しているときと同じようにはっきり聞こえます。携帯電話の通信網がどうなっているのか知るはずもありませんが、遠い外国にいても国内通話のように聞こえる通信網に今更ながら驚きました。
 引き返していると、モスクの前は車や単車、ロバ車がずいぶん駐まっていました。お祈りがあっているようなので、覗こうとすると外にいた男性が大声で何か言います。びっくりして覗くのを止めました。宗教は見せ物ではないことは十分わかっていますが、つい好奇心で失礼なことをしようとした私の行為を恥じました。

 ホテルへ引き返していると、ウイグルの民族柄を着た若い女性がいます。写真を撮ってもよいかと訊くと、彼女は初め渋っていましたが傍にいたおばあさんが勧めてくれ、気持ちよく一緒に写真に納まってくれました。
 あまりに暑かったのでホテル前の店でアイスを買い、ホテル敷地内の池の端の涼しいところで食べました。アイス1個4元です。缶ビール1本も同じ4元です。

17:30 クチャ駅へ
 心躍る体験をしたクチャともそろそろお別れの時刻になりました。ホテルロビーで待っていると、予約していたタクシーが来ました。運転手は朱さんの知り合いということです。駅へ向かいました。
タクシー代金は15元でした。

17:45 クチャ駅着

 トランクを持って駅入り口に着くと、他の乗客は制服を着た駅員に乗車券を見せるだけで入場していましたが、私たちを外国人と見て、パスポートの提示を求めました。パスポートを提示し、乗車券を見せ、荷物検査を受けました。トランクには、「日中旅行社」のタグを付けていたので旅行者と判断したのでしょう。いろいろ調べていましたが間もなく「OK」が出て、待合室に入りました。
 葛さんは、「クチャ駅の駅員も外国人対応に慣れてきたので大丈夫」と言っていましたが、中国人への対応と外国人への対応はかなり違っていました。
 待合室はウルムチ駅と違って、軟臥車も硬臥車も一緒です。待合室にいる人はほとんどがウイグル人です。ちょうど正面にいた若い母子は、とても感じのよい親子でした。母親は二人の子どもを優しい眼差しで見守り、何か諭しているようでした。慈悲深い人に見えました。子どもは母親に甘えることなく、母親に全幅の信頼を寄せているようでした。
 ウイグルの人は、財布を持っていないと聞いていましたが、この母親は、靴下にしまっているお金を出して子どもに渡していました。
 待合室では、イスに荷物を置いてをイスを独占している人もいます。駅員が、そのような人を横柄な態度で注意して回っていました。

18:00 人々が改札口に並ぶ
 その内、駅員が7~8人やって来ました。待合室にいた人々がぞろぞろと改札口に並び、改札が始まりました。私たちが乗車する列車の発車予定時刻は19時22分です。列車到着時刻まで、1時間以上もあります。一つ前のローカル線の改札かなと思って座ったままでいると、待合室は私たちだけになりました。そこへ女性駅員が来て「あなたたちも改札しなさい」と言います。妻が乗車券を見せ、「私たちはこの列車に乗ります」と言うと、「だからホームに行きなさい」と言います。「ホームで1時間以上も待つの?」と訊くと「そうだ」と言います。「1時間以上あるのに」とびっくりしましたが、言われるままホームに移動しました。さらに「軟臥車の乗車口は○○の標識のあるところ」と言います。そこに並んだものの心配になり、一人でいる中国人女性と互いの乗車券を見せ合うと、間違いなく「5808」ウルムチ行きだったので安心して待つことにしました。
 陽を遮るものは何一つなくイスもないホームに立って列車を待つのです。18時とはいえ、ホームは陽射しが強くとても暑く感じました。ホームの対面には貨物列車が停車していて、解放軍のトラックや工作車が積まれ、兵士が立っていました。
 妻は、西の方の線路を撮ろうとカメラを出したら兵士が大声で何か言っているようだったのでカメラをしまったと言います。妻は、前に止まっている貨車が解放軍のものと気付かなかったと言います。昨年9月、準大手ゼネコン・フジタの日本人社員4人が、中国河北省で業務上の調査中に、軍事施設を撮影した疑いで中国当局に逮捕された事件を思い出しました。「兵士から何と言われるかわからない。カメラは向けるな」と注意しました。
 しばらくホームで列車を待っていると、若い兵士が3人行進してきます。貨物列車に乗った兵士が私たちの方を指さしています。何事だろうと思っていると、3人の兵士は私の目の前で止まり、私に敬礼をとりながら何事か言います。妻が「パスポートを見せたら」と言うのでパスポートを見せると、隣に並んでいた中国人男性が「照相机(カメラ)」と言うのでカメラを見せました。「カメラを再生して見せなさい」と言っているようです。再生して見せました。撮っている写真を前後数十枚見て、スナップ写真ばかりであることを確かめ、問題ないと判断したのでしょう。敬礼して「麻煩你了(お手数をかけました)」と言って返してくれました。
 妻が言うには「お手数をかけました。どうも失礼しました」と丁寧に言っていたと言います。
 おそらく、妻が軍の戦車などを写したと思ったのでしょう。しかし、検査されたのは私のカメラです。検査中、妻が「私のカメラも出そうか」と言うので「要らんこと言うな」とカメラを出すのを止めさせました。日本語が相手に通じないのでこんな時は都合がよいとヘンなところで思いました。妻は軍の戦車など写していませんので、確かめさせてもよかったのですが無用なトラブルは避けた方がいいですから。
 ただ、妻が待合室で改札の様子を写した時フラッシュが光り、駅員が振り向きました。中国は、秘密主義がいろいろあるので、随分気をつかうことがあります。

18:50 列車が乗車
 列車は予定より早く到着しました。やはり、ホームと列車の出入り口の高さが違います。列車の階段を4段程上ります。荷物は軽くなったとは言え、荷物を抱えて乗車するのは大変です。今度も乗務員が列車から引き上げてくれました。
 列車は1970年代に南疆鉄道が開通した頃の車両のようです。古びています。出入り口から3番目のコンパートメントに入りました。そこには、ウイグル人でもない、漢民族でもない、カザフ族かウズベク族かと思われる2人の女性が既に乗車していました。一人は大柄の女性です。一人はやせ形の女性です。2人は座席に横になったまま、何か言っていますが何を言っているのか分かりません。
 テーブルには自分たちの食べ物をたくさん乗せていますが、片付けようとはしません。横になったまましらんふりです。

19:04 発車
 予定よりだいぶ早く動き出しました。しばらくすると、乗務員が乗車券と整理券とを交換に来ました。
 車内販売の弁当を1個買いました。15元です。
 車窓は、窓が汚れているのと砂嵐のため視界がよくありません。太陽が白く光って見えます。

同室にいた女性

20:00 夕食
 車内弁当 にぎりめし カップ麺 ピーナツ リンゴ
 私たちが夕食にインスタント食品を食べていると、無遠慮に何を食べているのかと覗きます。行儀がよい人たちではないようです。
 私たちが食べ終わると、大柄の女性はインスタント食品を取り出し、お湯を注ぎ、しばらくして食べ始めました。麺になすやジャガイモのようなものが入っているようでした。私たちに「少し食べるか」とでも言うように勧めましたが断りました。ブドウはいただきました。お礼にチョコレートを返しました。

20:10 輪台着

21:00 就寝
 私が下段ベッド、妻が上段ベッドでやすみました。上段のベッドに上るのに日本の寝台車のようなはしご段はなく、足の踏み台が下段のベッドと上段のベッドの中間辺りに1つあるだけです。下段ベッドから踏み台に足をかけ、上段に上るのです。腕力で体を引き上げねばなりません。「力が要った」と妻が言いました。やすむとき、大柄な女性が下のベッドと上のベッドとかわってくれないかと言いますが、膝が悪くて上に上れないからと断りました。
 眠ろうとすると、大柄な女性の携帯に電話がかかり大声で話し始めました。
 消灯しても、二人の女性は大声で話しをしています。うるさくて寝れないので「静かにして」と日本語で言うと、ぴたりと会話がやみました。おかしなもので雰囲気で言葉はわからなくとも意味は通じるものです。

8日目 9月10日 ウルムチ市街地散策

7:10  起床  夜が明けかけています。

7:25  魚児沟着

8:00  車内放送始まる
 窓がくすんでいて写真は撮れません。雲間より朝日の出が見えます。今日も砂嵐がひどいようです。列車は荒野を走っています。

8:30  朝食
 車内のお湯でインスタント食品を温め、おにぎり、カップ麺、イワシの缶詰

9:00  トクスン着

10:15 トルファン着

11:20 ターバンチャン通過
 12時過ぎて、乗務員がイスの背カバー、窓のレースのカーテンをはずしに来ました。窓のさんを拭き取るとき、砂が床に落ちます。風が強いようで、風力発電所の風車が勢いよく回っています。
 乗務員が整理券と乗車券の交換に来ました。
 荒野から緑豊かな畑地へと変わってきました。街並みも見えだし、高層ビルも見えてきました。
 旅行社の李さんが迎えに来るので、「もうすぐウルムチ駅に着きます」と電話すると、「20分くらいで駅に着きます。日陰で待っていてください」と言います。

13:05 ウルムチ着
 下車して出口へ向かうと、クチャの待合室で大きな荷物を持っていた人たちも出口へ向かっています。ウルムチが年々肥大化しているという李さんの言葉が頷けます。
 駅構内は各地から来た列車の乗客で雑踏です。そのほとんどがウィグル人のようで、大きな荷物を背負ったり抱きかかえたりしています。
 駅舎から外に出ると、駅前駐車場は車で一杯です。日陰はありません。駐車場の一角に簡単な小屋を作っているところがありました。小屋の日陰でしばらく待ちましたが、こんなに混んでいる駐車場に入るのは時間がかかるだろうと、駐車場の入り口で待つことにしました。
 30分くらい待っても李さんは来ません。再び電話すると、「大渋滞です。もう少し待って下さい」と言います。駐車場入り口で待っていると伝え、待ちました。

 駐車場入り口の様子を見に行くと、満車表示があり車は動いていません。これではとても駐車場には入れないと思い、駐車場の外で李さんを待ちました。それからさらに30分ほどしてやっと李さんの車が見えました。「こちら」と妻が待っているところへ誘導しました。
 李さんは「渋滞に巻き込まれて遅くなりました。今日は日曜日でいつもはこんなに混まないのですが」と言っていました。

14:30 海徳酒店ホテル着  ホテル変更で追加料金1200元
 ホテルへ向かいましたがどの道路も混雑しています。
 ホテルは人民広場前です。李さんがチェックインの手続きをしてくれました。この間、25000円を2000元に換えてもらいました。
 ホテル係員がデポジット料に500元と言います。宿泊期間の保険料ですから出発する日にしか返してもらえません。出発は朝の6時、そのまま空港へ向かいます。500元返してもらっても使うところがないのです。
 それで、「日本円でいいか?」と言いますがカウンター女性は、中国元で500元と言い張ります。別のホテルは日本円でもよかったと言いいますが、受け付けません。仕方なく500元を預けました。ボーイが荷物を運んでくれます。チップが要るかと李さんに聞くと、10元くらいと言います。4年前まではチップの慣習はなかったのにこんなところも変わっていました。

15:00 昼食
 広くてきれいな部屋です。荷をほどき、インスタント食品で昼食にしました。

16:00 二道橋へ
 路線バス1路で、二道橋へ行きました。4年ぶりのウルムチ市内です。市街地の光景がかなり変わっています。車が多いこと、歩道やビル前の空間が駐車場になっていること、公安の車が多いこと、露店が少ないこと、などなど。
 街角には公安の車が待機しています。何かあったらいつでも出動できる態勢をとっているのでしょう。
 二道橋周辺は相変わらずウイグル人でごった返していますが、二道橋前広場は様子が一変していました。シンボルであった「池」と「橋」の模型が撤去されています。広場が駐車場になっています。ポリスの文字入りのジャンパーを着た警官がたくさんいます。バザールの中の店舗や売っているものはあまり変わっていませんが、お客はあまりいません。米欧人はほとんど見かけません。店番の人は手持ちぶさたで互いに話し合っているか昼寝しているかで、私たちを呼び込む風でもありません。活気が感じられません。店員にカメラを向け、「写真を撮ってもいいか」と訊くと、どこでもで断られました。
 いつも買う店で、土産物の下見をしました。栞の値引きを交渉しましたが、「ここだけにしか売っていない。値引きはできない」と言います。中国での買い物は、ほとんどが値札の5から7掛けで買うのですがここではそれができないようです。「明日また来ます」と言って店を出ました。

 道路を挟んだ真向かいが国際大バザールです。地下道を下りていくと、人でいっぱいです。地下道の両側では子どもが声を張り上げて、ティッシュを売っています。
 地下道を歩く時、私はペットボトルを入れたスポーツバッグを背中の方に回していました。私が前を歩き、妻は後ろにいました。
 この時の出来事を「あなたの右側を歩いていた男性が不審な動きをすると思っていたら、その男性があなたの直ぐ後ろに近づき、左手に持った新聞紙でバッグを覆うようにして、バッグのファスナーを開けたのが見えた。びっくりして急いであなたの後ろに付き、スリと並んで歩いたら逃げるように立ち去った」と妻が言います。
 私はペットボトルとジャンパーしか入れていなかったので不用心にもバッグを背中に回していたのでまったく気づきませんでした。外国旅行では「バッグ類はお腹の前に」が鉄則であることを今更ながら実感しました。
 国際大バザールも様子が変わっていました。野外劇場になったり野外カフェーになったりしていた広場が駐車場になっています。ロバに乗ったウイグル老人の銅像がなくなっていました。代わりに、楽器を持った老人と踊っているウイグル女性の銅像が建っていました。大きな壺も建っていました。
 2年前の2009年7月、ウイグル人住民が、漢族住民や武装警察と衝突した事件、中国当局の発表では、「死者197名、負傷者1721名に上る犠牲者が出た」とした騒乱事件がありました。
 事件当時、胡錦濤国家主席が、イタリアのラクイラで開催される予定だったG8サミットへの出席を取りやめ帰国し、党政治局の緊急会議を招集し、新疆の安定回復のため、特使をウルムチへ派遣しました。
 この事件は、漢族住民とウイグル人住民の間の経済的格差や、ウイグル人固有の文化的、宗教的権利が中国において尊重されていないとするウイグル人住民の不満があるといわれていますが、このことはまちを歩いてみてわかるような気がします。
 二道橋・国際大バザール周辺を歩いて、この事件がまだかなり尾を引いているような感じです。
 誰かに監視されているようで、気楽にバザールの様子を楽しむという雰囲気ではなかったので、孫達への土産物を見て回った後、道路の中央に新しくできた路線バスの発着ホームから2両編成のバスに乗ってホテルへ帰りました。

18:30 夕食
 ホテル横のイスラム料理レストラン「真風」で夕食をとりました。
 ここも、店の入り口に写真入りでメニューが並べてあります。読み方が分かりません。店員にメモ紙をもらい、注文の品を漢字で書きました。店員は、笑顔で何か言いました。「言葉はできないが字は上手と言っていた」と妻が言います。
 土豆焼牛肉、平工炸醤麺、茄子肉拌麺、烤羊肉3本、ビールを注文して49元です。 ビールを頼んだのに出てきたのはリンゴジュースでした。
 ホテル19階の自室から見える人民広場では、遅くまで人が集まっています。広場の樹木には、電飾されたネオンがまばゆいばかりに点滅しています。土曜日の夜でいちだんと賑やかだったようです。
22:00 就寝



9日目 9月11日 ウルムチ市街地散策

7:00  起床

7:30  朝食
 中華バイキング、洋食バイキングがありました。今回の旅行で始めて洋食メニュー、パン、ハム、ベーコン、野菜サラダ、牛乳、ジュース、果物などを食べました。これまでは食事の料を控えていたのですが、今朝はかなり食べました。やっと普段の食事ができたように感じました。

10:00 ウルムチ市街地散策
 路線バス1路で、西大橋へ向かいました。西大橋は4年前まで、新疆旅行では定宿にしていた元新疆大酒店近くのバス停です。
 バス停から元新疆大酒店へ歩きました。周辺はとても変わっていました。小さな店がなくなっています。広々とした歩道の一部が駐車場になっています。どのビル前の広場も、車でいっぱいです。建築中だった高層ビルはきれいに出来上がり、銀行になっていました。元新疆大酒店の建物は以前のままですが、改築中でした。隣の中学校はそのままです。門には、大学進学者の顔写真が貼ってありました。

 街の様子を撮っていると、私たちの横に公安の車が歩く速さでついてきます。あまり気持ちのよいことではありませんでした。
 小西門バス停から7路で新疆ウィグル自治区博物館へ向かいました。

 博物館は無料です。数年前までは1人40元くらいでした。客がかなりいますが、ほとんどが中国人(漢民族)です。外国人は1組の夫婦を見たのみでした。4年前とは館内の雰囲気が違います。手荷物はロッカーに預けなければなりません。暗証番号を入力すると、バーコードが付いた紙が出てきました。
 玄関正面ロビーには、ホータンの画家が描いた少数民族の生活画が掛けてあります。「写真を撮ってよいか」と訊くと、「フラッシュを焚かなければよい」と言います。
 館内の展示物はほとんどレプリカのようです。ウイグルの自然、文化、歴史、少数民族の歴史や文化をを大切にした展示品がいっぱいありますが、感動はあまりありません。
 鑑賞している人の中には写真を撮っている人がいます。係員に写真撮影の可否を訊いたところ、フラッシュを焚かなければ可ということでした。4年前訪れたとき、カメラを持っていた私たちを係の女性がついて回り、写真を撮らないか監視していたのと大違いです。
 帰りに、ロッカーから預けた荷物を取り出すとき、「どうするのだろう」と思っていると、傍にいる男の子がバーコードが着いている紙をロッカーのダイヤルに押し当てて開けています。「そうするのか」と真似ると、ロッカーが開きました。日本ではこのような仕組みのロッカーはまだないように思います。

13:00 博物館を出る
 博物館前の通りでタクシーを拾おうとしますが、来るタクシー、来るタクシーに客が乗車しています。空車が来ません。
 ちょうど、路線バス1路が来たので乗車しようとバスのステップに乗り、妻が「リャンガ」と言って運転手に10元を見せると、運転手は大声で怒鳴ります。「両替できないので乗るな」と言っているようです。(市街地の路線バスはワンマンバスで、乗車の際、定期券のようなものを所定の場所に押し付けるか、料金箱に1元入れて乗車する仕組みです。)仕方なくバスから降りました。すると、後ろにいた女性が背中を押して「乗りなさい」と言います。乗車すると、女性は3元運賃箱に投入しました。バスは満員です。
 満員の中、妻が女性に「10元もらって」と10元札を押し当てても、女性は受け取りません。妻は「大変助かりました。ぜひ受け取ってください」と言いますが、女性は「不客气(遠慮は要らない)」と言い、2人で押し問答をしています。
 その様子を見ていた隣にいる別の女性が「両替してあげます」と言って、財布から7元取り出しました。残り3元を別の入れ物から探しています。なかなか3元が見つかりません。妻は「7元でいいです」と10元と7元を交換しようとしますが、その女性も「7元ではダメ」と交換してくれません。やっと3元を見つけ出し、笑顔で10元札1枚と1元札10枚を交換してくれました。
 乗車賃を出してくれた女性に2元払おうとしますが、「要らない」と言って受け取りません。妻は何度も「とってください」と言ってやっと2元受け取ってもらいました。「心優しい思いやりのある中国人がいるな」と改めて思いました。
 この様子を見ていた女性(少数民族の女性のよう)が、妻に「中国人ですか?」と訊きます。妻は「日本人」と応えると「中国人みたい」と言いました。(この時の妻のブラウスはクチャで買ったウイグル人が着るものでした。)
 身動きもできないほどの満員バスの中での、4~5分間の出来事でしたが妻は必死でした。わずか2元、3元のことですが、人の生き方を見た思いがしました。
 こんなことは路線バスに乗らないと体験できないことです。
 と同時に客の中の誰かが自爆テロでも起こしたらと思うと気が気ではありませんでした。

14:00 ホテル部屋で昼食
 五目ご飯 わかめご飯 ゆで卵 ミニトマト バナナ ピーナツ

15:00 二道橋へ

 妻は、洋服を着替えました。
 路線バス1路で二道橋へ向かいました。2両編成バスです。
 二道橋バザール内の店は、日曜日にもかかわら客はあまりいません。どの店の店員も手持ちぶさたで互いに話し合っています。中にはレジの台にうつ伏せになり寝ている人もいます。

 昨日あらかた見当を付けていた店に寄り、孫と職場のみなさんへの土産を買いました。店員に「日本人観光客は来ますか?」と訊くと「日本人は大変少ない」と言います。監視の目が厳しくなり、道を行き交う人の表情にもどことなく緊張感があるようです。シルクロードの雰囲気に酔いしれることはできません。観光客の足が遠のくのは当然のように思います。
 101路で西大橋へ行きました。丁度バスから降りると、消防車がサイレンを鳴らして走ってきましたが、一般車両は日本のように避けません。消防車は交差点で一時止まってしまいました。
 道路の車の流れを見ていると強い者勝ちのようです。少しでも車間距離が空いているとレーン変更をします。右折左折も対向車がいてもどんどん進入します。李さんが言っていた「ウルムチ市内は気の弱い人は車の運転ができない」はなるほどと思いました。
 大橋下の商店街もなくなっています。
 大橋からは紅山公園の楼閣、そして鎭龍塔が見えます。この光景は4年前とちっとも変わっていません。
 大橋横の公園に向かう途中、若い青年が焼き芋を売っています。ここの焼き芋はおいしかったので2個買いました。

 公園では、散歩している人、木陰で涼んでいる人、愛を語っている若いカップルなどいろいろな人間模様を見ることができます。
 木陰の一角にテントを張って麻雀に興じている人たちがいます。しばらく見ていました。麻雀パイは日本のパイより大きめです。遊び方は変わらないようです。手配をメンツごとに並べ、ポンやチーなどもしていました。ただ違っていたのは、捨てパイを順序よく並べないでどこにでも捨てていることでした。一人があがるまで見ていたら、一気通貫であがりました。

17:00 ホテルへ
 路線バス101路でホテルへ帰りました。
 途中、単車と自動車が接触事故を起こして単車の男性は道路に倒れていました。

18:00 夕食
 ウルムチ最後の夕食です。ホテル横のイスラム料理店で夕食をとりました。
 茄子肉拌拌面 工豆牛肉盖洗飯 烤羊肉 ヨーグルト ビール 
 妻は、食欲があまりないらしく食が進みませんでした。

20:00 帰り支度
 出発に当たり持参したペットボトル12本、栄養剤8本、インスタント食品は飲んだり食べたりしてしまい、荷物はかなり少なくなっています。
 出発時、空港での安全検査で一番に目を付けられたのが電池類です。高度計の電池は廃棄して、懐中電灯の電池は取り出し、オープンを命じられても開けやすい小さなトランクに入れました。
 その他、忘れ物がないか部屋を確認して早めに就寝することにしました。
 14夜の月が部屋の窓から見えます。人民広場からは夜遅くまで音楽が聞こえていました。
21:30 就寝


10日目 9月12日 帰国の途へ

5:00  起床

5:50  チェックアウト ホテル発
 チェックアウトを済ませると、予約していたタクシーの運転手が玄関で待っています。
 辺りは真っ暗です。空港への道路はこれまでと違って、高速道路は通りません。早朝ですから、さすがに道路は空いています。一般道路にもかかわらず、車はスピードを上げて走り、25分で空港へ着きました。国内線は、「T3」ターミナルです。

6:25  搭乗手続き
 荷物の安全検査は、搭乗手続きの場所で行われます。搭乗手続き係員から電池などの有無を訊かれ、オープンを命じられました。電池を取り出してみせると、電池は手荷物バッグに入れるように指示されました。大きなトランクは、備え付けの受け皿に入らなく別室で検査を受けるよう指示されました。妻が「検査を受ける場所がわからない」と言うと、搭乗手続き客の対応をしていた係員が検査を受ける場所に案内してくれました。そこでは、トランクのオープンを命じられることなく預かってもらいました。手荷物に入れていた電池は上海空港でもチェックされるので係員に廃棄するよう頼みました。
 再び、登場手続きカウンターへ行き、搭乗券を受け取りました。
 空港ロビー内の店で土産物を買いました。新疆のブドウなどを乾燥させたものです。

7:00 搭乗ロビーへ
 搭乗ロビーに早めに入り、そこでくつろごうとロビー入場手続きをしました。
 搭乗券、パスポートを提示します。それらの確認後、持ち物は全て安全検査を通します。帽子、上着、財布、ベルト、靴、そしてポケットに入っているもの全てを。腕時計だけは外さなくてOKでした。それから身体の検査です。ポケットのティッシュも出してみせるよう指示されました。折り曲げてるズボンの裾まで検査しました。
 これだけ厳重で入念な検査があるから安心して飛行機に乗れるものの、こんなに検査しなければ安全を確保できない現在の社会情勢、民族間の対立、宗教対立等が1日も早く解消されることを願います。
 無事、安全検査を終え、39番搭乗口へ向かいました。
 妻はとても疲れた様子で心配です。昨夜は胃が痛んであまり寝れなかったと言います。
 お湯のサービスがありました。朝食代わりに昨日買った焼き芋を食べようとしましたが、食欲がなく食べるのを止めました。
 ロビーで待つ搭乗者、中でも学生風の若い男女が大声で話し合ったり、ふざけ合ったりしています。初めての旅行が楽しみなのか、若者だけの旅行が楽しみなのか、高揚感でいっぱいのようです。特に女子学生の高揚ぶりが目に付きました。

7:50 搭乗開始
 搭乗券チェックは、係員が一人で手作業です。かなり時間がかかります。ほとんどが並んでいるのに横から入ってくる人もいます。文句を言ったり、とがめる人は誰一人いません。私がいらいらしているのを見て、妻は「郷に入っては郷に従えと言うでしょう。静かに待ちましょう」と言います。 
 ボーディングブリッジに行くと、また進行が止まりました。ここで又手荷物検査をしているのです。このような状況でも誰もいらいらすることなく談笑しています。中国人のおおらかさでしょうか。こんな事は日常にあることで慣れているのでしょうか。

8:20 53K Jシート着座
 搭乗開始から30分かかって席に着くことができました。
 機内では、自分の席ではないところに平気で座っている人がいます。しかも窓側とか通路側のよい席に。このことで乗客同士のトラブルはありませんでしたが、座席の変更で通路がふさがれ、進行できません。このようなことで乗客全員がシートに座り機内が静かになったのは、私たちが着座してから20分以上も経ってからでした。

8:59  離陸

9:50  飲み物サービス お茶をもらう

9:55  機内食サービス
 私はお腹がすいていたので、みんな食べてしまいましたが、妻はサンドイッチを一口食べて、もどしそうになり何も食べません。水を飲んだだけでした。昨夜食べた麺かビールがあたったようだと言います。
 月餅のサービスがありました。
 祁連山脈でしょうか。雪を頂いた山並みが続きます。

13:05 上海虹橋空港着陸
 空港がとても広く、飛行機から降りて10分くらい歩いて荷物受け取り場所へ着きました。
 出口で空港警備員らしき人にリムジンバスの発着所はどこかを訊くと、「浦東空港へのリムジンバス発着所へ行くには、いったん2階へ上がり、道路を横断している橋を渡り、1階へ下りなさい。正面が発着所です」と言います。が、探すのに大変でした。
 妻は、出発時刻14時15分を確かめて、飲み物を買いに行きました。なかなか帰ってきません。体調を悪くしているので心配になりました。 20分ほどして帰ってきました。近くに飲み物を売っているところがなかったと言います。
 到着ロビー近くまで行き、コーヒーショップでコーラを40元で買ってきたと言います。冷たくてとてもおいしい。

14:15 リムジンバス発車
 定刻にバスは発車しました。一番前の座席に座ったので、車の動きがよくわかります。
 高速道路を時速80~90kmで走ります。特に渋滞箇所もなく約1時間で浦東空港へ着きました。

15:20 搭乗手続き
 空港職員に東方航空福岡行きの搭乗手続きはどこかを訊き、Fカウンターと教えてもらいました。
 ここでも別室で黒のバッグのオープンを命じられました。懐中電灯や高度計、双眼鏡など金属製品を入れているからでしょうか。双眼鏡を検査しました。チェックされるものが行きと帰りで違うのはどういうことだろと思いました。

15:50 搭乗ロビーへ
 出国手続きで、パスポート、搭乗券、出国カードを提示しましたが、出国カードに自筆のサインをしていなかったのでサインをするよう命じられました。
 安全検査は、靴以外は全て検査です。
 213番搭乗口へ向かいました。福岡や広島行きの搭乗口です。あちこちから日本語が聞こえてきます。
 妻は、胃もたれがひどいと言います。疲労しきっています。心配です。

17:35 搭乗バスへ
 福岡行きの便は、ローディングブリッジではなくバスで移動して、搭乗します。
 予定より大幅に遅れて搭乗バスに乗りました。大部分の乗客は日本人です。旅行者や商社マンの中に中国人が混じっているという感じです。

18:12 離陸
 離陸して15分過ぎくらいに機内食がでました。私は夕食代わりに食べましたが、妻はこれも食べません。果物を少し食べただけです。お茶を飲んでいます。
 胃の具合が相当悪いのでしょう。

20:35(日本時間) 福岡空港着陸
 荷物を待っていると、昨年青島に一緒に行った合志市の○○さんがいます。九寨溝に行ったそうです。
 荷物を受け取り、入国手続きを済ませ、到着ロビーのNTTドコモカウンターで携帯を返却し、帰路につきました。

22:40 帰宅
 
 今回の旅行も妻のおかげで、雄大な自然 歴史の重み 人の情にふれた感動のあるクチャ旅行でした。
 妻には、感謝、感謝、感謝です。
 来年は、敦煌、嘉峪関 酒泉方面を旅したいと思っています。


                       旅行費用

項    目 中国元 単価 合 計
航空券代 福岡 上海浦東(往復)空港税を含む    75705  151410
航空券代 上海虹橋 ウルムチ(往復)  77200  154400
ホテル代 ウルムチ(3泊)   9500   28500
ホテル代 コルラ (1泊)   7000    7000
ホテル代 クチャ (4泊)   4500   18000
送迎   2回   3500    7000
列車代  ウルムチ コルラ   5500   11000
列車代  クチャ  ウルムチ   9600   19200
日本語ガイド(1日)    6000
車代   コルラ クチャ   7000   14000
車代   クチャ観光   11000
保険代  11025   22050
インスタント食品    6200
駐車料    9000
携帯電話借用料(通話料含む) 6747
高速道路代 4370
小   計  475877
  新疆での費用
食事代(飲料水含む)   859   11425
交通費 バス・タクシー代(1日観光借り上げ含む)   644    8566
入場料 スバシ古城 キジル千仏洞他   400    5320
ガイド キジル千仏洞 クズガハル千仏洞ガイド   300    3990
宿泊 ウルムチホテル変更に伴う費用  1210   16093
土産   690    9177
小  計   54571
総  費  用  530448


                    クチャ旅行で感じたことを朝日新聞・熊日新聞に投稿


平成23年10月3日 朝日新聞「声」掲載

                 ウイグル人の歓待に心和む

 9月、中国西域の新疆ウイグル自治区天山南路のオアシス都市クチャを妻と二人で旅行した。少数民族のウイグル人が大多数を占めるシルクロードの雰囲気漂うまちだった。
 その周辺を散策。ポプラ並木の間を流れる水路に架かる橋の上で涼んでいる年配の女性と写真に納まると、彼女は「寄って行きなさい」と私と妻の手を引いて、客間に案内した。部屋には赤い絨毯が敷かれ、壁には色鮮やかな刺繍が施された壁飾りがかけられていた。テーブルの上には、ナンや菓子、ブドウ、ナツメ、リンゴなどが並べられていた。それを指さし、中国のウイグル語で何やら語りかける。食べなさいと勧めているようだ。突然の出来事に戸惑いながらナンとブドウを口にした。ナンは香ばしくブドウは甘酸っぱくておいしい。家におられた方がお茶もいれてくれた。
 ローマ字などで書いた互いの名前を、「トゥールスンハニ」とか「アリトシ」「リョウコ」などと何度も何度も声に出して読み合い、発音が似てくると手をたたいて喜び合った。名前の読み方を通じて心がふれ合えたようだ。20分くらい経って、私たちは歓待への感謝の気持ちを日本語と身ぶり手ぶりで伝え、辞去しようと腰をあげると、名残惜しそうにリンゴと菓子を手に持たせ、橋まで送ってくれた。
 通りすがりの外国人である私たちを旧知の友のように招き入れる、陽気でおおらかなウイグル人と楽しい一時を過ごし、心が和んだ。



平成23年10月12日 熊日新聞「読者の広場」掲載

                     地域みんなで 子ら育てよう

 9月に中国新疆ウイグル自治区天山南路のオアシス都市クチャを旅したとき、学校帰りの小学3年生くらいの少年が路線バスに乗車してきた。彼はシートに座ると、持っていたペットボトルを振り回したり、窓を開け、身を乗り出して道行く人に手を振ったり、顔を出して大声で話しかけたりと、危険な行為を繰り返していた。
 「危ないよ」と注意しようにも、言葉が分からず、注意できないでハラハラして見ていると、若いウイグル人の女性車掌が少年の席につかつかと歩み寄り、少年にあらがうすきも与えない毅然とした態度で厳しく注意し、窓を閉めた。車掌はバスから降りる少年に先ほどの厳しい態度とはうって変わり、笑顔で一言二言優しく語り掛けた。
 車中での危険な行為は毅然としかる。降車時の安全を守る行為は、注意を促し、優しく見守る。これこそ子ども一人ひとりの育ちを社会全体で応援することだ。
 クチャで目にしたことは、私の少年時代には日本のどこでも見かける地域の責任としてのしつけであった。しかし、最近はトラブルは避けようと、他人の行為にはあまり係わろうとせず、見て見ぬ振りをすることが多い。悪行は厳しく叱り、善行は大いに認め、褒め、地域みんなで子どもを育てていこうではないか。