アフリカ史ノート

王者・覇者・賢者達

(2004年8月15日更新)

東スーダン

 

ピアンキ ( Piankhi ;クシ エジプト第25王朝在位747-716BC)

 当時北部エジプトには、タニスには第22王朝最後のオソルコン4世がおり、第23王朝系列ではレオントポリスのイウプト、ヘラクレオポリスのペフチャウアバステト、ヘルモポリスのニムロトが並列し、さらにサイスではテフナクトも第24王朝を標榜し、互いに王権を主張していた。こうした分裂状態に対し、テーベまで勢力を及ぼしていたヌビアのピアンキは、さらに北へと進出した。この時北部の5人の王達は初めて連合軍を組んでヌビア軍に対抗し、一時はピアンキも上流に撤退したが、再度侵攻してヘラクレオポリスで連合軍を破り、メンケペルラー(「ラーの宣言を守る」)という即位名を名乗ってエジプト第25王朝を開いた。ヌビアはエジプト同様アメン神を信仰しており、ピアンキはエジプトの秩序回復を重視して、敵対していた5人の王達にも寛大であった。テフナクトはデルタ地帯に逃れて反攻の機会をうかがっていたが、他の王達はそれぞれ知事の地位が認められた。

 

マフディ ( Al-Mahdi ;マフディヤ 生1844、没1885)

 本名は、ムハンマッド・アフマド・イブン・アッサイイッド・アブド・アッラー(Muhammad Ahmad Ibn As-Sayyid Abd Allah)、短くムハンマッド・アフマドという。
 父親はナイル川の船大工であった。ヌビア地方に住んでいる頃ムハンマッド・アフマドが生まれ、その後ハルツームの近辺に引っ越した。
 ムハンマッド・アフマドは子供の時からイスラム教に深く傾倒し、また頭が良かったので、コーランをたちまち覚えた。彼の属した教派は、スーフィー教団のサマニヤー派(Sammaniyah)である。彼の才能では、カイロのイスラム教大学で高等教育を受けて高い地位に就く機会があったが、彼は地元に残る道を選び、イスラム神秘主義を追究した。若くして大勢の信奉者を集め、1870年に白ナイル川のハルツームから250kmほど上流にあるアバ(Aba)島に移り住んだ。
 当時東スーダン地域はオスマン・トルコから半独立状態のエジプトの支配下にあり、イギリスが統治を援助していた。しかし外国勢力の支配に対し住民は快く思わず、不満はくすぶっていた。
 ムハンマッド・アフマドは現状の社会がイスラムの教えに従っていないと考え、神が自分に社会を改革するよう使命を与えていると考えるようになった。1881年に彼は自らマフディー(“正しい道の指導者”という意味)を称し、アバ島を出て支持者とともにエジプト支配に対し武力闘争を開始した。マフディの支持者達(アンサール(ansar)と呼ばれる)は原始的な武装でエジプト軍と闘って圧倒し、破竹の勢いで侵攻して、1885年にハルツームを陥落させた。
 ハルツーム陥落後、マフディは首都をオムドルマンに置いたが、半年後にチフスに罹って病死した。彼の跡は、4人の副官の内の1人であるアブドゥ・アッラー(Abd Allah)が継いだ。

 

 

エティオピア

 

メネリク1世 ( Menelik/Menilek I ;伝説 )

 聖書の「列王記上」と「歴代誌下」に、シェバ(Sheba/Saba;現在のイエメン)の女王がイスラエルに来訪し、ソロモン王(Solomon;在位965-932BC)の知恵と富に感激して帰国した話が書かれている。彼女は金と宝石のほかに莫大な量の香料と白檀を持参してソロモンに寄贈した。
 エティオピアの伝説では、この女王の名はマケダ(Makeda) と言い、エティオピア出身だったと伝えられている。彼女はイスラエルの栄華とソロモンの知恵を見聞するためにイスラエルを訪問し、ユダヤ教に改宗した。ソロモンはマケダの美しさに魅せられて、彼女が帰国する前夜に一計を案じ、夕食に招いた。ソロモンはコックに通常よりスパイスの効いた料理を作らせ、召使には宮殿から飲み水をなくさせ、ただ一ヶ所自分の寝室だけに飲み水を置いた。マケダはソロモンの計略に気づいたが、水無しでも我慢できるだろうとたかをくくった。しかし最後に喉の渇きに耐えられなくなり、ソロモンの寝室についていった。 そしてエティオピアに戻って生まれたのが、後のメネリク1世である。
 メネリク少年は、12才になる頃には自分の父親がソロモン大王であることをすでに知っていた。大人になってから彼はイスラエルまで出かけて自分の父親に会った。帰る時にはモーゼの十戒の石版を故郷まで持ち帰り、以後十戒はエティオピアにあるという伝説がある 。

 

エザナ ( Ezana/Ezanas ;アクスム 在位303-350)

 アクスム皇帝エラ・アミダ(Ella Amida)の死後、息子のエザナが帝位を継いだが、まだ幼少だった。そこでエザナの母は、シリアからの旅行中に拉致され連れてこられたキリスト教徒のフルメンティウス(Frumentius)とアエデシウス(Aedesius)に息子を託し、この二人は期待に応えてエザナを教育し、政治の補佐をした。彼らの薦めによりギリシャやローマ、シリアから職人や商人が呼び寄せられ、アクスムは経済的に繁栄した。エザナ帝は長じて軍事的才能も身につけ、軍事遠征を行って、東スーダンのメロエを滅ぼし、紅海の対岸の南イエメンまで支配下に納めた。
 エザナはキリスト教布教をフルメンティウス等に許可したため、この国でキリスト教が栄え、シオン・聖マリア教会等の教会が建設された。フルメンティウスは一旦帰国後、アレキサンドリア総主教により司教に任命され、再度アクスムに派遣された。エザナ帝はフルメンティウスの下でキリスト教に改宗し、以後この国はキリスト教が国教となった。

 

ラリベラ ( Lalibela ;ザグウェ 在位1172-1212)

 ザグウェ王朝の中で最も有名な皇帝である。彼は帝都をロハ(Roha)に移し、ここでキリスト教文化を興隆した。特に、岩盤から削り出して建造した教会は今でもエティオピア・キリスト教徒の信仰の対象となっている。ロハは後に彼の名に因んでラリベラと呼ばれている。

 

イェクノ・アムラク ( Yekuno/Ykuno Amlak ;ソロモン王朝 在位1270-1285)

 アムハラ地方の貴族で、最後のザグウェ皇帝ナクト・レ・アッブ(Nakuto Le Ab)を下し、出身地テグレット(Tegulet)に都を置いて新王朝を立てた。一説によれば、聖テクレ・ハイマノット(St. Tekle Haimanot;Debre Libanos僧院の開祖)がナクト・レ・アップを説得して帝位をイェクノ・アムラクに譲らせたとも言われている。彼はアクスム最後の皇帝アンバッサ・ウィダム(Ambassa Widam)の直系の子孫であり、従ってソロモン王とシェバの女王の子孫であると称し、彼が開いた王朝はソロモン王朝と呼ばれている。
 彼は熱心なキリスト教徒で、教会の建造を奨励し、領土の3分の1を教会に寄進した。

 

アムダ・セヨン ( Amda/Amde Seyon/Siyon/Tseyon/Tsion ;ソロモン王朝 在位1314-1344)

 イェクノ・アムラクの末子ウィディム・アラッド(Widim Arad)皇帝の死去、帝位に就いた。彼は軍事力を強化して特に対モスレム勢力に対する遠征を行い、エティオピア高原東部にまで勢力を伸ばしていたイファット(Ifat)太守国に勝って朝貢国とした。このため、彼はエティオピアの基礎を固めた英雄として賞賛されている。
 彼は行政能力にも優れ、民心を掴んで国を安定させ、キリスト教徒も増えた。文芸も盛んになり、数多くの本が書かれた。年代記「ケブレ・ネガスト(Kebre Negast;王達の栄光の書)」もこの頃書かれた。

 

ザラ・ヤコブ ( Zara Yakob ;ソロモン王朝 在位1434-1468)

 首都をデブレ・ビルハン(Debre Birhan)に置き、地方にはラス(ras)と呼ばれる行政官を派遣して、封建制度を確立した。
 軍事的には、1445年にアダル(Adal)太守国に勝利して、近隣イスラム教諸国に対し安定した関係を築いた。
 彼こそ「ネグサ・ナガスト(Negusa Nagast;王達の王)」と称されるエティオピア皇帝に相応しい地位を確立したといわれている。

 

ファシラダス ( Fasiladas/Fasiledes/Fasalidas ;ソロモン王朝 在位1632-1667)

 カトリック教徒だった父、スセニョス(Susenyos)帝が宗教戦争の激化を避けるために退位した後を継いで皇帝となった。彼自身は熱心なエティオピア正教徒で、これまでローマ・カトリックの布教活動をしていたスペインやポルトガルのジェズイット教団を初めとするカトリック教団を追放し、ヨーロッパ諸国との国交を断絶した。以後ヨーロッパとの交流は途絶えるが、彼の時代に遷都したゴンダール(Gonder)にはエティオピア正教文化が花を開いた。

 

テオドロス2世 ( Tewodros II ;ソロモン王朝 在位1855-1868)

 本名はカッサ・ハイル(Kassa/Kasa Hailu/Hayla)といい、タナ湖北方のクワラ(Kwara/Qwara)の下級貴族の子として生まれた。父が死んだ後、親族に財産を取られて所在を転々と変えたが、イスラム商人の隊商目当ての山賊を働くうちに軍事的才能を身につけ、ゴンダールのラス・アリ(Ras Ali)に圧力をかけてクワラの長官の地位を認めさせた。その後エティオピアの大半を征服して1855年に皇帝に就任してテオドロス2世と名乗り、首都をゴンダールからデブレ・タボール(Debre Tabor)に遷した。ただし彼は、ソロモンの子孫を標榜しなかった。
 テオドロスは、北方のエジプト等周辺勢力の脅威に対抗するため、国の再統一と、中央集権制による富国強兵を目指した。このため地方行政長官の任命権や、皇帝直属の常備軍の設置を試みた。また、ヨーロッパの知識・技術を取り入れるのに積極的で、国力を高めるために柔軟な政策を用いて、様々な外国人技術者やコンサルタントを雇った。大砲やその他の武器の製造にも着手している。しかし内政的には、地方権力を取り込むことが出来ず、統一は中途半端なものであった。
 彼はイスラム勢力と対抗するため、イギリスやフランスに領事の交換を提案したが、無視されつづけ、痺れを切らした彼は在住外国人を人質として監禁した。イギリスは人質解放のため軍の派遣を決め、1867年にインド駐留イギリス軍が紅海から上陸した。イギリス軍は途中山岳地帯での行軍に苦難を強いられたが、マグダラ(Magdala/Makdela)で待ち受けていたテオドロスの軍と交戦し、勝利した。テオドロスは敗北を認め、1868年4月13日に自害した。外国人の人質は開放され、イギリス軍は引き上げた。

 

メネリク2世 ( Menelik/Menilek II ;ソロモン王朝 1844生、在位1889-1913)

 テオドロス2世が1855年に半独立国だったショア(Shewa/Shoa)に侵攻してハイレ・マラコット(Haile Malakot)王を倒し、王子サハレ・マリアム(Sahle Mariam/Miriam)を捕虜にした時、王子はまだ11歳だった。以後10年間彼はアムダ・マグデラ(Amda Magdela)幽閉されていたが、1865年に脱出に成功し、ショアに帰還して王(ネグス)に就任した。テオドロス2世がイギリス軍に敗れた時にはすでに他の2人の王と帝位を争うほど力をつけていたが、サハレ・マリアムはショアの力を強化することを優先することにし、ティグレ(Tigre/Tigray)のカサ・メルチャ(Kasa Mercha)がヨハニス4世(Yohannis/Yohannes IV)と名乗り帝位に就くのを承認した。以後ヨハニス4世の死まで、皇帝とメネリクはエティオピアの支配を2人で南北に分け合うことになる。サハレ・マリアムは支配地を南に拡大していった。
 1889年にヨハニス4世が北の勢力、マフディヤとの戦闘で受けた傷が元で死去すると、他に匹敵する実力者はなく、必然的にサハレ・マリアムが後継者となり、メネリク2世と称した。先代皇帝彼もまたエティオピアを他国からの侵略に対抗できるよう国力を伸ばすことを方針とし、1892年に首都を生地アンコベール(Ankober)から南西約80kmの地に遷すことを定め、この地をアディス・アベバ(Addis Ababa;「新しい花」の意)と名づけた。
 当時イギリスとフランスから出遅れていたイタリアは、エリトリアからエティオピアへの勢力拡大を狙っていた。メネリク2世は一時期イタリアと友好関係にあり、両国は1889年にウチャリ(Uccialli/Wichale/Wechele)条約を結んだが、イタリア語版の中にアムハラ語版には無い「エティオピアをイタリアの保護領とする」という条文が含まれていることがあとから解り、メネリク2世は1893年に条約を破棄した。1896年にイタリア軍は内陸への侵攻を開始しようとしたが、エティオピア軍は相手の動向をよく把握し、十分な武器で武装してアドワ(Adwa/Adowa)で迎え撃った。アドワの戦いではエティオピア軍の圧倒的勝利に終わり、イタリアはエリトリアのみを植民地として、エティオピアの支配を断念せざるを得なかった。他のヨーロッパ諸国もエティオピアを主権国家として承認し、アフリカ大陸の在来政権の中で唯一独立を保つことが出来た。アドワの戦いは、アフリカの中で成功した反植民地戦争として有名となった。
 メネリク2世はその後も国家の近代化を目指し、近代教育の導入、電力・電話の普及、フランス領ジブティからアジス・アベバまでの鉄道敷設に力を入れた。

 

 

中央スーダン

 

ドゥナマ・ディバラミ ( Dunama Dibalami ;カネム 在位1210-1248)

 カネム王国最盛期を築き上げた王。彼が鍛え上げた騎兵隊は少なくとも3万騎を数えたと言われている。彼はこの精鋭の騎兵隊を率いて周辺地域を攻撃し、領土を拡張していった。北方のフェザン(Fezan/Fezzan)までの交易ルートを支配下に収めたのも、農業生産力がより高いチャド湖南西のボルヌ(ボルノ;Bornu/Borno)地域を獲得したのも彼の時代である。しかし後のカネム人からは、カネムに混乱をもたらした責任は彼にあるという見方もされている。

 

アリ・ガジ ( Ali Gaji ;ボルヌ 在位1465-1497)

 セフワ王朝に父系相続を確立し、後継者争いの元を断った。ボルヌ遷都以降王都が定まっていなかったものを、ビルニ・ガザルガム(ンガザルガム;Birni Gazargamu/Ngazargamu)に定た。軍事的能力にも秀で、カネムのブララ朝にも大勝してここからの脅威を取り除いた。このようにして物理的に国の安定をもたらしたが、彼はさらに領土支配を安定させるためにイスラム教化を進め、自身も1484年にメッカ巡礼を行って、カイロのカリフからハリファ(khalifa)の称号を得た。

 

イドリス・アローマ ( Idris Aloma/Alauma/Alawma ;ボルヌ 在位1564-1599)

 カネム・ボルヌ両王国を通じて最盛期をもたらした王である。彼はオスマン・トルコ支配下の北アフリカから火器を購入して軍備を強化し、厳格な軍律と厳しい軍事訓練で戦闘力を高め、戦闘では自ら先頭に立ち、後尾には軍楽隊を置いて味方を鼓舞しながら進軍した。騎馬兵士には鎖帷子を着せ、乗馬にも厚手の布地で全身を覆って敵からの矢を防ぐなど軍備での工夫もした。輜重部門でも、首都ビルニ・ガザルガムを経てチャド湖に注ぐヨベ川の輸送を従来のカヌーから平底のボートに変え、陸上の輸送もロバやラバからラクダに変えて、輸送速度を上げた。彼はこうして軍を北はアイール(Air)まで、南はマンダラ(Mandara)山塊まで展開して勢力範囲に収めた。東のカネムへは、1571年から76年までの間に激しい侵攻作戦を繰り広げ、ブララ朝を壊滅してチャド湖周辺を平定した。それでも勢力拡大の戦争をやめることはなく、最後には南方のガメルガ人への討伐線の際に、藪に隠れていた敵兵の手斧を胸に受け、あっけなく戦死した。彼は熱心なイスラム教徒であり、1571年にメッカ巡礼を行った。その帰りに中近東や北アフリカのイスラム学者や教師を連れて帰り、イスラム法による制度を整備した。イスラム法の権威を高めるために、彼自身の係争もイスラム法廷にゆだねたとのことである。

 

ムハンマッド・アル・カナミ ( Muhammad al-Kanami/al-Kanemi ;ボルヌ )

 アル・カナミは、父はチャド湖北西の人であったが、母親はアラブ人であった。イスラム神学者として宗教的指導者であったが、ボルヌがフラニ・ジハッド軍から攻撃を受けたとき、アーマッド王の要請を受けて防衛の先頭に立った。最初は外交的に解決しようとし、ソコト・カリフ国政府に書簡を送り、同じイスラム教徒を攻撃することの非を説いて攻撃をやめるよう要請した。しかし無視されたため、軍事反抗に転じ、フラニ・ジハッド軍を撃退した。その功に報いて、アーマッド王は彼に領地を与えた。彼は行政・政治にも能力を発揮し、力をつけていって、1820年にはボルヌ王国の権力はセフワ朝とアル・カナミに2分されるようになった。彼は1837年に死去するが、それを機に勢力の均衡は崩れ、セフワ朝イブラヒム王はアル・カナミの息子で後継者のウマールを攻撃するが、敗北して殺され、ボルヌ王国は滅亡してアル・カナミの子孫がヨーロッパ列強による分割までこの地を収めることになる。

 

ウスマン・ダン・フォディオ( Usman dan Fodio/Fodiyo ;ソコト 生1754、没1817)

 ウスマン・ダン・フォディオ(Usman dan Fodio/Fodiyo;1754-1817)はゴビール(Gobir)に生まれ、父や叔父をはじめとするさまざまなイスラム学者から教育を受け、20歳で教師となった。彼はさまざまな土地で神学を教えるだけでなく、イスラムの教えに従った実践を説き、ハウサ人からも信者を集め、1790年頃ゴビール王から認可を得て彼自身の教団を開いた。ウスマンの厳格なイスラムの教えは、ハウサ人支配者の圧政に苦しむフラニ遊牧民達やハウサ農民に支持され、一方ハウサ社会の支配者たち、ウスマンの教団に圧力をかけるようになった。1804年2月にウスマンはジハッド(聖戦)を呼びかけて軍事的衝突が始まった。ウスマンはジハッドの最中サルキン・ムスルミ(sarkin musulmi;信仰の最高指導者)として宗教的・精神的な指導者の役割を担い、軍事上・政治上では弟のアブドゥルラヒ(Abdullahi)と息子のムハンマド・ベロ(Muhammadu Bello)が先頭に立った。1808年にハウサ諸都市が基本的に平定された後、ウスマンはソコト近郊のシファワ(Sifawa)で、その後ソコトでベロが用意した住居に移り、1817年に死去するまでサルキン・ムスルミとして教育活動・言論活動を続けた。

 

 

西スーダン

 

スンジャータ・ケイタ ( Sundjata/Soundjata/Soundiata Keita ; マリ 在位 1230-1255 )

 マリ帝国の創始者。
 マリンケ人のグリオ(語り部)により系譜・生い立ち・功績が代々語りつがれており、その話の筋にはいくつかの説があるようである。父の名がナレ・ファ・マガン(1218年即位)であることは共通しているが、12人兄弟の末子だったとも、異母兄1人と異母弟1人の間に生まれたとも伝えられている。
 当時はガーナ帝国が北アフリカのアル・モラヴィド朝によるジハード(聖戦)で衰退させられた後、ソソ王スマングル(またはスマオロ)・カンテが近隣を支配していた。グリオによればスマングルは極悪非道の支配者であり、呪術にも通じていたといわれている。
 スンジャータは幼少の頃は虚弱で、7歳で父が亡くなるまで足が立たなかったが、その後体が頑健になり(一説によれば、父の形見の戦闘指揮棒に手を触れてから)、力もついて狩の名手となり、マリンケ人からスマングルの暴虐に抗して闘う指導者と目されるようになった。スンジャータがニジェール川上流地域で覇権を確立したのは、1235年のキリナの戦いでマリンケ人諸支族を糾合してスマングルを破って以来だと言われている。
 スンジャータの死にも複数説がある。民衆の前に姿を現したときに矢で暗殺されたとも、サンカラニ川で溺死したとも言われている。スンジャータの子供の数にも諸説があるが、彼の死後最終的に実権を握ったのは彼の子ではなく、異母弟で対スマングル解放闘争での協力者でもあったマンデ・ボリ(アブバカリ1世?)であったようで、以後王権はマンデ・ボリの子孫が継いでいる。

 

マンサ・ムーサ ( Mansa Musa ; マリ 在位 1307-32

 カンク・ムーサ( Kankou Moussa )、またはカンゴ・ムーサ( Kango Moussa)とも呼ばれる。
 マリ帝国の中で最も有名な王である。それは、1324年に行ったメッカ巡礼のインパクトが当時非常に大きく、途中立ち寄ったカイロでは、彼がばら撒いた黄金のせいで12年間インフレが続いたとのことである。また、巡礼に王妃を連れてゆき、途中砂漠を掘らせて水を溜め、故郷のニジェール川での水浴びを懐かしがった王妃を慰めたというエピソードもある。この巡礼は、イブン・ハルドゥーンの著書を通してヨーロッパにも伝わり、「黄金の帝国マリ」が一躍名が知られるようになった。
 ムーサ王がこのように大掛かりな巡礼を行うことができたのは、歴代の王による周辺地域の平定が終了して治安が安定し、経済的にも繁栄の頂点に達したからである。領土の拡大は、サクラ王(在位1285-1300)によるガオとムーサ王によるテクルールの征服で終了した。

 

スンニ・アリ ( Sunni/Sonni Ali ; ソンガイ 在位1464-92)

 スンニ・アリは、ガオを支配していたソンガイ人王国スンニ朝の後継者であった。王位に着いた時にはマリ帝国は衰退しており、ニジェール川を使った通商で勢力を拡大した。彼は騎兵とニジェール川のピローグ船隊を駆使して勢力を拡大し、トアレグ人に支配されていたトンブクツを征服し、ニアニにあるマリ国から西アフリカの支配権を事実上奪った。
 宗教上はイスラム教を名乗っていたといわれるが、実際には土着宗教を信仰し、イスラム勢力から反感を買った。
 死因はミステリアスである。川で溺死したとも、甥に殺害されたとも言われている。死後即座にアスキア・ムハメッドに率いられたイスラム教勢力が権力を奪取し、アリ自身は異端者として歴史的評価が低められたからであろう。

 

アスキア・モハメッド ( Askia Mohammed/Muhammad ;ソンガイ 在位1493-1528)

 ママドゥ・トゥーレ(Mamadou Toure)ともいい、ソニンケ人である。スンニ・アリ配下の将軍であったが、アリの死後、その息子バル(バカリ)に対し少数の勢力で対抗し、王権を奪った。バルが土着宗教の信奉者であったのに対し、モハメッドは熱心なイスラム教徒で、イスラム勢力がアリを奉じての戦いで、いわば「イスラム革命」といえるのであろう。
 モハメッドはスンニ・アリからの領土を引き継いだだけでなく、さらにマリやハウサ諸国と戦いながら拡大し、東はボルヌとの境界、西は大西洋まで達し、首都をトンブクトゥに移した。彼は軍事力の増強だけでなく、度量衡を制定して産業と商業の基盤を固め、岩塩と金の生産を拡大した。
 さらに熱心なイスラム教徒としてトンブクツのサンコーレ大学を復興し、メッカ巡礼を行い、「西スーダンのカリフ」に任命されて西アフリカの支配権に対する宗教的正当性を確立した。
 しかし晩年まで権力を保つことはできず、ほとんど盲目となった86歳の時に息子のアスキア・ムサに王座を追われ、失意の後に95歳で逝去した。

 

ウマール・タル ( Umar/Oumar/Omar Tal ;トゥクロール 生1794?、没1864 )

 フタ・トロのイスラム教師の家庭に生まれ、幼い時期からイスラム教学を学んで才能を磨いた。メッカ巡礼実践者であるため、アル・ハジ(al-hajj/el-hajj)の尊称で呼ばれることが多い。メッカ巡礼前からスーフィー(神秘主義教団)の一派であるティジャニア派に属していた。
 1826年にメッカ巡礼を行い、ここで3年間過ごしてティジャニア派の奥儀を深め、同派の指導者ムハンマドゥ・アル・ガリ(Muhammad al-Ghali)の信頼を勝ち得た。西スーダンにおいてジハッドを起こす権限がこの時与えられたとも伝えられている。また、メディナやエルサレムにも旅して各地のイスラム教指導者と交流を深めたらしい。続くカイロでは4年間過ごし、ティジャニア教の元であるハルワティ(Khalwati)教を深めた。
  ソコトにはメッカ巡礼の往路に立ち寄って7ヶ月滞在したそうであるが、帰途でもモハンマド・ベロの歓待を受けてその娘と結婚し、1832年から1838年まで過ごして政治や軍事行動にも携わった。ここを発つ時はかなりの財産と支持者を携えていたという。帰途さらにマシーナにアーマッドの賓客として9ヶ月滞在したという。
 巡礼からの帰還後は、多くのティジャニア派信者とともにフタ・ジャロンに拠点を構えた。この時からジハッドの準備を始めたようで、信奉者を増やし、ヨーロッパ商人との交易により銃器を入手し、フタ・ジャロンのアルマミ政権との間に軋轢を生み出した。1848年(1849年という記述もあり)にフタ・ジャロンから退去し、拠点をディンギライ(Dingiray/Dinguiraye))に移した。1852年に北方の非イスラム教徒のバンバラ人勢力と衝突し、ジハッドが開始された。
 ウマール・タルは天才であり、カリスマ性があった。そのためフラニ人の中から信者を集めることができただけでなく、メッカ巡礼中は各地で多くの有力者と交流を深めることができた。しかしウスマン・ダン・フォディオと比べると包容力が無かったのか、征服地で住民からの支持を得て政権を安定化させることができなかった。さらにジハッドの途中でフランス軍に勝てないと解ると妥協してしまうなど、原則性に欠けていたきらいがあり、ソコトのジハッド軍に比べると士気と紀律が劣っていたのはそのせいではないだろうか。
 1861年にマシーナのアーマド3世の斡旋によりイスラム教に改宗したバンバラ人のセグ王国を、1862年には40年前にアーマドゥ・ロボがジハッドにより樹立した同じフラニ人のマシーナ国を陥れたが、トゥアレグ人に対する戦闘で敗れ、さらにマシーナのフラニ人による反撃に遭って、敗走中に洞窟に隠れているところを爆殺された。

 

サモリ・トゥーレ ( Samori/Samory Ture/Toure ; 生1833、没1900 )

 サモリ・トゥーレは、一方ではフランスの植民地支配に抵抗した英雄として賞賛され(「黒いナポレオン」との異名あり)、一方で村々を襲撃して回った残虐な奴隷商人との悪名で語られてもいる。どちらが正しいのであろうか。
 彼の生い立ちははっきりしない部分が多い。出生地はビサンドゥグ(Bissandugu/Bissandougou)と言われることが多く、もう少し南の場所が挙げられている場合もあるが、いずれにしろ現在のギニア共和国の東南部である。言語集団としてはマリンケ人に属しているが、北方から移住してきたマリンケ人出身の父と、土着社会出身の母親を持つという説もある。サモリは若い頃から商業に興味を持ち才能を発揮したらしいが、父は商売人であったとも農業を営んでいたとも言われている。しかし、母親思いであったらしい。彼が軍隊に参加したのは、近隣の武装勢力による故郷への襲撃で母親が奴隷として連れ去られたことから始まる。襲撃したのはソリ・ブラマ(Sori Bourama)王の軍隊で、1853年頃のことであった。サモリは王にかけあいに行き、彼自身が兵士として奉公することで母の自由を取り戻すことになった。サモリは兵士として勇敢に戦い、軍事的にも才能を示して王から目をかけられ、軍の中での地位も上昇した。1859年頃に契約を終えたかあるいは脱走したかでソリ・ブラマの下から去ったサモリは、他の勢力の中でさらに軍事的才能と、人を惹きつける組織力を身につけたらしい。
 出身地に戻った後、ビサンドゥグに拠点を置いて兵力を集め、シエラレオネのイギリス商人から武器を調達することにより、1865年頃には商業とイスラム教に基礎を置いた独自の勢力を持つようになった。1873年には商業の中心であるカンカン(Kankan)を手中に収め、さらに領土を拡大して、瞬く間にマンディンカ帝国ともサモリ帝国とも呼ばれる、商業とイスラム教を基礎に置く国家に成長させた。
 従来のアフリカ社会であれば、彼の帝国はガーナマリソンガイ諸帝国の再来として長く繁栄したのであろう。しかし世界の歴史はヨーロッパによる帝国主義時代に突入していた。アフリカ分割の中でマンディンカ帝国はフランスの植民地拡大に抵抗して戦ったが、次第に兵力を増してくる。フランス軍を前にビサンドゥグを放棄して東に撤退せざるを得なかった。拠点をダバカラ(Dabakala;現コートジボアール共和国北東部)に移したサモリは、引き続きフランスへの抵抗を続けた。しかしフランスは次第に西アフリカでの軍事支配を確立していき、1898年9月29日についにサモリを捕らえた。この時サモリはテントの外で礼拝の最中だったとも言われている。彼はフランス領のガボンに流され、気管支肺炎のため1900年6月2日に没した。

 

 

中西部サバンナ

 

アフォンソ1世 ( Afonso I ;コンゴ 在位1506-1550)

 本名はンジンガ・ンベンバ(Nzinga Mbemba)。第6代マニコンゴ(国王)。キリスト教に改宗し、ポルトガル国王マヌエル1世と条約を結んでポルトガルと外交・通商関係を開始した。しかしポルトガル人はコンゴ側の了承無しに奴隷貿易を拡大し、アフォンソ1世はポルトガル国王に親書を送ってこれを禁止するよう訴えたが、黙殺された。

 

ンジンガ ( Nzinga/Nzingha ;ンドンゴ 在位1624-1626;マタンバ 在位1630-1663)

 ンドンゴ王国のンゴラ(王)、ンダンビ・キルアンジ(Ndambi Kiluanji)の娘。ポルトガル名はドナ・アナ・デ・ソウザ(Dona Ana de Sousa)。
 1623年に兄王ンバンディ・ンダンビ(Mbandi Ndambi)の名代としてポルトガル側と和平条約の交渉に当った。ポルトガル側が条約を遵守せず、兄王もそれに対し曖昧な態度しか取らないことを憂いた彼女は、翌年兄王が死去した際(暗殺説もあり)自ら王位に就き、反ポルトガル闘争を指揮した。ポルトガルに敗れてンドンゴから脱出した後は、マタンバ王国を占領してそこの女王となり、死ぬまで反ポルトガル闘争を続けた。
 兄王の名代としてルアンダのポルトガル総督府と和平交渉をした際の有名なエピソードが在る。ポルトガル側、ンドンゴ側双方大勢が居並ぶ中、総督は会見場の奥の椅子に座り、王女には床に敷いたにござに座るよう勧めた。ンジンガは咄嗟に判断して随員の一人に命じて四つん這いにならせ、彼女はその背に座って対等の目線で総督との協議を開始した。椅子となった随員も長時間の協議にも耐えてピクリとも動かなかった。この話は、ポルトガルに対し毅然とした態度で望み、対等の立場で臆せずアフリカ側の立場を主張して譲らなかったンジンガの姿勢を表すものとして、アンゴラおよびブラジルで有名である。

 

このホームページはさらに改良を続けていきます。
作者に助言・激励のメールをお寄せください。