
クウラ完全体 マツサガシン 童話オリジナルリメイク企画
『 No,1 マッチ売りの少女 』



この街では、雪が止まない。
あまりにも薄暗すぎて、人々は朝の七時に鳴る鐘の音で朝を知る。
人々の肌は青白く、限りなく無気力だ。
それはこの街の九割を占める貧困層全体に言えることであり、そして同時に彼らは、残りの一割の生活なんてものを知らないまま死んでいくのが殆どだった。
腕時計なんて高級なものは持っていない。そんなものをつけたまま街角に突っ立っていたら、襲われて手首ごと持っていかれる危険性だって十二分にあるからだ。
もっていたとしてもすぐに引換所で金に換えている。
同じ理由で、寒さを遮ることが可能な上着や毛皮のブーツなどを身につけているはずもなく。
少女はガタガタと震えながら、白くひきつった息を指にかけていた。
指先がかじかみすぎて感覚がない。
血色はとことん悪く、青白いのを通り越して小さな手は紫に近い色にまで変色していた。
薄いスカートの下で太ももをすり合わせながら、僅かながら雪を避けることができる裏路地街灯の下で、彼女は小さくなって震えていた。
見た感じ、商売女だった。
とは言ってもある程度の年を経た女ではない。もとより相応の人間はちゃんと、最低限雪をしのげる場所で客を探すし、何より元締めが金を回収するために、こんな寂れたところに一人取り残すようなことはしないだろう。
薄汚い服に、薄汚い髪。おそらくは梳かせば美しいであろう金髪も、雪と汗と油で汚れてしまっている。
眼尻にはクマが浮き、頬はこけている。
おそらくは麻薬をやっているのだろう、断続的に凍えきった指先が震えていた。禁断症状だ。
齢は十二……いや、おそらくは十一に満たない。
身長などやせ細っているその百二十にも満たない体で、もっと小さくも……もしくは遠目には骸骨のように見えなくもない。
彼女は、腕に小さなバスケットをひっかけていた。
中には汚らしいハンカチーフに隠され、湿り切ったマッチが入っている。
無論売り物ではないし、こんなもの売ったといって一銭にもならない。加えて、この燃料転化の時代。着火目的以外に使いようがないこれを、夜の街頭で売るのは、違法ではないにせよ自殺行為に等しかった。
法律的観点で言えば、ただの阿呆。しかしこれはれっきとした商売女たちの手口である。
厳密には、この街では売春他、それを斡旋することさえも禁止されている。
客引きもだ。
しかし商売女は、何かしら体以外のものを売るという名目でなければ商売をすることができない。
だから一応持っているのだ。
暖を取ることもかなわない、この役立たずのバスケットを掴んでいるのはひとえにそれだけの理由だった。
最も、今の少女にとっては法律違反でしょっぴかれてしまった方が幾分かましではあった。
他にもたくさんいるであろう留置所の薄汚い男たちの中に放り込まれ、散々ボロボロにされるか。
もしくはここで冷たくなって凍死するか。
プライドなどとうの昔にどこかに置き忘れてしまっている彼女にとっては、後者の方が何故か魅力的に思えた。
留置場に行けば、誰かしらが麻薬を隠し持っているかもしれない。
それさえ体の中に注入すれば、この寒さからも、どうしようもない倦怠感からも逃げ出せるような気がした。
ポケットをあさってみるが、あったのは粉になった枯葉と、凍ったパンの欠片だけだった。
とりあえずパンの欠片を口に入れ、慌てて吐き出す。冷たすぎて体中に悪寒が走ったのだ。
熱もあるらしい。目の前がぐらぐらぐらぐらと揺れている。
ため息をつくという知恵も、少女にはなかった。
眠ろうとしたところ、先輩の商売女に蹴り出され、逃げるようにここまで来て、そして丸一日が経つ。
あぁ、このまま死ぬのかなぁと何となく思う。
それは自分がそう思っているのではなく、どこか達観した自分以外の誰かが傍観し、嘲笑っている感覚に近かった。
警官が通らないかな、と普段は絶対に思わないようなことさえも思う。
一生懸命頼めば、一晩くらい泊めてもらえるのではないか、とありもしない幻想を夢見てみたりもする。
そう、簡単に言えば。
彼女は、死の半歩ほど手前にいた。
それはどうしようもない事実であり、回避しようもないことだということはその幼い頭にも理解はできていた。
だからこそ動かなかったのか、それとも圧倒的な倦怠感と、体力の欠乏により動くことが許されなかったのかどうかは分からない。
ひょっとしたら、とっくの昔に。本能的な部分で彼女はあきらめていたのかもしれない。
考えてみれば、今まで生きてこられたこと自体が夢のような気もする。
きっと夢なんだ。
しかし、そう思おうとする体に突き刺さるのは、まぎれもない現実の寒さだった。
それはどうしようもない寒さであり。
どうしようもない寒さでしかなかった。
――明かりが見えた。
少女は、実に数時間ぶりに顔を上げた。こちらに向かって、車の明かりが見えた。
貴族なのだろう。珍しいこともあったものだ。雪をかき分けるようにして、車が走ってくる。
少女はすでに、仕事に対する興味も意欲もなにもかも失っている状況だったが。
何故か、一歩を踏み出した。
それは殆ど、物心ついたときから叩きこまれたことだった。
体が、動いたのだった。
車が止まった。それは狭い裏路地で人間を轢くことを恐れた反応であり、決して商売女の勧誘に引っ掛かったわけではなかった。
最も、少女には既に勧誘するような気力さえもなく。
彼女はただ機械的に、ひきつり凍えた笑みを顔に貼りつかせたまま、体を引きずるようにして車の助手席に歩いていった。貴族の場合、大概運転は従者が行っている。だからだ。
コンコンと窓ガラスを叩き、開けてもらう。
普段ならば貴族がこんなところで浮浪者に反応はしないのだろうが。人通りが少ない場所ということによるい情勢と言うのだろうか。それとも、ただ単に車の主が足りない人間だからなのだろうか。
窓は開いた。
中にいたのは、やはり従者らしき青年に運転をさせている、身なりのいい紳士然とした男だった。三十代後半程度で、よく少女が住んでいる酒屋に来るような男たちとは違う。雰囲気と言うか、態度と言うか。
何より体臭と不気味なもので固まっている髪ではなく、きちんとした香料を練り込んだポマードで固められたそれは、一種の清潔感を感じさせる。
「何か?」
男はチラリと少女を見て、感情を感じさせない表情でそう言った。
嫌悪も何もない、まるで道端の石ころを見るような目つきだった。
言葉を発しようとして、喉から空気が抜けるような音がした。慌てて強く咳込み、少女はかすれた声を何とか発した。
「マッチは……いりませんか?」
しばらく沈黙された。声が聞き取りづらかったのかと思い、もう一度震えながらバスケットを掲げてみせる。
「ひと箱、二十オンスです……」
男はしばらくの間、雪が降りしきる街灯の下、窺うような表情もできない少女のことを見つめていた。
二十オンスというのは、マッチ一箱の値段としては破格と言わざるを得ない。
貴族はどうかわからないが、少女たち下層市民ならそれだけで一週間は飲み食い宿泊が出来る。
彼女がそう言ったのは、商売女の中の常とう句であり。相手が貴族だと見て少し吹っ掛けたという意味があった。もとよりマッチなど売るつもりはさらさらない。
売るのはつまるところ、自分の体だ。
貴族からしてみれば、こんな薄汚い子供を買うモノ好きはいない。だからこそ彼女は今に至るまで、貴族相手に商売をしたことはほとんどなかった。
あったとしても大体が異常な小児性嗜好をもっており、共に酷い目にあわされて放り出されている。
それでも吹っ掛けてしまったのは、その時の少女の頭が寒さで呆けていたせいであり。
それは、彼女の頭と体に刻み込まれた躾によるものだったのは他ならない。
ガチガチと歯を鳴らしている少女をもう一度上から下まで見て、男は懐に手を入れた。
「買おう」
一瞬言われた意味が分からずに、少女はきょとんとした。
そんな言葉は、彼女の予想には全く入っていないことだった。そもそも前金でもらったことはないし、彼女が正真正銘になんの力ももたない子供と言うこともあり、全額なんて払ってもらったことがない。
酷い時には気を失うまで乱暴され、何も置かずに立ち去られたことだってあった。
だから懐から彼が財布を取り出した一連の行動を、少女は理解をすることができなかった。
ポカンとしている彼女を見上げ、男はもう一度言った。
「それを買おう。ここに二百オンスがある」
銀貨を取り出し、ちらつかせながら彼は続けた。
「乗りなさい。そこでは話もままならない」
促され、一瞬理性が戻った少女は躊躇した。銀貨なんてものを見たのは、生まれて初めてのことだったのだ。にわかには信じがたかった。頭がおかしいのか、それとも自分がおかしくなってしまったのか。
麻薬の禁断症状と疲労、倦怠感、寒さのおかげで訳が分からない。
そもそも自分が今立っているのか、それとも倒れているのか。
目の前で起こっていることが現実なのか、それとも夢を見てしまっているのか。
それさえも、判断ができない。
しばらく呆然としていると、男は財布を懐に仕舞ってから興味を失ったように、彼女から目を離した。
「なら、いい。では」
いいことにはならないだろう。それははっきり分かる。
でも。
ふと、少女は思った。
この貴族に切り刻まれるのと、留置場で切り刻まれるのと。
寒さの中凍死するのと、宿に戻って先輩達にいじめられるのと。
一体何が違うというのだろうか。
一体、何が変わっているというのだろうか。
いいことにはならないだろう。
人間なんてそんなものだ。
それだけは、本能的な部分でやけにはっきりと自覚できていた。それは理性でも何でもなく。
少女の中で決定された、揺るぎのない事実でしかなかった。
彼女は後部座席のドアに手をかけ、閉まりかけた窓の中に向かって言葉を投げかけた。
「乗ります……」

驚くことに、男は言ったとおりにマッチを買った。少女は暖房がきいた車内で、ポカンとしながら手に乗った銀貨を見ていた。
人並に、彼女は金を手にすれば嬉しかった。目がくらんだ。
それは当り前のことであり、少女にとってはあらがいようもない、どうしようもない事実ではあった。
どうしようもないことが多すぎて、これが現実なのかどうなのか、彼女にはさっぱり分からなかった。
走り出した車の中で、後部座席に移動した男性は。
少女の隣に座り、薄汚い彼女を見下ろしていた。
「君のものだ」
彼は一言そう言って、後部のトランクにバスケットごとマッチを置いた。
そして懐から酒が入っているらしいボトルを取り出し、中身を口に開ける。
銀貨を手に乗せたまま、落窪んた眼でこちらを見上げている少女を一瞥し。
しかし彼は懐にボトルを仕舞い、今度は小指サイズの注射器を取り出した。
「私はこれを持っているが」
それを見た時、少女の顔色が変わった。目を見開き、彼女はどこにそんな力が残っていたのかと言うくらいの声で、彼に向って口を開いた。
「それを……」
「……」
「ください……お願いします」
「……」
「お願いします」
しばらく彼は考え込んでいたが、やがて息をつき目線を外した。
「屋敷についてからという選択肢もあるがね」
「寒いんです。お金なら、これ……」
必死に手の中の銀貨を差し出す。男性はしばらくきょとんとしたあと、やがて表情を落としてそれを受け取った。そして
「分かった」
と一言呟き、懐から出した二本をくわえ、合計三本の注射器を少女の手に置いた。
しばらくの間少女はそれを見つめていたが、やがて男から隠すように体を丸め、急いでスカートのポケットに二本を突っ込んだ。
淡白な視線を外した彼に背中を向けるようにして、注射針のカバーを外し、上着の右袖をまくり上げて肘裏をあらわにする。寒さと連続して突き刺しすぎていることにより、皮膚がそこだけ青黒く変色していた。
男がそこを一瞥し、視線を窓の外に向ける。
血管を探そうとしても、かじかんだ手と、栄養失調で委縮したそれを発見することができずに、少女は持っていた注射器を車の床に落としてしまった。
「あ」
端的に呟き、断続的に痙攣している手を伸ばす。しかしコロコロと転がって行ったそれは、運転席の方まで行ってそして止まってしまった。
探そうとしたが、彼女にはその気力がなかった。
急いでポケットの中からもう一本を取り出し、カバーを外す。そして今度は朦朧としている視界の中、ほとんど感覚で腕に突き刺した。血管に当たるわけもなく、中々麻薬液が体の中に押し込まれていかない。
必死に体をこわばらせ、全力で腕の中に押し込む。
無理やりに。
実に数分もの間そのままの姿勢でじっとし、やがて彼女は息をついて背もたれに体を預けた。
腕は血まみれになっていた。それ以外の病気にもかかっているのか、注射針が開けた穴から、後から後からと妙にぬめった血液があふれ出ている。
無理やりに腕に押し込んだため、肩口から先がずきずきと痛い。腕を上げることもできない。
しかし、次第に体を包んでいた倦怠感が抜けていくのが分かった。耳なりも、頭痛も、空腹と寒ささえも消えていく。
深く息をついてぐったりとした彼女の腕を持ち上げ、ハンカチーフをきつく巻きながら男は口を開いた。
「君はそれで落ち着いたのかい」
そう聞かれ、彼女はとろんとした窪んだ視線を彼に向けた。
「……少しは」
そうかすれた声で答える。確かに、切れ切れだった呼吸のリズムが安定してきてはいる。
額の汗を手で拭い、彼女はそこで始めて男の顔を正面から見た。車内ランプに照らし出されたそれは、不思議なほど表情を感じさせないものだった。しかし徐々に視界が歪んできて、はっきりと認識ができなくなってくる。
麻薬のせいだ。
額を抑え、軽く頭を振った彼女から目を離し、彼はまた、裏路地に目を向けた。
「……今日はクリスマスだ」
誰にともなく、といった感じで彼は呟いた。
視線の先。貧民街の、比較的裕福な層が住んでいるアパートの窓からは光が漏れている。その一室に、質素ながらも飾りがあるのが、何となく少女にも見えた。
子供が見える。自分と同じくらいの子供だ。
親がいた。おそらくは、だが。
子供を抱いて、部屋の奥に入っていく。
「だから……」
大分経って交差点に入ったところで、少女はポツリと言った。
「だから……何ですか?」
定まらない視線で問いかけられ、男は軽く苦笑してから言った。
「特に意味はない。ただ、私は君を買ったんだ。世間話は必要だろうと思ってね」
「それも……そうですね」
興味がなさそうにぐったりとしながら、彼女は反対側の窓から外を見た。
外気と内気の温度差により、窓ガラスが曇っている。男が時折するように、彼女も指先でキュ、キュと擦ってみる。
流石にスラム地域は避けているらしく、車は少女の知らないある程度の裕福層が住む区画へと進んでいるところだった。
そういえば、どこに行くつもりなのか知らない。
――まぁ、仮に知っていたとしても。
どうでもいい。
何となくそう思う。もう、体を動かしたくない。
いつも麻薬を打った後には倦怠感から解放される。仕事も上手くできる。
でもどうせ目が覚めたらまたあの、痛くて苦しい空気が肺から流れ込んでくるのだ。
それならいっそ。どうせならこのまま眠ることなくずっと走り続けていたい。
何とはなしにそう思う。
「どこまで行きたい?」
少し経ってから、男はそう言った。
少女は少し考えて応えた。
「お好きなところまで」
「そうか」
また端的に答えが返ってきた。そのままガタン、ガタンという揺れに体を預けながら、眠ってしまわないように苦心する。
男は少女に触ろうとしなかった。汚らしいものと思っているのか、それとも始めからそのつもりがないのか。
まさか、金と麻薬を渡すためだけに何の見返りもない浮浪児を車に入れて乗り回すなんてことはあるだろうか。
ない。そんなことは、絶対に。
何かをするつもりなのだということは分かったが、それに対してどうこういうつもりは今の彼女にはなかった。
それは、すでに車に乗り込んだ時点で決していることなのだ。
分かって乗り込んでいることだし、考えても、考えたとしても。
そんなことは彼女にとってはどうにもならないことであり。
どうでもいいことだった。
「親は?」
少ししてそう聞かれた。
なんてバカな質問をする人だろう。思わず薄笑いが漏れた。
「知らないです」
「知らないのか」
「知ってる人なんているんでしょうかね……」
呟いてから、彼女はどんよりした視線を彼に向けた。
「私は、そういう人に遭ったことはありませんけれど」
「違いないな……」
それに応え、彼は息をついた。
「おかしな質問をしてしまったようだ」
「いいです。それより、早く済ませませんか?」
こちらを見下ろした彼の目には、表情が感じ取れなかった。
「それとも、こんな薄汚い小娘なんて願い下げでしょうか」
銀貨と麻薬、そして暖かい空間と、柔らかいカーシーツ。
それら全てが少女の心に与えたものは、安心でも、生に対する執着でも何でもなかった。
いつものように乱暴されるわけでもない。
殴られるわけでもない、蹴られるわけでもない。
罵られるわけでもなく。
――世間話?
はは、と心の中の何かが自分で自分を嘲笑った。
そして次にわいてきたのは、猛烈な劣等感だった。その次に湧いてきたのは、男に対する侮蔑。
交互にそれが頭の中を回転し、そして勝ったのは劣等感だった。
突然、自分がとてつもなくみじめで、とてつもなく無様で、どうしようもなく薄汚いゴミのように思えたのだ。
事実彼女はそうだった。
そんなことは分かり切ったことだった。
怒りなんて湧くはずもない。悲しいのなんて、そんなことはない。
そんなことはどうでもいい。
どうでもいいのだが。
彼女はただ単純に、自分は馬鹿にされている。
そう確信した。
怒ることも、反論することも、彼女には許されていなかったし、そんな知能なんてどこにもなかった。
だから彼女は卑屈になったのだった。
返ってきた言葉は、予想通りのものだった。
「ああ。願い下げだな」
別に突き放されたことをどう思うわけでもなかったので、彼女はただ
「そうですか」
と呟いて視線をそらした。
頭の中に、桃色の煙がこだましていた。目の裏がちかちかする。薬が効いているのだ。
頭の芯がボーッとして、痛覚が消えていく感覚がする。
「ほら」
一言そう言って、男は懐から取り出したサイフよりもう一枚の銀貨を取り出した。それを少女に握らせる。
「話でもしようじゃないか」
しばらくの間、少女はそれを見ていた。しかし視線が定まらない。上手くそれを認識することができなかったが、何となく銀貨なのだと分かった。
先ほどと同様に目がくらむのかと思いきや、そうでもなかった。掌の感覚が消えかけているのが原因なのかもしれない。
彼女は自嘲気味に口の端をゆがめて笑うと、それを彼の手に返した。
「それなら薬をください」
「残念ながら先ほどので全てだ」
「じゃあいらないです」
不思議そうな顔をした彼に、少女は淡々と言った。
「よく考えてみれば、そんなの持ってたらどうせ横取りされるのがおちですし。どうせ、使わないですし」
「それでは、君は何が欲しいんだ?」
「特に何も。薬があればいいです」
もぞもぞと体を動かして続ける。
「最近は薬で払うお客さんも多いから。ですから、そっちの方が何かと都合がいいし」
「……」
「食べるものとか、お金とか、そういうのあっても、どうせとられるし。薬だと上手く取引ができますので」
「……」
「何見てるんですか。私がいらないのなら売るものないですよ。何も持ってません」
冷たく相手を見上げると、黙ったままだった男は軽く肩をすくめて視線を外した。
「いらないならいい。降りるかい?」
「……お好きなままに」
「それではもう少し走らせるとしよう」
従者に手で合図をして、彼はシートに体を沈みこませた。車の天井を見上げながら呟くように言う。
「何歳になる?」
「十三です」
「いつからその仕事をやっている?」
「……」
少しだけ沈黙してから、彼女は男から視線を離して言った。
「さぁ……多分、五歳からだと思います。昔のことなんて、忘れましたけれど」
「……」
「それより小さい子は、大概すぐ死にますから」
男はしばらく沈黙してから、やがてポツリと言った。
「八年、か」
そして彼はまた息をつき、窓の外に目をやった。
「さぞかしにこの街が憎いだろうにな」
しかし少女は、そのつぶやきを聞いてから嘲るように含み笑いをしてみせた。
「バカにしているのですか?」
男はそれに対して答えはしなかった。
ぼんやりと前を見て、そしてポケットから酒のボトルを取り出し、中身を少し口に流し込んだ。
しばらく咀嚼した後飲み込み、息をついてからやっと彼は口を開いた。
「私は憎い」
ボソリとした呟きは、驚くほどに抑揚がなかった。
「どうして?」
少女が単純な疑問のもと聞くと、男は肩をすくめてボトルをポケットにしまった。
「私自身が憎いからさ」
「……」
少し考えて、少女はため息をついた。そして彼から視線を離して、ポツリと呟く。
「そうですか」
頭がおかしい人なのかもしれない。そう考えると合点がいった。
人のことを言える義理でもない。
いや、少女自身どこか自分の中の大事なものは狂ってしまって麻痺してしまっていることには、とっくの昔に気がついていた。
だからこそ。
そう、感じたのかもしれなかった。
彼は軽く首を振り、そしてとろんと目尻を落とした少女に向かって、視線を向けずに言った。
「君にはわからないだろうけども」
「さぁ……でも、あなたは贅沢な人だとは思いますよ」
あざけるでもなんでもなく。淡々と彼女は答えた。不思議そうにこちらを見下ろした彼に向けて、少女は続けた。
「自分を憎める余裕があるんですか」
問いかけられ、男は少し考えてから発しかけていた言葉を飲み込んだ。そして口をつぐむ。
「……さてね」
だいぶ経ってからそう答える。
少女は歪んで乾いた笑みを唇に浮かべ、かさかさしたそれを指で撫でた。
「まぁ、後悔したことはありますよ」
「後悔?」
「はい。特に何をということはないですけども」
「……」
「後悔して、後悔して。ありとあらゆるものを後悔して。それでもなお後悔して。結局はその後悔したことを後悔して。そして今に至ります」
「……」
「あなたが何を言いたいのか知らないけれど」
「……」
「その結果、結局私には自分しかないから。それしかないから。だから自分を憎いというあなたの気持ちは分からないです」
しばらく、エンジンが駆動するウォンウォンという音が響いていた。
「申し訳ないですけれど」
「いや、おかしな話をしてしまった」
少女から目を離し、彼はため息をついた。
そして窓の外に目をやる。
完全な貧民街は抜け、人口密度が百分の一藻ないのではないかというくらい、人の気配がない……閑散とした上層区画に入ったのが見えた。
少女の目はどんよりと曇り、既に窓の外の様子を映してはいなかった。
半分ほど眠っている彼女は、半開きの目の間からぼんやりと男を見ていた。
訳のわからない話をされ、唐突に打ち切られ。
いい気分なんてしなかった。
しかしそれは、同時に相手もそう感じているのだろうというのは何となく分かっていた。
分かっていたからこそ、少女は分からない振りをした。
彼女が一番嫌いなものは、自分だった。
当たり前のことだ。
自分さえここにいなければ。自分というものがこんなところに在り続けることさえなければ。
こんなに苦しいことなどない。
こんなにつらいことなどない。
つまるところそれは街が悪いのでもなく。周りの大人が悪いのではなく。
社会が悪いのではなく、国家が悪いのではなく。
ただ単純に、そんなどうしようもない事実が許容されてしまう場所の中で生きている自分が。
きっと、自分が悪いのだ。
誰だってわかっていることだ。
ここにいなければ、ここに在らなければ。
全てはうそになる。
全ては白になる。
それは、学がない少女にもわかっているたった一つの理であり、たった一つの真実であった。
でも、消えることはできない。
消えることが出来ないのだ。
分かってはいるのに。何故か、消えることを頭の中の誰かが許してくれない。
それが、自分だ。
自分を苦しめているのは、自分でしかない。
憎いか? と聞かれれば、確かにそうだった。
街が憎い、人が憎い、ここが憎い。
そう、全てが憎い。
憎いけれど。
きっと、多分。そんなどうしようもないことを憎んで、責任転嫁をしようとしている自分が。
一番、一番悪い人なのだ。
――分からなくはなかった。
いや、少女は誰よりも事実それを分かっていた。
なぜなら彼女は今、誰よりも死に近いところにいたから。
それでもなお、眠りに身を任せようとしない自分自身に、心のどこかで愕然とさえしていた。

またしばらく経ってから、男はもう一つ息をついた。
そして、少女の腕に巻いたハンカチーフが血で黒く染まっているのを見て、それを取り払い、新しいものをきつく巻く。古いものをトランクに放り込んだ彼にされるがままになっていながら、しかし少女は、少ししてから腕を彼から遠ざけた。
「お願いがあるんですけれど」
そっと、ポツリと言った彼女の顔を覗き込むようにして男は答えた。
「何だい?」
「もう一本打ってもらえませんか。切れてきました」
そして緩慢な動作でポケットから残りの注射器を取り出し、さし出す。
男は少し考えていたが、やがてそれを受け取りキャップを外した。
「腕はやめた方がいいだろう」
「どこに打っても同じです」
「効果が足りないと言っているんだ」
やんわりと彼女の言葉を打ち消し、男は細く骨が浮いた服をまくりあげ、肩をむき出しにさせた。
そこの比較的血管が見える場所に丁寧に突きさす。
数秒後、注射器を抜き取られ、少女は長く息をついた。
「……本当ですね。すぐ効いてきました」
「……」
「次からはそこに打つことにします。お手数おかけしました」
残った注射器の残骸をまたトランクに放り込み、彼はうとうとしはじめている少女に視線を落とした。
「……では総合すると」
「……」
「君は、特に何をしたいわけでもなく。何が憎いわけでもなく。どうされたいわけでもなく。ただ、薬が欲しいのか」
端的に抉るように、いや、責められるように問いかけられた。
しかし少女は軽く肩をすくめて見せただけだった。
男は返答が返ってこないのを見ると、自分がとても阿呆な質問をしていることに気がついたらしかった。
自責だろうか。
いや、そんな高尚なものではないだろう。
頭の中に浮いた考えを振りはらうように首を振り。
そして彼はまた口を開いた。
「例えばだ」
「……」
「例えば、私が。これから君を人知れぬ場所に連れて行き。そこで地獄より辛い拷問を与えて嬲り殺すとする」
「……」
「君はそれでも、別にかまわないのかい?」
「……」
「それとも自分しかないという君は。私に抵抗をするのだろうか」
「……」
「そこのところを、教えてはくれないだろうか」
吐息を洩らし、彼女はしばらくの間考え込んだ。信号機は赤だが、車はそのまま突っ切っていった。どっちにしろこんな夜中走っている自動車は見当たらないし、止まったら止まったで、裕福層の街だとしても何者に襲われるか分かったものではないからだ。
はか、はか、と断続的に奇妙な音を立てて息をしながら、薄汚い少女は濁った眼で彼を見上げた、
「私を殺すんですか?」
「例えばの話だ」
「例えば、私を殺したりするんですか?」
「ああ」
「いいですけど」
驚く以上にあっさりすぎるほどの短い言葉で、少女はそれを許容した。
流石に怪訝に思ったらしく、男が目を見開く。
それから視線を離し、彼女はもごもごと続けた。
「でも、お代は払ってもらわないと」
「薬なんてものは、死んでしまえば役に立たないだろう。金もだ」
「違います。愉しんだ分だけ、おかみさんに払っていただかないと。怒られますから」
「……」
「死んだら私は持っていけませんので。あなたが持って行って下さるなら。私はそれで構わないです」
死んだら怒られることなんて関係がないだろう。
そう言いかけて、男は言葉を止めた。
また少し考えて、彼は言った。
「仕事熱心なんだな……」
「そう見えますか?」
「いくらなんだい? 参考までに聞かせてくれないか」
クスクスと笑い、惚けた顔をだらしなく投げだしながら彼女は続けた。
「十ペンスでいいですよ」
提示された金額は、予想をはるかに超えて安いものだった。
パンの塊一個分と。
ほぼ、同じだった。
「そういうのが好きなお客さんには、こう言えって言われました」
「……」
「分かりますか? それが私の値段ですよ。私の価値は、それくらいしかないですよ」
口をつぐんだ彼に向かって、ボソリと少女は呟いた。
「それでもよろしければ、どうぞ」
「生きていたくはないのかい」
「多分……死にたくないだけですので、別に生きていたいわけじゃないですから。それに」
「……」
「生きていたいという、そんな高尚な気持ちがあるのなら、とっくの昔に死んでますよ」
「……」
「生きてるってことはどういうことなのか、私は馬鹿なのでよくわかりませんけれども」
言葉を返すことができなかったらしかった。
売り言葉に買い言葉のような気もする。
子供のムキになったたわごとと考えることもできた。
しかし男は、咀嚼するように彼女の言葉を頭の中で反芻し。そしてポケットから純金でできているらしい、ネックレス型のロザリオを取り出した。
それを少女に見せるように手の中で弄び、そしてまた口を開く。
「……私はクリスチャンだ」
「……」
「神は聖書で、産まれてくることには何らかの意味があると仰っていた。ずっと、私は愚直にそれを信じ。確かにかそう思っていた」
「……」
軽く首を振りロザリオを仕舞い、そして表情の読めない目で、男は少女を見下ろした。
「しかし私はおそらくもうじきに死ぬだろう。私自身には何の非もない病気で。私は医者だ。何百人この手で助けてきただろう。しかし、私は私を治せない。それは決定されたことであり、変えようのない事実のようだ」
「はぁ、そうなんですか」
どうでも好さそうに返事をした彼女を一瞥してから、男は言った。
「……君は、悪魔を信じるだろうか」
問いかけられ、少女は僅かに愁眉を開いた。
その考え込むような表情を見て、それから男はたたみかけるように質問をした。
「では、神は?」
ふふふ、とやけにはっきり彼女は笑った。
それは。
嘲笑いだった。
特に考えがあるわけでもなく。
何の下心があるわけでもなく。
少女はただ単純にその言葉を馬鹿にした。
肩を震わせてから、口の端を奇妙に歪め、彼女は言った。
「それの何を信じるんですか?」
「存在だ」
「存在?」
「それと救いだ」
「救い?」
「手術の前に、私は必ず神に祈る。数パーセントでもいいから、その救いを分けて欲しいと」
呆れたように首を振り、そしてかすれた声で言う。
「救い? それは、薬よりもいいものですか?」
「さてね……」
肩をすくめて、男はポケットの中のロザリオを手で弄んだ。
「薬の方が、いいかもしれない」
「そこまでお分かりなら、何故聞くんですか?」
「救われたいからだ、たとえどうなったとしても」
「私達は」
ふーっ、と少女は息を吐いた。体がわずかながら温まって来たらしく、青白い頬に血管が浮いているのが見える。
「そんなことは知りませんけれど、悪魔は信じますよ」
「何故?」
「だって目の前にいるじゃないですか。見えないんですか?」
どんよりした眼で見つめられ、男は反射的にそれをそらした。
「誰の?」
「私と、あなたの」
自分の手と手をすり合わせ、そして彼女は言った。
「どうします? ……お客様。お好きになさってください。話し続けるだけなのも退屈でしょう。私は退屈です」
「……」
「あなたにどんな事情がおありか知りませんし、守っていただけるかもわかりませんが。私を殺すなら、お代金をきっとおかみさんに払ってください」
「……」
しばらく沈黙してから、男は背もたれに背を預けて長く息を吐いた。
そして眼尻を手で押さえ、押し出すように言う。
「……君は、私が悪魔であると。そう言うのか?」
「違うのですか?」
「私は人間だ」
「ごめんなさい。そうは見えませんよ?」
「では、どう見えているというのだ?」
「はぁ、悪魔に見えます」
はっきりと呟き、少女は肩の注射痕を手で揉んだ。
「あなたが悪いんじゃないですよ。私には、どいつもこいつも悪魔に見えるんです。私だってそうです。だって人間なんてそんなものですもの」
男はまたしばらくの間押し黙っていたが、やがて窓の外に目をやった。
大分ガラスが曇ってしまっている。手で擦り外を見ながら、淡々と口を開く。
「なるほど、言いえて妙かもしれない」
「……」
「私は確かに、君を殺すつもりだった。罪深いこととは分かっていながらも。せめて何か願いをかなえてやってから殺そうと。そう考えた」
「……」
「最近、この界隈で君くらいの年の商売女が何人か、消えているだろう。それを行っているのは、私だ」
抑揚のない声で言った彼を、やはり抑揚のない視線で見つめてから、少女はそれを反らした。
「はぁ、そうなんですか」
また繰り返し、口をつぐむ。
同業の女の子が行方不明になることなんて、日常茶飯事のことだった。だから男が誰を連れ去り、そしてどうしたのかということなど、少女にとってはさして重要なことではなかった。
殺人鬼も、客も、似たようなものだ。
どちらも生還確率は変わらない。
「だからどうしたんですか?」
問いかけられ、男は驚いたらしかった。
それはおそらく、自責からくる驚愕だったのだろう。
少女に、まるで怯えてもらうことを期待していたかのように。
助けを求め半狂乱になられることと期待していたかのように。
それが、彼の心のその自責を塗りつぶしてくれることを期待せんばかりの、その心のドス黒い部分を受け流され。
男は、言葉に詰まった。
目の前の少女は遥かに。
彼より、ドス黒かった。
「……」
それからまた、言いようのない沈黙の後に彼は言った。
「…………魔術師が言うのだ」
「……」
「少女の心臓を七個食せば、私の病気は治ると。君で、六人目だ」
クスリと、少女は笑った。
「あぁ、そういうことですか……」
「何か、私はおかしいことを言っただろうか?」
「あまりにも。予想通り過ぎて。ふふふ」
おもしろくて仕方ないと言わんばかりに肩を震わせ、軽く咳込む。
対して想像と真逆の反応をされた男は、しばらくきょとんとした後、また眼尻を抑えて視線をそらした。
そしてしばらくしてから目より手を離す。
「……私が滑稽に見えるか。そうだろうな」
「違います……馬鹿らしいのは、私です」
「君が?」
「はは……久しぶりに笑いました」
目元に震える指先を当て、彼女は何度かこすった。
それは笑いすぎて涙が出ていたのか。
それとも、哀しさと辛さと、麻痺した何かのために無意識に出たものなのか。
いずれにせよ、少女自身は自覚も何もしていない、無意識下の仕草だった。
呼吸を整えてから、彼女は聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「あなたが銀貨をくれたとき、少しだけ。心のどこかで少しだけ。期待をしたんです。それを何となく思い出しただけです」
「期待?」
「ええ。これで、あと少し生きていけるかもしれないって……」
面白そうにクスクスと笑いながら、薄汚い彼女は続けた。
「それってとても馬鹿らしいことだなぁって今更ながら気がついて。それにそれって」
「……」
「あなたが欲しがっている、救いとか、神様とか、何とか。それと同じですね」
「……」
「自分で馬鹿にしたそれを期待してるなんて、馬鹿のすることだと思いませんか?」
「……ああ、まったく……その通りだな」
彼は視線を離しがてら、言った。
「しかし私はまだ死にたくはない。それは君と同じだ」
「あなたはただ生きていたいだけでしょうに」
やけにはっきりと彼女はそう言った。
「別に、悪いことではありませんけれど。きっとそれがいいことなのでしょう。私にはよく分かりませんけれど」
「そう言ってもらえると、随分助かる。ありがとう」
天井を見上げて目をつむり、彼はまた細く息を吐いた。
「君の言うとおり、私は自分がただ生きたいだけの悪魔であるかもしれない。私は、今まで殺した子供たちに、最後にその子が望むことを何でも与えてきたが……」
「……」
「君にもそうするつもりだ。だが……神は確かに、こんなことはしないな。確かに、悪魔の自己満足、そのたまものなのかもしれない」
「神様がもしいるのなら」
少女は、話を聞いていたのかいなかったのか。
遮るように、男の自嘲気味なつぶやきを遮って言った。
「何一つなくとも、人を助けるんだと思いますけれど」
「……」
「そんな都合のいいことが誰かれに起こるなら、そもそも私はここにいていないし」
「……」
「だから、ね。神様なんていないんだと思いますよ」
「……」
「いないものにすがって、馬鹿らしくならないですか?」
「まぁ」
考え込んだ末、やっと男は言った。
「……それも、そうだな」
それからはしばらく、二人とも無言だった。
大分経ってから、少女は言った。
「屋敷って、ずいぶん遠いんですね」
既に裕福層が住んでいるエリアも抜け、貴族の最上級階級が暮らしている区画へと入りこもうとしている。
男はしばらく沈黙してから、やがて言った。
「少し前に通り過ぎた」
「早く行かなくていいのですか?」
「さてね……」
彼は眼尻を手で押さえ、そして続けた。
「どうしたものか、少しばかり迷い始めた」
「何か迷うようなことがあるのですか?」
「ある」
その問いを肯定し、男は軽く首を振った。
「君は、私に生きて欲しいと、そう願ってくれるだろうか」
逆に問いかけられ、少女はどんよりした視線を驚いたように彼に向けた。しばらく考え、そして彼女は明らかに作り笑いと分かる笑顔を気味悪く浮かべ、言った。
「まぁ……そうですね」
「曖昧な言葉だな」
「お代を頂ければ、いくらでも言いますよ」
「それではダメなんだ。心から私のことを案じてくれる気持ちがないと、効果がない」
「どうしてだめなのですか」
「魔術師が、そう言うのだ」
「私に対してどうして下さるわけでもないあなたを、何故私が案じなければならないのです?」
「なければならない、のではない。できないだろうと言っているのだ」
「何故そんなにも断言できるのですか」
「できる。憎むことも諦めた人間は、同時に人を信じることもできなくなる」
「詭弁ですか?」
「違う。私は、そのような治らない病を、沢山。沢山見てきた。私はその病をかつて治そうとしたこともある」
「……」
「しかしそれは無理な相談だった。もとよりそれは、それに気づいた頃にはもう手遅れなのだ」
「……」
「だから、だからこそ私は、そのどうしようもないものが。そのありえてはならないものが蔓延してしかるこの街が嫌いだ。だからこそ、この街が憎い。それゆえに、君に聞いた」
「……」
「それが悪魔の詭弁と言うのなら、おそらくそうなのだろう。それがおこがましい視点湾曲というのならば、おそらくそうだ。だが」
「……」
「私は街が憎く、そして同時にそんなところの中にいるこの私自身が極めて憎い。でも、死にたくはないわけだ」
「……」
「自分でも自分が滑稽でならず、だからこそさらに。私は私が嫌いなのだ。おかしな話でしかない」
少女はいつの間にか、彼の顔をじっと見上げていた。
「……おかしな話をしてしまった」
呆然としている彼女を見下ろし、男は淡々と言った。
「だから私は、私自身がそうだから。君は私を案じることはできないだろうにと。残酷ながらそう思うわけだ」
「……」
窓枠に頬杖をついている彼を見て、少女はそこで始めて。
ふと、何とも言えない困ったような。
どこかもの哀しそうな、歪んだ、子供とは思えない――何かにふと、気がついたような顔をした。
それは壊れてとろけた今までの表情と、初めて異なる、極めて人間らしい、歳相応の顔だった。
視線をそらし、少女はしばらく沈黙した。
そして彼女はまた壊れたような歪んだ作り笑いを顔に浮かべた。
皮肉なことに、それは。
彼女が初めて見せた人間らしい表情であった。
「はぁ……無理ですねぇ」
「だろうな。だから、迷っている」
少女は自嘲気味に喉の奥を震わせ、少しだけ笑った。
彼の言葉を聞き流すこともできたはずだった。
しかし、彼女には本能的な場所でそれをすることができなかった。
怒るような調子で発せられた言葉は。
不思議にも、すがるような響きを含んでさえいた。
「……命令しないのですか? それならどうとでもなるかもしれないですよ。私を買ったんでしょう」
「命令したのでは意味がない」
「薬を一生分くだされば、そう望みますよ」
「構わないが、私は君を買収したいわけではない」
「……他の子供たちにしたことと、何が違うのですか?」
目だけは笑っていない顔で、彼女は軽く自分の歯で歯を噛んだ。
「どうして他の子供にはできて、私にはできないんですか」
「私が欲しいのは、心であり。心は何かで買うものではないからだ」
「今まで殺した子供にも、そうしたのでしょう。それが心を買ったのではなかったら、一体何だというのですか」
「慈悲だ。それとこれとはまた別の話」
「同じです。あなたのそれを、人は偽善と言うのです」
いつになく、強い調子で彼女は言った。そして小さく痩せ細った手を握りしめ、断続的に震わせながら。
「はぁ、それが慈悲と言うのであれば。よほど慈悲とは残酷なものと見えますね」
と当てつけるようにボソリと呟いた。
男は様子が違う彼女を淡々と見下ろしながら、ふっ、と息を吐いた。そして酒瓶を取り出し口につけてから言う。
「何か、私は気に触るようなことを言っただろうか。君には関係ないことなのだろう」
「……」
問いかけられ、少女はハッとしたらしかった。
口元を震える指先で抑え、黙りこむ。
そして彼女は、喉の奥を鳴らしてくっくと笑った。
「……馬鹿にするために乗せたんですか。成程、いい御身分ですね」
「このままではそうなってしまう。だから私は迷っていたというわけだ」
「私と、あなたを同じように考えないでくださいますか」
はっきりと。
彼女は血管の浮いた瞳で彼を見上げて言った。
そのか弱くも懇親の視線を受け、男は口をつぐんだ。
少女は笑っていた。不気味に、壊れたような表情をしていた。
「私とあなたのどこが同じだというのですか。何が? 私にはあなたのように、死にたくなければ女をたぶらかす力もなければ、銀貨も、食べ物も、信仰も、神様も、車も召使も着る物さえなくて、何も、何もないっていうのに。これが侮辱ではなくて、一体何なのでしょうか。十ペンスの私に、お前は十ペンスなんだと繰り返して楽しいでしょうか。あなたのどこに、私の存在を否定する言われがあるというのでしょうか」
「……」
「ええ、ええそうでしょうとも。ですがそうなのでしょう。楽しいのでしょう。誰もかれも楽しいのでしょう。私だってあなたと同じ立場に立ったら、嘲笑ってやりたいと思ったことはあります。唾を吐きかけて踏みにじってやりたい。馬鹿にしたい。馬鹿にしたい。馬鹿にしたい。でもね、でも」
「……」
「ゴミから言わせていただきますと。そんなゴミにかまけて貴重な時間を無駄にしている人たちの方が、よほど。よほど滑稽ですけれども。金貨のくせに」
「……」
「……金貨のくせに」
そこまで小さく言って、少女は激しく咳込んだ。口に当てた手の間からぽろぽろと喀血が糸をひいて床に垂れる。息を吸うことが困難ならしく、興奮したことによる肺の断続的な痙攣をおこしながら、彼女は不意に、ふっ、と息を吐いた。
「私だって嫌ですよ」
「……」
「自分で自分の矛盾が良く分からない、この私が一番」
そこで言葉を止め、彼女は軽く首を振った。そして男から目をそらし、床を見ながら呟く。
「降ります」
それは、考えて出た言葉でも何でもなく。
産まれて初めての。
彼女が発した、ほんの些細にして、どうしようもなく、そしてあまりにも歪んだ抵抗の呟きだった。
「そうか」
男は一言だけそう答えた。そして、従者の肩を叩いて車を止めさせる。
ブレーキをかけた途端、コロコロと前の座席から。
一番最初に落してしまった注射器が転がり出てきた。
自分の吐血で汚れた手でそれをつまみあげ、少女はスカートのポケットにサッと隠した。
そして男にペコリと一礼し、泥のような闇の中で、氷粒となった雪が荒れ振るう外へと走り出る。
すぐに車は走り出し、吹雪に見送られて見えなくなった。
残ったのは、身を切るような寒さと、薬が切れかけたことによる体中の激痛にさいなまれ始めた、小さな、薄汚い少女が一人だけだった。
彼女はスカートのポケットに手を突っ込んで、肩を縮め。
足もとにうず高く積もっている灰色の雪から逃れようと、ザク、ザク、と音を立てて歩きはじめた。
どれだけ走ったのか。
どれだけの時間が経っていたのか。
腕時計などを持たない少女には知りようもなかった。
ただ、少し行った角の家の上の上。手の届かない高さの窓の奥で、クリスマスの飾りの向う、明かりを消す女性の姿が見えた。
おそらく子供なのだろう、粗末な服をまとった赤ん坊を抱いている。
背中を丸めそこから目を反らしてまた、歩き出す。
少女が降りた場所、そこは。
彼女が男の車に乗った裏路地だった。

この街は、雪が止まない。

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