戸田城聖全集 第5巻講義編T より転載
  (写真は創価学会HPより転載)


法華経というものが、何のために説かれたのかということを、根本的につかんでいませんと、法華経は読めないことになるのであります。法華経には、御本尊のお姿やお力が書かれているのであります。御本尊を大空中に示し、われわれの生命の中に大御本尊をこしらえるように、したためるように、教えてあるのが法華経なのであります。そこが根底になるのであります。しかし、だれも書きあらわしません。しかし、この法華経二十八品は、御本尊の姿の説明、力の説明以外のなにものでもないのであります。
 方便品の大事なところは、諸法実相であります。あらゆる経典のなかにも、実相という言葉があります。仏、釈尊という言葉にも六種類あると申しましたが、実相という言葉にも、ただありのままの姿だと、こう読んでいく低い経文と、この文底深秘の釈尊が顕れ終われば、諸法実相の実相は、御本尊になるという経文もあります。その御本尊のなかに、十如是の力も入っております。姿もあります。十界互具の姿もあります。
 みな御本尊のなかに、ことごとく納め尽くされているのであります。しかも、その御本尊は常住なのであります。寿量品の自我偈に、「一心欲見仏、不自惜身命、時我及衆僧、倶出霊鷲山、我時語衆生、常在此不滅」とある、あのなかに、またこの十如是のなかにも全部、御本尊の御姿がしたためられているのであります。これを書きあらわすものがない。すっかり仏の姿を説いてあるのだけれども、ただ不思議と申しまして、天台、妙楽の一門は、摩訶止観と申しませて、自分の生命のあり方を思索して、そこから、観念観法といいますが、御本尊を自分の胸につくりあらわすのであります。これはなかなかできないことであります。しかし、以前に釈迦にあって、あるいは前世で法華経にあって、仏の姿を見てきた人たちは、ここにおいて教えられることによって、観念観法の方程式によって、胸のなかにそろそろと仏の姿、今の御本尊が胸のなかに浮かんでくるのであります。しかし、これは仏像の仏ではないのであります。
 日蓮大聖人の御書を拝しますれば、南岳にしても、天台、妙楽にしても、南無妙法蓮華経というものを知っておった。なぜ説かなかったかといえば、仏の付嘱がない、時ではない、人々に機根もない、説く生命力もない、ゆえに説かなかったのであります。
 ところが末法今時になって、御本尊を書きあらわす日蓮大聖人が出られた以上には、そういう偉大な資格をもって出られたのであります。そして観念観法もいらない、摩訶止観も読む必要ない、ただ南無妙法蓮華経を唱えておれといわれるのであります。正像時代には、過去世の縁をもって、また今世の修行によって、ここに仏像(本尊)を造りあらわすことができたけれども、こんどは、そんなことをしないでいいのであります。御本尊を拝んで南無妙法蓮華経を唱えることによって、わが生命のなかにずーと御本尊がしみわたってくるのであります。目を開いて大宇宙を見れば、そこに御本尊がいまし、また、目を閉じて深く考えうれば、お山の御本尊が明らかに見え、わが心の御本尊が、そこにいよいよ力を増し、光をましてくるのであると、こう教えられているのであります。・・・・


諸法実相について・・・諸法実相抄 p.1358

すべての事象(諸法)がことごとく究極の真理(実相)、すなわち妙法蓮華経の姿である。
妙法蓮華経こそ、地涌の菩薩が末法において弘めるべき大法である。
そして、妙法蓮華経の当体である凡夫こそが本仏であり、万人が妙法蓮華経の当体であると教えるために諸法実相が説かれた。
未来にわたって妙法を伝えていくために「虚空会の儀式」があった。