御書発刊の経緯(創価学会のホームページから転載しました)

日蓮大聖人の正統の仏法を受け継がれた日興上人は、各地に散在していた大聖人の著作の収集につとめられ、「御書」と呼んで尊重されました。
そして将来、御書を軽視して大聖人の教えを軽んじることがないよう、「大聖人直系の日興門流にあっては、御書を心に刻んでいきなさい」(御書1618ページ、趣意)と遺言されました。
しかし、長い間、本格的な御書全集は出版されることはありませんでした。他の日蓮宗系から発刊された御書はあっても、内容に間違いや不備が多く、重要な御文を欠いていたりと不完全なものばかりでした。
そこで戸田第2代会長が、会長に就任して1カ月余りの1951年(昭和26年)6月に、『日蓮大聖人御書全集』の発刊を発願しました。
小説『人間革命』(第5巻)に、当時の状況が次のようにつづられています。
「全御書の編纂は、容易ならぬ大事業といってよい。編纂よりも、さらに困難に思われることは、刊行についての経済的基盤がまったくないことであった。・・・・・・戸田城聖は、日蓮大聖人の御遺文のすべてを編纂し、発刊することによって、大聖人の御相伝をはじめとする深秘な法門が、他宗に汚されることなく、正法をまさしく正法として永遠に伝えることを決意していた」
当時、学会員はわずか数千人。人員、時間、資金など、すべてが困難を極める状態でした。そうしたなかで、若き日の池田名誉会長は、戸田会長の事業の一切の責任を担い、御書発刊という師の聖業を、陰で黙々と支えたのです。
ところが、戸田会長が御書の発刊を提案するや、当時、大石寺の梵鐘の鋳造に力を注いでいた宗門は、"御書の出版は了承するが援助はしない"という対応をしてきました。
大聖人の御精神を誤りなく伝え、広宣流布を成し遂げようとする戸田第2代会長と創価学会に対し、当時の宗門は、寺の形式と権威を取り繕うことを最優先としたのです。
そのなかで、ただ一人、学会と共に御書の編纂に尽力されたのが堀日亨上人でした。日亨上人は古文書研究の大学者で、60年余りにわたる研鑚の成果を注がれました。そして、膨大な校正作業、資金の調達などすべては学会の手で行われたのです。
こうした労苦と困難を乗り越え、立宗700年の1952年(昭和27年)4月28日、10カ月余りという短期で、大聖人の御真意を余すところなく伝える『日蓮大聖人御書全集』が完成したのです。
戸田会長は発刊の辞で、「この貴重なる大経典が全東洋へ、全世界へ、と流布して行く事をひたすら祈念して止まぬものである」とつづっています。
恩師・戸田会長のこの念願を、そのまま実現してきたのが池田名誉会長です。御書発刊から50周年の今日、人間主義の仏法は180カ国・地域へと広がり、御書は英語、中国語、フランス語など各国語に翻訳され、世界の友が大聖人の仏法を御書を通して学び、実践しているのです。