五重の相対  (内外、大小、権実については大白蓮華2004年10月号より転載。本迹、種脱については創価学会ホームページより転載)

内外相対 内道である仏教と、中国の外典(儒教・道教など)やインドの外道などの仏教以外の教えとを比較して、内道の仏教が優れていること。
インド・中国における仏教以外の諸宗教の祖師たちについて「因果を知らないことは赤ん坊のようなものである」
因果(=原因と結果)とは、人間に幸・不幸をもたらす因果であり、境涯を変革していくための因果です。この因果を的確に説いているのが仏教(内道)で、仏教以外の諸宗教は人間変革の因果を説かないか、説いても偏った因果観にとどまっています。
儒教・道教は、現世だけを見て、過去世・現在世・未来世の三世の因果を説きません。インドの諸宗教(バラモン教など)には三世の因果を説くものもありますが、それは過去世の原因によって今世に得られる幸・不幸の結果(境涯)が決まっているという運命論・決定論にとどまっており、今世における変革の可能性は説きません。わずかに神などの力で、天に生まれ変わることができると説くに過ぎません。
それに対して仏教(内道)では、人間の内面に変革の可能性があることを洞察し、今世の行いによって、苦悩を安心へ、不幸を幸福へと転換できることを説きます。、
大小相対 仏教のなかで小乗教と大乗教を比較相対し、大乗教が小乗経よりも勝っていること。
「乗」とは、乗り物の意味で、仏の教えが、人々を迷いと苦悩から悟りの境地へと運び、導くので、乗り物に譬えたのです。
小乗教は、出家して修行し、自分が悟ることだけを目指す二乗(=声聞・縁覚)のための教えです。これは小さな範囲の人々しか救えないという意味で、小さな乗り物に譬えるのです。
小乗教では、苦悩の原因は自分自身の煩悩にあると説き、苦悩を解決するには煩悩を滅する以外にないとして、厳しい戒律と修行による解脱(=悟りによる苦悩からの解放)を求めました。これは、煩悩を解決する道(因果)を自分の生命の内に求める点では正しいと言えます。
しかし心身を滅すること(因)によって煩悩を完全になくした境地(果)を目指す小乗教の行き方は、結局、生命自体を否定することになり、真実の救いにはなりません。
これに対して、大乗教は、自分も他人もともに幸福になろうとする菩薩のための教えです。大乗教は、自分の救いを求めるだけではなく、他の多くの人々を救うことを目指すので、大きな乗り物に譬えられるのです。
大乗教では、小乗教のように煩悩を排除するのではなく、煩悩のある生命に菩提(=悟り)の智慧を現して、その智慧によって煩悩を正しくコントロールし、清浄で力強い生命主体(=仏界)を確立することを教えています。
権実相対 大乗教を、仏の真実の悟りを明かした実大乗教(法華経)と、真実を明かすための準備、方便として説かれた権大乗教に立て分け、権大乗教よりも実大乗教が勝ことを示したものです。権とは仮の意、実とは真実の意です。
仏は本来、いかなる境涯の人をも成仏させる根本法を悟ったのですが、大乗経典のなかでも華厳経・般若経・阿弥陀経・大日経などの法華経以外の諸経では、二乗の成仏や、悪人・女人の成仏を否定しています。また、その他の人々についても成仏のためには何度も生まれ変わって修行を積み重ねなければならないとしています。
また、仏についても、阿弥陀仏や大日如来など、人間を超越し、現実世界から遊離した世界に住む架空の仏を説きます。
成仏や仏に関するこれらの教えは、当時のインドの人々の考えに合わせた方便として仏の悟りの法を説いたものであり、仏の境涯、あるいは悟りの法について、その一面、一面を説いているに過ぎないのです。
それに対して、実教である法華経は、二乗や悪人・女性を含めて、一切衆生が平等に成仏できることを説き、その根拠となる法(一念三千の法門)を明かしています。
諸経は仏の悟りを説くための方便として説かれたのであり、法華経にこそ仏の真実の悟りが明かされているのです。それゆえに、権教は劣り、実教は勝のです。
本迹相対

本迹相対とは、法華経二十八品を前半十四品の迹門と後半十四品の本門に立て分け、両者を比較相対して、本門の教えが迹門の教えに勝ることを示したものです。
本迹の本とは本地(=仏・菩薩の本来の境地)、迹とは垂迹(=衆生教化のために現した仮の姿)という意味です。
法華経の後半十四品は釈尊が仏としての真実の境地(本地)を顕した法門なので本門といい、前半十四品はまだ本地を顕さず、仮の姿のままなので迹門といいます。
法華経の前半十四品では、二乗作仏、諸法実相を説いて一切衆生の成仏の法理を明かしましたが、権教と同様、釈尊がインド伽耶城近くの菩提樹の下で初めて悟りを得たという見方が前提になっています。この仏の立場を「始成正覚」といいます。
しかし、これは釈尊という仏の仮の姿に過ぎず、真実の姿ではないと打ち破ったのが本門寿量品の説法です。
始成正覚という釈尊の仏果が打ち破られることによって、その始成正覚の釈尊によって説かれた権教や迹門の種々の仏果も、結局は仮のものであると打ち破られたことになります。
また、それらを目指して行うように説き示された種々の修行(因)も、真実の成仏の因ではないと打ち破られたことになるのです。
したがって、迹門までの教えでは、真実の成仏の因果が説かれたことにはならないのです。
それに対して後半十四品、特に要の寿量品では、釈尊はインドの伽耶城近くの菩提樹下で初めて成仏したのではなく、実は思惟を絶するはるか久遠の昔に成仏して以来、種々の姿を現して衆生を教化している永遠の仏であるという釈尊の真実の姿が明かされたのです。
この仏の立場を「久遠実成」といいます。
本門で仏の生命の常住(過去・現在・未来の三世にわたって常に存在すること)が明かされたことによって、初めて一切衆生の生命が常住であることが示されたのです。
また、権教・迹門においては、仏の国土は現実世界(娑婆世界)から離れた別の世界にあるとされてきたのに対して、本門では娑婆世界こそが仏の国土であることが明かされました。
釈尊の真実の境地を明かすことを通して仏の常住、衆生の生命の常住、国土の常住という本門の法理が明らかにされ、現実世界に生きる衆生が自身に本来具わる仏界の生命を覚知することで成仏できるという真実の成仏観が初めて明らかになりました。真実の成仏観を明かした本門が、それを明かしていない迹門よりも優れていることはいうまでもありません。

種脱相対

種脱相対とは、久遠実成を明かす文上の本門と南無妙法蓮華経を明かす日蓮大聖人の文底独一本門を相対したものであり、法華経文上の本門が脱益、日蓮大聖人の文底独一本門が下種益の法門です。
文底独一本門とは、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている真実の成仏の因果を明らかにした日蓮大聖人の仏法のことです。
「種脱」とは「下種益」と「脱益」のことです。これについて、まず説明します。
「下種」とは、仏が衆生に初めて成仏の種子となる法を教えることをいい、その法を聞くことによって衆生の生命に成仏の種子が植えられる利益を「下種益」といいます。
また、仏の教化によって次第に衆生の生命が整えられ、成熟していくことを「調熟」といい、その利益を「熟益」といいます。
そして、最終的に成仏することを「得脱」といい、その利益を「脱益」といいます。これは仏の衆生教化の過程を、稲などが種を下されて成熟し、収穫されるのに譬えたものです。
釈尊の真実の仏の境涯を明かした法華経の文上本門は、爾前迹門の教えによって調熟されてきた衆生を仏の悟りに至らせ、得脱させる「脱益」の働きがあります。釈尊の真実の仏の境涯という果を明かすことによって衆生が得脱できたのは、その衆生の生命がそれだけ成熟していたからです。
しかし、末法の衆生は、そのような成熟の過程を経ていない凡夫です。したがって、法華経の本門、つまり釈尊の真の仏果を説く脱益のための教えでは成仏することができません。
法華経の本門で、釈尊の久遠の成道が説かれたといっても、それは結果の姿であり、成仏の真実の原因となる法が衆生に対して明確に示されたわけではありません。釈尊自身が修行して成仏した根源の法が何であるかについて、法華経では示されていないのです。
日蓮大聖人は、成仏の真実の原因となる法が本門寿量品の文底に秘沈されていると仰せです。その法が、釈尊を成仏せしめ、またあらゆる仏を成仏させた仏種です。日蓮大聖人はこの根源の仏種を南無妙法蓮華経として顕し、弘められました。末法の衆生はこの南無妙法蓮華経を信受し唱えることにより、自身の生命に仏種が下され、初めて成仏することができるのです。
法華経本門が脱益にとどまるのに対して、南無妙法蓮華経は下種益の法です。このことを日蓮大聖人は「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(御書249ページ)と述べられています。「彼」とは法華経文上の本門、「此れ」とは文底独一本門のことです(なお、「一品二半」とは法華経本門の中心となる部分で、寿量品の一品とその前後の半品ずつのことです)。
大聖人の下種仏法によって、成仏の種子を衆生の生命に植えることが可能になり、すべての衆生が一生のうちに種熟脱を具えて仏界の生命を現し、成仏していける道が開かれたのです。
このように、末法の衆生は釈尊の脱益仏法では成仏できず、大聖人の下種仏法によって初めて成仏できることを明かしたのが種脱相対です。