戸田城聖全集 第6巻 講義編U P.190より転載
・・・吾人がいま持つところの肉体そのものが、子供の時より老人にいたるまである傾向にしたがって変化するごとく、われらの今日の肉体と精神とが永遠に変化して実在することが、法報応三身の常住で無始無終の生命観である。
まずわれらの肉体の変化について観察してみよう。
われわれは一瞬一瞬に肉体的にも精神的にも変化しつつ、運命のコースをたどっている。
精神的な問題と運命的な問題は別にして、肉体の問題のみを論ずるならば、一瞬一瞬に細胞の増衰が行われて、そして7年間するならば生理学上、目の玉の芯から骨の髄の細胞まで一新するのである。
この肉体の変化は、精神とか運命とかを根本として変化したものではなくして、われらの精神自体の働きによって変化してきたものである。
その生命というものに、一貫した傾向をみることができる。
もし生命すなわち変化させる根本の原動力に定まった一つの傾向および本質がないとするならば、7年間の変化のなかに長い指が短くなったり、目が小さくなったり、形が変わって鼻の低いのが高くなったりするはずなのに、だいたい赤ん坊の時を規準とした細胞の増衰に過ぎない。
しかも三十の時に何かの事件を起こしたとして、それに対する責任は法律に関するとせぬとにかかわらず、四十になっても五十になっても、負わされていることは事実である。
たんに肉体論からいうならば、三十七になればぜんぜん別な肉体になっている。
七年前の責任を負う必要がなくなるのではないか。忘れたということよりは没交渉になってよいはずである。
いかんとなれば脳の細胞も一変しているからである。
しかるにその責任はぜんぜん別個になった肉体がこれを負い、またその責任を感ずるのである。
これは生命の連続は肉体と精神活動とを同じくその連続に関連をもたしているからである。
生命とは心肉不二にして肉体にも非ず心にも非ず、しこうして肉体と精神にたえず反応を与えるものである。
目に見ることもなくして存在し、しこうして目に見える肉体と精神と運命とに強くはっきりとにじみ出るものである。
われわれの生命は永遠であるとすれば、この世の中で死んでまた次の世で生命の活動がなければならぬ。
他の宗教では次の世の生命活動を西方の浄土世界とか、天上界とかいうような架空の世界観をつくってそこで生きているという。
これは法身論の生命観であって事実の生命観ではない。次の世に生まれてくる世界はわれらが今日生活していると同様の娑婆世界である。
しからば世間にいう生まれ変わってくるというあのことかと思うであろう。
事実はごく似たものであるが、生まれ変わるとなれば、ぜんぜん別個の人間とも考えられる。
しかしぜんぜん別個ではありえないのである。
では同じ人間かというに同じ人でもないのである。
あたかも七歳のAなる人と、四十歳のAなる人とは物質構成、精神活動、運命等はぜんぜん別個でありながら、七歳のAと四十歳のAとが、同一なりと断ずるがごときものなのである。
今世のAと来世のAとは生命の連続においては同一生命の連続であって、肉体にもせよ、精神にもせよ、運命にもせよ、今世のそのものではないことはもちろんである。
それは七歳のAの場合と四十歳のAの場合と同様である。
七歳のAが四十歳にいたるまで生命の連続であると同様に、肉体も精神も運命も変化の連続をなしたごとく、今世の生命が来世の生命にいたるとしても、今世の肉体、精神、運命が来世へと変化の連続をなすことは当然なことである。
ここに大きな疑問が一つ生じる。
死んで火で焼いて粉にしてなくなった肉体が、死後までその肉体の連続であるということはありえないのではないかということである。
そこで肉体にもせよ、精神にもせよ、運命にせよ、目に見ることのできない、しかも厳然たる存在の生命の反映であるとさきに述べたことを記憶より呼び覚ましてもらいたい。
さてそのまえにいかような状態において生命が来世に連続するかという問題と述べてみよう。
われらが死ねば肉体の処分にかかわらず、われらの生命が大宇宙の生命へとけ込むのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である。
この大宇宙の生命体へとけ込んだわれわれの生命はどこにもありようがない。
大宇宙の生命それ自体である。これを空というのである。
空とは、存在するといえばその存在を確かめることができない、存在せぬとすれば、存在として現れてくるという実体をさしてているのである。
「有る」「無い」という二つの概念以外の概念である。
たとえてみれば、「あなたは怒るという性分をもっていますか」と問われたときに、「もっております」と答えたとする。そんなら「その性分を現してみせてください」といわれても、現しようがないから、「無い」と同様である。
「有りません」と答えたとしても、縁にふれて怒るという性分が現れてくる。
かかる状態の存在を空というのである。
われらの死後の生命もこの空の状態の存在である。
されば縁にふれて五十年、百年または一年後に再びこの娑婆世界に前の生命の連続として出現してくるのである。
さてその生まれ出た肉体は過去の生存、過去の死の状態をとおして連続してきた生命を基として、宇宙の物質をもって構成されてくる。
時間的の差異はあったとしても生命が連続である以上、肉体も精神も運命も過去世の生存の連続であると断ずることができるのである。
あたかも碁を打つ人が、一日打って半局面しか打ち切れない。そして明日にしようということになって碁石をバラバラにしてしまって、もとのように箱に納めてしまう。次の日、二人がまた碁盤を囲んで昨日打ち終わったところまで、昨日と同様に白黒と碁石を配置する。そして昨日の続きを打っていくようなものである。
生命が過去の傾向を帯びて世に出現したとすれば、その傾向に対応して宇宙より物質を聚(あつ)めて肉体を形成する。
ゆえに過去世の連続とみなす以外にないのである。
かくのごとく現在生存するわれらは死という条件によって大宇宙の生命へとけ込み、空の状態において業を感じつつ変化して、何らかの機縁によってまた生命体として発現する。
かくのごとく死しては生まれうまれては死し、永遠に連続するのが生命の本質である。