そもそも「妙」とは、どのような意味であろうか。それはただ、自身の一念の心が不思議であることを「妙」というのである。不思議とは、私たちの心の働きも及ばず、また、言葉でも表せないということである。
すなわち、瞬間瞬間起こっている自身の一念の心を探究してみると、それを有ると言おうとすれば色も形もない。また、無いと言おうとすれば様々に心が起こってくる。有ると考えるべきでもない。無いと考えるべきでもない。有と無の二つの言葉では表せず、有と無という二つの考えでも理解できない。
有と無のどちらでもなく、しかも、有か無かのいずれかの姿をとるという、中道にして普遍究極の真理のままの姿であり、不思議であるその在り方を「妙」と名づけるのである。
この「妙」である心を名づけて「法」ともいうのである。
この法門の不思議を譬喩で表すのに、具体的な事物になぞらえて「蓮華」と名づける。
一つの心を妙と知ったならば、さらに転じて、そのほかの心もまた妙法であると知ることを「妙経」というのである。
したがって法華経は、善であれ悪であれ、一瞬一瞬に起こる一念の心の当体を指して、これが妙法の体であると説き宣べている経王なので、成仏の直道と言うのである。