アフリカ史ノート

代表的エスニック集団

(2003年11月 9日作成)

 

最近の発見にもとづく学説では、すべての現代人の祖先(新人/現生人類;Homo Sapiens)を遡っていくと、14万年ほど前にアフリカで生きていた一人の女性、ミトコンドリア・イブに辿り着くのだそうである。そしてホモ・サピエンスは、ある時期にアフリカを出てアジア・ヨーロッパに進出し、遥か遠くアメリカ南北大陸や大洋州の島々にまで拡がっていった(出アフリカ説)。その時期は10万年前とも5〜6万年前とも言われているが、逆に考えればアフリカ大陸に残った人達がアフリカ人の祖先となったのかもしれない。しかし気をつけなければならないのは、短期間で出アフリカが行われたのか、アフリカに残った人々はその後ずっとアフリカに残ったのか、アフリカを離れた人々はその後アフリカに戻ることはなかったのかということである。波状的に出アフリカが繰り返されたり、その後またアフリカ大陸に戻る集団もいたりする可能性は否定できない。事実、アラブ人の一部は7世紀に新興宗教イスラム教を携えてUターンし、北アフリカに定着した。したがってここでは、出アフリカ(少なくとも第1回目)は、アフリカ人誕生の始まりだったとしておこう。

現在のアフリカ大陸とその周辺島嶼国には8.81億人(2001年国連推計)が住んでいる。その中には背の高いツチ人から低いピグミー人、農耕民族と遊牧民族、さらに狩猟採集民族、古代から王国を創って定住した人々とつい最近まで民族移動を続けていた人々、あるいは未だに定住生活をしない人々など、極めて多様性に富む人々が生活しており、アフリカ人と一括りで述べることはできない。「ある広範囲な社会において、人種、言語、国籍、または文化の上での共通の紐帯によって結びついた人間集団のカテゴリー」をエスニック集団(ethnic group)と呼び(インターネット版Encyclopaedia Britannicaより)、アフリカ史の中でさまざまなエスニック集団が登場し、役割を演じてきた。(民族という言葉もよく使われるが、この概念はそう単純でなく、ここではそのカテゴリーに触れない。)

ここではアフリカ史の中で重要な役割を演じたエスニック集団を分類して紹介したいが、これら集団をどのように分類すればよいか。集団と集団の遠近関係をどのように測ればよいのだろうか。

一番解りやすそうなのは外見上の違い、すなわち人種による(自然人類学的)分類である。しかしこれには、男と女は人種を越えて結婚することが少なくなく、その場合の子供の人種上の帰属は母のものとも父のものともつかなくなる。実際、東アフリカのインド洋岸沿いにはアラビア半島南部から来た商人たちが定住し、現地女性と結婚してできた子供たちの子孫が住んでおり、彼らの身体的特徴はアラブ人のものとアフリカ黒人のもの双方を兼ね備えている。そのような例は、ハウサ人、ツチ人など、決して珍しくはない。現生人類誕生後10万年の歴史の中で、一旦は移動により住む場所が離れ離れになってA人種とB人種が出現したとしても、何世代も後に再び出会っていくつもの異人種のカップルができ、またある時には別の方向からCグループがやってきて家族ができ、それが何百回と繰り返されると、A人種とB人種とC人種との違いは集団同士の差としても明確でなくなっていくだろう。これからヒト・ゲノムの研究が進んで遺伝子レベルでの人種の解析が進むと、ますます科学的な人種の差は判別しがたいという結論になっていく可能性が大いにある。

上の説明の中にあるエスニック集団を規定する要素、すなわち人種・言語・国籍・文化の中で、言語が最も系統的に分類されている。したがって、使用言語に従ってエスニック集団を分類する(言語集団)のが最も簡単である。ここで気をつけなければならないのは、ある集団はひとつの言語を使い続けるのでなく、時として他の集団と接触し、交流した結果、使用言語をまったく変えてしまうことがあるということである(フラニ人、ピグミー人など)。その点に留意した上で、なおかつ言語による分類を使うとエスニック集団の分類が解りやすくなる。

現在アフリカに住む人間が使う言語は、近年やってきたヨーロッパ系、インド系や、インドネシア起源のマダガスカル系を除くと、アフロ・アジア語族、ナイロ・サハラ語族、ニジェール・コンゴ語族、コイサン語族と、大きく4つに分けられる。以下、この分類にしたがって、アフリカ史で重要な役割を演じたエスニック集団を解説していこう。

 

アフロ・アジア語族(Afro-Asiatic group)

スエズ地峡および紅海を挟んでアジア大陸とアフリカ大陸とに分布している。その発祥の地がどちらか一方にあるとしたら、アフリカ大陸の、ナイル川中流部辺りにあるのではないだろうか。世界四大文明のうち最も早く始まったメソポタミア文明の歴史にも関係してくるので興味深いが、とりあえずその話題はこのホームページと直接関係ないので、深入りしないでおこう。

ゲエズ(Ge'ez): ゲエズ語の古文書は、遅くとも3世紀に遡る。古代エティオピアの首都アクスム(Aksum)を中心としたクシ(Cush/Kush)人に使われていた。話し言葉としては西暦1200年頃には死滅し、書き言葉としても17世紀頃に使われなくなってしまった。現代ではティグリニャ(Tigrinya/Tigrigna)語がゲエズ語の流れを引き継いでおり、したがって言語集団としてはティグレ(Tigray)人が古代エティオピア人の直接の子孫である。しかし中央高地のアムハラ(Amhara)人もゲエズ語と近い関係にある言葉を話し、エティオピア正教を奉じており、文化的には彼らが古代エティオピアを継承しているといえる。

アラブ(Arabic/Arab): イスラム教成立以前には、アラブ人はアラビア半島を中心に住み、遊牧と商業を営んで、歴史の表舞台に立つことは無かったようだ。預言者ムハンマド(マホメット)がイスラム教を興し、イスラム教とイスラム帝国が急激に膨張した時、アラブ語もそれらとともに普及した。アラブ人自身もアラビア半島を出てイスラム世界に広がっていきはしたが、それ以上に元非アラブの土着住民がアラブ勢力の影響を受けてアラブ語を話すようになり、アラブ人化した人数のほうが圧倒的に大いに違いない。後述するコプト人もベルベル人もアラブ化した同胞が多くいるはずである。

コプト(Coptic/Copt): コプト語とは、古代エジプト(紀元前3000年頃より)の言語を直接継承するもので、ギリシャ語の要素も取り入れて2世紀頃に生まれた。現代では生活上の言葉はアラブ語に置き換わっているが、コプト教(エジプト正教)の典礼の中に生きている。コプト人とは、一般にコプト教徒を指す。現代エジプト人の中で、アラブの血の濃い人々に較べ、コプト人は肌の色が濃い。古代エジプト人も、アラブ人の血が混じった現代エジプト人と違い、エチオピア人のような黒人だったといわれている。

ハウサ(Hausa): ハウサ語が属するチャド(Chadic)語グループの分布は、他のアフロ・アジア諸語族から孤立し、ニジェール・コンゴ語族やナイロ・サハラ語族に囲まれてている。本ホームページ作者(山形)が調べている範囲では、ハウサ人の祖先がアフロ・アジア語族本流からいつ頃分離し、どのような経路で西アフリカにやって来たのか明確な説明は見つかっていないが、東の南クシ語系のオモロ人あたりから分かれて来たという説がある。そしてハウサ都市国家が歴史に現れたのは西暦1000年前後という推定があり、祖先の到来はそれ以前であるが、その南に居住するニジェール・コンゴ語族ベヌエ・コンゴ語グループや、チャド湖周辺に住むナイロ・サハラ語族の人々に比べると、その出現はそう古くなさそうである。本流からこれだけ離れているところを見ると、単なる人口増加による自然的拡散ではないのではないか。交易を営むグループが土着して影響力を持ったせいなのか、それとも政治的・文化的難民なのか、興味のあるところである。比較言語学や考古学による研究が進んで少なくとも移動時期と経路の解明が待ち遠しい。

ベルベル(Berber): ベルベル諸語を話す人々は、現在主にモロッコとアルジェリアに多く住んでいるが、ベルベル語の一部であるタマシェク(Tamashek)語を話すトアレグ(Tuareg)人はアルジェリア、ニジェール、マリに跨るサハラ砂漠で遊牧と交易を営んでいる。さらにリビヤやエジプト西部のオアシス、モーリタニア、セネガル北部まで広がり、現在1100万人ほどの人口がいる。日常的にアラブ語を使うベルベル人も含めると、ベルベル人と呼ばれる人々はもう少し多い。彼らの祖先は北アフリカ一帯の主要民族であった。7世紀のアラブ侵攻の際には抵抗運動を繰り広げたが、しだいに周辺に追いやられたり、イスラム教に改宗してアラブ文化に組み込まれるようになった。11世紀にはサハラに住むベルベル人がイスラム教を「純化」するために「聖戦」を開始し、アルモラヴィド(Almoravids)帝国を樹立してイベリア半島の南半分を版図に組み込むとともに、南方にも遠征を行って当時のガーナ(Ghana)帝国を滅亡へと導いた。トゥアレグ人も後のティンブクツ(Timbuktu)となる地を遊牧の基地として1100年頃に興し、14世紀にアガデス(Agadez)でスルタン国を興すなど、サハラを中心都市ながらもその南のサヘルの歴史に影響を与えた。

 

ナイロ・サハラ語族(Nilo-Saharan group)

名称から想像つくように、ナイル川上流域辺りからサハラ砂漠南縁にかけて分布している。河川や湖沼のほとりに好んで住むといわれており、その傾向はかなり強そうである。乾燥地帯にも住んでいるが、大昔のサハラ地域がまだ乾燥していなかった時代の名残かもしれない。

ザガワ(Zaghawa)、カヌリ(Kanuri): 現代のチャド共和国には、ナイロ・サハラ語族の人々が広範囲に分布している。サハラがまだ草原であった時代からそうであったのだろうか。その時代にはチャド湖は現在の20倍以上の面積を持つ非常に広大な内陸湖で、周囲の川からの流水量も多く、そこに人々が集まって漁業、農業、畜産を営んでいた。紀元前2000年頃からサハラの乾燥化が始まり、北方のベルベル系(アフロ・アジア語族)遊牧民がチャド湖畔まで南下し、その中のザガワ人がカネム王国の基礎を築いた。現代では同じザガワと呼ばれるナイロ・サハラ語族の人々がスーダン共和国に住んでいるが、古代ザガワ人とは別の人々なのか、ザガワ人が北方のベルベル人出身だったというのは間違いなのか、それともベルベル系であったザガワ人の祖先がナイロ・サハラ人地域に移住して言語を変えたのか、今のところ本ホームページ作成者(山形)はそれ以上の知識を持ち合わせていない。一方いつの時代にか、東からサオ(Sao)人(ナイロ・サハラ語族)が移住して、農業を営んでいた。4世紀にサハラ砂漠での移動にラクダが導入され、8世紀にイスラム勢力が北アフリカを掌握してからイスラム商人がカネムに流入して勢力を拡張し、カネム王国の政権を取ってセフワ(Sefuwa)朝を築いた。彼らは地元のサオ人達と婚姻も含めて積極的に交わり、カヌリ人の祖先となった。

ソンガイ(Songhai): ソンガイ人達は、同じナイロ・サハラ語族の他のグループから遠く離れ、最も西、ニジェール河の中流域に沿って住んでいる。彼らの祖先がいつ頃、どういう経緯でこの地に移動したのか、今のところ明確でない。言語分類上ではナイロ・サハラ語族の中で独立した存在であるが、かなり古い時代に他のグループから分かれたからなのか、それともそう古くない時代に北のベルベル系の人々が混じった結果そうなったのか、よく解っていない。彼らもやはりサハラ砂漠へのラクダの導入とイスラム化による地域安定の影響であろう、8世紀頃に交易活動への参加が活発になり、800年頃にニジェール河大湾曲部にガオ(Gao)の町を建設した。14世紀に一旦マリ帝国に併合されたが、すぐに独立を取り戻し、15世紀にマリ帝国の勢力が衰えると西スーダンの支配権を奪い、ソンガイ帝国を樹立した。

 

ニジェール・コンゴ語族(Niger-Congo group)

最も多様性に富む言語集団で、さまざまな王国を作ってきた。ここで総論を述べるよりも、以下の各論を読んでいただいたほうが、全体像が掴めるであろう。

ヨルバ(Yoruba)、イグボ(Igbo)、エド(Edo): アフリカ地域全体(北アフリカ、周辺島嶼国を含む)の総人口7.6億人のうち、15%強の1.2億人が現ナイジェリア連邦共和国に住み、人口では圧倒的に第1位を誇っている。1平方キロメートル当り人口密度も、全アフリカで25人に対し、現ナイジェリアでは128人と、5倍に上る極めて高い数値である。人口密度の順位で見れば、コモロイスラム連邦共和国等の島嶼国およびルワンダ・ブルンディ両共和国といった小国で、ナイジェリアの2倍近くの数字で上回っている国々がある。しかしナイジェリアは国土面積13番目の上位の国で、全アフリカ面積の3%を占める、稀に見る人口密集地域である(以上の数字は1997年現在)。この人口集中状況は、決して近年に入ってからのことではなく、長い歴史を背景にしてのことであるようだ。ナイジェリア南部のイウォ・エレル(Iwo Eleru)で先史時代の人骨の化石が発見されているが、これが紀元前9000年のものだといわれている。ジョス高原で開花したテラコッタ(素焼き)の人物像で有名なノク(Nok)文化も、紀元前からのものである。時代がずっと下って、イグボ・ウクウ(Igbo Ukwu;最盛期は9〜10世紀)、イレ・イフェ(Ile Ife;最盛期は11〜15世紀)、るベニン(Benin;最盛期は15世紀以降?)といった諸都市国家を作ったイグボ人(総人口約2000万人)、ヨルバ人(総人口約2000万人)、エド人(総人口約100万人)たちは彼らの直接の子孫だと思われる。彼等は同じベヌエ・コンゴ(Benue-Congo)語族に属す文化的に非常に近いグループである。

バンツー(Bantu)語グループ: バンツー語グループに属する言語集団は、500を越えるといわれている。このグループも上と同じベヌエ・コンゴ語族に属するが、根本的に違う点は、非常に広い地域に拡散したことである。彼等はほぼ赤道の南、もう少し詳しく述べると、カメルーン、中央アフリカ共和国、コンゴ民主共和国、ウガンダ、ケニアに跨る北限ラインの南、アフリカ大陸のほぼ3分の1の土地に分布し、全人口は約8500万人(基準年は不明;なおアフリカ全体の人口は1997年で7.58億人)といわれている。現在の定説では、彼らはプロト・バンツー(proto-Bantu;原バンツー)人と呼ばれる、現在の南西カメルーンからナイジェリアにかけて住んでいた共通の祖先から発した。プロト・バンツー人が移動を開始したのは、4000年前とか2000年前とか、説が分かれている。その移動ルートは、主力グループが熱帯雨林北縁沿いに東進して大湖地域に出たあと、主に南進しながら東西に枝分かれしていき、別働グループが南進していったというのが主な説である。移動の時期やルートの解明には考古学、言語学、文化人類学等の調査がさらに必要だが、初期の移動地域に当る現コンゴ民主共和国が混乱状態にあるため、残念ながらまだ時間がかかるだろう。バンツー民族移動についての重要な点は、移動に農業生産、鉄器生産、家畜をともない、大陸の南半分で爆発的な人口増加をもたらせて、各地にバンツー社会を築いていったことである。その中にはブニョロ(Bunyoro)ブガンダ(Buganda)といった大湖地域の諸王国、ジンバブエの石造文化を築いたムエネムタパ(Mwenemutapa)、コンゴ盆地奥深くのルバ(Luba)王国、ルンダ(Lunda)王国、コンゴ川河口地域でポルトガル人と初期の通商を行ったコンゴ(Kongo)王国、南進先でボーア人のトレッカー勢力と遭遇して流血の戦いを挑んだズールー(Zulu)王国等がある。

エウェ(Ewe)、アカン(Akan): エウェ人は、ヨルバ人居住地域の西、そしてボルタ(Volta)川の東に住む。ダホメ王国を築いたフォン(Fon)人は、エウェ人から分かれた。彼等はクワ(Kwa)語グループという言語グループに属している。同じクワ・グループに属するアカン人は、ボルタ川の西に住み、アサンテ(アシャンティ)王国を築いた。ところで、エウェ人やフォン人は、もとはヨルバ人と一緒にケトゥ(Ketu)に住んでいたが、14世紀頃のヨルバ人の勢力拡張に押されて西に移動したそうである。そしてアカン人は、13世紀かそれ以前に北から南へと移動してきたといわれている。クワ語グループはベヌエ・コンゴ語族に属していないことを考えると、エウェ人とアカン人が離れた土地から移動してきたとか、エウェ人たちが長い間ヨルバ人と暮らしていたとは考えづらい。そこで、彼らの移動ルートについて、大きく分けて2つの可能性を考えている。1つは、ともに北方の隣接する地域に居住していたあと、いつの時代かは別として、アカンは熱帯雨林地帯に南下し、エウェは一旦ヨルバ人居住地域の西に移動して暫らく滞在したあと、ヨルバ人に押されてあらためて西に移動したということである。もう1つは、原クワ人が北から南下して現在の居住地に移り住んでいたが、ヨルバ人の西部に住むあるグループが権力抗争等の理由で西に逃れ、先住民であったエウェ人の祖先を征服し、支配者階層となりながら文化的には融け込んでエウェ人社会を作り上げたというものである。

フラニ(Fulani): プル(Peul)ともフルベ(Fulbe)とも呼ばれ、約700万人いるといわれている。彼らの言語は、現セネガル共和国で話されるウォロフ(Wolof/Ouolof)語と同様、ニジェール・コンゴ語族のアトランティック(Atlantic)語グループに属する。しかし彼らの容貌はいわゆるアフリカ人とは大きく異なり、褐色の肌をして鼻筋が通り、髪の毛の縮れはほとんどない。したがって、人種的にはまったく違うグループに属する。エチオピアからとか、アラビア半島からとか、中にはユダヤ人の中からやってきたという言い伝えもあるが、もともと北アフリカのベルベル人の一部で、8世紀ないし11世紀に南下し、ウォロフ人と関係が深くなって彼らの言語を使うようになったという説が有力である。大半がイスラム化したのは、この地でか、あるいはその前からかもしれない。彼らは牛を基本的財産とし、ヤギやラクダも飼う遊牧民で、草地を求めて少しずつウォロフ人の居住地からサヘル・ベルトに沿って東へと進んでいった。歴史上重要になったのは、18世紀後半から彼ら各地で起こした聖戦(ジハッド)による政治的、社会的変化である。特に有名なのは、ハウサ人の勢力圏で起きたウスマン・ダン・フォディオによるものと、マリンケ人地域でのウマール・タルによるものである。彼らが樹立した神権国家は19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパ列強による攻撃で政治的独立性を失ったが、宗教改革の影響はいまだに残っているようだ。

マンデ(Mande)語グループ: 広い意味でのマンディンゴ(Mandingo)人ともマリ(Mali)人とも呼ばれるこのグループは、主な構成言語集団として、ガーナ帝国を築いたソニンケ(Soninke;Sarakoleとも呼ばれる人、マリ帝国を築き、ソンガイ帝国を実質上運営したマリンケ(Malinke;Maninkaとか、狭い意味でのMandingoとも呼ばれる人、モロッコ支配衰退後に地域的な支配権を確立したバンバラ(Bambara;またはBamana人などがいる。マリンケ人とバンバラ人とはほぼ同族で、前者がイスラム教徒であるのに対し、後者は伝統的なアニミズムの信奉者であるとも考えられる。最近の学説では、原マンデ(proto-Mande)人はサハラがまだ肥沃だった時代にサハラの高地から大西洋岸までにわたり住んでいた。紀元前5000-4000年にクワ語・グループから分かれ、紀元前5000-3000年にかけてさらに南方へも広がって現在の分布となり、農業を発展させたと考えられている。

 

コイサン語族(Khoisan group)

 

その他

 

 

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