幸福の可能性を引き出すための信仰   「生活に生きる信仰」(著者:河合一)より転載

御本尊を信じて題目を唱えることは、御本尊から力をもらうのではく、自分自身の中にある「仏界」という働きを引き出す為なのです。言い換えれば、自分自身の「生命の素晴らしさ」を「自覚」して「引き出す」ことが、御本尊に唱題する目的なのです。
例えば、「病気を治そう」と決めて祈ると、病気を治すのに必要なあらゆる生命の力が涌いてくるので、病魔に打ち勝ち、健康になれるのです。「この悩みを解決しよう」と決めて祈れば、悩みを解決するのに必要なあらゆる働きが働いて、必ず解決するのです。
・・・・・
御本尊を拝する時、宇宙と我が生命がダイナミックに交流して、自身が妙法の当体の姿と輝いていき、仏の智慧がわき、偉大な生命力が現れて、崩れることのない幸福の気道に入っていけるのです。

<生命のダイヤモンドを磨き輝かせ>
御本尊を拝むことは、自身の生命の内なるダイヤモンドを磨き顕わす作業であるとも言えます。・・・・私たち凡夫の生命にも、仏界という強く清浄なダイヤモンドの働きがもともと具わっているのです。ふだんは、命が汚れているためとてもそうは思えませんが、磨けばそれが顕れてくるのです。・・・ダイヤの原石はダイヤで磨くしかないのです。・・・我々、凡夫の生命は、ダイヤの原石のようなもので、御本尊という「仏の生命=ダイヤモンドの生命」と縁すること(信じて題目をあげること)によって磨かれ、内なる仏界が顕れて、生命と人生が輝いてくるのです。


題目・・・・マントラ(神聖な言葉)参照

大白蓮華 2006.1より転載

日蓮大聖人の仏法は、既存の宗教のように神仏を礼拝する宗教ではありません万人の己心に内在する仏性を触発し、仏界の生命として涌現させる唱題の実践をもって、法華経の理想である万人の成仏を実現する道を確立されたのです。

南無妙法蓮華経と唱える実践は、自他の生命の仏性の名を唱え、仏性を呼び起こします。無明と戦い、信が勝てば、本来具わる仏性の力が題目の声に呼ばれて、自ずからわが生命にわき起こってくるのです。
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」(P.557「法華初心成仏抄」)
−−−籠の中の鳥が鳴けば、空を飛ぶ鳥たちが呼ばれて集まってくる。また、空飛ぶ鳥が集まって鳴けば、籠の中の鳥も出ようとするようなものである。ここで「籠の鳥が鳴く」とは、無明・煩悩に束縛された衆生が信心を起こして唱える題目です。
このとき、題目の力で、あらゆる衆生の仏性を呼んでいるのです。すると梵天・帝釈・仏・菩薩などの仏性が現れるとともに、唱えた衆生も無明の束縛を打ち破って、自らの仏性を現すことができるのです。言い換えれば、新羅三千に遍満している「妙法」と「我ら衆生」を結びつけるのが、題目の音声の力なのです。


大白蓮華 2006.3より転載

南無妙法蓮華経の唱題行には、無量無辺の功徳があります。「宇宙根源の法」である妙法の無限の力を自らの生命に呼び現す力が、唱題にはあるからです。
・・・このように、大聖人によって、宇宙と生命を貫く真理が自身の胸中にあると目覚め、それを涌現する道が、万人に開かれたのです。しかも、その真理は、諸仏の悟りの智慧であり、法華経という無上の経典に余すところなく示された真理である。そして、その真理に生きることによって、無上の価値を人生の上に実現することができる。その世界に、だれでも、いつでも、いかなる身でも、どこでも参加できるように開かれたのが、日蓮大聖人の仏法です。
まさに、日蓮大聖人の仏法の唱題行は、自身の生命変革をもたらす最高の仏道修行です。
また、題目を唱えることは、自身の仏の生命を呼び覚ますことです。唱題こそが仏界涌現の直道です。


大白蓮華 2007.7より転載

仏法では、一個の生命が現実のさまざまな現象とつながっていると説いている。
天台大師は、現象世界の姿を三千の数に整理して「一念三千」と説いた。
あらゆる現象は自分の一念に収まっているし、その逆に、自分の一念はあらゆる現象に影響を及ぼしていく。・・・・
本当に自分の祈りが通じるためには、外の世界を揺り動かすことができる大きな祈りのエネルギーを「一念」のなかに涌現させる必要がある。
仏法では、自分と外の世界とは、一歩深く掘り下げると、連なっており、そこには”不二”の世界が広がっていると説いている。この自分と外の世界とが奥底で通じている”不二の世界”を日蓮大聖人は南無妙法蓮華経と顕わされた。
この南無妙法蓮華経を唱えることで、自分の一念の心が全宇宙と連動しているので、自分が「ああしたい」「こうなりたい」という強い一念をもって真剣に唱題するとき、一切の現象を揺り動かしていくことができる。
「祈りが叶う」というのは、なにかオマジナイのようなもので願いが現実になるというのではなく、”宇宙の果てまで届け”と言わんばかりの生命の奥底からの切実な発露の反映である。

したがって、法華経の行者が祈る祈りは、響きが音に呼応するようなものである。影が体に添うようなものである。澄んだ水に月が映るようなものである。方諸が水を招くようなものである。磁石が鉄を吸い付けるようなものである。琥珀が塵を取るようなものである。明らかな鏡が物の色を浮かべるようなものである。(御書P.1347趣意)


「日蓮」(著者 佐藤弘夫)より転載

法華経の真実ー釈迦の悟りの中身は、一つも漏らさずこの五字の題目に網羅されている。題目こそは仏が直々に授けてくれた法であり、末法における至高にして唯一の救いの道だった。

 「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起し、五字の内にこの珠をつつみ、末代幼稚の頸に懸けしめたまう」(観心本尊抄720頁)

題目は仏が慈悲の心でもって末代の衆生に与えてくれた法であるがゆえに、難しい教理など一切知らなくとも、ただ題目を唱えるだけで、本門寿量品に説き尽くされた一念三千のすべての功徳を自然に譲り受けることができるのである。


「題目は法華経の心なり」御書p.325 聖教新聞より転載

 「日本」という呼称の中に、日本にある宝や人、動物などのすべてが含まれるように、「妙法蓮華経」という題目のなかに、一切が含まれている。
法華経以外の「題目」には、成仏の教えが含まれておらず、二乗作仏と久遠実成が説かれていない華厳経や観経、大日経等の題目は成仏の教えとはならない。・・・。
 なぜ法華経の題目に無量の力があるのか。「法華経は十方三世の諸仏の御師なり」(御書p.1315)、「妙法蓮華経の五字に一切の法を納むる」(御書p.942)等と、諸仏を成仏させた根源の法は法華経の題目であり、妙法蓮華経の五字に諸経の功徳が納まっている。