音楽で日本とイタリアの懸け橋に〜日本イタリア・オペラ座 総監督・声楽教師 - 大前努

(京都・時代劇ルネサンスプロジェクトHPへの寄稿文)












写真: アンセルモ・コルツァーニ国際イタリア声楽コンコルソ会場にて同僚の審査員と。

左から、
 
ペギー・ブーヴレ(パリ高等音楽院声楽科教授)、
 
大前努、
 
アルド・サルヴァーニョ(イタリア・ピエモンテ・フィルハーモニー管弦楽団、日本イタリア・オペラ座 常任指揮者)

◆イタリア声楽への第一歩


私はイタリア声楽の演奏実技を教えています。生徒の中には職業歌手として国際的な活動を志す人もいます。

私は小さい頃、親が歌好きだったことが影響してか、いつでも歌っているような子供でした。とにかく歌うことが好きで、小学5、6年生の時に合唱団に入り、練習や合唱コンクールの舞台に参加するうちに、「ソロで歌いたい」と思い始めました。その頃はクラシックやポピュラーなど歌のジャンルを区別していた訳でなく、ただ「歌いたい!」という純粋な気持ちだったのです。

中学生の時、クラス担任の先生の紹介で、声楽家の方に個人レッスンを受け始め、高校時代も通い続けて、京都市立芸術大学音楽学部の声楽科に進みました。そこでイタリア語の歌と出会うことになります。

大学2年生の時に池田廉先生(※)のイタリア語の授業を履修したのですが、これがとても楽しい授業で、声楽曲の歌詞になったペトラルカやダンテの詩を読むという内容でした。ペトラルカ研究者である池田先生が原文を丁寧に講読して下さったおかげで、私はいよいよイタリア文学にのめり込み、自分の進むべき道はイタリア語の声楽だと、決意を固めました。

イタリア語文学は他のどのヨーロッパ俗語文学よりも歴史が古い。ですから簡単に言うと、言葉と音楽を渾然一体の形で表現する声楽においても、イタリアには他の国と較べて、はるかに豊かで奥行きが深い実践と教育の伝統があるのです。

しかし、そのことを理論的に認識したのは後の勉学を経てからでした。ドイツ語やフランス語の声楽曲を嫌っていたのではありませんが、当初はイタリア語の歌のほうが自分の気質に合っていると感じ、その演奏に上達したいという思いだけでした。

音楽学部を卒業後、イタリア政府給費留学生としてイタリアに渡りました。


(※) 池田廉(いけだ きよし):イタリア文学者。1950年、京都大学文学部イタリア文学科卒業。1992年、ペトラルカ『カンツォニエーレ−俗事詩片』の完訳により日本翻訳文化賞受賞。2004年、ペトラルカ『凱旋』翻訳。小学館『伊和中辞典』編集委員。

◆イタリア人に学んだ生き方

この給費留学生試験で印象に残っていることがあります。イタリア語で口頭試問の後、審査官のイタリア人女性が、「ああ、この子、本当に勉強したがっているわ!Oh, questo ragazzo vuole studiare veramente!」と隣の審査官に大喜びで言い、私に奨学金をくれたのです。

その嬉しい光景を私はずっと忘れられませんでしたが、イタリアに渡り、現地の人々と長年付き合っているうちに、彼女の言葉の意味が改めて理解できるようになりました。

どういうことかと言いますと、『学業成績の一通り優秀な人が大勢、試験を受けにきている。でも、私たちは政府給費留学生という立派な肩書だけが目当てでなく、本当に自分のやりたいことを強く持った、生命力ある人材を探しているのだ。やっとそのような人が見つかった、ああ、よかった!』という思いが込められていたのです。

現時点での到達だけを比較して切り捨てるのではなく、人物のやる気や熱意から将来性まで見越して、「あなた、ものすごくやりたい事があるのね。じゃあ、やってみなさい!」と励まし、チャンスを与える。それがイタリアという国であり、イタリア人の考え方なんです。

ところで、彼らが長い歴史の中で身につけてきたこのような思考を理解するためのキーワードが一つあります。“modus vivendi”「生きるための方法」というラテン語です。“cercare un modus vivendi”で、「生き残り策、すなわち妥協策を探る」の意味になります。

本来、人それぞれ違いがあって当然。たとえ考え方や利害の違いで敵対する者どうしでも、お互いの存在を認めあう。決して敵を抹殺するのではなく、むしろ尊重し、生かすことによって、自分自身も生き残る道、共存の方法を探ろうとする・・・これは私がイタリア民族の良いと思うところで、彼らから学んだ生き方でもあります。


◆日本史の大舞台としての「京都」

京都は平安京以来の歴史を誇る都市です。私は関東でも声楽を教えており、東京周辺に江戸の名残を訪ね歩くのが好きですが、一般的に神社仏閣は、東京よりも京都のほうが重厚で奥ゆかしい雰囲気が漂っているように感じられます。東京の歴史的建造物は、江戸時代からの度重なる火事、それに震災や戦時中の空襲で、多くが壊滅し、比較的最近に復元されたため、新しく小ぢんまりした造りに見えるのでしょうか。

また、京都には大政奉還の舞台となった二条城、大河ドラマ番組で話題の坂本龍馬、あるいは新撰組ゆかりの史跡などがあり、歴史を動かす様々な事件が起き、中心人物が活躍した場所です。『水戸黄門』でおなじみの徳川将軍家の御紋も、その起源は賀茂神社の葵に通じており、織田信長といえば本能寺が出てくる。これほど、日本全体の歴史を学ぶ「きっかけ」に満ち溢れた町は、他にないでしょう。

私も、桂離宮でよく知られた京都市内、桂の生まれです。ただ、私自身は、「京都人」と名乗ることは重荷なので、差し控えています。「自分は京都人だ」との発言は、「日本の他の地域の人とは違う何かを持っている」との主張を、どうしても含んでしまいそうだからです。

イタリアでは弦楽器製作で有名なクレモナに住んでいましたが、イタリア人が「自分はクレモナ人だ」「ローマ人だ」などと言うとき、彼らはその土地の方言を話せて、自分の町に固有の歴史や文化を熟知しています。ほかならぬ「クレモナ人」なり「ローマ人」のアイデンティティーとは何かを、よそのイタリア半島人に対して誇りをもって説明できるのです。イタリアのカンパニリズモ(郷土愛)と言われるものです。イタリア人である以前に、クレモナ人、ローマ人、ヴェネツィア人なんだと、出身地への帰属意識が強い人は今も確かに多い。

私も自分の生まれ育った町である京都には、一定の土地鑑があります。旅行者が訪れる名所をはじめ、京都の事を大雑把に知ってはいます。でも、「京都人のアイデンティティー」が果たしてあるかと問われれば、「探したけれど見つからない」と答えてしまいそうです。

方言に関しても、私はいわゆる「京ことば」を話せません。そもそも、京都のアイデンティティーを語れる生粋の「京都人」は、数世代前ならともかく、今日では希少であるようにもうかがっています。私の文化的アイデンティティーは、「イタリアと日本のあいの子」くらいとせざるを得ないでしょうか。どうやら自分自身の中でも“modus vivendi”を実践しているようです(笑)。


◆京都は日本人とイタリア人両方にとって憧れの町

とはいえ、京都に生まれ住んだことは、それなりに幸運だったかもしれません。さきほど申しましたように、私は関東で声楽を教えていますが、向こうの生徒たちと話していると、京都の都市伝説がいろいろと出てきます。

ある生徒は目を輝かせて得意げに言いました。「先生は京都の人だから、今年も仁和寺の桜を見ないと義理が果たせませんね!」と。実は、JR東海が『そうだ京都、行こう』と題し、新幹線で京都に旅しようといったキャンペーンを実施していて、御室の仁和寺がコマーシャル材料になったのです。そこで川端康成の小説『古都』の文章が紹介され、京都人が御室の桜について「面白いこと」を言います。つまりナレーターが関西人の抑揚をまねて、「御室の桜も一目見たら、春の義理が済んだようなもんや」と引用文を読んでから、「春の義理か・・・。ここの桜を見ずに春は越せないものらしいです」と言い添える。

私は京都にいながら、「仁和寺の桜を見て今年も義理を果たせた」という話は聞いたことがありません。川端康成とJR東海、それから仁和寺さんには大変申し訳ありませんけれども。でも、京都や関西から遠い地方の人ならば、小説『古都』の一節を聞いて未知の京都に憧れの気持ちが募り、今も京都の住民はそれが普通なのだ、と信じてしまうこともあるわけです。

他の生徒からは真顔でこう訊かれました。「京都では、家に上がるように勧められても最低三回は断ってみて、なおかつ勧められるまで、上がっちゃいけないんでしょう?」と。そこで私が、「すると、本当にすぐ上がってほしい客でも、最低四回は勧めねばならないよね?」と返して、笑い話になったのですが。とにかく京都は彼らにとっても何か特別な町で、そういう伝え話が鮮明に頭に残るらしいのです。

静岡市内、清水の港町に行った時、ある観光施設で係の人がとても親切に案内してくれました。そして「どちらからお越しですか?」と聞くので、「京都です」と私が答えると、とたんに、清水よりずっと歴史のある京都から来られた方に、清水次郎長の自慢話をしてしまった、と恐縮されました。私のほうこそ、物語の次郎長親分や森の石松に惹かれて清水を訪れたのですが。他の地域の人が京都をどう見ているかの一例です。

私の経験では日本国内ばかりか、イタリア人の間でも「キョート」が関心の的でした。留学中は大学や図書館に通っていましたので、周りには日本のファンや物知りさんも多く、私が日本人留学生だと知るや、日本の話題で盛り上がります。彼らは、「日本に行ったら、どの町よりも先に京都を訪れたい」と口を揃えて言います。さらに私が京都出身だというと、「普通の日本人ではなく由緒正しいサムライ」とか、「真正の日本人」などと奇妙なレッテルを張られたりして、それもかえって愉快でした。


◆文化的な相互理解の大切さ

しかし、多くのイタリア人にとって、日本のイメージはいまだに「フジヤマ」「ゲイシャ」です。以前、イタリア国営放送のRAI 3が『ちょっと旅行者になってみた Turisti per caso』というシリーズ番組で日本を紹介していました。イタリア人カップルが日本各地を訪問し、京都では舞妓さんに会ってインタビューをするのです。イタリア人女性がそこで舞妓さんに向かい、「この仕事は一体何なのですか?どうしてあなたたちは、そんなことをしているの?」と質問し、舞妓さんが返答に窮するような場面がありました。舞妓さんたちにしてみたら、いろいろ自分の仕事を説明、披露したばかりなのに、一体どう答えてよいのやら・・・という心持だったのでしょう。

しかし、イタリア人が質問をした背景には二つのことがあります。一つは、普通のイタリア人ならば京都の「舞妓」が何かを知らず、舞妓も芸妓も等しく「ゲイシャ」だと思い、「ゲイシャ=娼婦」だと信じている人すらいる。この番組のカップルも、実際にそう思い込んで舞妓さんに接していました。もう一つは、イタリア人が「あなたの仕事とは一体何なのですか?どうしてそれをしているのですか?」と聞くときは、「どんな哲学を持って、その仕事をしていますか?」という意味。ですから番組のインタビューでは、「あなたは公認の娼婦などという職業を選んだわけだけれども、どんな哲学・人生観を抱いてのことですか?」と、いかにも西洋人らしい問いかけだったのです。その答えも要領を得ないのですから、コミュニケーションが成り立ちませんでした。お互いに相手の文化をよく知らないと、こんなことが起こるのだなあと、私も感心しながら見ていましたが。


◆日本でイタリア歌唱の世界標準を


今は昔と違って飛行機もインターネットも使える。つまり、世界で何が起こっているかが、ほとんどリアルタイムで分かり、遠隔地への移動や国際的な交流もいくらか簡単になっています。イタリア声楽の演奏能力は世界標準、グローバル・スタンダードが求められます。ロンドンでも、パリでも、ニューヨークでも、シドニーやソウルに行っても、イタリアのオペラは上演されていて、鑑賞の玄人ともいえるファンがいます。つまり、本当の国際人でなければ、イタリア語のオペラは歌えません。

ドイツ人やアメリカ人でも、イタリアオペラの舞台で世界的に活躍する人はたくさんいます。自国でオペラを学び終え、イタリアをはじめ、世界の劇場でデビューする人たち。同じことが日本で出来ないはずはなかろうと、私は楽観したいのです。この日本列島の上で歌を教え、世界に通用する日本人演奏者を育てたい。なぜなら、グローバル・スタンダードの技量で歌える人なくして、日本におけるオペラの普及はありえない。また、世界中で最も多くの人たちが歌い、聴いているイタリア語そして音楽作品でもあるオペラ、これが日本で普及しなければ、イタリア語文化全体も普及・定着しえないわけですから。

歌手の大前努が独力で出来ることは限られているかもしれない。しかし、声楽教師としてイタリアで学んできたことを後進に伝え、そうして仮に30人の歌手が育てば、自分の理想どおりのオペラ上演もできるだろう。その意気込みで、私はこれからも、日本でのイタリア声楽教育に全力を尽くしたいと考えています。



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大前努(おおまえ つとむ) プロフィール

声楽教師。イタリア政府給費留学生に選ばれ、イタリアに渡る。
ステファノ・ジネヴラ氏(クレモナ国際声楽アカデミー主宰)に師事。
ヨーロッパ各地で独唱歌手として演奏活動を行いながら、音楽文献学の研究に携わる。
2000年、ヴェルバニア国際音楽コンクール声楽部門第二位。
同年、ヴァラッツェ・フランチェスコ・チレア声楽コンクール入賞。
2002年、国立パヴィア大学音楽学専攻課程を修了し、日本人では初めて、
イタリア音楽学の学位(Laurea in musicologia)を授与される。
専門領域はイタリアの伝統音楽全般と、特に声楽実践教育史。
帰国後、京都市立芸術大学大学院で博士(音楽学)学位を取得。
オペラ歌手や指揮者などイタリア人音楽家による声楽実技講習会や、
音楽学者の講演会を数多く企画・実行し、
日伊両国の音楽文化交流に取り組んでいる。
日本イタリア声楽教育アカデミー代表。日本イタリア・オペラ座 総監督。
アンセルモ・コルツァーニ国際イタリア声楽コンコルソ日本会場審査員長。


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