師弟不二

「大白蓮華」2006.6より転載
仏法で説く師匠とは、衆生に、自らの拠り所とすべき「法」が自分自身の中にあることを教えてくれる存在である。法を体現した師匠、法と一体となった師匠を求め、その師匠を模範と仰いで弟子が実践していく。そのとき、はじめて「心の師」となる生き方が実現するのです。
言い換えれば、私たちの一生成仏には、衆生の持つ「心の可能性」がどれだけ広いかを教え示す、「法の体現者」であり「法と一体化」した「師」の存在が不可欠となるのです。
私も、現代において日蓮仏法の広宣流布に生き抜かれた戸田先生という如説修行の師匠がいて、自分自身があります。私の胸中には、いつも「心の師」である戸田先生がいる。今も日々、瞬間瞬間、胸中の師と対話しています。これが「師弟不二」です。
常に、自分の心に、「心の師」という規範を持ち、「心の師」の説の如くに戦う人が、「法根本」の人です。
日蓮仏法は、どこまでも「師弟不二」の宗教です。法華経もまた師弟不二の経典です。


法華経の精髄は「師弟」    「大白蓮華」2007.4より転載

一般に「師」とは、より熟練した技術、より深い知識、より高い生き方、より豊かな境涯等を教えてくれる人です。人は、何らかの意味で自分を高めてくれる存在を「師」と仰ぎます。
仏法においては、師である仏は、自らが開悟した「法」に基づいて成就した尊極の人間性へと、弟子も共に高めようとします。その「法」とは、弟子たちにとって、無明によって覚知を妨げられ、経験したことのない「妙法」です。それゆえに「法とはこのようなものである」という理論的な教法や、「煩悩を乗り越えなさい」というような実践的な教法を教えられても、その教えの言葉だけでは仏の境涯が伝わるわけではありません。
むしろ、教えの言葉とともに、仏との人格的触れ合いによって触発されることによって、我が内なる「法」を覚知することができるのです。これが「法が伝わる」ということです。
師弟の「人間」対「人間」の絆を通してのみ「法」は伝わり、「法」に基づく人間革命が可能になるのです。
仏法は人間を離れた超越的存在、神秘的な存在として「師」を立てることはありません。


ガンジーの直系の哲学者ラダクリシュナン博士   「聖教新聞」2007.4.6より転載

真の師匠に「死」というものはありません。師の魂を受け継いだ、真正の弟子の行動の中に生き続けるからです。