アフリカ史ノート

諸王国の興亡(19世紀まで)

ロアンゴ海岸

(2001年11月3日更新)

ロアンゴ海岸(南大西洋沿岸のロペス岬(現ガボン)からパルメイリンハス岬(現アンゴラ)までの海岸)には、遅くとも10世紀頃にはバンツー系の人々が移り住み、農耕文化圏を築いた。14世紀以降には、北からロアンゴ、カコンゴ、ンゴイ、コンゴ、ンドンゴ、マタンバといった王国が生まれたが、ポルトガル人到来以降は、彼らとの交易で利益を得て繁栄するものもあれば、逆に衰退するところもあった。

 

コンゴ(Kongo)

コンゴ人が王国を築いたのは、14世紀頃だといわれている。国は王(マニコンゴ;manikongo)が統治し、地方分権体制が整えられていた。また同国は周辺諸王国の盟主でもあり、朝貢を受けていた。経済は、大陸各地との塩や象牙、金属製品、奴隷等の交易により成り立っていた。

第5代マニコンゴ、ンジンガ・ンクワ(Nzinga Nkuwa)の時代にポルトガル人が到来し(1482年)、彼らとの交流と交易が始まった。カトリック・ミッションも1491年に訪れてキリスト教布教が始まり、国王とその家族も洗礼を受けた。

ンジンガ・ンクワの長男で第6代マニコンゴのンジンガ・ンベンバ(Nzinga Mbemba、洗礼名アフォンソ1世(Afonso I);在位1506-1543)は熱心なキリスト教徒であった。彼は自国をキリスト教化し、ヨーロッパ文化を導入しようとして、ポルトガル国王マヌエル1世との間に条約を結んで、外交・通商関係を開始した。ポルトガルは当初アフォンソ1世の期待に応えて宣教師と技術指導のための技能者を送ったが、やがてコンゴとの友好関係に興味を失った。それに代わり、ポルトガルが殖民を始めたサントメ島、後にはブラジルでのさとうきび栽培等のためにアフリカを奴隷の供給源とみなすようになり、奴隷交易を開始した。アフォンソ1世はアフリカからの奴隷の流出が国の衰退を招くことに気づき、ポルトガル国王に対し再三奴隷貿易を止めるよう要請したが、顧みられなかった。

アフォンソ1世の親ヨーロッパ・キリスト教化政策は、一方でポルトガルの奴隷貿易に荷担して富を得ようとする勢力を生み、方や保守派からは急激なキリスト教化のあまり伝統文化の軽視・無視への反発を引き起こし、彼の理想に反して国の統一を崩す結果となった。

彼の死後、衛星国にはコンゴ王国に離反する国が出始め、内部抗争も始まった。ポルトガルはこの土地での勢力を伸張するためにこれら反対勢力を巧みに利用した。コンゴ王国からポルトガルの主要交易相手の座を奪おうとした南のンドンゴ王国に対し、マニコンゴは武力制裁を行使しようとしたが、ポルトガルの援助を受けたンドンゴに敗退し(1556年)、1568年には内戦が起こり、またアフォンソ1世の死後35年間にマニコンゴが6回も変わるなど、国は衰退の一途をたどった。17世紀に入ってオランダが新興勢力としてポルトガル領を一時占拠した時、オランダと同盟してポルトガルに対抗し、勢力を回復しようとしたが、オランダも喜望峰以外のアフリカ大陸からは手を引き、コンゴ王国は1665年のンブウィラ(Mbwila)の戦いでポルトガルに敗北して分裂は決定的になった。

その後の抵抗運動として有名なものに、ベアトリス・キンパ・ヴィタ(Beatrice/Beatriz Kimpa Vita)によるものがある。彼女は王家の一族として高貴な血を受け、また熱心なカトリックの一家の生まれであったが、霊感の強い女性であり、自分は聖アントニウスの霊を受けたと説き、イエス・キリストはコンゴに生まれたアフリカ人である等、キリスト教をもとに独自の教えを説いた。国民の間からは、貴族からも一般民衆からも圧倒的な信者を集め、1704年に反ポルトガル運動を起こして首都サン・サルバドルを占拠した。しかしやがてポルトガル軍に制圧されて捕らえられ、1706年に20歳の若さで火刑に処せられた。

コンゴ王国は再統一を果たすことはなく、ベルギー国王レオポルド2世の野望のもとに開かれたベルリン会議(1894−5年)でヨーロッパ列強によりかつての王国と衛星国はフランス、ベルギー、ポルトガルに分断され、国境は固定化されてしまった。

 

ンドンゴ(Ndongo)

ンブンドゥ(Mbundu)人による国で、王(ンゴラ;ngola)が統治していたが、16世紀初頭はコンゴ王国の従属国として存在していた。

ポルトガル人がルアンダ(Luanda)に商館を置いてサン・トメ(Sao Tome)向けに奴隷貿易を始めてから、ンドンゴ王国はポルトガル人との奴隷売買により1540年までには強力となった。一方コンゴのアフォンソ1世は奴隷貿易を止めようとしており、ンドンゴは1556年にコンゴ軍を破ってコンゴから完全独立した。

1575年にポルトガルの貴族パウロ・ディアス・デ・ノバイス(Paulo Dias de Novais)が軍隊を引き連れてルアンダに上陸し、砦を築いた。彼はかつてイエズス会宣教師を連れてンドンゴの王都カバサ(Kabasa)を訪問し、そこで数年間抑留生活を送ったあと(1561-1565)本国に帰還して、キリスト教化したアンゴラ(ンゴラの国)を征服してよいという認可をポルトガル国王から得ていた。ポルトガル軍は1597年にはカバサを攻撃し、さらにマサンガノ(Massangano)に砦を築いてここをブラジル向けの奴隷を集めるための本拠地とした。ンドンゴ軍はゲリラ戦により抵抗し、戦争は数十年続いて双方に多数の死者が出た。

1623年にンドンゴとポルトガルとの間で和平条約が結ばれたが、ポルトガル人は条約を遵守せず、奴隷売買を続けた。条約交渉の際のンドンゴ側代表だったンゴラの妹ンジンガ(Nzinga/Nzingha)王女は、その1年後に自ら王位に就き、ポルトガルを非難して反ポルトガル闘争を再開した。ンジンガはアンゴラからの脱走奴隷を保護し、ポルトガル人から軍事訓練を受けたアフリカ人兵士を自国軍に迎え入れ、ポルトガル人に対する反抗を組織した。しかし王都カバサは1626年にポルトガル軍に奪取され、ンジンガは逃れて隣国マタンバを占拠し、ここを新たに反ポルトガル闘争の本拠地とした。

ポルトガルはンドンゴに別のンゴラを立て、1656年に再び和平条約を結んだ。しかしポルトガルの傀儡だったンドンゴ王はポルトガルに反旗を翻した(1660)。ポルトガル人はブラジルから援軍を呼び寄せ、1671年にようやくンドンゴ全域を平定して、ポルトガル領アンゴラに組み入れることができた。

 

マタンバ(Matamba)

ンドンゴ王国同様、ンブンドゥ(Mbundu)人が築いた国で、16世紀初頭には統治機構が整っていた。近隣の強国コンゴ王国に対してはンドンゴと違い独立していたが、、時々朝貢を行う関係にあった。

奴隷売買の問題で、コンゴ王国、ンドンゴ王国と共に1590年代に反ポルトガル闘争を開始した。しかしポルトガル軍により王都を追われたンドンゴのンジンガ女王に国を占領され、反ポルトガル闘争の本拠地となった(1630)。

ンジンガの死後、彼女の妹ムカンブ(Mukambu)が跡を継いで闘争が続けられた。1684年にポルトガルとの間で条約が締結され、戦争状態は終結した。しかしその後兵力の違いにより、マタンバの領土は徐々にポルトガル人により侵食され、ポルトガル植民者により奪い取られた土地はコーヒー園と化していった。

マタンバ王国は19世紀まで独立した王国として存在を保ったが、20世紀初頭についにポルトガルに占領され、王国は消滅した。

 

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