そもそも「妙」とは、どのような意味であろうか。それはただ、自身の一念の心が不思議であることを「妙」というのである。不思議とは、私たちの心の働きも及ばず、また、言葉でも表せないということである。
すなわち、瞬間瞬間起こっている自身の一念の心を探究してみると、それを有ると言おうとすれば色も形もない。また、無いと言おうとすれば様々に心が起こってくる。有ると考えるべきでもない。無いと考えるべきでもない。有と無の二つの言葉では表せず、有と無という二つの考えでも理解できない。
有と無のどちらでもなく、しかも、有か無かのいずれかの姿をとるという、中道にして普遍究極の真理のままの姿であり、不思議であるその在り方を「妙」と名づけるのである。
この「妙」である心を名づけて「法」ともいうのである。
この法門の不思議を譬喩で表すのに、具体的な事物になぞらえて「蓮華」と名づける。
一つの心を妙と知ったならば、さらに転じて、そのほかの心もまた妙法であると知ることを「妙経」というのである。
したがって法華経は、善であれ悪であれ、一瞬一瞬に起こる一念の心の当体を指して、これが妙法の体であると説き宣べている経王なので、成仏の直道と言うのである。
一心法界
<通解>
法華経は、文も法理も真実で正しい経の王であるので、経文の文字はそのまま実相であり、実相はすなわち妙法である。
結局、一心法界の法理を説き顕わしている教えを妙法と名づけるのであり、ゆえにこの法華経を諸仏の智慧というのである。
一心法界の法理についていえば、十界・三千における依報も正報も、色法も心法も、非情の草木も、また大空も国土も、どれ一つとして除かず、微塵も残さず、すべてを自分の一念の心に収め入れ、また、この一念の心が宇宙のすみずみにまで行きわたっていく。そういうさまを万法を言うのである。この法理を覚知することを一心法界ともいうのである。