一念三千  創価学会のホームページより転載(以下同様)

日蓮大聖人が、末法万人の成仏のために南無妙法蓮華経の御本尊を御図顕された理論的支柱の一つです。
一念三千とは、法華経に説かれている一切衆生の成仏の原理を、中国の天台大師が『摩訶止観』のなかで、体系化して説明したものです。
「一念」とは、私たちの瞬間瞬間の生命のことです。この一念に、すべての現象、働きを意味する三千の諸法が具わっていることを説いたのが一念三千の法理です。
「三千」とは、十界互具と十如是、そして三世間を合わせて総合したものです(百界×十如是×三世間=三千)。十界と十如是と三世間という、それぞれ異なった角度から生命をとらえた法理を総合し、私たちの生命の全体観を示したものです。


九   識 三  世  間 十  如  是 十   界
九識 八識 七識 六識 五識 国土世間 衆生世間 五陰世間 如是本末究竟等 如是報 如是果 如是縁 如是因 如是作 如是力 如是体 如是性 如是相 菩薩 縁覚 声聞 修羅 畜生 餓鬼 地獄
阿摩羅(アマラ)識 阿頼耶(アラヤ)識 末那(マナ)識 寂光土 実報土 方便土 方便土 宮殿 大地 海の畔 水陸空 閻浮の下 赤鉄
八識に刻まれたさまざまな業をも浄化し変えていくことができる 清浄無垢の生命領域。仏によって覚知される領域 善悪問わず、どのような行為の結果もそのまま刻まれている 菩薩界の境涯において自覚される領域 深層のエネルギーと表層の生命との間に無限の往還がなされていく 貯えられた業のエネルギーが表層の生命に影響を与える 永遠の過去以来の一切の行為(業)の潜在的影響力が刻まれ、貯えられる生命領域 生命の表面と潜在の両者にまたがる過渡的な領域 潜在的な作用であり、無意識的・深層的な自我意識 自我に対する強い執着を持っている 真理をつかもうとする二乗の境涯において自覚される働き 五官を通して入ってくる外界の情報を統合して認識する働き 五官の働きによる認識作用 衆生の生命境界に応じて十界の差異が現れること 五陰が仮に和合した統一体が衆生であり、衆生に十界の差異があること 認識・識別する心 知覚し想い浮かべたものを、行為へと結びつける意思や欲求の働き 受け入れたものを心に想い浮かべる働き 六根を通して外界や内面の物事を受け入れる知覚の働き 生命体を構成する物質 相から報までの九如是が十界の統一性を保っている その結果が形に現れたもの 因と縁が和合して生じた直接的な結果 内・外にわたる変化の補助的原因 生命自身のなかにある変化の直接的原因 内在している力が外界に現れた作用 内在している力、潜在低能力 相・性をともに具えた主体または本体 内にある性質・性分 表面に現れた姿・形 根源の法を悟り慈悲と智慧で活動 人・法のため使命感で行動。慈悲 事象を縁として自らの力で一分の悟りを得る 仏の教えを聞いて一分の悟りを得る 喜びの境涯 穏やかで平静な生命状態 他者に勝ろうとする。へつらう 理性が働かない。愚か 欲望が満たされない。貪る 苦しみに縛られる。怒り
臓器 細胞 蛋白質 アミノ酸 原子 陽子 クオーク
中性子


十界とは

「十界」とは、生命の境涯を、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の十種に分類したもので、仏法の生命観の基本となるものです。このうち地獄界から天界までを「六道」、声聞から仏界までを「四聖」といいます。
「六道」とは、もともとは生命が流転する世界を六つに大別したもので、インド古来の世界観を仏教が用いたもので、「四聖」とは仏道修行によって得られる境涯です。
法華経以外の経典では、地の下に地獄があると説いたり、遠く離れたところに浄土(清らかな国土)を求めるなど、十界は全く別々に存在する世界としてとらえられていました。
しかし法華経では、その考え方を根本的に破り、十界は固定的な別々の世界としてあるのではなく、一個の生命に具わる十種の境涯であることを示したのです。したがって、十界のいずれか一界の姿を現している生命にも十界がすべて具わっており、他の界の境涯をも現しうることが明らかになります。これを十界互具といいます。日蓮大聖人は、「浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う」(御書1504ページ)と述べられています。
生命に十界がすべて具わっているということは、たとえ今の自分が地獄の苦しみの生命であっても、仏界の大歓喜の生命へと変革していくことができるということです。このように法華経に基づく十界論は、自身の生命を変革できることを示す原理となります。


六道

十界のなかで地獄界から天界までを「六道」といいます。
地獄界は、苦しみに縛られた最低の境涯です。「地」は最低を意味し、「獄」は拘束され、縛られた不自由さを表します。餓鬼界は、常に飢えて食物を欲するように、欲望が満たされずに苦しむ境涯です。畜生とは、もともとは獣や鳥などの動物を指します。畜生界の特徴は、目先の利害にとらわれて理性が働かず、本能のままに行動してしまう境涯です。地獄界・餓鬼界・畜生界の三つは、いずれも苦悩の境涯なので「三悪道」といいます。
修羅とは、もともとは阿修羅といい、争いを好むインドの神の名です。自分を他者と比較し、常に他者に勝ろうとする「勝他の念」を強くもっているのが修羅界の特徴です。この修羅界は自我意識が強い分だけ三悪道を越えているといえますが根本は苦しみを伴う不幸な境涯なので、三悪道に修羅界を加えて「四悪趣」ともいいます。
人界は、穏やかで平静な生命状態にあり、人間らしさを保っている境涯をいいます。天界は、欲望を満たした時に感じる喜びの境涯です。以上の地獄界から天界までの六道は、結局、自身の外の条件に左右されています。たまたま欲望が満たされた時は天界の喜びを味わったり、環境が平穏である場合は人界の安らぎを享受できますが、ひとたびそれらの条件が失われた場合には、たちまち地獄界や餓鬼界の苦しみの境涯に転落してしまいます。環境に左右されているという意味で、六道の境涯は本当に自由で主体的な境涯とはいえないのです。


四聖

自身の外の条件に左右される六道に対して、六道の境涯を越え、環境に支配されない主体的な幸福境涯を築いていこうとするのが仏道修行であり、それによって得られる境涯が声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖の境涯です。
声聞界とは、仏の教えを聞いて部分的な悟りを獲得した境涯をいいます。縁覚界とは、様々な事象を縁として、自らの力で仏法の部分的な悟りを得た境涯です。声聞界と縁覚界の二つを「二乗」と呼びます。二乗が得た悟りは、仏の悟りから見れば、あくまでも部分的なものであり、完全なものではありません。また、二乗は自らの悟りのみにとらわれ、他人を救おうとしないエゴイズムに陥りやすい面があります。こうした「自分中心」の心があるところに二乗の限界があります。
菩薩とは、仏の悟りを得ようとして不断の努力をする衆生という意味です。また仏の教えを人々に伝え弘めて人々を救済しようとします。二乗が「自分中心」の心にとらわれて低い悟りに安住していたのに対して、菩薩界は「人のため」「法のため」という使命感をもち、行動していく境涯です。
仏界は仏が体現した尊極の境涯です。仏(仏陀)とは覚者の意で、宇宙と生命を貫く根源の法である妙法を覚った人のことです。仏界とは、自身の生命の根源が妙法であると悟ることによって開かれる、広大で福徳豊かな境涯です。この境涯を開いた仏は、無上の慈悲と智慧を体現し、その力で一切衆生に自分と等しい仏界の境涯を得させるために戦い続けます。


十界互具

十界は、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10種類の生命の境涯のことです。
これら10種の生命境涯は、十界のいずれの衆生にも欠けることなく具わっています。すなわち、人界の衆生にも、地獄界の衆生にも、菩薩界の衆生にも、それぞれ十界の生命が具わっています。このように、十界のおのおのの生命に十界が具していることを「十界互具」といいます。
法華経以外の諸経では、十界は相互に隔てられた全く別々の世界として固定化されてとらえられていました。その考え方を根本的に乗り越え、十界のいかなる衆生も仏界を顕わし成仏する可能性をもっているとの変革の可能性を説いたのが、法華経の十界互具です。
「三千」の数量を構成する要素として見れば、十界互具は、十界のおのおのに十界が具わるので「百界」と示されます。


十如是

十如是とは、十界の衆生に共通して具わる、生命の10種類の側面を示したものです。地獄界であれ仏界であれ、十界のいかなる衆生・環境も等しく十如是を具えています。
私たちが、日々読誦している法華経方便品第二に、次のように示されています。
「唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂る諸法の、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」
個々に説明すると、如是相の「相」とは、表面に現れた姿、形です。
「性」とは、内にある性質・性分です。
「体」とは、主体または本体。
この相・性・体の三如是は、現象の本体部分です。そして、以下の各如是が、機能面を表わしています。
「力」とは、内在している力、潜在的能力。
「作」とは、内在している力が外界に現れた作用。
いわば「力」と「作」は、潜在と顕在の関係です。次の因縁果報は、生命が変化していく因果の法則を示しています。
「因」とは、結果を招く、変化の直接的原因。
「縁」とは、結果を招く、変化の補助的原因。
「果」とは、因と縁が和合(結合)して生じた直接的な結果。
「報」とは、その結果が形に現れたもの。
そして、「本末究竟等」とは、相から報までの九如是が十界のいずれかとして一貫性を保っていることです。
この十如是は、地獄界なら地獄界の十如是として、仏界なら仏界の十如是として、それぞれの異なった働きをあらわしています。すなわち、十如是のそれぞれの在り方は、十界それぞれの生命境涯に応じて異なります。


三世間

三世間とは、五陰世間、衆生世間、国土世間の三つをいいます。「世間」とは差異・差別のことで、十界の差異は、この三つの次元に現れます。
五陰世間の五陰とは、色陰・受陰・想陰・行陰・識陰のことで衆生の生命を構成する五つの要素をいいます。五陰の「陰」とは“集まり”の意味です。「五陰仮和合」といって、一切の衆生はこの五陰が集まって成立しているとされます。
「色陰」とは、生命体を構成する物質的側面。
「受陰」とは、知覚器官である六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)を通して外界を受け入れる心的作用。
「想陰」とは、受け入れたものを心に想い浮かべる働き。
「行陰」とは、想陰に基づいて想い浮かべたものを、行為へと結びつける心の作用、すなわち意思や欲求の働き。
「識陰」とは、色陰・受陰・想陰・行陰の作用を統括する根本の心的活動、すなわち認識・識別する心。要するに、衆生の心身が五陰であり、五陰の働きが十界によって異なることを「五陰世間」といいます。この五陰が一体となっているのが、それぞれの衆生であり、「衆生世間」とは衆生にも十界の差異があることをいいます。
そして、衆生の住する国土・環境にも衆生の生命境涯に応じて十界の差異が現れることを「国土世間」といいます。