個々の生命は過去・現在・未来の三世にわたり、迷いと苦悩の種々の境涯を経巡っていくという思想。
自身の身口意の三業(自身の身体的行為、発言、思考、感情)の報いとして、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道に生じることを繰り返すとされ、業報輪廻、六道輪廻ともいう。
戸田城聖全集 第6巻 講義編U ・・・詳細
われらが死ねば肉体の処分にかかわらず、われらの生命が大宇宙の生命へとけ込むのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である。
この大宇宙の生命体へとけ込んだわれわれの生命はどこにもありようがない。
大宇宙の生命それ自体である。これを空というのである。
空とは、存在するといえばその存在を確かめることができない、存在せぬとすれば、存在として現れてくるという実体をさしてているのである。
「有る」「無い」という二つの概念以外の概念である。
たとえてみれば、「あなたは怒るという性分をもっていますか」と問われたときに、「もっております」と答えたとする。そんなら「その性分を現してみせてください」といわれても、現しようがないから、「無い」と同様である。
「有りません」と答えたとしても、縁にふれて怒るという性分が現れてくる。
かかる状態の存在を空というのである。
われらの死後の生命もこの空の状態の存在である。
されば縁にふれて五十年、百年または一年後に再びこの娑婆世界に前の生命の連続として出現してくるのである。
さてその生まれ出た肉体は過去の生存、過去の死の状態をとおして連続してきた生命を基として、宇宙の物質をもって構成されてくる。
時間的の差異はあったとしても生命が連続である以上、肉体も精神も運命も過去世の生存の連続であると断ずることができるのである。
あたかも碁を打つ人が、一日打って半局面しか打ち切れない。そして明日にしようということになって碁石をバラバラにしてしまって、もとのように箱に納めてしまう。次の日、二人がまた碁盤を囲んで昨日打ち終わったところまで、昨日と同様に白黒と碁石を配置する。そして昨日の続きを打っていくようなものである。
生命が過去の傾向を帯びて世に出現したとすれば、その傾向に対応して宇宙より物質を聚(あつ)めて肉体を形成する。
ゆえに過去世の連続とみなす以外にないのである。
かくのごとく現在生存するわれらは死という条件によって大宇宙の生命へとけ込み、空の状態において業を感じつつ変化して、何らかの機縁によってまた生命体として発現する。
かくのごとく死しては生まれうまれては死し、永遠に連続するのが生命の本質である。