アフリカ史ノート

諸王国の興亡(19世紀まで)

東スーダン

(2004年5月29日更新)

エジプト影響下のヌビア(Nubia)

ヌビア地方は中石器時代からアフリカ黒人の住む地域であった。エジプトとヌビアとの間には砂漠と急峻なナイルの流れに阻まれていたが、エジプト王朝時代以前から交流があった。

エジプトに初期王朝時代(3050-2686BC)が始まると、ヌビアはエジプトから奴隷や建築資材を求めて度々軍事遠征を受けた。エジプト古王国時代(2686-2181BC)にはヌビアは軍事的にはエジプトの支配下に置かれていたが、芸術や宗教等の文化面ではエジプトは奴隷や植民を通してヌビアの影響を色濃く受けていた。

エジプトで王権が衰えて混乱が続いた第1中間時代(2181-2040BC)には、ヌビアはエジプトの軍事的支配を脱して国力が栄えた。リビアの乾燥化のため牧草地を求めて移住してきた牛牧民達の波がヌビア西部に押し寄せ、ヌビア原住民達と混住するようになり、文化的に多彩なものとなった。

エジプトで第11王朝(2134-1991BC)が樹立して再び国力が回復し、中王国時代(2040-1782BC)が始まると、ヌビアへの軍事侵攻は以前にも増して盛んなものとなり、さらに第12王朝(1991-1782BC)になるとヌビア側の抵抗にもかかわらずセムナまで征服し、さらにカルマーまで進出して砦を築き、通商活動を支配した。軍事上および経済的にはヌビアはエジプトの支配下に置かれていたが、文化的にはますます独自のものを繁栄させていった。

第2中間時代(1782-1570BC)となり、エジプトが再び混乱に陥り、特にアジアからヒクソス人が襲来するようになると、ヌビア人兵士はエジプト軍の中に混じって活躍するようになり、ヌビア人とエジプト人の対等な立場で交流が盛んになった。

ヒクソス人がエジプトから撃退され、新王国時代(1570-1070BC)が始まると、エジプトは再び強大となり、ヌビアの支配権を取り戻した。しかも従来以上に勢力範囲を拡大し、北部のアスワン(Aswan)を州都とするワワット(Wawat)と、南部のナパタ(Napata)を州都とするクシ(Kush/Cush)とに分けてそれぞれ総督を置き、両州全体の統治者としてエジプト王族から副王を選んで置いた。しかしエジプトは文化的に支配することはなく、ヌビア人達は古来の伝統、習慣、文化を保ちつづけることができた。

 

クシ(Kush/Cush)

エジプト新王国時代のヌビアの中でも、クシは南北と東西の交易ルートの交差点に位置し、四方の商品が集中して位置は賑わった。農業生産はナイル川沿いの農地のお陰で高く、周辺の高山からは金およびエメラルドが産出して地中海方面へ輸出され、さらに富を生み出した。行政はエジプト人が占めていたが、ヌビア人の中にも経済的に豊かになる者が現れるようになった。

エジプト新王国時代が幕を閉じて500年間の混乱状態が続く第3中間期(1069-525BC)に入ると、クシの副王はヌビア軍の支持を得てエジプトからの支配を脱し、ナパタに独立した王権を樹立した。その後土着ヌビア人の実力者が支配権を掌握して王位に就くようになった。

カシタ(Kashta)の時代には上エジプトまで支配権を拡大し、その息子ピアンキ(Piankhi;在位747-716BC)はナイル・デルタまで進出して全エジプトを掌握し、エジプト第25王朝(ヌビア/クシ朝;747-656BC)を創設した。しかし間もなくアッシリア人がエジプトに進入し(671BC)、ヌビア王朝第4代タハルカ王(在位690-664BC)と第5代タヌトアメン王(在位664-656BC)はアッシリア軍と戦ったが、、アッシリアの鉄製武器の威力に屈し、クシに引き上げた。

エジプト撤退後のクシは、王都をメロエ(Meroe)に遷し、南方のアクスムに侵略されて滅亡するまで(AD350)、約1000年間繁栄を誇った。この間エジプトではアッシリアの後ペルシア、マケドニア、ローマと次々に外部勢力による支配を受けることになるが、ヌビアは芸術・宗教・言語・文字を含め、独自の文化を発展させた。

 

ノバティア(Nobatia)、マクラ(Maqurrah/Makura/Makuria)、アルワ(Alwah/Alwa)

アクスムによるメロエ陥落後のヌビアの歴史は十分には記録されていない。僅かに、ノバタエ(Nobatae)と呼ばれる人々が住んでいたという記述が残されているが、発掘された遺跡・遺留品から、クシ文化の流れを汲む直接の子孫だろうと言われている。ノバタエ人は、遊牧民族を率いてローマが支配する上エジプトに遠征軍を送ったことがあるが、軍事的勝利を収めきれず、故国に引き上げた。ノバタエの歴史が不明確なのは、そこが政治的不安定状態にあったからではなく、隣接するエジプトも他国のことを記録し残す政治的・文化的余裕が無かったか、あるいはそのようなことに無関心な文化的背景があったからなのだろう。

6世紀にこの地にキリスト教の伝道団が入った時には、パチョラス(Pachoras)を首都とするノバティア、ドゥンクラ(Dunqulah/Dunkula)を首都とするマクラ、スバ(Subah/Soba)を首都とするアルワに国が分かれていた。これら3カ国でキリスト教は興隆し、教会が各地で建立された。

610年にイスラム教が興ると、瞬く間に北アフリカにも広がり、ヌビアまで波が押し寄せた。イスラム教徒がエジプトに侵入したのは639年で、そこから一部は軍備を整えてナイル川を遡って642年と652年の2度にわたりヌビアを攻撃し、ノバティアは瞬く間に攻略された。マクラのドゥンクラも652年にいったん陥落したが、マクラ側は激しく反撃し、前ノバティア領も含め領土を奪回し、アラブ軍とマクラとの間には最終的に和平条約が結ばれた。

その後約6世紀にわたりマクラとイスラム化したエジプトとの間で交易が平和な交易関係が保たれ、ドゥンクラや他の都市は街路が整備され、キリスト教会が林立して、マクラ王国は繁栄した。

1250年にエジプトにマムルク朝が興ると、13世紀末から14世紀にかけてヌビア支配を目指して遠征軍を派遣し、マクラに戦いを挑んだ。マクラはマムルク朝に敗れることはなかったが、国力は疲弊し、15世紀には昔日の勢いを失った。その頃には牧草を求めてジュハイナ(Juhaynah)族を主とするアラブ人遊牧民の移住が活発となり、ヌビア人との混住・混血が進んだ。王族内でもアラブ人との混血が行われて1315年にはイスラム教徒の王子が王位に就き、在来のキリスト教文化は移住してきたアラブ人のイスラム文化に急速に置き換わった。

アルワ王国も独立を維持し、クシの製鉄技術を継承して、独特のキリスト教文化を発展させた。しかしマクラ王国同様にアラブ人の移住の影響を受け、弱体化していった。

 

フンジ(Funj)

青ナイル川の上流、エティオピア高原との境を出身地とするナイル・サハラ語族のフンジ人は、アマラ・ドゥンカス(Amarah/Ammra Dunqas)に率いられて1504年にセナール(Sennar/Sannar)に王国を築いた。ヌビア最後のキリスト教国アルワも、この年にフンジに敗れて滅亡した。

フンジ人達は16世紀にゲジラ(Gezira: Al Jazirah;青ナイル・白ナイル合流点地域周辺)をめぐってアラブ人と争い、1608年までには一帯の支配権を確立した。王国は、各地の領主との比較的ゆるい連合体であった。

イスラム教は王国の初期から取り入れ始め、16世紀半ばの王アブドゥ・アル・カディール1世(Abd al-Qadir I)は初めてイスラム名を名乗った。

バデイ2世アブ・ダクン(Badi II Abu Daqn;在位1644/45-80)の時代には領土を白ナイル川の西のコルドファンまで広げ、フンジ王国の最盛期を築いた。彼は敵兵捕虜出身の奴隷兵からなる王直轄常備軍を設立し、これが各地の領主からなる貴族階級に対抗する力を持ち、王権が強化された。しかし反面貴族達との間で権力をめぐる暗闘が始まり、政治的不安定の原因となった。

バディ4世アブ・シュルク(Badh IV Abu Shulukh;在位1724-62)の時代に貴族階級は権力抗争に敗れ、王は奴隷兵に支持されて絶対的権力を持つようになったが、最後には軍のコントロールが不可能となり、1761年にコルドファン州副王アブ・リカイリック(Abu Likaylik)に率いられた軍は宮廷クーデターを起こして王を追放した。

その後は軍や廷臣達が王を担いで王位に就かせ、王は実権を持つことなく廷臣の傀儡であった。廷臣達自身も権力闘争で、フンジ王国は衰退の道を辿った。

1821年にエジプト軍が侵入して王国は降伏し、エジプトに併合された。

 

トゥルキヤ(Turkiyah)

エジプトは、16世紀初頭からオスマン・トルコ帝国の属州となっていたが、1798年から1801年までの間ナポレオン軍に占領さた後、1805年にアルバニア出身のオスマン・トルコ軍人ムハンマド・アリ(Muhammad Ali;在位1805-1849)がオスマン・トルコ帝国のエジプト副王に任命され、実質上の独立国を築いた。ムハンマド・アリは、金と、兵力としての奴隷の供給源として東スーダン(現スーダン共和国)に目をつけ、1821年に遠征軍を派遣してフンジを滅ぼし、現スーダン共和国の北半分を直接統治下に置いた。この時代は、オスマン・トルコ帝国の支配下にあると言う意味から、トゥルキヤ時代とも呼ばれている。

ムハンマド・アリ支配とその後しばらくの時代は、1826年から1843年にかけて二人の総督が比較的穏便に統治していた時期もあったが、一般的には重い税が課せられ、エジプト政府直営の奴隷交易が行われ、住民が抑圧されていた時代であった。

ムハンマド・アリの孫イスマイル(Ismail;在位1863-1879)は、ウィーンで教育を受けてヨーロッパとの外交に長けた人物で、副王位に就くと、ヨーロッパ諸国から近代技術を導入して経済開発を開始した。白ナイル上流地域の探査・開発については、イギリス人サムエル・ベーカー(Samuel Baker)に依頼し、やがて彼を初代赤道州知事に任命した。ベーカーは1873年まで奴隷交易廃止を積極的に進めた。後継者のチャールズ・ジョージ・ゴードン(Charles George Gordon)も、イスマイルの意に則して赤道州の平定に努めるとともに、奴隷廃止に当たった。彼は1877年にイスマイルによりスーダン総督に任命されたが、1879年にイスマイルが失脚すると、ゴードンも総督を辞任して帰国した。

 

マフディヤ(Mahdiyah)

トゥルキヤ時代は、スーダン国民にとっては伝統的な社会体制が破壊され、経済的には重税に喘ぎ、また宗教的には熱心なイスラム教徒にとりエジプトからもたらされたイスラム教は不順なものに映った。この時、スーフィー教団サマニヤ派の若い聖職者ムハンマッド・アフマド(Muhammad Ahmad)は、1881年に自らがマフディ(Mafdi;正しい道の指導者)であると宣言し、活動拠点の白ナイル川アバ(Aba)島を出てジハッド(jihad;聖戦)を開始した。マフディの支持者達(アンサール;ansar)は、原始的な武装でエジプト軍に対し果敢に戦って圧倒し、破竹の勢いでハルツームに侵攻した。ハルツームには、エジプト政府の役人や兵士らを救出するためにゴードンが再度派遣され、マフディ軍を食い止めるために援軍を派遣するようイギリス政府に要請していたが、遂にイギリス政府からの返答が無いまま戦死し、1885年1月にハルツームは陥落した。

マフディは新しい政権の首都をハルツームの対岸のオムドゥルマン(Omdurman)に置いたが、その半年後にチフスに罹って病死した。彼の後を継いだのは、4人の副官(caliph)の1人のアブドゥ・アッラー(Abd Allah)で、ハリファ(Khalifah)と呼ばれた。彼は政権を維持するためにマフディの親族の力をそぎ、政敵を抑圧した。また、ジハッドを遂行することと、国民の目を内政からそらすという二つの目的で、周囲への軍事侵攻を続けた。しかし、国内の統治が拙劣だったことと、マフディのジハッドを支持した農民、牧畜民、奴隷商人、宗教家といった様々な勢力の間の矛盾が露顕してきたことから、権力は磐石ではなかった。

ハルツーム陥落を黙過したイギリス政府であったが、1896年にマルシャン(Jean-Baptiste Marchand)大佐率いるフランス軍がコンゴを出発し、ナイル川支流のファショダ(Fashoda)村に現れた際は事情が変わった。イギリス政府は既に1875年にエジプト政府が所有していたスエズ運河会社の株44%を、エジプト政府の財政難に付け込んで買収し、1882年にはエジプトに出兵してここを軍事占領していた。今やスエズ運河はイギリスによるインドを主とする帝国経営の生命線となり、それを守るためにエジプトを支配下に治めたが、ナイル川上流をフランスに抑えられることによりイギリス本国とインドとの輸送ルートを脅かされることを恐れたイギリス政府は、ファショダにてフランス軍に防戦することを決定した。そのため1898年にキッチナー(Sir Horatio Herbert Kitchener)将軍率いる6.5万人の精鋭軍を急派した。迎え撃つハリファの軍は6万人であったが、オムドゥルマンの戦いにおいて圧倒的な火力の差にハリファ軍はあっけなく敗退した。キッチナー将軍はそのままファショダまで進軍してマルシャン大佐軍と対峙し、一触即発の危機を経て、本国同士の交渉の結果マルシャンらは撤退することとなった。ハリファは、オムドゥルマン陥落の翌年に掃討戦に敗れて戦死した。

 

 

このホームページはさらに改良を続けていきます。
作者に助言・激励のメールをお寄せください。