業のしくみ   「やさしい生命哲学」より引用

人間は、ものごとを認識し、それに基づいて種々の行動をします。この行動・行為を仏教では「業(ごう)」といいます。
これはサンスクリットの「カルマ」の訳語で、「カルマ」は「造り出す」「創造する」という意味の動詞「クリ」を語源とすることばです。
つまり人間のあらゆる「行い」が業です。
これは、身業・口業・意業の3つに分けられ、身口意の三業といいます。
身業・・・身体で行うもの。立ち居振る舞い。
口業・・・ことばを発すること
意業・・・心でものごとを感じたり、考えたりすること

人間は、ものごとを認識し、それに基づいて行動し、その行動の積み重ねによって自身を作り上げ、そして今度は、その作り上げた自身がものごとを認識して・・・。というように、経験を活かして生きていきます。
初めから限界が決まっていて、後は何も付け加えるものはないという閉じられたシステムではなく、常に自身を創造し建設しながら生きていく「開かれたシステム」になっているのです。
ややもすれば、業というと、逃れがたい人生の重荷のように思われがちですが、決してそうではありません。

十悪(業) 意味 身口意の三業
殺生(せっしょう) 人間や生物の生命を奪うこと 身における3つの行為
偸盗(ちゅうとう) 盗むこと
邪淫(じゃいん) 邪悪な性行為
妄語(もうご) ウソをつくこと 口における4つの行為
綺語(きご) 不当に飾りたてたことばを用いること
悪口(あっく) 悪口を言うこと
両舌(りょうぜつ) 二枚舌を使うこと
貪欲(とんよく) むさぼり欲しがること 意における3つの行為
瞋恚(しんに) 怒り憤ること
愚癡(ぐち) 真理に暗くおろかであること

「ダンマパダ」という経典
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって創り出される」
「汚れた心で語り行動するなら苦しみ・不幸を招き、逆に清らかな心で語り行動するなら安楽・福徳を招く」
「自ら悪をなせば、自ら汚れることになる。自ら悪をなすことがなければ、自ら清らかになる。自ら浄となり自ら不浄となるのである。他人は人を浄めることはできない。」
善につけ、悪につけ、自身の行為の報いが、当人に帰ってくるのです。決して他人がどうこうすることができるものではありません。
これが「自業自得」の法理です。

「ウダーナ・ヴァルガ」という経典
「もしも、ある人が善あるいは悪の行いをするなら、その人は自身が行った一つ一つの業の相続者となるのである」
「実に業は滅びないからである」
この意味は、一度作った業が滅びないで永続していくということではなく、他人が変えたり消したりできるものではないということです。
業は植物の種子に譬えられます。植物の種子は芽を出し花を咲かせ実を結ぶと、もとの種子は最早ありません。業の種子も、作った因に対応する何らかの果報を受ければ消滅するのです。また、現実に現れる時のありさまは、種々の果報が複雑にからみあってでてきます。即ち、いくつもの善悪の行いを総合して現れてくるのですから、たとえ悪業を行ってもより強力な善業を行えば、苦よりも楽の面が強く現れてくると考えられます。

転重軽受
あまりに強力で生死を超えてもなかなか発現せず消しがたい悪の重い宿業であっても、それをも上回って強力な善業によって、発現させ、軽く受けることも可能です。
日蓮大聖人は「先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値(あ)い候へば地獄の苦しみぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候」(御書P.1000)と述べられています。