2006年4月

2006年4月30日
Titel:ウォーク・ザ・大宮
このページの日記、4月と銘打ってますが4月の出来事なんぞ、いっこも書かれちゃぁおりません・・・
今回も3月の出来事です。

父の手術も無事に終わり、病状も安定したので、26日の日曜日に久しぶりに外出しようと思い、
ずっと観に行きたかった映画、『ウォーク・ザ・ライン』を観に行くことに決めました。
ネットで上映時間を調べたら、もう京都では上映されてなくて、大阪と神戸のそれぞれ1ヶ所の
映画館しか上映されてませんでした。
「まあいいや」と大阪の茶屋町にあるロフト内の映画館へ行くことにして、出掛けるついでに
「ボサボサの髪もカットしとこ!」と大阪に行く前に、行きつけの美容院に向かいました。
その美容院は東寺さんの近くにあって、私の家からは駅とは逆方向になるのですが、
ちょっと遠回りだけど、いつものお店のいつもの店長さんにカットしてもらい、スッキリとしました。
すそに軽くシャギーをいれたショートボブ。
「う~ん。南海キャンデーズのしずちゃんみたいでなかなかいい♪」とゴキゲン。
言っちゃあナンですが、この髪型はしずちゃんより私のほうが似合ってるんじゃないかと自負している。
(こんなとこで、しずちゃんと地味に張り合っててもイミないけど・・・)

で、その後、東寺さん前のバス停で、京都駅行きのバスに乗った。
でも乗ってすぐに「あれ??」と思った・・・駅に行くには堀川通りを北に曲がらなければいけないのに、
大宮通りで曲がった。
初めて乗るバスだったので、「こうゆうルートなんだな」と、むりやり納得した。
・・・が、梅小路公園の前を通過した時、やっぱり間違えてる事に気づいた。(遅っ!)
でもまあ、お昼頃に大阪に着ければいいんだし、四条大宮から阪急電車で大阪に行くことにした。

車窓を眺めていると、懐かしい景色が・・・♪
実は私、今の家に越してくる前は四条大宮と五条の間に住んでいたのでした。
右の窓からは昔通っていた小学校が・・・(何年前かなんて、数えるのめんどくさい)
左の窓からはその頃よく遊んでいた友達の家も見える。
あまりの懐かしさに思わず、四条大宮より2つ手前の停留所でとび降りた。

◆上の画像は四条大宮にある京福電車。レトロな感じで結構人気がある。
◆その下の画像は降りた停留所前にある竹屋さん。その横に路地があり、路地内にちょこっと入って
竹屋さんの裏口から撮影。
子供の頃はこの路地が遊び場で、年上も年下もごっちゃになって1日中よく遊んだ。
そして、この竹屋さんの倉庫でも遊ばせてもらっていた。
今から思えばここは本当に贅沢な遊び場だった。
広い倉庫内には3メートルくらいの竹が何千本も立て掛けてあり、竹の香りが充満していて
とにかく居るだけで気持ちが良かった!多分、今で言うマイナスイオンが浴びられる場所やったんやね。
しかも真夏でも涼しい。とにかく不思議なくらい涼しかった!竹のパワー恐るべし!!

周りをキョロキョロ見渡しながら、四条大宮へテクテクと歩いた。
当然のことながら、昔はなかったコンビニやお酒の量販店が建ってたりしてたけど、
深呼吸すると、なぜか懐かしい匂いがする。記憶が臭覚を呼び覚ますのでしょうか?

そして、予定より時間をロスしたが、12時半頃大阪に到着。
映画館に入ってチケットを買おうとしたら、なんと!『ウォーク・ザ・ライン』は急きょ、一週間前から
午前中一回のみの上映になっていた!がぁーーーんっ!(しかもそれも金曜日までで終了)
ネットではそこまでの情報は入ってなかったのでした・・・何のためにワザワザ大阪まで来たんだか・・・
こんな事なら、東寺さんの前で声かけてくれた観光客の京都案内すりゃヨカッタ・・・
(堂々とバス乗り間違えてるヤツに案内されてもな・・・)

「はぁ~~・・・」とため息をつきながらロフトを出たら、目の前に
MBS(毎日放送局)が。
(ちなみに
MBSTBS系列です)
そう言えば、『ちちんぷいぷい』という関西ローカルの番組で、「1階ロビーでイベントやってます」って
言ってたな。と思い出し、せっかくなので入ってみた。

『ちちんぷいぷい』のテーマ曲が流されていて、子供が遊べるスペースがあり家族連れで賑わっていた。
『っちゅ~ねん!』とか、『ジャイケル・マクソン』等のグッズやキャラクターが並べられていて結構楽しい。
(関西以外の人にはワケわからん内容でスミマセン。しかも「っちゅ~ねん!」て何語やっちゅ~ねん!
しかも『っちゅ~ねん!』は4月で番組終了しました)

◆画像のステッカーは、入場の際にもらったもの。
そして会場の中央に1メートル四方の透明ボックスがあり、中には飴がいっぱい入っていて
(名づけて『飴~ジングボックス』)手持ちの飴を入れると、ピンバッチをプレゼントしてもらえる。
(関西のオバちゃんは99,9%飴を持っている)
「飴ちゃん持ってます?」と係りのお兄さんに聞かれ、「もちろん!」と紅茶飴をポンと入れたら、
『っちゅ~ねん!』のピンバッチもいただきました。番組終了してるし、もう手に入らないレア物だ♪
ちなみに集められた飴は、飴細工の達人が飴を溶かして芸術的なオブジェに作り変えられるそうな。
どんな物になるんだか・・・楽しみでもあり、そうでもなし・・・

その後、茶屋町辺りを散策したあと、梅田のヨドバシカメラでデジカメを見る。
新しいデジカメが欲しいけど、お金がないのでただ見るだけ。
ヨドバシカメラを出て、お腹が空いたのでファー○トキッチンに入って、ピザとコーヒーを注文した。
出来上がったピザにかぶりつくと、「・・・あれ?」外側は温かいけど、中心部分が冷たい・・・
注文した時、「焼き上がりに8分ほどかかります」って言われたけど、冷凍物を解凍して
焼くだけだったのか・・・まぁファーストフードだからそんなもんか~。
でも8分もかかってこれ?!どうやら、焼くのが下手な店員に当たってしまったらしい・・・
文句を言おうかとも思ったけど、2階の席に座ったので1階のレジまで言いに行くのが面倒だったので、
冷たい中心部分を口に入れ、すぐに熱い外側をかじって口の中でミックスして食べたら美味しかったよ。フン!

というワケで、目的がコロコロ変わった休日でしたが、それなりに楽しめた一日でした。
でもやっぱり『ウォーク・ザ・ライン』は、
DVDやビデオではなくて映画館で観たいなぁ。
夏頃に、祇園会館で上映してくれることを心底願ってるっちゅ~ねん!


2006年4月29日
Titel:奇跡(2)
(続きです)

・・・と、そんな思いがけない入院をすることになった父は9人兄弟の末っ子で、
7人の姉がいるため、親戚に入院の事を知らせてからは、何人かの伯母ちゃんから
毎晩電話がかかってくる。皆、父の事を心配してくれてとても有難い。
が、夜に電話が鳴ると「もしかして病院からか??」と、一瞬受話器を取るのをためらってしまうが、
伯母ちゃんからと分かると“ほっ”とする・・・そんな日々がしばらく続いた。

そしてついに手術の2日前になり、『インフォームドコンセント』なるものが行われた。
この日集まったのは伯父夫婦と、大阪の伯母夫婦、母、兄、私。父を入れると8人で
面談室に案内された。このメンバーが集まったのは久しぶりで、ちょっと冗談を言い合ったり
なんかして「ここはホントに病院か?」と思うほど空気が和やかだった
・・・が、ドクター
Kの登場にやや緊張が走る。

ドクター
Kは、手術に伴うリスクをホワイトボードに書き連ねた。
“心不全、脳障害、多臓器障害、心筋梗塞、不整脈、感染、多量出血、大動脈瘤残存・・・”等々
説明を聞いてると、さすがにだんだん怖くなってくる。
具体的な手術の内容は、腎臓より下にできている動脈瘤を取り除き、人工の動脈を移植する
というもの。
一番心配されるのは、動脈瘤ができている部分は同時に動脈硬化になっていて、その名の通り
動脈が石のように硬く、その上もろいので針が通らない場合がある。その場合は腎臓から上の
動脈から繋げなくてはならないので、もしかすると腎臓に悪影響がでるかもしれないとのことでした。
が、「この病院ではこのテの手術は85パーセントの高い成功を修めていて、
(成功させる)自信はあります。でも、前もってリスクの説明をしておくのが義務なので
理解してほしい。」と、1人ひとりの目を見ながら真剣に話す先生。

「後になって『手術をしないほうが良かったんじゃないか』と、患者の家族に言われたりするのが、
医者としては一番辛い」とドクター
Kは仰った。
「なので、もしここにいる皆さんの内、1人でも反対されたら手術はしないでおこうと思います」
の言葉に、ますます迷いが起こったが、その時父が
「ここ2週間ほど、毎日手術のための検査を受けて、たくさんの先生や看護士さんが
僕の病気を治そうと最善を尽くしてくれている。僕はもうなにもかも先生にお任せしたいと
思っている。だから、皆もぜひ賛成してほしい」と言った。
父のその言葉を聞いて、迷いは吹き飛び、全員賛成の意を表したのでした。

・・・で、ドクター
Kの次は、麻酔科の先生からの質問と注意事項を受けるため、面談室を移動した。
麻酔科の先生は「卵や大豆などを食べてアレルギーを起こした事はありませんか?」等々、
たくさんの質問をされ、次に「首を後ろに倒して、首が痛いとか手が痺れるといった症状は
ありませんか?」と尋ねられ、試しに首をググ~っと、後ろに倒してみる父。
その時(先生と私以外の)全員も、つられて同じように首を後ろに倒しはじめた。
それを見てると、なぜか自分もしなきゃいけないような気分になってきて、私も首を後ろに倒した・・・
天井を仰ぎながら「麻酔科の先生って、この質問をするたびにこうゆう場面を目にするんやろな・・・」
と、ふと思った。
倒しおわった父は「異常ないです」と答えた。(ちなみに他の皆も異常ナシ)

そんなこんながあり、ついに手術当日の朝。
兄と私は仕事で行けなかったが、伯父夫婦、母、伯母が、手術室に向かう父を見送った。
その後、母達は用意された別室で待機。手術の無事を祈ってお墓参りをしてくれた大津の伯母も
しばらくして駆けつけてくれたらしい。(アリガトウ)
仕事をしながらも、午前中は落ち着かなかったが、午後3時を過ぎたあたりで、
「この時間まで病院から連絡がないということは、手術は進んでるということかな・・・」と、
少し安堵した。

午後4時頃、私は一旦仕事を止めて、病院に向かった。
5時頃に着くと、30分前に手術は無事に終り、父は集中治療室に入っていると
母から聞いてホッとした・・・が、ドクター
Kの話によると父の動脈はかなり悪くなっていて
懸念されてた通り、腎臓より上からの移植となり、手術は終わったがまだ安心はできない・・。と
シリアスな顔を、より一層険しくして言われたと、母は表情を曇らせながら私に話した。

その日の夜、母は「もしお父さんに何かあったら、病院から電話がかかってくるから、もしそうなったら
すぐに病院に向かえるように準備しておいて」と言われ、兄と私は「分かった・・・」と冷静に応えつつも
内心、不安が広がるばかりでなかなか寝付けなかった。電話が鳴らないことを、ただ祈るだけだった。

そんな不安な夜も無事に明け、寝不足ながらも仕事を進めていたら、
お昼前に母が電話の子機を握りしめ、泣きそうな顔で私を呼んだ。
その母の姿に一瞬背中が凍りついた・・・

「今、看護士さんから電話があって・・・」と母。
「ど・・どうしたん??!!!」と聞くと
「お父さんが、『ウォークマンのバッテリー持って来て』って言ってるって~~!」の言葉に
私は全身のチカラがヌケた・・・
「ンも~~☆@ё!」とかナンとか言葉にならない声を発して、しばらくの間母は両手で顔を覆っていた。

夕方、父の病室にバッテリーを持っていった。
体中に数本の管が繫がれていて、父も相当に疲労していて、まだ声もほとんど出せない状態だったけど
バッテリーをコンセントと本体に繋いであげると、嬉しそうにヘッドフォンを耳にかけた。

そして術後4日目に、集中治療室をでて、一般病棟に移された。
栄養は点滴だけで、まだ食べ物を口にできない状態で、かなり痩せ細っていた。
次の日、重湯を食べることができて、「その時の重湯がものすごく美味しかった」と言っていた。
その3日後くらいには、リハビリもできるようになり、少しずつ体力が戻ってきて、
お見舞いに来た人に「傷口見る?」と聞いていた。
そう聞くと、女性は必ず「イヤ~~」と言いつつも興味津々で見るらしく、男性は「絶対イヤ!」と言い切り、
断固として見ないらしい。(父調べ)
そう言う本人も、怖くて自分の傷口を見られないので、人に見せてその反応でどんなもんか判断
してたとか・・・ちなみに私も父の統計どおり「エ~~~」と言いながらも、しっかり見ました。
傷の長さは、胸の辺りから足の付け根近くまであり、無数のホッチキスのような金具で留められていた。
「・・・・・ほ~~~・・」と言う以外、何のコメントもなかった。

これは父が元気になってから聞いた話ですが、手術の時、麻酔が効いてくると全身の筋肉が
すべて下方に垂れ下がり、10センチの動脈瘤だけが不気味にポッコリと浮き上がっていたと、
主治医の
H先生が仰ってたそうな。
術後は痰を出すのがものすごく苦しかったと、繰り返し言っていた。
これは煙草を吸わない人の5,6倍の苦しみらしい。

全身の毛穴から煙が出るんじゃないか?と思えるくらい煙草漬けだった父が、これ以来スッパリと
煙草を止めた。
『病気は人を変える』というのは真実でした。


その後、退院が近くなってくると比較的元気な患者さんが収容される病棟に移された。
前の病棟に比べると、廊下や部屋も狭くて、やや劣る感じだった・・・。
しかも「ここは看護婦さんが冷たい!」とグチっていたが、

そのわりには、若い看護婦さんと男子高校生みたいなノリで楽しそうにしゃべっている父を見てると
まんざらでもないやん・・・と思った。
「前の病棟は『新幹線』で、ここは『第3セクター』や~」と、言っていたが
・・・『第3セクター』って私の世代には、いまいち“ピン”とこないなぁ・・・と思ったら、
私より若い看護婦さんは、さらに“ピン”とも“ポン”ともこない顔をしていた・・・
オッちゃんのたとえ話は、よう分からん。

◆画像は父が退院する3日前に移った病室の窓から見えた景色。
画像が粗くて申し訳ありません・・・!が、実際には京都タワーが真ん中にくっきりと見えてまさに絶景♪
父によると、夜景はさらに素晴らしかったそうです。


・・・と、まぁそんなこんながありましたが、、ようやく先週の土曜日にめでたく退院しました。
3日間ほど休んで、今週の火曜日から仕事を始めました。
まだ胸部の動脈瘤が残っていて完全ではないけど、元気になってくれて本当に嬉しいかぎりです。
今回、たくさんの方々にいっぱいお世話になりました。
病院の先生方、看護士さん、それにノリちゃんや、何回もお見舞いに来てくれた父の友人、知人の皆様。
アドバイスをくれたり、励ましてくれた伯母ちゃん達にも、心から感謝申し上げます。

それと、この長い日記を最後まで読んでくれた方も、どうぞお体には充分にお気をつけて。
(あと、夜中にこれ読んでる人、早よ寝ーや!)


2006年4月17日
Titel:奇跡(1)
2006年3月・・・ジャパンに数々の奇跡が起きました。
ワールド・ベースボール・クラッシック、色々な事がありましたが見事に日本が世界一になりましたね。
韓国に2敗した時には、日本中が落胆しましたが、またもや“誤審判員ボブ”のお陰でトーナメントに
返り咲き、勝利を収めた事は今更言うまでもないでしょう♪
(注: 4月になった今は、もはや懐かしい話題ですが、この文章の前半部分は3月末に書いて、その後
なかなか時間が作れず、今日まで持ち越してしまいました・・・今回の日記は約1ヶ月半の出来事なので
結構長いです。しかもあまりにも長いので2部構成になりました。続きはまた後日
UPします)

そして実は、私の家にもまさしく奇跡が訪れたのでございますっっ!

今年に入って、父の体調がおもわしくなく、周りからも「最近痩せたな~」「その咳は異状やで」と
言われ続けていたのですが、病院嫌いの父は「病院に行ったら、病気になる!」が口癖でした。
でも周囲から、あれやこれやと説得され、知り合いの女性(ノリちゃん)に強引に引っ張って行ってもらい、
検査を受けてもらいました。それは3月3日のひな祭りの日のことでした。

その日の夕方、病院から「ご家族の方すぐに来てください」と電話があり、急いで母と私が駆けつけると、
ノリちゃんが集中治療室の前で待っていてくれた。
ノリちゃんの説明によると、午前中にレントゲンと
CTスキャンを撮った後、
「結果が出るまで時間が少しかかりますので、昼食を摂ってきてくださってもいいですよ」と
看護士さんに言われ、近くの定食屋で、父は“てんぷらうどん”と“ひれかつ定食”をペロリと
平らげたそうで・・・その後、病院に戻るとすぐに名前を呼ばれ、すぐさま車椅子に座らされ、
医者から「スゴイことになってます!今から絶対安静です!」と言われたらしい・・・

その話をしている時、看護士さんから入室許可をもらい、母と2人で集中治療室に入ると
父がベッドに寝かされていた。
父は過去に2回程、バイクの事故で入院したことはあったけど、骨折しただけで体は元気だった。
しかもその時はまだまだ若くて、入院しててもどこかエネルギッシュだった。
でも今年父は66歳。集中治療室という、かなり雰囲気の重い部屋で横になっていると一層弱々しく見え、
どーんと不安が襲ってきた・・・が、ここで私が弱気になってはいけない!
私よりも、ずっーーと父と母の方が不安なのだから!と思い、ぐっと堪えた。
父は、母と私の顔を見て「なんだかな~」って感じの表情をして「なんだかな~」てな事を言っていた。

ちょうどその時、『白い巨塔』に出てきそうな色黒でシブい男前の外科医の
K先生が現れた(多分40代後半)
ホントにどこから見ても、全身から“外科のドクター”って感じがにじみ出ていた。
今回、父の手術の執刀医であらせられる。

K先生は昼食後にもう一度撮ったCTスキャンの写真を見せながら、病気の説明をしてくれた。
「ご主人の病名は動脈瘤です。」(腹部の輪切り写真を指差して)「お腹の動脈が10センチほどに
膨らんでいます。正常な動脈は1.5センチから2センチです。4センチになると破裂する恐れがあるので
手術が必要です。ですが、ご主人の動脈瘤は10センチにまで育っています。
今まで破裂しなかったのは奇跡です!」と言われ、言葉がでてこない私たち・・・
「医者としてこれは放ってはおけません!今、破裂してもおかしくありません。一週間後に手術します!」
と検査したその日に、手術の日時まで決定してしまいました。

「しかも、胸部の動脈も4センチになっているので、こちらも早めに対処する必要があります」と言われ
爆弾が1つではなく2つもあることが分かったのでした。
K先生は「ここが腸」「ここが腎臓」と、できるだけ分かり易く色々な部位の説明をしてくれ、
そして胃の部分を見て「いっぱい詰まってますね・・・」とつぶやいた。
「そう、それは“てんぷらうどん”と“ひれかつ定食”です」と私も心の中でつぶやいた・・・。

K先生の説明が終わり、次に担当医H先生が現れた。
こちらの先生はK先生とは正反対のタイプで、若くて色白、長身でチョット“のほ~ん”とした感じで
正直、大丈夫かなーと思った(失礼しました・・・)が、質問した事にはキチンと答えてくれる
いい先生だった(あたりまえか・・・)
そうこうしている内に面会時間が終わり、看護士さんから退室をうながされ、「明日また来るからねっ!」
と精一杯の笑顔で父に手を振ったら、父も笑顔で頷いた。

集中治療室を出るとノリちゃんが待っていてくれて、しかも家まで車で送ってくれた。
車中あれこれ話をしながらも、ふと気を抜くと涙が出そうになったけど、しつこく踏ん張った。
19時ごろ家に着き、ノリちゃんに何度もお礼を言って家の中に入った。
(今回、ノリちゃんには本当にお世話になりました。何度感謝しても足りないくらい感謝の気持ちで
いっぱいだ!)

家の工場では兄と、従業員の
A君と、番頭はんがまだ働いていた。
父の病状を出来る限り説明すると、「そうか~・・・まぁ、ええ機会やから隅々まで調べてもらってしっかり
治したらええやん!」と皆、前向きに考え、
A君も「社長がおらんようになったら困るし、まだまだ頑張ってもらわんとな!」と言ってくれた。
ありがとう
A君。その時のその言葉には心底励まされたよ。

で、3日後の3月6日に、父は集中治療室からA棟の個室に移された。
集中治療室ではベッドから降りることも、二本足で立つことも反対されてたらしいが、
血圧を下げる薬と血液をサラサラにする薬を投与して、破裂の危険性はやや落ち着いてると判断され
個室内では歩いても良いと言われた。
でも、検査のために病室の外に出るときは必ず車椅子に乗せられて移動していた。

今思うと、お医者さんや看護士さんにしてみたら10センチの動脈瘤って、かなりの驚異やったんやろな・・・

その日、心臓のカテーテル検査を受け、検査がおわって病室に帰った後、看護士さんが車椅子を
父の病室に置いたままナースステーションに行ってしまった。
父はこれ幸いにと車椅子に乗り、病室を脱走した。
父が廊下を車椅子で機嫌良く徘徊している時、病棟では父が居ない!と大騒ぎになっていて、
看護士さん達が必死に探していたらしく、見つかった時には、まるでドラ猫みたいに首の後ろ襟を掴まれ
連れ戻されたとか・・・
その時の様子を見ていたわけではないけど、何故か容易に想像できてしまった・・・
父はそんな話を、その日見舞いに来た私に話してくれた。

ちょうどその時、カテーテル検査報告をするため、“ミスター・白い巨塔”ドクター
Kが父の病室にやって来た。
ドクター
Kは開口一番、「いやーー(血管が)悪くなってるねーー!」と
『言いたかないけど、もうっ、あえて言っちゃうよーー』ってな感じで言った。
言われちゃったコッチは、「ぁはは・・・」とひきつって笑うしかなかった・・・

検査の結果、心臓の血管にも瘤ができていて、その手前が狭窄していることが発覚し、
動脈瘤の手術をする際、多量に出血した場合に心筋梗塞になる可能性が大きいので、
先にその狭窄している血管を、風船治療で広げる必要があると言われ、動脈瘤の手術は
一週間延期された。
◆上の図はその説明を受けた時、書いてもらったもの。
(お分かりとは思いますが、真ん中の心臓の絵は、元からカラー印刷されてるものです・・・念の為)

父は自他共に認めるヘビー・スモーカーで、一日に20本~40本吸っていて、
しかもニコチンが多すぎて、販売禁止になったタバコを5,6年吸っていた。
入院してから3日間、一本も吸ってないことが、父にとっては驚異だった。
まぁ・・・なるべくしてなってしまった病気としか言いようがない・・・

「心臓の血管の瘤は、今すぐに治療する必要はないので、とりあえずは極端に細くなっている狭窄部分と
動脈瘤の治療が先決です」と言われた。
もしかすると動脈瘤が破裂する前に、心筋梗塞になっていた可能性もあったのでした。
不発弾がもう1つ見つかった・・・
今まで無事にいられた事は、ホントに奇跡やったんやな・・・と、つくづく実感した。

ちなみにA棟には認知症のお年寄りや、目の離せない患者さん等が収容される病棟で、
夜中、ボケたお婆さんがナースステーションにやって来ては「センセー!センセー!」とか、
「ミツコさんはどこー?」とか叫んだりしてて、うるさくて眠れないので「
SDウォークマンが手放せない・・・」
とボヤいていた。
去年の暮れに父が買った
SDウォークマン。メモリーカードには1000曲くらいの音楽が入力
できるが(容量による)、「1000曲も聴く時間ないよね~」と言いながらその時は笑ってたけど、
まさかこんなに役立つ日がくるとは思ってもみなかった・・・。

(2)に続く。