アフリカ史ノート

世界宗教の伝播と変遷

(2004年5月 29日更新)

 

キリスト教

エジプト正教(コプト教)

伝説によれば、エジプトで最初にキリスト教を伝えたのは福音書著者マルコで、西暦41年から44年の間だとされている。彼はまた数十年後にアレキサンドリアで殉教し、初代アレキサンドリア総主教(初期では司教)に祭られている。伝説は別としても、イエスの死後使徒による福音活動が開始されると、エジプトにも信者が現れ、教団が早くにできたらしい。

エジプトでの最初の伝道の足がかりはユダヤ人社会であったが、間もなくエジプト人やギリシャ人にも広がった。「異邦人」である彼らにキリスト教が受け入れられたのは、一神教的な教義になじみのあるエジプト人や、哲学の経験のあるギリシャ人にとって、キリスト教にあまり違和感を感じなかったこと、そしてローマ帝国の中での身分反発に対する反発が原因だったのであろうか。原始キリスト教時代では、ローマ帝国の首都ローマ、シリアのアンティオキア(ローマ時代以前はセレウコス朝の王都)とともに、アレキサンドリア(ローマ以前はプトレマイオス朝エジプトの王都))に司教が臨座し、ともに布教の中心地だった。

キリスト教が誕生して約3世紀の間は迫害の中での信仰と布教の活動であったが、それでも信者は増え続けた。そしてアレキサンドリアは、ギリシャ哲学の流れを継承し、キリスト教神学の中心地となった。ディダスカリア(Didascalia)神学校が2世紀末頃この地に設立され、ここで教理を学んだ学生達が帝国各地へと布教活動に出た。

帝国四分統治時代の皇帝の一人コンスタンチヌス1世(大帝)が311年にキリスト教寛容令を、続いて313年に信仰公認令(ミラノの勅令)を出した後、事態は変わってくる。それまでも各地の教団指導者の間で教義の食い違いがあったが、信仰公認後にそれが対立として顕在化し、やがて正統派争い、権力闘争へと発展する要素を含んでいた。最初に325年にコンスタンチヌス大帝の斡旋でニケーア公会議が開かれ、アレキサンドリア司教アタナシウスが率いる三位一体論が正統とされ、アレキサンドリアの主要教会の司祭としてアンティオキアから赴任したアリウスの主張するキリスト論は異端として退けられた。対立と言うほどでないまでも、迫害が無くなって安易な生活に走る信者たちに飽き足りない一派は、砂漠に隠遁して僧院を立てて自給自足に近い厳しい信仰生活を送るようになり、後に僧院主義(monasticism)と呼ばれる運動の起源となった。

アレキサンドリアにとって決定的だったのは、451年のカルケドン公会議である。これ以前の330年にコンスタンチヌス大帝はビザンチウムをコンスタンチノープルと名づけて都市化し、ここに遷都したが、ローマ帝国が395年に完全に分離し、さらに西ローマ帝国がゲルマン民族の侵入を受けて弱体化(476年滅亡)するにつれ、政治的にもキリスト教会においても東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルの地位が高まった。東ローマ皇帝は宗俗2界を支配し、教権は俗権の下に置かれるようになった。このような状況の中で開かれたカルケドン公会議とは、アレキサンドリアのユーティキウスが唱えてアレキサンドリア司教が支持する単性論(キリストの神性と人性は融合したただ一つの性格)を、コンスタンティノープル教会が誤謬であると異議を唱え、ローマ司教(後の教皇)もそれを支持して開催が求められたものである。東ローマ皇帝は始めアレキサンドリア側を支持していたが、彼が死去した後、後継者はローマ司教からの要請に応えて開催を決定した。会議にはローマ帝国内から600人以上の教会代表者が集まって審理が行われた。結果は、単性論は異端と審判され、アレキサンドリア司教ディオスキュルスの破門が決定された。

アレキサンドリア教会にとっては、それまでからコンスタンティノープルからの干渉や政治的支配への反発があったのだろう。カルケドン公会議の結果が出ると、アレキサンドリア司教を頂点としてエジプト正教会(Egyptian Orthodox Church;またの名をコプト(Coptic)教会、コプトとはエジプトのギリシャ語名称 'Aigyptios' から来ている)として独立の道を歩んだ。

ここまで主に地中海世界にあるアレキサンドリアを中心に述べてきたが、内陸部が決してキリスト教と無関係だったわけではない。早い時期からキリスト教はナイル川を遡って南に伝播しており、ミラノの勅令以前のキリスト教徒によりコプト語で書かれた布教関係のパピルス古文書が見つかっている。コプト教は7世紀にイスラム教が拡大を始めてから苦しい状況に置かれてきたが、それでも今でもエジプト国内にキリスト教コプト社会が残っている。ナイル川上流のヌビア地方では、6世紀にキリスト教伝道団が入って以来キリスト教王国が13世紀頃まで栄えた。

次に述べるエティオピアでは、4世紀から20世紀半ばに至るまで、アレキサンドリア総主教の指導の下に、コプト教の流れを汲むキリスト教会が栄えていた。

エティオピア正教

新約聖書の『使徒行伝』に、使徒フィリポがガザへ向かう道でエティオピア女王カンダケに仕える高官に福音を説いて洗礼を授けたという記述がある。これはあくまでも伝説で、彼らがエティオピア人と呼ぶのはアフリカ黒人を総称してのことだったのかもしれない。しかしエティオピアには古くからユダヤ教も伝わっており、キリスト教も成立後間もなくエティオピアまで広まっていた可能性は考えられる。

本格的には、4世紀にエティオピアにキリスト教が伝来した。シリアの商人の乗る船がインドに向かう途中紅海で難破し、随伴していたフルメンティウス(Frumentius)とアエデシウス(Aedesius)という2人のキリスト教徒の少年が助けられた(メロピウス(Meropius)という名のティルスの神学者が乗っていたとも、彼は司祭アンバラム(Anbaram)に招かれてエティオピアに来てから客死したとの説もあり)。2人はアクスム宮廷につれてこられたところ、聡明であったため時の皇帝エラ・アミダに気に入られ、フルメンティウスは皇帝の書記、アエデシウスは近侍として仕えることになった。エラ・アミダが死去してその息子エザナが跡を継いだ時、その母である皇太后からの願いにより、フルメンティウスは年若い新皇帝の教師兼助言者となった。エザナはフルメンティウスの影響を受けて洗礼を受け、キリスト教を国教と定めた。エザナが長じてフルメンティウスはアクスムを離れ、アレキサンドリアに着いて、総主教に対しエティオピア(アクスム)での布教状況を報告するとともに、誰か主教を任命して派遣するよう懇請した。時の総主教アタナシウスは、フルメンティウスの経験と学識を認め、彼自身を主教に任命してアクスムに送り出した。フルメンティウスはアクスムに再赴任し、アッバ・セラマ(Abba/Abbe/Abuna/Abune Selama/Selamma/Salama;「平和の父」の意)の称号を与えられて、初代エティオピア主教として尊敬を集めた。これ以降エティオピア主教は代々アレキサンドリアから派遣された。

480年頃にシリアから「9聖人」が到来し、キリスト教はさらに栄えたとされている。その背景にキリスト教団内でのコンスタンティノープルとの権力闘争があったようで、「シリア9聖人」はその闘争に敗れた者達らしい。エティオピアではキリスト教は単なる宗教から、教育や文化を支えるものとして成長していった。聖典は当初はギリシャ語、ヘブライ語、シリア語で書かれたものを使用していたが、現地での公用語であるゲーズ語訳が進められ、ゲーズ語が布教用・典礼用の言語として採用されるに至った。僧院は「9聖人」がアレキサンドリアから移入した僧院主義により数が増え、発展していったと言われているが、エティオピア独自の思想が根底にあるとも考えられる。

エティオピア正教の歴史で、敵対する宗教・宗派による攻撃が何回か繰り返された。古くからの宗教勢力では、ユダヤ教徒(falasha/felasha)一族を率いた女王ヨディット(ジュディット、グディット;Yodit/Judith/Gudit)が10世紀中頃の約数十年間アクスムを占拠した。最大の脅威はイスラム教で、イスラム教成立直後の勢力拡張期にアクスム王国の領土が縮小したのと同時にエティオピア教会の勢力も縮小した。最大の危機は、オスマン・トルコの軍事援助を得、アーマッド・グラン(Ahmad Gran;1526年将軍就任、1543年戦死)に率いられたアダルの聖戦(ジハッド)である。ポルトガルからの援軍の半数を失うという大きな犠牲の上に、イスラム勢力のエティオピア高原侵入を食い止めた。この時の援軍であったポルトガルが、後に宗教戦争の原因となる。ローマ法王はエティオピア人をカトリック教徒に改宗せしめようとし、イエスズ教会修道士を送り込んだ。特にカトリック教徒であったスセニョス(Susenyosu;在位1607-32)が帝位に就いた時には内戦が激化したが、彼は内戦を終結させるために自ら退位し、息子のファシラダス(Fasiladas/Fasiledes/Fasalidas;在位1632-1667)がカトリック教団を追放して混乱は終結した。これ以外にも様々な内戦が繰り返されたが、他のキリスト教会との交流が困難な中で、独特のキリスト教文化が育った。

エティオピア正教のトップにはコプト教のアレキサンドリア総主教から任命されてエジプトから送られていた。20世紀に入って初めてハイレ・セラシエ1世がアレキサンドリアと交渉してエティオピア生まれの司教が叙任された。その後イタリア・ファシスト政権のエティオピア侵略と、第2次世界大戦とが障害になってエティオピア人聖職者のエティオピア教会リーダーへの抜擢は中断したが、1951年にエティオピア人大司教が誕生し、1959年にエジプト正教会との完全対等が達成した。

 

イスラム教

イスラム教が興ると、まず北アフリカ(地中海沿岸)、それからスーダン地域(サハラ砂漠南縁、サヘル地域)、そしてそれと平行してインド洋に面した東海岸地帯に比較的速い速度で伝播していった。

スーダン地方でのイスラム教の伝播・変遷の歴史(ヨーロッパ人による帝国主義支配以前)は、次の5段階に分けると理解しやすいのではないだろうか。

準備段階; アラブ・イスラム勢力の北アフリカへの軍事的拡大によるイスラム教伝播

第1段階; サハラ横断交易に従事する商人および為政者による功利的意図による改宗

第2段階; 14世紀を中心とした安定政権での為政者によるイスラム教興隆

第3段階; 17〜18世紀の政治的混乱に伴うイスラム教の衰退

第4段階; 18〜19世紀にかけてのフラニ人を中心とする宗教者による政治・軍事闘争(聖戦/ジハッド)

準備段階:イスラム帝国の北アフリカ拡大時代

新興イスラム勢力がメッカ入城し(西暦632年)、全アラビア統一(634年)を果たしたあと、ほとんど間を置かずにアフリカへの勢力拡大を開始した。

ムハンマド(マホメット)の信徒の一人で、誕生したばかりのイスラム(サラセン)帝国の軍指揮官であるアムル・イブン・アル・アス('Amr ibn al-'As)は、シリア・パレスチナ方面への軍事遠征の途中、639年(641年という記載もあり)に僅か4000人の軍勢を率いてビザンチン帝国領であるエジプトに進入した(カリフによる許可があったかどうか不明)。ビザンチン軍との間の戦闘がどのようなものであったか定かではないが、ビザンチン勢力は642年に州都アレキサンドリアから撤退し、645年にビザンチンは再度軍を派遣して奪回を試みたが敗退し、以後エジプトはイスラム世界の中での主要地となる。当時ビザンチン帝国領の重要な食糧供給源であったエジプトがこのように比較的短い期間でイスラム勢の勢力下に入ったのは、616年のササン朝ペルシャによる占領でビザンチン勢力が弱体化しただけではない。アレキサンドリアを中心とするキリスト教徒(コプト人)達は、ビザンチンの支配を嫌い、旧約聖書をともに聖典とするイスラム教の支配下に入ることを歓迎したということも理由の一つである。

エジプトから西では、647年に第1回目のチュニジア占領が行われた。しかしこの時はここを恒常的に支配するという意図は無く、すぐに放棄された。イスラム帝国による北西アフリカへの遠征が本格的に行われたのは、ウクバー・イブン・ナフィ('Uqbah ibn Nafi')によってである。彼は670年に再度チュニジアを征服し、領土経営を本格的に行えるよう674年にカイルワン(Al-Qayrawan)に都市を建設、ここに統治機構を置いた。その後しばらくウクバーの後任の司令官による原住民(ベルベル人)懐柔策が取られ、イスラム教に改宗したベルベル人王に行政を任せたアラブ・ベルベル共存の期間がある。しかし681年にウクバーがチュニジア司令官に復帰してベルベル人に対する直接支配を取るようになり、事態は変わってくる。682年に彼はマグレブ遠征を行い、大西洋にまで到達するが、その帰途ビザンチンの支援を受けたベルベル人の攻撃に遭い、戦死する。

ウクバーの戦死後も、マグレブ遠征の動きはほとんど鈍化しなかった。イスラム軍は697年にカルタゴを占領して翌698年に破壊し、ビザンチン帝国は北アフリカの領土を完全に失った。そして700年にはイスラム帝国領は大西洋に到達した。さらにジブラルタル海峡を越えてイベリア半島まで遠征し、711年にヘレス(Jerez)の戦いで西ゴート国を破って滅亡させ、ヨーロッパの一角にまで支配圏を広げた。この後イスラム軍は732年にツール・ポワチエの戦いでフランク王国のカール・マルテルに撃退されるが、16世紀頃までヨーロッパ・キリスト教勢と地中海の制海権をめぐって争うこととなる。

第1段階;サハラ横断交易商人達の改宗

イスラム帝国軍はアフリカの地中海沿岸を征服したあと、サハラ砂漠を南下することはなかった。

ローマ帝国衰退後にヴァンダル王国、ビザンチン帝国と支配者が相次いで変わり、政治的社会的混乱が絶えなかった北アフリカは、イスラム帝国領となってもベルベル人イスラム教徒による反乱や、イスラム帝国内部の権力闘争で決して安定したとは言い難いが、商業活動は活発になったようだ。北アフリカと違い、スーダン地域(サハラ南縁のサヘル地帯)にイスラム教を持ち込んだのは、専らサハラ横断交易に従事する商人達である。その第一の理由は、恐らくイスラム教徒になることによって免税等の特権や数々の便宜を得ることだったのであろう。

スーダン地域で交易活動に依拠する土地の有力者達にも、改宗するものが増えていった。黒人国家で最初にイスラム化したのは、セネガル川下流域に勢力範囲を持つテクルール(Tekrur/Tekrour/Toukreur/Tekur)国デャオゴ(Dya'ogo/Dyago)朝で、およそ850年頃のことだったという説がある。その説明に納得できるだけの数の文献・解説書等を探しているが、残念ながらまだ十分には見つかっていない。しかし時期的にその頃だというのは、ありうる話である。

西スーダン地域では、商業の得意なソニンケ人が建てたガーナ王国において8世紀頃、中央スーダンでも11世紀にはカネム国にイスラム教が伝わったとされている。東スーダンについては、既にキリスト教王国が栄えており、イスラム教を受け入れる素地は無かった。

第2段階;安定政権下での繁栄

西スーダンでは、ガーナ王国がモロッコのアルモラヴィド軍の攻撃を受けて衰退したあと、ソソ人スマングル・カンテ(Sumangruru Kante)とマリンケ人スンディアータ・ケイタ(Sundjata Keita)との間で覇権争いが起こり、スンディアータが勝利してマリ帝国の基礎を築いた。この争いの背景には、農業に依拠して伝統的秩序に生きるソソ人と、商業が主要な生業で進取の気性を持つマリンケ人商人グループとの間の確執、社会構造上の緊張があったのではないかと、作者は想像している。この後マリ帝国は、特に帝国南縁の鉱山から取れる金を主要輸出品目として繁栄し、マンサ・ムーサ(Mansa Musa)の時代に最盛期を迎える。

中央スーダンでは、ベルベル系民族と土着民族とが融合して、カネム王国がセフワ王朝に代わり、サハラ横断交易を盛んにして、象牙や奴隷などを北へ輸出し、武器などの外来商品が多く流入した。この国の最盛期をもたらしたのは、ドゥナマ・ディバラミ(Dunama Dibalami)である。

マンサ・ムーサもドゥナマ・ディバラミも、ともにそれぞれの地でのイスラム教の普及・強化に貢献した。ただし両者の間に顕著な相違はあるようである。マンサ・ムーサは父祖に習ってメッカ巡礼を挙行し、帰路に中近東から多くの書物とともに学者・芸術家・技師等を連れ帰って、高度なイスラム文化の基礎を築いた。ドゥナマ・ディバラミが北から導入したものは、主に武器とイスラム法で、より軍事的・政治的なイスラム教の活用法だったと言えよう。しかし両者がそれぞれの支配地で築いた時代は、一時的な安定期だったとはいえ、後のイスラム教繁栄の源泉であったと言えるであろう。

この後、中央スーダンではセフワ朝が近隣の敵対勢力による攻撃のため14世紀後半にカネムの地を放棄してボルヌに根拠地を移し、西スーダンでもマリ帝国が弱体化して15世紀後半にソンガイ帝国に取って代わられるが、ともに15世紀後半から16世紀にかけて繁栄して、ソンガイではアスキア・ムハメッドの時代に、ボルヌではイドリス・アローマの治世にともにイスラム文化が花を開く。

ボルヌのイドリス・アローマは、軍備を強化して領土を拡張する一方で、中近東や北アフリカから神学者を招聘して、イスラム法制度を整えた。モスク建築も、葦やとうもろこしの茎から泥(粘土)に材料を代えることにより、より永続性と芸術性のある建造物へと変った。オスマン・トルコ宮廷に外交努力を重ねることにより、外交・政治的のみならず宗教上の中心地の地位も固めた。

ソンガイのアスキア・モハメッドも、軍を改革して領土を拡大し、領内に安定をもたらし、メッカ巡礼を行って「西スーダンのカリフ」に任命され、イスラム教興隆に努めた。首都トンブクツは、サンコーレ大学が復興し、政治的・経済的のみならず宗教的にも中心地となった。他にもガオ、ワラタ、ジェンネが学芸の中心地となり、マグレブから学者が呼ばれてイスラム教が繁栄した。

この時代、東スーダンではキリスト教国であるマクラアルワも国力が衰え、イスラム教勢力が北から徐々に浸透してイスラム化していった。

第3段階;政治的・社会的混乱時代

15世紀の地中海北岸地域では、キリスト教勢力とイスラム教勢力の範囲に大きな変更が生じた。1453年にオスマン・トルコがコンスタンティノープルを攻略してビザンチン帝国が滅び、イスラム勢力による南東ヨーロッパ支配が始まった一方で、西方では1492年にグラナダが陥落してイベリア半島最後のイスラム王国であるグラナダ王国が滅び、西ヨーロッパからイスラム勢力は駆逐された。

マグレブ地域は、イベリア半島を失ったため、イスラム教徒の流入により人口が増加し、経済は市場を失って衰退した。モロッコ王国は新しい勢力範囲を求めてジュダール将軍に命じてサハラ横断遠征軍を派遣し、1591年にニジェール軍にたどり着いた遠征軍はガオとトンブクツを攻略した。こうしてソンガイ帝国は滅亡し、西スーダン地域は約100年間モロッコ植民地となった。しかし植民地経営は成功せず、モロッコ人は北へ引き揚げるなり、現地に同化するなどしたが、権力の空洞化は続き、文化は衰退した。

一方中央スーダンでは、イドリス・アローマ以降もボルヌ帝国は繁栄を続けていた。

東スーダンは、キリスト教王国も北からのアラブ人遊牧民の移住に押されて衰退し、エティオピア高原方面から進出してきたフンジ人によって1504年に最後のキリスト教国アルワも滅亡した。フンジ王国はイスラム教を取り入れたが、内部抗争が続いて国は安定せず、文化の発展はあまり見られなかった。

第4段階;「聖戦」時代

18世紀から19世紀にかけて、西スーダンおよび中央スーダン南部のハウサ地域の各地においてイスラム学者が率いるフラニ(Fulani;またはフルベ、プル)人を中心とするジハッド(聖戦)が巻き起こり、短命なものも含めてボンドゥ(Bondu;現ブンドゥ Bundu)、フタ・ジャロン(Futa Jalon)、フタ・トロ(Futa Toro)、ソコト(Sokoto)、マシーナ(Masina)、トゥクロール(Tukulor/Toukouleur)といった神権国家が誕生した。中央スーダンで安定した政権を保持していたボルヌ帝国も、フラニ・ジハッドで誕生したソコト・カリフ国の攻撃に対処する過程でクーデターが起こり、やはりイスラム学者のムハンマッド・アル・カナミ (Muhammad al-Kanami/al-Kanemi)が新しい政権を築いた。

東スーダンでは、エジプト統治下で実際にはカイロ宮廷に代わってイギリスが施政を行う中で、伝統的な体制の復活を求めて民族主義的な動きが活発になり、イスラム学者であるマフディ(Al-Mahdi)がやはりジハッドにより原理主義的国家マフディヤを樹立した。

西・中央スーダンにおけるフラニのジハッドと、東スーダンのマフディによるジハッドとの間に何らかの関連性があるのか、作者には今のところ判断できない。また、中近東からヨーロッパに脅威を与えていたオスマン・トルコ帝国が18世紀中頃から衰退に向かい、アラビア半島ではスーフィイズム(神秘主義)の蔓延に対抗してしてサウド家による軍事・政治的支援を受けた宗教改革ワッハーブ運動が起き、それに対する反動勢力としてのエジプト太守国の支配下に入ってさらに民族主義者による政権奪回という動きが東スーダンで起きたが、西・中央スーダンでの動きが中近東の政治・社会の変動の影響を受けたのか、判断できない。

どちらの地域も、イスラム教をコーランに立ち返って実践すべきという復古主義・原理主義的な大義名分を掲げたジハッドが宗教のみならず社会的変革を起こした。しかしその背景には、西部・中央スーダンでは行動範囲の広いフラニ人を中心とする諸集団がより大きな経済的自由を求めていたこと、東スーダンでは数世紀にわたって北から流入して経済活動を行ってきたアラブ人がイギリス人によるヨーロッパ的価値に反発して復古を要求したという、経済的な理由があったと思われる。

 

ブードゥー教

 

 

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