アフリカ史ノート

周辺世界からの観察・訪問・記録

(2004年1月 23日更新)

 アフリカ内部では残念ながら、文字による記録は極めて乏しい。しかしその周辺では、古代エジプトから始まって、フェニキア・カルタゴ、ギリシャ、ローマ、イスラム社会等で、アフリカ社会についての記録が探せば意外と見つかるものである。もちろん、対象地域もほんの一部であるし、数も限られているので、アフリカ全体の歴史を知ることはできない。しかし歴史の輪郭を僅かでもそこから想像しなければならない。

 (注)『 』内の翻訳は、インターネット上に掲示されている英語訳ないしフランス語訳を、本サイト作者(山形茂生)がさらに抄訳したものである。

 

古代エジプト

 古代エジプトでは、紀元前約3000年に上・下両エジプトが統一国家となる前から、その南のヌビア地方との交流があった。第4王朝(2613-2498BC)の初代スネフェル王(Sneferu/Snefru/ Snofru;在位2613-2589 BC)はヌビアに遠征し、ブヘン(Buhen;ナイル川第2瀑布直下、現在のエジプト・スーダン国境付近のアスワン・ハイ・ダム湖底)に前線基地を築いた。ヌビアはエジプトにとり、貴金属や宝石、材木等の物資の供給源であり、後には兵力や労働力の調達先ともなった。しかしいつも軍事的侵略・支配の対象地であったわけではない。正常な交易活動も盛んに行われた。

 

ハルクフ(Harkhuf/Herkhuf/Herkhouf;紀元前23世紀)

 古代エジプトの南の辺境の町アスワンには数多くの墳墓があり、その中の1つが第6王朝(2323-2152BC)時代の上エジプト南部地方の知事、ハルクフのものである。彼についてはプリンスという記述もあるが、少なくとも高貴の出であったことは確かであろう。彼はエジプトの軍事力を笠に着た好戦家ではなく、平和な国際環境で通商活動を促進しようとする経済人であった。墓銘碑には彼の4回にわたるヤム(Yam;後のダルフール、現在のスーダン共和国西部か?)を含む南方の地への旅行が記 されており、これがヌビア地方への旅行についての最古の記録だと考えられている。
 最初の3回の旅行は、第6王朝第3代国王メレンレ(Merenre/Mernere;在位 2255-2246BC)の命令によるもので、1回目だけ父親と一緒であった。1回目は7ヶ月、2回目は8ヶ月かけ、ともに貴重な産品を持ち帰ってきた。3回目には、途中でヤムの首長がテメー(Temeh;現在のリビアの一部とのこと)との戦争に向かうところに遭遇し、外交手腕を発揮して彼らの紛争を調停している。そしてその謝礼としてロバ300頭分の贈物(香料、黒檀、穀物、豹の毛皮、象牙...)が贈られ、危険地域から出るまで護衛までつけてもらって持ち帰った。
 4回目の旅行は、メレンレの弟ペピ2世(Pepi II;在位2278-2184BC)の時代である。ハルクフはその時ピグミー人の踊の名手をエジプトに連れ帰ったのだが、その報せを受けた8歳になるペピ王からハルクフに宛てた手紙がハルクフの墓銘碑の中に引用されている。

 『・・・汝は朕への報告書の中で、地平の住人の地から神の踊りを踊る矮人を連れ帰ったと申している。イセシ(Isesi)王の世に神の賜物バウルデッド(Baurded)がプント(Punt;エティオピアと考えられている)の地から連れ帰った矮人の如くに。これまでヤムの地を訪れた者により彼の矮人の如く連れてこられた者はいないと汝は申している。・・・・・・直ちに北に進み、王宮に参上せよ。汝が地平の住人の地より生きて盛んで元気なままで連れている彼の矮人を召し、上下両エジプトの永遠に生きる王ネフェルカレ(Neferkare;ペピ自身のこと)を踊にて喜ばせ、心を揺さぶれ。彼の矮人が船にて下る際には、気の効く者どもを付け、彼の者の両傍らに侍らせよ。水に落ちることのないよう世話をせしめよ。夜の眠りの時には、気の効く者どもに両脇に添い寝させよ。朕はシナイやプントの贈り物にもまして、彼の矮人を見ることを欲しておる。・・・・・・』

 

フェニキア、カルタゴ

 フェニキア人は、古代エジプト第4王朝時代(2613-2494BC)にはすでに地中海を舞台とした商人として活躍していた。彼らは航海術を得意とし、地中海を離れてペルシャ方面にも、ブリテン島(現イギリス王国)にも船で進出していた。中でも紀元前600年頃、古代エジプト第26王朝のネコ2世(Necho/Neco/Necos II;在位611-595BC)による後援を受けてアフリカ一周航海に成功したという説がある。彼等は航海を出発して南下し、途中秋になったら上陸地点に穀物を蒔いて越冬し、翌年春になって収穫を終えるとそれを船に乗せて航海を再開し、3年かけてジブラルタル海峡経由でナイル・デルタに戻ったと記録されている。これを記録したのはヘロドトス(Herodotus)で、これによって「リビア」(アフリカの意味)は一部アジアと繋がっている地点(スエズ地峡)を除いてすべて海に囲まれていることが解ったと記している。しかし一方で「彼らがリビアの端を通過するときに太陽が右にあった(つまり喜望峰沖をインド洋側から大西洋側に向け通過する時に太陽は北にあった)と語っているが、これは信じられないことだ」と書いているが、これこそまさにフェニキア人が赤道を越えアフリカ大陸南端を迂回した証拠にほかならないと論じる人も多いようである。この時代にアフリカ一周ができたとは信じ難いが、この時代はバンツー人の祖先はまだニジェール・ベヌエ川流域に留まっていたか、少なくとも民族移動を開始したばかりの時期で、もしフェニキア人達がアフリカの南半球沿岸を訪れたとしたらせいぜい稀に狩猟採集民族に遭遇した程度で、交易意欲が湧くような土地は見つからなかっただろう。
 フェニキアは統一国家は形成されず、シドン、テュロス、ビュブロスといった都市国家の集まりだった。フェニキア本土はエジプトの後、アッシリアやペルシャといった超大国による支配の下で独自の勢力を持つ期間は限られていたが、テュロスの商人が紀元前9世紀末に建設した植民都市カルタゴは、やがて独立国家として繁栄し、地中海の制海権を握って、海岸のあちらこちらに植民都市を建設し、ギリシャ、後にはローマと覇権を争った。

 

ハンノ(Hanno;紀元前6−5世紀)

 カルタゴでは、主神バール・ハモンの神殿(ギリシャ名クロノス神殿)に、ハンノ(Hanno)による西アフリカ航海の記録が青銅の板に彫られ、壁に飾られていた。紀元前146年にカルタゴが滅亡し、ローマにより完全に破壊された時、ローマの将軍スキピオ(Scipio)はその事業の偉大さに圧倒され、ギリシャ語とラテン語で記録させておいたという。現在はギリシャ語のみが残っている。
 ハンノは紀元前6世紀末から5世紀初めにかけて活躍した人で、ギリシャ語による記録には王と記述されているが、海軍提督から執政官か何かの高官になった人であろう。記録によると、彼はヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)を越えて大西洋に出、植民地を築きながらアフリカ大陸西海岸を南下した。以前には、古代の航海技術では航海できる距離は限られていただろうと、記録の信頼性を否定する考えが強かった。しかしアフリカ大陸西海岸のフェニキア人植民地は現在のモーリタニア辺りまでは存在していたと考えられており、ハンノは現在のカメルーンとか、ガボンまで到達したという説も出ている。
 以下の翻訳の中で、「リビア」と「エティオピア」は当時のアフリカを意味するものである。

 『・・・カルタゴ人民は、ハンノがヘラクレスの柱を越えてカルタゴ人の都市を建設すべしと断を下した。ハンノは、3万人の男女と食料その他を積み込んだ50人漕ぎガレー船60艘からなる船団を率い、船出した。ヘラクレスの柱を過ぎて2日間航海した後、我々は最初の都市を築き、ティミアテリオン(Thymiaterion)と名づけた。・・・その後我々は無数の丈の高い葦に覆われたラグーンに着いた。象やその他様々な動物が餌を食んでいた。このラグーンを後にして1日進み、海岸に都市を建設してそれらをカリコンティコス(Cariconticos;カリアン砦)、ギュッテ(Gytte)、アクラ(Acra;現モロッコ王国アガディール?)、メリッタ(Melitta)、アランビュス(Arambys)と名づけた。 次に、リビア内部から流れ来る大河、リクソス(Lixos/Lixus)に着いた。 岸辺には遊牧の民リクシテ人(Lixitae)が家畜の群れを飼っていた。・・・ .リクシテ人の通訳を乗せて我々は砂漠沿いに南へと2日間進み、続いて日の出の方向へとさらに1日進んだ。 そして我々は水路の彼方に周囲5スタディア(1スタディウム=約180m?)程度の小さな島を見つけた。それをケルネ(Cerne;現モーリタニア共和国西海岸北部のアルギン湾内の島?)と命名し、開拓者を残した。・・・そこからクレテ(Chretes)という名の大河を遡り、湖に着いた。湖にはケルネより大きい島が3つあり、そこから1日進んで湖の端に着いた。そこは高い山々の麓に当たり、動物の毛皮を着た野蛮人どもが大勢住んでいた。奴等は我々に石を投げつけて上陸を阻んだ。そこからワニとカバが多く住む別の大河に入った。・・・我々は海岸沿いに5日間航海を続け、通訳が西の角と呼ぶ広大な水路に着いた。その湾には大きな島があり、その島にはラグーンがあって、そこに別の島があった。上陸してみると、昼間には森しか見えなかったが、夜になると多くの火が見え、笛や太鼓とタンバリンを叩く音が聞こえ、凄まじい音だった。我々は恐怖に駆られ、同行の占い師は島を離れろと急いた。・・・4日間の航海の間中、我々は夜になると陸が火で覆われているのを見た。真ん中は周りよりも高い炎で、まるで星に届いているようだった。昼になって、我々はそれを神の戦車と呼ばれる非常に高い山であることに気づいた。・・・南の角と呼ばれる湾に着いた。最初(西の角)と同様その端にも島があり、野蛮人が多く住む中の島がある湖があった。野蛮人のほとんどは女で、体は毛に覆われており、通訳はゴリラと呼んでいた。・・・我々はようやく3人の女を捕まえることができたが、捕獲者を殴ったり引っかいたりで我々に従うことを望まず、我々はそれを殺して皮を剥ぎ、カルタゴへ持ち帰った。ここで物資が底を突いたため、前進を終えた。』

 

ギリシャ、ローマ

 ギリシャ人はフェニキア人よりやや遅れて地中海での植民活動を開始し、美術・文芸・学術・哲学等を含むあらゆる分野で独特の文化を築き上げた。紀元前5世紀初頭に侵攻してきたペルシャ軍を破って地中海世界で覇を唱えた後、政治的混乱とアレキサンダー大王による征服とで勢力を失うが、文化的にも商業活動でも地中海世界で引き続き重要な地位を占めていた。
 ローマは巨大な軍事力を背景に、ペルシャ、アレキサンダー大王に続いて世界帝国を築き上げるが、パックス・ロマーナ(ローマの平和)の中でさまざまな民族が自分たちの得意な活動を展開するという形で、商業や文化での交流が活発化した。

 

ヘロドトス(Herodotus;生484BC頃ー没424BC頃)

 「歴史の父」と呼ばれているヘロドトスは、旺盛な旅行家でもあった。彼は「ペルシャ戦争がおきた理由を明らかにする」ために「歴史(Historiai)」を書いたのであるが、その中で単にこの戦争に関わった個人のみならず、人々の生活や、その生活を支える自然現象についてまで興味を向けて説明を試みている。「エジプトはナイルの賜物」という言葉を初めて使い、ナイル川の源流を求めて現在のアスワンまで出かけている。

 『(ナイル川の源流について、サイスのミネルバ神殿の書記による信頼できない説明を紹介した後)・・・源流については、もはやどこに行っても誰からもそれ以上の情報を得ることはできなかった。そこで私自身がエレファンティン(Elephantine;現アスワンにあるナイル川の中の島)まで出かけてその彼方のことについて尋ねまわったところ、次のところまでが判った。エレファンティンより先に進むと標高は上昇していく。・・・(船の両舷側にロープを結わえ、両岸で牛に引かせて進み、40日経つと川は大きく湾曲して平坦な土地に着き、タチョンプソ(Tachompso)という名の島を挟んでナイル川は二手に分かれて流れる。)・・・エレファンティンより向こうの土地にはエティオピア人が住んでおり、彼らがこの島の半分を所有して、残りをエジプト人が占めている。島より上流には大きな湖があり、その岸にはエティオピアの遊牧民が住んでいる。ここからは水面から突き出た尖った岩や急流に無数に潜む暗礁があってこれ以上船で進むことはできないため、上陸して川岸に沿い40日間旅をすることになる。この40日間の陸路を終えると、別の船に乗ってさらに12日間船旅を続け、ついにエティオピア人の都と言われているメロエ(Meroe)という名の大いなる街に着く。ここではジュピターとバッカスのみが崇拝され、大いなる尊敬が払われている。・・・
 この街を過ぎて再び川を遡り、エレファンティンから都(メロエ)までと同じ距離を進むと、「アスマク(Asmach)」と呼ばれる脱走兵達の土地に着く。アスマクとは、「王の左に立つ男達」という意味である。彼ら脱走兵達は、24万人からなる、プサンメティクス(Psammetichus)王の時代にエティオピア人の地へと渡ったエジプトの兵士階層出身者で、彼らの脱走の原因は次のとおりである。当時エジプトには、エレファンティンにおける対エティオピア人、ペルシウムのダファネにおける対シリア人及びアラビア人、マレアにおける対リビヤ人という3箇所の守備軍が置かれていた(今日これら要地はペルシャ勢に占拠され、その軍勢はダファネとエレファンティンに駐留している)。ある時期、守備軍は3年間軍務から開放されなかった。そこでとうとう兵士たちは皆で語らい合い、命に叛くことで意見が一致して、エティオピアに向かった。プサンメティクス王はその報を受け彼らを追跡して追いつき、祖国の神々に背かないよう、妻子を捨てないよう一生懸命説得を試みた。脱走兵の一人は憮然として答えた、「とんでもない、俺達はどこに行こうが妻と子を見つけてみせる」と。彼等はエティオピアに着くと、王に身を委ねた。王は抗争相手のエティオピア人の広大な領地から領民たちを立ち退かせて接収し、そこを脱走兵たちに見返りとして下賜した。・・・
 こうして、ナイル川の道筋は、エジプト内だけでなく、その国境から陸路ないし水路で4ヶ月間の旅行の範囲まで判っている、なぜなら、エレファンティンから脱走兵たちの土地まで旅するのにそれだけの日数がかかるという計算になるからである。・・・
 人の住む地を流れる部分では川の道筋は完全に分っているが、上流のリビヤは人の住まない砂漠なので、源流については誰も明らかにすることができない。・・・ナイル川がリビヤ全域を流れることから考えると、私の意見ではこの川はイステル川(ダニューブ川)と同じ長さであると考える。・・・』

 

「エリトリア海周航記(Periplus Maris Erythraei; The Periplus of the Eritrean Sea)」(西暦1世紀後半)

 西暦1世紀後半に、アレキサンドリアを拠点として海運で交易を営む無名の商人が、ギリシャ語で”Periplus Maris Erythraei”という本を出版した。これが世界最初の一種の旅行案内本だと言われている。エリトリア海とは当時の紅海、アラビア湾、インド洋の総称であり、周航記は北西インドまでの航路上の港や産物等を記録している。アザニア(Azania)と呼ばれたアフリカ大陸東海岸も、現在のケニア共和国ないしタンザニア共和国まで訪れて紹介し、この時代からすでに現イエメン辺りのアラビアとの関係が深かったことがうかがわれる。

 『・・・右岸(紅海西岸)にベレニケ(Berenice;エジプト領内の最南地の港)を過ぎて南下すると、次にベルベル人の国に至る。岸辺には「魚食人」達が狭隘な谷間に散在する洞窟に住んでいる・・・。さらにその内陸、西方の国には、メロエ(Meroe)という名の街がある・・・この(ベレニケから4000スタジア(1スタディウム=約180m?)の距離にある小さな)市場町には本物の陸亀が僅かにいる。それは白くて貝よりも小さい。そしてアドゥリス(Adulis)にあるものと同じような小さな象牙も手に入る。・・・アドゥリスは、南に向かって(陸に)入り込んでいる湾の最も奥に、法により開設した港である。港の手前に「山の島」という名の島がある。・・・アドゥリスから3日間の距離に、内陸の町で最初の象牙のマーケット、コロエ(Coroe)がある。ここから、人々がアクスム(Auxumites)と呼ぶ都市までは、さらに5日間旅をしなければならない。ここにはキュエネウム(Cyeneum)という名の地方を越えて、ナイルの向こうの土地からすべての象牙がもたらされ、そしてアドゥリスへと運ばれる。・・・
 ・・・(以下アフリカの角までの海岸、港、各地の交易品等についての記載が続く)・・・
 オポネ(Opone;アフリカの角先端辺りの市場町)を過ぎて海岸は南へとさらに続き、まず最初にアザニア(Azania;アフリカの角以南の東アフリカの呼称)の大小の断崖が現れる。この海岸には港に不向きであるが、海岸からすぐに深くなっているため船が錨を下ろして停泊できる場所がある。・・・
 (ワニの住むMenuthias島から?)さらに2日航海を続けると、アザニア大陸最後の市場町、ラプタ(Rhapta;タンザニア共和国Dar es Salaam近辺という説がある)に着く。・・・ここには大量の象牙と、亀の甲羅がある。この海岸には非常に背が高く、海賊行為を習性とし、場所毎に違った首長に率いられた住民が住んでいる。マファールの(Mapharitic)首長は・・・主権を握って地域に君臨している。ムザ(Muza;アラビア半島南西端の町)の人々が彼から認可を受けてこの地を管理し、多くの大型船を派遣している。これら大型船はアラブ人船長や船乗りを使用し、彼等は土地の住民と懇意で婚姻関係にあり、海岸一帯を周知して言語を理解している。この辺りの市場には、ムザでこの交易のため特に作られた銛、手斧、短剣、錐、様々な種類のガラス製品が輸入され、また交易品としてでなく野蛮人を懐柔するために少しばかりのワインと小麦を持ち込んでいる。輸出品では、アドゥリスほどではないにしても大量の象牙、犀角、亀甲(インドからのものに次いで最も需要が高い)、僅かではあるがヤシ油である。アザニアのこれら市場は、ベレニケから見て右手にさらに続いていく大陸の真に最後のものとなる。なぜなら、その向こうには未知の海が西へと回りこみ、エティオピア、リビア、アフリカの南にある地に沿って続いていって、西の海に合流するからである。・・・』

 

プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus/Ptolemy;生90AD頃−没168AD頃)

 プトレマイオスは、少なくとも127年から148年までの間アレキサンドリアで、天文学者および地理学者として活躍していた。天文学では天動説を唱えてガリレオの時代まで強い影響力を持ち、地理学者としても地球球体説を推進して緯度・経度を導入した。彼の著書「地理書(Geographike hyphegesis;地理誌とも地理学とも訳されている)」では、有名な世界地図を載せるとともに、世界(ヨーロッパ、アジア、アフリカ)各地約8,000地点の緯度・経度を記載している。緯度については今日と同じように赤道を0°として北緯・南緯に分けているが、東西については当時知られていた最も西の地点であるカナリア諸島辺りを基点とし、そこから東に経度をつけている。緯度1度あたりの距離は実際より約30%短く計算してしまったため、世界全体が実際よりかなり小さく推定されてしまったが、逆にそのために15世紀後半になってこの地図を見たコロンブスは、ヨーロッパからアジア東海岸までは当時の航海術でたどり着ける距離だと判断し、大西洋横断の挙に出たのだと言われている。
 彼の「地理書」(全5巻)のうち、アフリカについては第4巻に記載されている。アレキサンドリアなどのローマ帝国内の地点の少なくとも緯度については正確なようだが、メロエ、アドゥリス、アクスムなど帝国の版図外となると正確さは落ちていく。しかし東海岸だけでなく、西海岸もカメルーン山まで記載されているようだ。似たような地名を同じものと誤解したことによる混乱はあるようであるが。ナイル川上流については、赤道辺りで湖に達し、「月の山々」から雪解け水が湖に流れ込むと記載されている。実際の地理と比較してみるとかなり的を得ており、ヘロドトスの時代から600年経つうちにこの地域の諸民族の活動も活発になって、エジプト人・ギリシャ人自身がナイル川上流まで行かなくとも商業等の活動の中でナイル川流域についての情報量が相当増え、そういった比較的正確な情報を元にプトレマイオスが記録したという可能性はありうる。アフリカの南については、東へと陸地が続いてインド洋を内海扱いしており、それまでのインド洋の海商・船乗りたちの情報が生かされていないのが残念である。

 

アッバース朝

 預言者ムハンマドがイスラム教を興し、信徒達が大聖戦を行って東はインダス川まで、西はイベリア半島までの大イスラム帝国を築き上げると、その広い領域内は「パックス・ムスリミン(ラテン語とアラブ語を合わせた本サイト作者による造語)」とでも言えるような安定がもたらされ(もっとも政治的にはさほど安定していたとも言えなかった)、通商が発達して、商人・船乗りたちが一攫千金を目指して広く交易の旅をした。特にバグダッドを中心に栄えたアッバース朝時代には、ギリシャ・ローマ時代からのインド洋を股にかけた海上交易は引き続き栄えていた。アラブ商人たちは富を求めてアフリカ大陸東海岸を南へ南へと進出し、やがてソファラ(Sofala;現在のモザンビーク共和国Beiraのすぐ南)にまで拠点を築くことになる。この時代の代表的文学作品「千夜一夜物語」の中の『船乗りシンドバッドの冒険』の中で、その頃の雰囲気が極めて荒唐無稽であるが読み取れる。
 しかし同じアラブ社会でも、後に述べるアンダルスやマグリブの学者、旅行者達によるアフリカ(サハラ南方)についての著作はかなりあるが、アッバース朝の人々によるアフリカ東海岸についての記録はあまり見当たらない。アル・マスディが書いているように危険な航海であったというのも理由であろうけれど、それ以上に、東アフリカはまだ人口が少なく、王国が少なく、ましてや植民地以外にイスラム教国が無く、学者たちを惹きつける魅力が無かったのではないだろうか。
 ところで、最初のムアッジン(肉声による礼拝への呼びかけ(アザーン)を行う人)であったビラール(Bilal)を初め、早くからのイスラム教徒に黒人奴隷出身者が多くいたようであるが、当時のアラブ社会には多くの黒人奴隷がいたことは想像に難くない。アラブ人達はアフリカ黒人のことをザンジ(zanj)と呼んでいた。バスラ(Basra)の領主たちに塩田で酷使されてザンジ奴隷達が、4代目カリフ・アリの子孫と標榜するアリというペルシャ人に扇動されて蜂起し(西暦869年)、14年間にわたってイラク南部を解放区としてカリフ軍に善戦した「ザンジの乱」は有名であり(吉川弘文館発行『世界史年表・地図』にも記載あり)、9世紀の歴史学者アル・タバリ(al Tabari)が彼の著作の中で記録している(残念ながらインターネット上にその内容を記したページが見つからないため、ここで紹介することが出来ない)。

 

アル・ジャヒズ(Abu Uthman al-Jahiz)

 アル・ジャヒズがどういう人物だったのか、彼がどういう経緯で本を書いたのか、本サイト執筆者は今のところ何の知識も持ち合わせていない。下の抄訳は、彼が西暦860年頃に書いた「ザンジについて」からの一文である。「ザンジの乱」はこの約10年後に始まったのであるが、このエッセイから当時アフリカ黒人はアラブ社会でも一般的に下等に見られていたこと、それでもアル・ジャヒズのように冷静に観察して彼らを擁護していた人がいたということが推察される。

 『・・・この世にザンジほど、誰もが気持ち良い付き合い方ができるという人々はいないということは、誰もが肯くことである。この人々は、習わずともタンバリンのリズムに合わせて踊る才能を自然に身に着けている。この世に彼らほど上手に歌える人々も、洗練されていて雄弁な人々も、侮辱的な言辞を使わない人々もいない。体力においても身体の頑健さにおいても、他のどこの人々も彼らに勝ることはできない。ほとんどのベドウィンや他の集団の人々の力に余るほどの巨大な岩を一人で持ち上げたり、重い荷を運んだりする。彼等は勇敢で、精力的で、寛大であるという、高貴なる社会における美徳を身に着け、穏やかな気質を持ち、悪に染まる傾向はほぼない。彼等は常に愛想よく、笑みを湛え、悪意を抱かないという、高貴な気質に飾られている。
 ザンジはアラブ人達に言う、「ジャヒリヤ期(預言者ムハンマド以前)には私たちを平等と見なしてアラブ女性との結婚を認めていたのに、イスラム教の審判の教えが生まれるとともにこれは悪い行為だと断定してしまったことを、あなた方は忘れている。しかしこの世にはアラブ女性と結婚したザンジが大勢おり、領主や王君としてあなた方の権利を擁護し、敵からあなた方をかくまってきたではないか。」と。・・・』

 

アル・マスディ(al-Masu'di/Mas'udi; 9世紀末−957)

 「アラブのヘロドトス」とも称されるアル・マスディは、幼少の頃から記憶力が良く、勉学意欲に富んでいたと言われている。長じて歴史学と地理学の大家となるが、書物だけから知識を得るのでなく、自分自身広くインドまで(ひょっとすると中国まで?)旅行して、それをもとに学問体系を立てた。30巻に及ぶ"Akhbar az-zaman(歴史学)"をはじめ、"Kitab al-awsat(中央の書)"、"Muruji adh-dhahab wa ma'adin al-jawhar(黄金の生る牧草地と宝石の山々)"などの著作があったが、残念ながらほとんど散逸してしまい、今は僅かしか見ることができない。しかし後の多くの学者に影響を与え、イブン・ハルドゥンも特に"Muruji adh-dhahab"は指導の書であると絶賛している。
 以下は"Muruji adh-dhahab"の中の東アフリカ航海の記録の部分である。

 『オマーンの船乗りたちは、(ベルベラ(Berbera)の)海峡を通ってザンジの海にあるカンバル(Kanbalu;Pemba島のRas Mkumbuuではないかと言われている)の島に到達する。この島にはイスラム教徒とザンジの偶像崇拝者とが入り混じっている。カンバルは、ザンジの海、ソファラの国、そしてザンジ本土の縁に在ってこの海域の最終点にあるワクワク(the Waqwaq;マダガスカルともコモロではないかとも言われている)諸島までの航海の出発点に位置する。シラフ(Siraf)の人々もこの航海を行い、私自身もオマーンの船主達に同行してオマーンの首都サンジャール(Sanjar)を発ってこの航海に出た。・・・(彼が同行した船主の名を挙げ、多くがその後航海中に遭難死したことを述べている。)・・・私は中国、ルム(Rum)、ハザール(the Khazar)、クルズム(Quruzum)、イエメンなど長く航海してきたが、ザンジの海以上に危険な海など知らない。・・・(しばらく鯨、魚、琥珀等についての叙述が続く。)・・・
 ザンジの地では野生の豹の毛皮が取れる。人々はこれを衣服として着用したり、イスラム教国に輸出したりする。これら豹の毛皮は最も大きく、最も美しくて鞍を作るのに良い。ザンジの海とアビシニアの海はインドの海につながり、その右にある。彼らは櫛を作るための亀の甲羅も輸出する。櫛には象牙も用いられる。これらの国々で最も普通の動物はキリンであり、普通ヌバイ(Nubai)に生息しているが、アビシニアではどこに行っても見られない。
 既に述べたとおり、ザンジ人や他のアビシニア人はナイル川の右岸に広がり、アビシニアの海の際までにわたって住んでいる。ザンジ人はアビシニア人の中で、ナイル川の上流から分岐してザンジの海まで注ぎ込む支流を渡った唯一の人々である。彼らはソファラまでと続くこの地域に居住しており、ソファラがこの地の最果てであって、オマーンとシラフからザンジの海を越える旅は終わる。中国の海が日本の地で終わるように、ザンジの海もソファラの地と、金や他の多くの貴重な品々を産するワクワク諸島で終わる。この地は気候が温暖で肥沃である。ザンジの都はそこにあり、ムファルメ(Mfalme)と呼ばれる王が居る。これは王達の古くからの名で、他のザンジの王達は皆彼に服従する。彼は30万人の騎士を擁している。
 ザンジの地には馬、ラバ、ラクダが居ず、その存在も知らないので、彼らは荷駄として牛を使う。すべてのアビシニア人と同様、彼らは雪も雹も知らない。いくつかの部族は歯を削って尖らし、人肉を食べる。ザンジの地は上ナイルで分岐する支流から始まり、ソファラの地およびワクワク諸島まで続く。村々は700パラサン(1パラサンは約5.6km?)にわたって広がり、内陸へも同じ距離で続き、土地は谷、山、礫漠で刻まれている。野生の象が多く居るが、人に馴れているものはいない。ザンジの人々は象を戦争やそれ以外に使ったりせず、ただ狩猟で殺すのみである。・・・(象の狩猟法についての記述が続く)・・・ 50ポンド以上もする象牙が来るのはこの土地からであり、通常オマーンを経由して中国やインドに送られる。それが主な交易ルートであり、仮にそうでないとすると、象牙はイスラム教徒の土地に普通に見られるはずなのだが。・・・(この後しばらく象牙と象の話が続く)・・・
 この章の最初の話題であるザンジ人、彼らの国とアビシニアの他の人々についての説明に戻そう。ザンジ人はいつも象狩をして象牙を集めるのに精を出すが、彼ら自身で使用することはしない。彼らは金銀の代りに鉄を使用し、同様に、既に述べたとおり、荷駄用としても戦争用にも牛を使う。これらの牛は馬と同じように轡がつけられ、速く走る。
 ザンジ人及び彼らの王に戻る。王とは人々を正しく統治するため選ばれたという趣旨から、「大いなる主人」の息子といういう意味でワファルメ(Wafalme;複数)と呼ばれている。もし王が暴虐だったり真実から逸れたりすると、人々は彼を殺し、彼の一族を王座から遠ざける。なぜなら、王が不義を働くことにより、天と地の王である神の息子としての地位を失うと人々が考えるからである。彼らは神のことをマリクナジル(Maliknajlu)、すなわち「大いなる主人」と呼ぶ。・・・(宗教と法についての記述)・・・
 ザンジ人は、インドでそうであるように、世間一般にあるバナナを食べる。しかし主食はミレットと、地面から茸のように生えてくるカラリと呼ばれる植物である。・・・彼らは蜂蜜や肉も食べる。誰もが植物であろうが、動物であろうが、鉱物であろうが、好きなものを崇拝する。ココナッツが生える島が多く、その実はあらゆるザンジ人が果実として使う。それらの島々の内の1つは海岸から1〜2日船で渡ったところにあり、イスラム教徒と王家の人々が住んでいる。それが既に述べたカンバルである。 』

 

アンダルス(al-Andalus)、マグリブ(al-Maghrib)

 610年にメッカで興ったイスラム教は瞬く間に東西に広がり、700年に大西洋に達し、711年にはイベリア半島に上陸した。イスラム勢力は732年にトゥール・ポワティエの戦いでそれ以上のヨーロッパ進出を阻まれたものの、イベリア半島の大半を支配することになった。8世紀から15世紀までイスラム勢力の支配下でアンダルスと呼ばれたイベリア半島では、政治的統一のもとに産業・商業が発展し、学問や芸術が開花した。もとはアッバース朝のダマスカスで興隆した文芸の模倣から始まったものだが、やがてアブドゥル・ラーマン3世(在位912-961)が926年にカリフを名乗って東方から政治的に独立すると、学問芸術もコルドバの宮廷を中心に独自のものが発達するようになった。ヨーロッパの他の地域では、ゲルマン民族大移動の名残で社会がまだ混沌とし、「暗黒時代」と呼ばれていた時期である。後ウマイア朝(756-1031)の時期には政治的に東方から独立し、経済的にも文化的にも発展したが、国内政治の分裂とキリスト教勢力によるレコンキスタ運動により領土を徐々に縮小し、1492年にナスル朝のグラナダが陥落してイベリア半島からイスラム勢力が追い出された。
 同じくイスラム勢力が支配するようになった、ビラード・アル・マグリブ(Bilad al-Maghrib;陽の没する地)と呼ばれた北アフリカでも、治安が安定した結果商業が盛んとなり、イスラム商人達によるトランス・サハラ貿易で、産物とともに、交易相手であるサハラ南縁地域諸王国の情報が急激に地中海沿岸地域に流れ込むようになった。諸王国間の外交活動や、メッカへの巡礼を目的とした旅行も、これら地域の情報収集に多大に貢献した。
 アンダルス・マグリブの地理学者・歴史学者達は、これらの情報を収集して書物にし、庇護者である国王等に献上した。やがてこの地域のイスラム勢力が弱体化して学問での主導権を失っても、ルネッサンスで知的活動の束縛から解き放たれたヨーロッパ知識人たちにその知識が引き継がれた。

 

アル・バクリー (al-Bakri ; 1014-1094)

  群小王朝時代のウエルバ・サルテス王イッズ・アルダラウの子として生まれ、長じてセビリャの大臣となった。自身でアンダルスを離れて旅行することは無かったと思われるが、商人達から聞いた情報や書物から得た知識をもとに、1068年に『道里および諸国記(Book of the Roads and Kingdoms)』を著した。 この中でガーナ王国について以下のように書き記している。

 『・・・ガーナの都は平原上の2つの町からなり、一方はイスラム教徒が居住して広く、12のモスクを擁している。・・・またこの町には大勢の法官と学者が住んでいる。王の住む町はイスラム教徒の町から6マイル離れたところにあり、アル・ガーナと呼ばれている。ここには宮殿と複数の円錐形の建物とがあり、壁状の柵に囲まれている。・・・ 王は女性のようにネックレスと腕輪で身を飾っている。頭には薄い布のターバンを巻き黄金で飾った背の高い帽子をかぶっている。人民からの請願に対する謁見は、黄金の布が掛けられた10匹の馬が囲む建物で行われる。王の背後には黄金で飾られた盾と剣を持つ10人の小姓が立っている。彼の右には臣従を誓っている諸王の子息が高価な服をまとい髪を黄金で編んで控えている。都の知事は王の前で床に座り、大臣たちは王の周りで同じように座っている。建物の戸口を守っているのは金と銀で飾られた首輪をつけた血統の優れた犬である。謁見はダバと呼ばれる長い中空の丸太でできた太鼓の響きで告げられる。人民が王に近づく時、王と同じ土着宗教の信者の場合には敬意を示すために跪いて頭に砂を振り掛けるが、イスラム教徒の場合には手を叩いて挨拶するのみである。・・・』

 

アル・イドリシ (al-Idrisi ; 1100-65)

 セウタに生まれ、コルドバで学び、アンダルスと北アフリカ各地を旅した後、ノルマン王国国王ルッジェーロ2世に招かれてパレルモの王宮に住み、他界した。ルッジェーロ2世の命により1154年『世界横断を望むものの慰みの書』、別名『ルッジェーロの書(Kitab al-Rujar)』を著し、短縮版が1592年にローマで、ラテン語訳が1619年にパリで出版されて、西ヨーロッパの学問に大きな影響を与えた。

 『・・・ウリル(Oulil)の島は、海岸から遠くない海中にあり、黒人の国々で唯1箇所の有名な塩田がある。ここから取れる塩は船を使ってスーダン地方全域へと運ばれる。船はウリル島で塩を積み、1日かかってナイル川(実際はセネガル川)の河口に着いた後、シラ(Silla)、タクルール(Tacrour)、バリサ(Barisa)、ガーナ(Ghana)、ワンガラ(Wangara)人の町々、クガ(Cougha)、そしてスーダンのあらゆる町へ塩を配るため、川を遡っていく。これらの国々のほとんどには、ナイル川沿いか、ナイルに注ぐ川沿いにしか人は住んでいない。何故なら、ナイル川の流域のほとんどは砂漠で、居住地ではないからである。水を見つけるまで人は2日間、4日間、5日間、あるいは12日間乾燥した無人地帯を歩かねばならず、それら無人地帯の内の1つがシジルマサ(Sidjilmasa)とガーナを結ぶ道にあるニサル(Nisar)で、そこは水を手に入れるまで12日間の距離があり、隊商はラクダの背中のこぶに水を入れて運ばねばならない。・・・
 シラの町はナイル川の北岸にある。この町は人が多く、黒人にとり交流の場所となっている。人々はここで盛んに商売をし、住民は勇敢である。この町はタクルールのスルタンの国の一部で、スルタンは奴隷と戦闘部隊を所有し、強靭で厳格で公正な性格で知られている。彼の国は安全で平穏である。彼の居住地と都は、ナイル川の南、シラの町から陸路でも船でも2日の距離にあるタクルールの町である。タクルールの町はシラの町よりもさらに大きく、商業はより盛んである。西マグリブの人々はここに絹、銅、飾り物を持ち込み、金と奴隷とに交換していく。・・・タクルールの町から東へ川を遡ると、12日でバリサ(Barisa)に着く。・・・バリサの南、約10日の距離に、ラムラム(Lamlam)の国がある。バリサ、シラ、タクルール、そしてガーナの住人はラムラムを襲撃して住民を捕虜とし、自国に連れ帰って商人に売り、商人は彼らを外国へ連れて行く。・・・』

 

イブン・バトゥータ (Ibn Battuta/Battutah ; 1304-68/69)

 イブン・バトゥータは、モロッコのタンジール(Tangier)の、法官を多く生んだベルベル系アラブ人の家系に生まれた。本人もイスラム法を勉強して法官の資格を取った。21才になった1325年にメッカ巡礼のため故郷を離れ、その後49年までの間、イラク、アフリカ東海岸、アラビア半島、小アジア、南ロシア、インド、スマトラを経て、中国まで旅行した。元朝の大都(北京)まで到達したとも言われているが、その点については記録が簡単すぎ、バトゥータによる作り話ではないかとも言われている。その後一旦故郷に戻った後、グラナダを訪問し、52年から53年にはサハラ砂漠を横断してニジェール川上流地域を踏査した。その距離は約12万キロと言われている。彼はイスラム法の知識を職業とし、旅の途中いくつかの国の王にその能力を買われて数年間法官として宮廷に勤務したが、旅行の目的はイスラム世界のあらゆる土地を見てみたいという、根っからの旅行家であった。その体験は、モロッコ王アブ・イナン(Abu Inan)の命によりイブン・ジュザイ・アル・カルビ(Ibn Juzay al-Kalbi)が口述筆記し、『都市の不思議と旅の驚異を見る者への贈り物(Tuhuhfa al-nuzzar、通称 Rihla)』と題する本にまとめられて57年に完成した。

 『・・・シジルマサ(Sijilmasa)でラクダ数匹と、そのための糧秣4か月分を購入した。そして、第53年の最初のムハラムの日(西暦1352年2月13日)にシジルマサの商人大勢からなるキャラバンとともに旅立った。
 25日後にタガザ(Taghaza)に着いた。ここは家々やモスクが塩のブロックで建てられラクダの皮で屋根が葺かれるという、奇妙な風景の、退屈な村である。木々が無く、ただ砂ばかりである。砂の中に塩の鉱山があり、彼等はここを掘って厚板状で塩を掘り出す。それらはまるで道具で切り出したように真四角で、地面の上に置いて一枚一枚重ねていく。
 タガザには塩を掘り出すマッスファ族奴隷以外、誰も住んでいない。彼等はダルア(Dar'a)とシジルマサから運ばれてくるナツメヤシの実、ラクダの肉、そして黒人の国から運ばれてくるキビを食べて生きている。黒人達は祖国からやってきて、塩を持ち帰っていく。イワラタン(Iwalatan;ワラタ)では塩1包みが8〜10ミスカル(mithqal)で引き換えられ、マリの町ではそれが20〜30ミスカル、時には40ミスカルまでになって売られる。黒人達は金や銀と同じように塩を交換手段に使用する。彼等は塩を小さく砕いて売買に使う。タガザで行われる取引は、平均で砂金数ハンドレッドウェイト(1ハンドレッドウェイトは約50kg)という巨大な額である。
 ・・・(タガザで10日間の不快な滞在を過ごした後、サハラ砂漠の困難な旅に踏み出す。)・・・
 こうして私たちはシジルマサから2ヶ月の旅を経た或る日、イワラタンの町に着いた。イワラタンは黒人の国の中で最も北に位置する行政区であり、王の代理人は一人の副王、フサインであった。私たちがこの町に着くと、商人達は彼らの商品を広場に預けて黒人達が保管を引き受け、副王に会いにいった。副王はアーチ付入口の下で絨毯の上に座り、弓矢を手にした護衛が彼の前を固め、マッスファ族の首長たちが後ろに控えていた。副王が通訳を通して商人たちに語っている間、副王が商人達を軽視していることを示す意味で商人達は副王の前に起立のままでいさせられた。彼らの礼儀の欠如と白人への軽侮のゆえに私がこの国に来たのを後悔したのはこの時だった。
 ・・・(彼の後悔は警察署長宅に歓迎のため招待された時のご馳走の貧弱さでさらに深まる。)・・・
 私のイワラタンでの滞在は50日に及び、住民は礼は尽くし楽しませてくれた。・・・
 女性は驚くほど美しく、男性よりも敬意が払われている。人的関係は通常ではない。男性はなにごとにも嫉妬心を抱かない。誰も父方の家系ではなく、逆に母の兄弟からの家系を名乗る。ある人の相続人は彼の姉妹の息子であり、彼自身の息子ではない。・・・
 ・・・(男女は配偶者以外に「友達」とか「同伴相手」と呼ばれる異性を持つことができるという、彼にとっては理解できない習性に触れる。ここから南への旅は隊商を組む必要がなく、現地ガイドを1人雇い、同僚3人とともに出発する。途中ニジェール川を越えるが、バトゥータはこれをナイル川と思い込んで話を進める。)・・・
 こうして私たちは黒人の王の都、マリの町に着いた。私は共同墓地で止まってからムハンマド・イブン・アル・ファキーを訪ねて白人居住区域へと向かった。私は彼が私のために家を借りてくれていることを知り、そちらへ行った。彼の義理の息子が蝋燭と食糧を持ってきてくれ、翌日にイブン・アル・ファキー自身が他に高名な人達を連れて私を訪ねてきてくれた。私は会いに来てくれたマリの法官、アブドゥ・アル・ラーマンに会った。彼は黒人で、メッカ巡礼経験者で、立派な人格を持つ人物だった。さらに黒人の中で有力者でもある通訳者ドゥガにも会った。これらの人物は皆私に食料品を歓迎の贈り物として携えてきてくれ、最大限の寛容さで私に接してくれた。願わくば彼らの親切に神が報いを賜らんことを。
 ・・・(到着後10日経って、バツータを含む6名が食中毒にかかり、内1名が死亡した。バツータは礼拝の最中に倒れ、その場に居合わせたエジプト人が処方してくれた薬の効き目のせいか、食べたものをすべて吐き出し、命を取り留めた。しかし2ヶ月間病床に臥せっていた。)・・・
 マリの王は、マンサ・スレイマン(Mansa Sulayman)と言う。マンサとは王を意味し、スレイマンが本来の名である。彼はけちな王で、彼から高価なプレゼントを期待することはできない。病床にあって王に会えずに2ヶ月間過ごした後、王は我らが主君アブ・ル・ハサン(逝去したモロッコのスルタン)を偲ぶ集いを催し、将軍、博士、法官、説教師達を集め、私も彼らに同伴した。読経机が運び込まれ、コーランの読誦が行われ、皆我らが主君アブ・ル・ハサンとマンサ・スレイマンのために礼拝した。
 儀式が終わると私は前に進み出、マンサ・スレイマンを表敬した。法官、説教師、そしてイブン・アル・ファキーは私が何者であるかを伝え、彼は彼らの言語で彼らに答えた。次いで彼等は私に「王はあなたに祝福の言葉を贈られている」と伝え、私は「神の御名においてご挨拶申し上げる」と答えた。私が退出すると、(王の)歓迎の贈り物が届いた。・・・イブン・アル・ファキーは裸足のまま急いで家を飛び出し、私の部屋に飛び込んで言った、「ご起立なさい、王の家来があなたへの贈り物を持ってやってくる」と。そこで私は・・・礼装と金が贈られたのだと思い、立ち上がった。すると、なんとそれはパン3片、地元のオイルで揚げた肉1片、そして瓢箪1杯分の酸味のある凝乳だった。これを見て私は吹き出し、彼らがそれほど思慮を欠き、些細なことで大げさにするなんていうことが、極めて滑稽なことに写った。・・・』

 

レオ・アフリカヌス (Leo Africanus ; 1485-1554)

 本名は al-Hassan bin Muhammad al-Wazzan az-Aayyati 。レオの名はローマ教皇レオ10世から与えられ、「アフリカのレオ」の意味でレオ・アフリカヌスと呼ばれた。
 アンダルス最後のナスル朝の王都グラナダに生まれ、グラナダ陥落(1492年)後フェズ(Fez)に移り教育を受けた。10代後半で伯父の外交使節団に伴われてソンガイ帝国その他サハラ南縁諸国を訪れた。数年後再度この地を訪れ、エジプトまで旅行し、1518年頃トルコを訪れた。帰途、シチリア海賊に捕らわれ奴隷の身となったが、その知性の為レオ10世に見出され、洗礼を受けて "Johannis Leo Medici" の名をもらい、自由の身となった。口述筆記による『海と陸の旅』が1550年にベネチアで出版されて反響を呼び、後に『アフリカ誌』として有名になった。
 最後にはチュニスに戻り、イスラム教徒として波乱に富んだ人生を終えた。

 『・・・ティンブクトゥ(Timbuktu)の住宅は、編み枝細工に土をかぶせた壁と、藁葺屋根とでできた小規模家屋である。街の中央には、グラナタ(Granata)という名の建築家が建設した石とモルタル造りの寺院と、同じ建築家による王の住む大きな宮殿とがある。手工芸職人、商人、とりわけ綿織布職人の店が多い。繊維製品には、ベルベル人の手でヨーロッパからティンブクトゥまでもたらされた輸入品もある。
 街の女達は、食料品を売る女奴隷以外、顔をベールで覆う習慣を続けている。住民は非常に裕福で、特にこの国に定住した外来者の富は相当なもので、現王は分限者である2人の商人兄弟に自分の娘達を与えて縁組を結んだ。ティンブクトゥには甘い水を湛える井戸が多く、さらにニジェール川が溢れると水路を通って水が街まで運ばれてくる。穀物と家畜は豊富で、そのためミルクとバターの消費もかなりの量となっている。しかし塩は500マイル離れたテガザ(Tegaza)から運ばれ、供給量は非常に不足している。私がこの街をたまたま訪問した時には、塩一袋が80デュカ(ducat)していた。・・・
 王宮は立派なもので、非常に良く組織されている。王が廷臣達を連れて街から街へ赴く際にはラクダに乗り、馬は従僕の手に引かれる。戦闘が必要になると従僕はラクダに乗り、すべての戦士は馬に跨る。王に奏上することのある者は面前に膝まづいて頭を下げなければならないが、それが必要なのは初めて王に面会する者や大使のみである。王はおよそ3,000人の騎馬戦士と歩兵を従え、彼等は野生のウイキョウ(フェンネル)で作り毒矢を放つのに使う弓を装備している。王は近隣の敵か、朝貢しようとしない者のみに戦を仕向ける。勝利を収めると、王は子供を含む捕虜すべてをティンブクトゥの市場で売りに出す。
 この国では小さく貧弱な馬しか生まれない。商人たちはこの馬を旅行や街の中の移動に使っている。しかしバーバリ(Barbary)からは良馬がやってくる。馬は10日から12日かけてキャラバンと一緒に到着し、支配者の元に連れてこられ、支配者は好きな分だけを引き取りそれに見合う代金を支払う。
 王はユダヤ人を公然と敵視し、彼らが街に住むことを許さない。もしベルベル商人がユダヤ人と行き来して彼らと取引していることを王が聞けば、彼は商人から財産を没収する。ティンブクトゥには王から正式に任命された法官、教師、司祭が大勢いる。王は学習を大いに奨励し、バーバリから輸入された写本も多く売られている。書物の商売は他のどの商品にも増して実入りが良い。
 通貨には、貨幣の代わりに純粋な金塊と、小額の場合にはペルシャから輸入された宝貝が使われている。・・・
 ティンブクトゥの人々は穏やかな性格の持ち主である。彼等は夜、午後10時から午前1時まで、街の中を楽器を弾いたり踊ったりしながらほぼ休みなく歩き回る習慣を持っている(金の商人以外は)。市民たちは男女の奴隷を仕事上大勢所有している。
 街には火事の危険が非常に多い。私の2回目の訪問では、5時間で街の半分が焼失した。風が強く、街の残る半分の住民も火が回るのを恐れて家財を避難させ始めた。・・・』

 

 

 

 

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