日蓮大聖人の御生涯(創価学会のホームページから転載しました)
日蓮大聖人は、貞応元年(1222年)2月16日、安房国(現在の千葉県の南部)の太平洋に面した漁村で誕生し、弘安5年(1282年)10月13日、武蔵国(現在の東京都)で入滅されました。
大聖人は、漁業で生計を立てる庶民階層の出身でした。そのことは、大聖人の仏法が一部の支配階層のためではなく、全民衆を救うための「民衆仏法」であることを象徴しています。
大聖人の61年の御生涯は、全人類を未来にわたって救済しうる民衆仏法の確立のために捧(ささ)げられました。
すなわち大聖人は、万人の生命の中に仏界(ぶっかい)という尊い生命が内在しているとの法華経の哲学に生き抜き、どのような人であれ、仏(ほとけ)と等しい偉大な生命を実際の人生の上に顕(あらわ)していけると身命を惜しまずに叫び続けました。それだけではなく、仏の悟りの法であり、宇宙根源の真理である妙法を三大秘法(ひほう)の南無妙法蓮華経として現すことにより、万人が凡夫(ぼんぷ)の身の上に仏界の生命を開く道を確立しました。
まさに大聖人の御生涯は、「人間主義」の思想と行動に貫かれていました。
大聖人が出現された時代は、仏教内部で生じた混乱と争いの中に正法が隠没(おんもつ)し、従来の釈尊の仏教では人々を救済できない状況になっていました。そこで大聖人は、当時の人々がとらわれている迷妄(めいもう)を打ち破り、根源の妙法を信受(しんじゅ)させていく折伏(しゃくぶく)の実践を展開しました。当然、それに対して厳しい反発があり、大聖人は、一般民衆から悪口罵詈(あっくめり)されただけでなく、権力による流罪(るざい)・死罪など、生命にも及ぶ厳しい法難を受けられたのです。
それらの法難は、三大秘法の仏法を確立し、弘通(ぐずう)していくうえで避けることのできないものでした。日蓮大聖人は、人類を未来にわたって救済していく大慈悲から、それらの法難を耐え忍ばれたのです。
大聖人の御生涯は、法華経に見られる「万人が仏」という最高の人間主義の哲学と、「万人を仏に」という人間革命の道を確立するために捧げられたと言えます。それはまさに、人類史を「生命の尊厳」「人間主義」の方向へと向かわしめていく偉大な光源でした。その真実の輝きは、長い間、人々に正しく知られることはありませんでしたが、創価学会の出現と実践により、日本はもとより広く国際社会の上に現れることになったのです。
この日蓮大聖人の御生涯について、ここでは次の8項目に分けて概説することにします。
(1)聖誕・出家・遊学
(2)立宗宣言
(3)「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」の上呈と法難
(4)竜の口の法難と発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)
(5)佐渡流罪(るざい)
(6)忍難(にんなん)の意義
(7)身延入山
(8)熱原(あつはら)の法難と大御本尊御建立
(9)日興(にっこう)上人への付嘱(ふぞく)と御入滅
(なお、日蓮大聖人の年齢は慣例によりすべて“数え年”で記します)
聖誕・出家・遊学
日蓮大聖人は、貞応元年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷の片海(現在の千葉県安房郡天津小湊町)の漁村で誕生されました。「日蓮今生には貧窮下賤(びんぐげせん)の者と生れ旃陀羅(せんだら)が家より出たり」(御書958ページ)と述べられているように、漁業で生計を立てる庶民階層の出身でした。
幼名を善日麿(ぜんにちまろ)といい、12歳で清澄寺(せいちょうじ)に入って、いわば初等教育を受けられました。清澄寺は、この地方では有力な天台宗寺院でしたが、当時は密教や浄土信仰が盛んでした。
大聖人は12歳の時から清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)に対し「日本第一の智者となし給へ」との願いを立てられました。このような願いを立てられたのは、当時、大聖人が次のような疑問を抱かれていたからであると諸御書から推定できます。
「承久の乱」(1221年)で、朝廷側が天台真言の秘法によって勝利を祈ったにもかかわらず、惨敗したのはなぜか」「仏教は釈尊一仏が説いた教えであるのに、なぜ各宗派に分かれて争うのか」「自分の父母等も信ずる念仏の行者が臨終(りんじゅう)の時に狂乱、悪相の姿を現ずるのはなぜか」
要するに民衆を救い、社会の安定を実現するために、仏法は本当に力を発揮できるのかという疑問であり、民衆と社会を救う智者になりたいというのが、幼少の大聖人の願いだったのです。そこで大聖人は、仏法を究(きわ)めるために出家を決意します。16歳の時、清澄寺の道善房(どうぜんぼう)を師匠として得度(とくど)し、「是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)」と名乗りました。
清澄寺では、もはや学ぶべきものがないほどに研鑚(けんさん)を深められた大聖人は、17歳のころに「一切経を見候いしかば八宗並びに一切経の勝劣粗是(ほぼこれ)を知りぬ」(同893ページ)とも述べられているように、一切経の勝劣を知りうる智慧、すなわち、全仏法の根底と言うべき仏の悟りの法である「妙法」の智慧を得られたのです。
まもなく大聖人は、鎌倉・京都・奈良等の各地の諸大寺を巡る遊学を開始し、一切経を閲覧するとともに、小乗・大乗の各宗派の教義の本質を把握することを目指しました。その結果として、大要、次のような結論に至ったと拝察できます。
(1)法華経こそは釈尊の説いた一切経の中で最勝の経典である。
(2)御自身の悟られた妙法は、法華経の肝要の法である妙法蓮華経の五字であり、釈尊の滅後においては、この妙法蓮華経の五字こそが人々を救う根本の法として弘(ひろ)められるべきである。
(3)肝要の妙法を悟った御自身は、妙法蓮華経を弘めて、末法(まっぽう)の人々を救う使命を仏から託された地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)に当たる。なかんずく、その上首(じょうしゅ)・上行(じょうぎょう)菩薩の再誕として末法救済に先駆して戦い、凡夫成仏の妙法を末法流通(るつう)の法として具現化していく使命がある。(「末法」とは、釈尊の仏法が救済の力を失う時代のことで、釈尊が入滅してから2000年以後とされます)
(4)当時の日本に弘められている諸宗の教義には、法華経の正法に背(そむ)く“謗法(ほうぼう)”の要素がある。御自身が上行の弘教(ぐきょう)を進めて諸宗の謗法を責めれば、大難が押し寄せてくる可能性がある。
18歳から14年間にわたる遊学は、御自身が悟った妙法こそが、人類救済のための根本の法であることと、御自身は、この妙法を弘めて、末法の人々を救済していく上行菩薩の使命を担っていることを確認するための過程であったと言えます。
立宗宣言
遊学によって妙法弘通(ぐずう)の使命と方途を確認した大聖人は、地涌(じゆ)の菩薩(ぼさつ)の先駆者、上行(じょうぎょう)菩薩としての自覚を心に秘めながら、大難が起きてくることを覚悟の上で、妙法弘通の実践に踏み出すことを決意しました。そして、建長5年(1253年)4月28日の正午、清澄寺(せいちょうじ)の持仏堂で、念仏などを破折(はしゃく)するとともに、南無妙法蓮華経と高らかに唱えて、末法の民衆を救済する唯一の正法を宣言しました。これがいわゆる「立宗宣言」です。
そして、その時、これまでの蓮長の名を改め、自ら「日蓮」と名乗られました。そのことについては「寂日房(じゃくにちぼう)御書」に「日蓮となのる事自解仏乗(じげぶつじょう)とも云いつべし」(御書903ページ)と述べられています。
「自解仏乗」とは、仏の悟りの法を自分一人で会得(えとく)したという意味です。その深い御自覚が「日蓮」という名には込められているのです。
「日」は、衆生の闇を晴らす太陽です。妙法を悟った人の胸中には妙法が太陽のように輝いているのであり、その人格と行動もまた太陽のように輝きわたって人々の苦悩の闇を晴らすのです。「蓮」は、泥沼の中でも清らかな花を咲かせる白蓮華(びゃくれんげ)です。ありのままの人間として妙法という仏界の生命の力を、清らかに咲き誇らせる尊厳なる人間の姿(仏界即九界・因果倶時=いんがぐじ=の姿)を譬(たと)えています。
また、法華経には、上行菩薩が末法の衆生の闇を照らす太陽であり、世間という泥中に清らかな悟りの華(はな)を咲かせる蓮華であると説かれています。「日蓮」と名乗られたことは、この上行菩薩の再誕であるとの自覚が込められてもいるのです。
立宗宣言の際に念仏を厳しく批判した大聖人に対し、清澄寺を擁する安房国東条郷の地頭・東条景信は念仏の強信者であったために激しく憤りました。景信は大聖人の身に危害を加えようとしたために、大聖人は清澄寺を退出することとなりました。景信の手を逃れた大聖人は、鎌倉へ出ることになりますが、その前に御両親を正法に導き、父には妙日、母には妙蓮の法名を授けています。
鎌倉では名越(なごえ)の松葉ケ谷に草庵を構えて、弘教(ぐきょう)を開始しました。「建長五年の春の比(ころ)より念仏宗と禅宗と等をせめはじめて」(同1293ページ)とあるように、当時、鎌倉に広まっていた念仏と禅宗の破折(はしゃく)を中心としながら、法華経の正義を説き、南無妙法蓮華経と唱え、弘(ひろ)めていきました。
その年の11月、後の本弟子6人の一人となった弁阿闍梨日昭(べんあじゃりにっしょう)が松葉ケ谷の草庵を訪ねてきて大聖人の弟子となりました。また在家信徒では、この年、下総国の守護・千葉氏の家臣であった富木常忍(ときじょうにん)が大聖人に帰依しています。その後、大聖人の主張に共鳴する人々が次第に増えて、康元元年(1256年)ごろには四条金吾、工藤吉隆、池上宗仲(むねなか)らが入信しています。
また、大聖人は草庵等での説法とともに、著述活動も開始しました。建長7年(1255年)には「諸宗問答抄」、「蓮盛(れんじょう)抄」、「念仏無間(むけん)地獄抄」など、諸宗破折の論点を整理した著述を残しています。
「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」の上呈と法難
大聖人が鎌倉での弘教(ぐきょう)を開始した当時には、毎年のように、異常気象や大地震等の天変地夭(ちよう)が相次ぎ、大飢饉(ききん)・大火災・疫病の大流行等が続発していました。特に、正嘉元年(1257年)8月に鎌倉地方を襲った大地震は、鎌倉中の主な建物をことごとく倒壊させるという、大被害をもたらしました。
大聖人は、この地震を機に、人々の不幸の根本原因を明らかにし、それを根絶する方途を世に示すため、正嘉2年2月、駿河(現在の静岡県中央部)の岩本実相寺にこもって一切経を閲読(えつどく)しました。その時、第2祖・日興(にっこう)上人が大聖人の弟子となっています。
そして大聖人は「立正安国論」を著され、文応元年(1260年)7月16日、幕府の最高権力者であった北条時頼(ときより)に提出しました。これが大聖人による第1回の国主諌暁(かんぎょう)です。
「立正安国論」では、まず天変地夭が続いている原因は国中の人々が正法に背(そむ)いて邪法を信じていることにあり、その元凶は法然(ほうねん)の説き始めた念仏にあると指摘しています。この一凶を断って、正法を信受するならば平和楽土が現出するが、そうでなければ、経文に示されている災難のうち、まだ起こっていない自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん=仲間同士の争い、内乱)と他国侵逼難(たこくしんぴつなん=他国からの侵略)の2つの災難が起こるであろうと警告し、速やかに正法に帰依するよう諌(いさ)めています。
しかし、幕府要人は、大聖人の至誠の諌暁を無視しました。それだけでなく念仏者たちは幕府要人の内々の承認のもとに大聖人への迫害を策してきたのです。
文応元年8月27日の夜、執権・北条長時の父・極楽寺重時を後ろだてにした念仏者たちが、大聖人を亡き者にしようと松葉ケ谷の草庵を襲いました(松葉ケ谷の法難)。
幸い、この時は大聖人は難を逃れ、一時、鎌倉を離れることになりました。翌・弘長元年(1261年)5月12日、幕府は鎌倉に戻られた大聖人を捕らえて、伊豆の伊東への流罪に処しました(伊豆流罪)。大聖人は、流罪の地で船守(ふなもり)弥三郎夫妻に守られ、地頭・伊東八郎左衛門の重病を治して、帰依(きえ)を受けました。また伊豆の地において「四恩抄」「教機時国抄」などを著し、御自身が法華経の行者であることを明らかにされています。
弘長3年(1263年)2月、北条時頼の指示で、伊豆流罪を赦免(しゃめん)されて、鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、郷里の安房方面に赴きます。文永元年(1264年)11月11日、大聖人の一行は、天津の工藤吉隆邸へ向かう途中、小松原において地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時の戦闘で、弟子の鏡忍房(きょうにんぼう)と信徒の工藤吉隆は討ち死にし、大聖人も額に傷を負い、左の手を折られました(小松原の法難)。
竜の口の法難と発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)
文永5年(1268年)閏(うるう)1月、蒙古からの国書が鎌倉に到着しました。そこには、蒙古の求めに応じなければ、兵を用いて日本を侵略するとの意が示されていました。大聖人は「立正安国(りっしょうあんこく)論」で予言した他国侵逼難(しんぴつなん)が現実のものとなってきたことから、4月、「安国論御勘(ごかん)由来」を幕府に提出し、悪法への帰依(きえ)を停止するよう諌(いさ)めました。しかし、それでも幕府は大聖人の主張を黙殺したので、10月、大聖人は時の執権・北条時宗をはじめとする幕府要人、ならびに極楽寺良観、建長寺道隆などの鎌倉諸大寺の僧、11カ所に対して書状を送り(十一通御書)、他宗との公場対決(法論)を呼びかけました。
「十一通御書」による働きかけにもかかわらず、幕府も他宗も、誠意ある反応を示しませんでした。それどころか、幕府は大聖人の教団を危険視し、その弾圧を検討していたのです。
文永8年(1271年)に全国的な大旱魃(かんばつ)が起こった時、大聖人は、真言律宗の僧で、幕府と結びついて大きな影響力を持っていた極楽寺良観が祈雨の法を修することを聞き、その効験の有無をもって勝負することを良観に申し入れました。それは、もし良観が7日のうちに雨を降らしたならば、大聖人が良観の弟子となり、もし雨が降らなければ、良観が大聖人に帰伏する、というものでした。
その結果は、良観の祈雨の法が行われた6月18日からの7日間、雨は一滴も降らず、良観はもう7日の日延べを申し入れて祈りましたが、次の7日間も雨は降らないばかりか、暴風が吹くというありさまで、良観の大敗北となりました。しかし、良観は自らの敗北を素直に認めないばかりか、大聖人に対する怨みを更につのらせ、配下の念仏僧・行敏(ぎょうびん)の名で大聖人を訴えたり、幕府要人やその夫人たちに働きかけて、権力による弾圧を企てたのです。
良観は、当時の人々から仏法を極めた高僧として崇(あが)められていました。しかし、実際には権力と結託して、利益を貪(むさぼ)っていました。日蓮大聖人は、良観について、法華経勧持品(かんじほん)に説かれている「三類の強敵(ごうてき)」のうちの「僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)」に当たる、といわれています。
「僭聖増上慢」とは、外見では聖人のような形をとりながら、内面では貪欲に執着し、権力に近づいて、正法の弘通者を迫害する高僧をいいます。
9月10日、大聖人は幕府から呼び出されて、侍所の所司(侍所は軍事・警察を担当する役所、所司は次官のこと、長官は執権が兼務)である平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)の尋問を受けました。この時、大聖人は平左衛門尉に対して仏法の法理のうえから一国の指導者のあるべき姿を説いて諌暁(かんぎょう)しました。
2日後の9月12日の夕刻、平左衛門尉が武装した兵士を率いて松葉ケ谷の草庵を蹂躙(じゅうりん)し、大聖人は謀叛人(むほんにん)のような扱いを受けて捕らえられました。この時、大聖人は、平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)に向かって“日本の柱”である大聖人を倒すならば、必ず自界叛逆(じかいほんぎゃく)・他国侵逼(たこくしんぴつ)の2難が起こると述べて、堂々と諫(いさ)めました。
幕府に連行された大聖人は、佐渡流罪の判決を受けましたが、平左衛門尉は内々で大聖人を斬首刑に処することを図っていたのです。大聖人は夜半に鎌倉のはずれにある竜の口の刑場に連行されました。しかし、まさに刑が執行されようとしたときに、江ノ島の方から“まり”のような光りものが現れて、南東から北西の方向へと輝きわたったのです。兵士たちはこれに恐れ怖じて、刑の執行は不可能となりました(竜の口の法難)。
これは、大聖人御自身の一代の弘教(ぐきょう)のうえから、極めて重要な意義をとどめる出来事でした。この出来事の意義について、大聖人は翌年に佐渡で著された「開目抄(かいもくしょう)」で、「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑(ねうし)の時に頸(くび)はねられぬ、此れは魂魄(こんぱく)・佐土の国にいたりて……」(御書223ページ)と述べられています。「凡夫・日蓮は竜の口の法難の時に頸をはねられたのであり、今、佐渡に来ているのは日蓮の魂魄である」という意味です。
ここに仰せの「魂魄」とは、日蓮大聖人の御内証(ごないしょう)として顕れた「久遠元初自受用報身如来(くおんがんじょじじゅゆうほうしんにょらい)」、すなわち宇宙本源の法である永遠の妙法と一体の永遠の如来のことです。
大聖人は竜の口の法難の時に、名字(みょうじ)凡夫という迹(しゃく=仮の姿)を開いて、凡夫の身のままで内証に久遠元初自受用報身如来という本地(ほんち=本来の境地)を顕(あらわ)されたのです。これを「発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)」(迹を発<ひら>いて本を顕す)といいます。
ここで少し言葉の説明をしておきましょう。まず「名字凡夫」とは、名字(仏の教えの言葉)を信受し理解するという仏道修行の初歩の段階にあって、まだ何らの修行の証果も得ていない凡夫のことです。つまり仏の教えを信ずる心がある普通の人間のことです。また、「久遠元初」とは単なる時間的な太古とか、宇宙の始まりを指すというのではなく、無始無終の生命を指しています。つまり本源的な永遠の生命のことです。「自受用報身」(自受用身ともいう)とは、その永遠の生命を我が魂として自覚することにより、我が生命の上に仏界の無限の力を開いた仏のことです。
この発迹顕本以後、大聖人は、上行菩薩の再誕としてではなく、末法の御本仏としての御立場に立ちます。そして万人が本尊として尊敬し、自身の根源として信じていくべき久遠元初自受用報身の御生命を、漫荼羅(まんだら)・御本尊として御図顕していきます。
佐渡流罪(るざい)
さて、幕府では竜の口での処刑失敗以後における大聖人への処置が定まらず、約1カ月間、大聖人を相模国の依智(えち=現在の神奈川県厚木市北部)にある本間六郎左衛門(佐渡国の守護代)の館に、留め置きました。結局、佐渡流罪の処分が最終的に決まり、大聖人は、文永8年(1271年)10月10日に依智を出発し、11月1日に佐渡の塚原という墓地に建てられた荒れ果てた三昧堂(さんまいどう)に入りました。そこでは、厳寒の気候に加えて、衣食も乏しく、佐渡の念仏者からは命も狙われるという状態でした。
翌文永9年(1272年)1月16日には、佐渡だけでなく北陸・信越等から諸宗の僧など数百人が集まり、大聖人に法論を挑んできましたが、大聖人は各宗の邪義をことごとく論破しました(塚原問答)。
また、2月には北条一門内部の同士打ちが起こり、鎌倉と京都で戦闘が行われました(2月騒動)。大聖人が竜の口の法難の時に予言した自界叛逆難が、わずか150
日後に現実になったのです。
その年の初夏、大聖人の配所は、塚原から一の谷(さわ)に移されましたが、念仏者たちに命を狙われるという危険な状況に変わりはありませんでした。
こうしたなか、日興(にっこう)上人は、大聖人に常随(じょうずい)給仕して、苦難をともにされました。また、佐渡の地でも、大聖人に帰依(きえ)する人々が現れてきました。阿仏房(あぶつぼう)夫妻、国府(こう)入道夫妻、中興(なかおき)入道、最蓮房(さいれんぼう)日浄などです。
また、大聖人は佐渡で多くの重要な御書を著していますが、とりわけ重要な著作が「開目抄(かいもくしょう)」と「観心本尊(かんじんのほんぞん)抄」です。
文永9年2月に著された「開目抄」は、日蓮大聖人こそが主師親の三徳を具えられた末法の御本仏であることを明かされているところから、人本尊開顕(にんほんぞんかいけん)の書といわれます。また文永10年(1273年)4月に著された「観心本尊抄」は、末法の衆生が成仏のために受持すべき南無妙法蓮華経の本尊について説き明かしており、法本尊開顕の書と言われています。
文永11年(1274年)2月、大聖人は赦免(しゃめん)され、3月13日に佐渡を発(た)って鎌倉へ帰りました。4月に平左衛門尉と対面した大聖人は、蒙古調伏の祈祷を邪法によって行っている幕府を強く諌(いさ)めるとともに、年内に必ず蒙古が襲来すると予言しました。この予言のとおり、同年10月に蒙古の大軍が九州を襲ったのです(文永の役)
。
これで自界叛逆難・他国侵逼難の2難の予言が的中したことになります。
大聖人は、(1)立正安国論の提出による諫暁(かんぎょう)と予言(2)竜の口の法難の際の諫暁と予言(3)赦免(しゃめん)時の幕府に対する諌暁と予言を、「三度の高名」といわれています。
忍難(にんなん)の意義
日蓮大聖人は御自身が受けられた難について「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」(御書200ページ)と言われています。四度の大事の難とは(1)松葉ケ谷(やつ)の法難(2)伊豆流罪(るざい)(3)小松原の法難(4)竜の口の法難・佐渡流罪の4つです。
大聖人は2度にわたる流罪をはじめ、斬罪や武装襲撃など、命に及ぶ数々の難を受けられました。また、あらゆる階層の人々から憎まれ、悪口されました。法華経には、末法の法華経の行者が「刀杖瓦石(とうじょうがしゃく)」(刀や杖で打たれ、瓦石を投げつけられる)、「数数見擯出(さくさくけんひんずい)」(権力によって何度も追放される)、「悪口罵詈(あっくめり)」(悪口を言われ、罵られる)などの難を受けると説かれています。大聖人の遭った難の様相は、まさに、これら法華経の文と一致し、大聖人が身をもって法華経を読まれたこと(このことを法華経身読=しんどく=という)を如実に示しているのです。
大聖人による法華経身読は、大聖人が末法(まっぽう)の法華経の行者であり、釈尊から、末法弘通(ぐずう)の付嘱(ふぞく)を受けた上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)に当たることを、事実と経文の一致をもって証明する実践でした(付嘱とは付与嘱託=しょくたく=の意で、仏の入滅後における弘教の使命と教法を託されること)。大聖人は、既に立宗宣言の時には、御自身が法華経の上行菩薩に当たる存在であるとの自覚を、内に秘めていました。大難を受けて法華経を身読されたことは、この自覚を客観的に証明する意味を持っていたのです。
しかし、大聖人が大難を受けられたことの意義は法華経を身読したということだけにとどまりません。大聖人は「開目抄(かいもくしょう)」で、御自身が受けられた大難を挙げながら「難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(同202ページ)と言われています。大難を忍ぶ大生命力として大聖人御自身の凡夫の身に仏界(ぶっかい)を顕されたのであり、またそれに基づき、末法万年の民衆を救う南無妙法蓮華経の仏法を確立していかれたことが大聖人の大慈悲です。
大聖人は、法華経に説かれている通りに、幾重もの大難を受け、そのすべてに耐え抜いてこられた勝利の姿をもって、一人の凡夫が、生命に本来具わる仏界の偉大な力を涌現(ゆげん)できることを、証明したのです。凡夫即仏――これこそが、法華経の核心であり、魂なのです。大聖人の受難は、この法華経の魂を身をもって示し、証明する意味を持っていました。
したがって、「日蓮末法に出でずば仏は大妄語(だいもうご)の人・多宝・十方の諸仏は大虚妄(こもう)の証明なり」(同1190ページ)と仰せなのです。
法華経では、釈尊が上行菩薩に法華経の肝要の法を付嘱します。これは、上行菩薩が末法において、法華経の肝要の法を顕し弘める“末法の教主”であることを示しています。大聖人は、御自身が末法の教主であることを自らの行動によって証明されながら、民衆救済の戦いを展開されたのです。
身延入山
佐渡流罪後の諌暁(かんぎょう)も用いられなかったため、日蓮大聖人は“3度国を諌(いさ)めても、用いなければ山林に交わる”という故事にならい、甲斐国(現在の山梨県)波木井(はきり)郷の身延山に入ることを決意されました。身延の地は、日興上人の教化(きょうけ)によって大聖人の門下となった波木井実長(さねなが)が、地頭として治めていたからです。
大聖人は、文永11年(1274年)5月17日に身延の波木井六郎実長の館に着き、6月17日に身延山中に質素な庵室を結んで住みました。しかし、大聖人の身延入山は、決して消極的な隠棲ではありませんでした。令法久住(りょうぼうくじゅう)のため、「撰時抄」、「報恩抄」などの数多くの御書を執筆して、大聖人の仏法の人類史的な意義を説き示されただけではなく、法華経の講義などを通して、未来の広布を担う人材の育成に、全力を注いだのです。
特に、日蓮大聖人の仏法の奥義が日興(にっこう)上人等に口伝(くでん)されましたが、それらは「御義(おんぎ)口伝」、「百六箇抄」、「本因妙(ほんにんみょう)抄」等の相伝(そうでん)書としてまとめられて残されています。
熱原(あつはら)の法難と大御本尊御建立
日蓮大聖人の身延入山後に、駿河国の富士方面では、日興上人が中心となって折伏(しゃくぶく)・弘教(ぐきょう)が進められ、天台宗などの僧侶や信徒が、それまでの信仰を捨てて大聖人に帰依するようになりました。そのために、旧来の天台宗寺院である四十九院や実相寺などによる迫害が始まり、熱原郷の滝泉(りゅうせん)寺では院主代の行智(ぎょうち)が策謀して、農民信徒を脅迫する事件が起こりました。
弘安2年(1279年)9月21日、熱原の農民信徒20人が、院主の田に押し入って、稲を刈り取ったという無実の罪で逮捕され、鎌倉に連行されました。農民信徒は侍所(さむらいどころ)の所司・平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)の私邸で厳しい取り調べを受けて、法華経の信心を捨てるよう、脅されましたが、全員がそれに屈せず、信仰を貫き通しました。その結果、神四郎(じんしろう)・弥五郎(やごろう)・弥六郎の3人の兄弟が処刑され、残りの17人は追放されました(10月15日、一説には翌年4月8日)。これが「熱原の法難」です。
農民信徒たちの不惜身命(ふしゃくしんみょう)の姿に、大聖人は、大難に耐える強き信心が、民衆次元に定着したことを感じられて、10月1日に著された「聖人御難事(しょうにんごなんじ)」では、「出世の本懐(ほんかい)」を遂げる時がきたことを宣言しています。
そして、その宣言の通り、弘安2年10月12日に一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ=全世界の人々に授与するとの意)の大御本尊を建立されたのです。
大聖人は「聖人御難事」で次のように言われています。
「清澄(せいちょう)寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年・弘安二年なり、仏は四十余年・天台大師(てんだいだいし)は三十余年・伝教大師(でんぎょうだいし)は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中(そのなか)の大難申す計りなし先先に申すがごとし、余は二十七年なり其の間の大難は各各かつしろしめせり」(御書1189ページ)
この御文で大聖人は、釈尊・天台大師・伝教大師が、それぞれ「出世の本懐」を遂げるまでに要した年月を、40余年・30余年・20余年であるとした後に、御自身は建長5年の立宗以来、27年目の弘安2年に「出世の本懐」を遂げられることを宣言されています。
「出世の本懐」とは仏がこの世に出現した目的という意味で、大聖人が末法(まっぽう)の世に出現されたのは、末法万年の一切衆生を救うという仏の大願を実現するためにほかなりません。熱原の法難における、民衆の強き信心に呼応して御図顕(ごずけん)された弘安2年の大御本尊は、全民衆救済という日蓮大聖人の大願を込めて、広宣流布のために顕されたのです。
日興(にっこう)上人への付嘱(ふぞく)と御入滅
弘安4年(1281年)11月、身延に十間四面の大坊が完成し、久遠(くおん)寺と名づけられました。弘安5年(1282年)9月、大聖人は大聖人御一代に説き弘(ひろ)められた法門のすべてと一閻浮提総与(いちえんぶだいそうよ)の大御本尊を日興上人に付嘱し、広宣流布の使命と責任を託しました。身延において行われたこの付嘱を「身延相承(そうじょう)」と言います(付嘱内容から「一期弘法=いちごぐほう=付嘱」とも言う)。これに対して、後に10月に池上で行われた付嘱を「池上相承」と言います(後述の付嘱内容から「身延山付嘱」とも言う)。また、この2つを総称して「二箇相承」と言われます。
9月8日、大聖人は、弟子たちの勧めで常陸(現在の茨城県)へ湯治に行くため、9年間住まわれた身延山を発ちました。そして、武蔵国(現在の東京都)の池上宗仲(むねなか)の屋敷に滞在し、後事について明確に定められたのです。
9月25日には、病を押して、門下に対し「立正安国論」を講義されました。これが、大聖人の最後の説法となりました。
10月8日に日昭(にっしょう)・日朗(にちろう)・日興・日向(にこう)・日頂(にっちょう)・日持(にちじ)の6人(順序は入門順)を選んで「本弟子」と定めました。これを「六老僧」ともいいます。「六老僧」を選ばれたのは、大聖人亡き後に各地に散在する門下の中心として、それぞれの縁故や地域を掌握するためであり、6人に付嘱されたのではありません。
「六老僧」のなかでも、日興上人が信行学において最も優れておられました。大聖人の伊豆・佐渡の2度の流罪にもお供して常随給仕(じょうずいきゅうじ)しており、折伏(しゃくぶく)・弘教(ぐきょう)や門下の育成においても群を抜いておられました。大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、大聖人の仏法の深義を正しく信解(しんげ)していた日興上人が、付嘱を受けられたのは当然であったのです。
10月13日、大聖人は御入滅に先立って再び日興上人へ付嘱され、日興上人を身延山久遠寺の別当(住職)と定めました。これが池上相承です。そして同日、日蓮大聖人は、池上宗仲邸で61歳の尊い生涯を終えられたのです。