絵の中で生まれる物語

 今のようにインターネットも、テレビもラジオもなく、活版印刷さえもなかった時代、当然のことだが、人々は映画もドラマも観ることなく、本を読むことすら知らなかった。だが、現代のように情報が氾濫していないはるか昔から、人々は様々な「物語」を知っていた。それは口から口へと伝えられる素朴な伝承物語だった。素朴で単純ではあるけれど、こんにちテレビから毎日のように垂れ流され、あっという間に消費されてゆく安っぽい物語よりも、はるかに滋味ぶかく、人々の心に染み入るものであったに違いない。僕自身の心の中にも、遠い昔から人類が語り伝えてきたであろう古い物語のコダマが残っている。誰に聞かされた、というわけでもないのに。

 「ハリー・ポッター」シリーズ等の大型ファンタジー映画が何故世界中でヒットしているのか、特に子供に人気があるのは何故なのか、その理由は明白だ。子供たちは食べ物を求めるように、本能的に物語を求めているのだ。それも世界中の子供たちと共有できる「大いなる物語」を。

 昔の人たちはお寺や教会に何を求めに行ったのだろう。それは信仰などという堅苦しい理由からではなく、ただ単に「お話」を聞きに行っていたのだ。イエスや仏陀が生き生きと活動する物語を聞きに行くことは、娯楽がない時代、庶民にとって大きな楽しみであったに相違ない。そして共同体全体でひとつの「大いなる物語」を共有していることが、心の安息にもつながっていたのだろうと思う。

 既成宗教が人々に及ぼす力は、残念ながら今ではすっかり弱くなってしまった。それはキリスト教や仏教が提示するステロタイプ化した物語が、古臭い、と感じられるようになったからだろう(本当は古臭くなんかないのだが)。特に今の子供たちにとって、イエスや仏陀がどうしたとかこうしたとかいう話は、ちょっとばかりつまらないものなのだろう。だが今でも子供たちは母親や父親に「なにかお話して」とか「絵本を読んで」とか、よくせがんだりする。子供たちの精神世界(子供にとって精神世界は現実世界よりもはるかに大切なものだ)を豊かに醸成してゆくためには「物語」が必要なのだ。たぶん、子供が物心ついてはじめて眼にする絵画といったら、絵本だろう。実は子供は絵本を読むとき字なんか読んじゃいない。絵を観て、そこから直接「物語」を読み取っている。

 近代になって芸術絵画の世界では“純粋絵画”というものが主流になり、絵画からどんどん物語性が排除されていった。それはそれで意味あることだったのかもしれないが、僕にとって今の芸術絵画の多くは味気なくつまらない。(最近になって日本の漫画やアニメが立派なアート作品として認められるようになったが、それも当然だ。それらの作品には豊かに「物語」が息づいている。)

 僕が目指しているものは、濃密な物語性を感じさせる絵画である。といっても僕の絵に特定の原典があるわけではないのだけれど。今まで僕の体の中に入ってきた様々な物語がごちゃまぜになって、はっきりと生成しきらないままではあるが、誰も聞いたことのない(けれどもどこかで聞いたことがあるような)新しい物語が生まれつつある。それを僕は絵にしている。いわば僕の心の中に生まれた僕だけの物語の「絵本」を作ろうとしているのだ。

2008年5月 笹本正明展パンフレットより