僕が煙草をやめたわけ

 

 2006年3月31日、僕はアルバイト先の絵画教室で禁煙宣言をした。
 絵画教室からの帰り道、車の中で「これで最後だ」と思って煙草を吸いまくった。消したと思ったらすぐまた煙草に火をつける、これを5回くらい繰り返すと、さすがに煙草を吸うのが嫌になってくる。いや、苦しくなってくる。というか、とことんこの行為がアホらしくなってくる。思えば僕はこの「煙草を吸う」という行為を「楽しい」あるいは「気分がいい」と思って行ってきたのだろうか、と考えると、そんなことはほとんどなかったな、ということに思い至った。そういうこともごくまれにはあったかもしれない(おそらく500本に1本くらいの割合だっただろう)。喫煙行為の多くは楽しくもなんともなかったし、僕に「つらい」「やめたい」「もうこりごりだ」という思いを抱かせるものだったのだ。そうなのだ、楽しいから、気分がいいから、吸っていたのではないのだ。やめたいとつねづね思っていたにもかかわらず“やめられないから”吸い続けていたのだ。なんという無間地獄だったのか!

 「よし!やめよう!」と思った。これはごく自然にそう思った。こう決心するまでに何の無理もなかった。今なら確実にやめられると思ったし、やめるなら今をおいて他にない、と、そう確信めいたものが突如として僕の胸に沸き起こったのだ。大袈裟な言い方をあえてさせてもらうが、あたかも神の啓示に打たれた聖パウロのような、または、菩提樹の元で悟りを開いた釈迦のような気分であった。僕は本日以降ニコチンを体の中に絶対に入れない、と誓った。そうだ、僕は今日を境に新たな人間に生まれ変わるのだ。
 ――と、その時の僕の心理を描写すると以上の様にかなり勢い込んだものだったが、禁煙開始2時間後早くも僕の発心をぐらつかせる症状が僕の体に起こった。長年煙草を吸い続けていた人が2時間ほど紫煙が切れたときのことを考えてもらえば分かるとおもうが、アレである。ニコチン禁断症状というやつだ。
 おそらく1年前の僕だったらここでかなり動揺していただろう。このニコチン禁断症状というやつは、何ともいえないイライラ感と不安感、焦燥感、喪失感・・・時には怒りのような感情まで沸いてくるのだ。思えば僕は5年ほど前、この「敵」のことをよく知らぬまま禁煙を試み、惨めな敗北を喫したのだった。忘れもしない、この敗北は「禁煙などできっこない」という強いトラウマを僕に植えつけた。
 だが今回は違う、「敵」に対する備えは十全に出来ている。敵を知り己を知れば百戦たたかうも危うからず。僕は自分の弱さも知っているし、相手がかなり手ごわいことも知っている。決して侮りはすまい。だが「敵」がどのような攻撃を仕掛けてくるかは、今回、禁煙突入前の数度の索敵によって経験済だ。そう、10〜12時間レベルの「プチ禁煙」を今年に入ってから数度試みていたのである。「敵」は僕の体内のニコチン濃度の低下をわずかでも感知するや、上で述べた「イライラ感」「不安感」「焦燥感」「喪失感」「怒り」という感情を僕の脳に波状的に沸き起こさせて、揺さぶりをかけてくる。これは巧妙な心理戦である。さっきまであれほど「煙草を吸うのはアホらしい愚かな行為だ」と強く思っていたのに、ニコチン切れ2時間ほどで今度は「禁煙などしているのはアホらしい愚かなことだ」という気持ちがチラホラと沸き起こってくるのだから驚きだ・・・しかし、こういう感情が沸き起こることも、僕は前もって経験済で覚悟していたので、今回は「フフフ、来たな!」という感じで余裕で受け止めることができた。つまり、苦しいのであるが、苦しい自分を客観的に見つめる冷静さを保つことができたのである。例えて言えばこの心理戦は、戦争中、敵の軍用機がこちらの領土内にやってきて、戦意を喪失させようというビラをしつこく撒いてきているようなものであるから、そのビラに惑わされなければいいのである。僕は平和主義者であるが、この戦いだけは絶対に負けるわけにはいかない、断固として戦い続けなくてはならないのである。

 さて、禁煙初日は比較的余裕をもってやりすごすことが出来たのだが、本当の苦しさが襲ってきたのは翌日であった。
 ここで簡単に僕の喫煙履歴を語っておくが、僕は22歳から39歳までの17年間、1日も切らさず煙草を吸い続けていた。吸い始めた当初は1日15本程度だったが最近は30本を超えるようになってきた。時には2箱(40本)以上のときもあったほどである。17年間、風邪をひこうが体調が悪かろうが、咳き込みながらも煙草を吸っていた(今思えばまったく馬鹿なことをしていたものだ)。最大の禁煙時間は5年前イタリアに旅行に行ったとき、飛行機の中での14時間が最高記録である。
 禁煙翌日、僕にとって未知の領域、14時間以上のニコチン切れがやってきた。昨日までは余裕でかわせた攻撃が信じられないほど強大なものとなってきた。「イライラ感」「不安感」・・・といった心理的縦断爆撃の他に、「視覚の異常」という肉体的違和感が出始めてきた。これはちょっと説明が難しい症状なのだが、例えて言うなら、まったく合わない眼鏡をかけているような感じである。何を見てもピントが合わないような、普段見慣れているものが、見慣れているままに見えないという、なんともいえない不安感をともなう感覚なのである。そして猛烈な眠気がやってくる。眠いので寝ようとするのだが熟睡できるような気がしない。ひとつのことに集中できないのでまったく仕事も手につかない。「煙草を買いに行こう」「思いっきり煙を吸いこみたい」という誘惑が耐え難い痛みのように間断なく襲ってくる。
 その気はまったくなかったのだが、僕は思い切って甲府市のシネコンに出かけ、映画を観ることにした。劇場の中なら最低でも2時間は煙草を吸わなくてもいいのである。しかも最近のシネコンはロビーは禁煙で、煙草を吸うためには一旦ロビーを出て専用の喫煙所に行かなくてはならない。そんな面倒なことをしてまでも煙草を吸うことはないだろう、と思ったのだ。
 結局この日はあまり観たくもなかった映画を二本立てで観たのだが、視覚が依然としておかしくてあまり集中できなかったし、途中で何度も睡魔に襲われたりして映画そのものはさほど楽しめなかった。しかしシネコンを出る時には禁煙開始24時間が経過しており、このことはほんのわずかながら自信につながった。

 禁煙3日目。この日の記憶はなぜかあまりない。何をやっていたのだろう?依然として苦しんでいたはずだが、昨日ほどではなかったような気がする。夜、近くの温泉に行った。温泉に入っている間は煙草を吸いたいという気がおきないのであるが、帰りの車の中でやはり猛烈な喫煙欲求が襲ってくるのだ。
 僕はこの日、ボトル入りシュガーレスガム、スルメの足、禁煙パイポ、といった禁煙グッズを買い込み、長期戦になるであろうこの戦いの兵站を整えた。

 禁煙4日目。この日、劇的な体調変化が僕の体に起こっていることに気付いた。あいかわらず仕事が手につきそうにないので、この日は畑にジャガイモを植えることにした(前々からやろうとおもっていたことである)。40平米ほどの土地をまず耕さねばならないのだが、ひとりでやると、これがけっこう力がいるし大変なのである。さて、黙々とスコップを振るって土を耕すこと数時間・・・「あれ?息が切れないぞ」ということにまず気付いた。以前だったら疲れて一休みする仕事量のところでも、息がきれず体が動く。「おっ!まだ息がきれない!まだまだ働けるぞ、まだ疲れない!まだまだやれるぞ!!」・・・ほんとうにそうなのである。たった3日間煙草を吸わなかっただけで僕の心肺機能は驚くほど復活していたのだ。しかも次の日、予想していたほどの筋肉痛がなかったのである!
――ここを読んだ人は「たった3日間でそんなはずはなかろう、大袈裟に言ってるだけだろう」と言う人がいるかもしれない。たしかにこのことをある喫煙者に話したらそのように言われもした。だが、疑う喫煙者は試しに実行してみてほしい。本当に3日間で我が身の健康が復活していることが如実に実感できるのである。――逆に言えばそれだけ喫煙という行為が今まで我が身を痛めつけていたということだ。
 僕はこの日の実感で、禁煙という戦いが僕の勝利になるだろう、という確信を持つことが出来た。いや、僕はもう勝利している。これからは、戦う、という意識すら持たなくなるだろう。煙草を吸わないでいる、ということは紛れもない喜びなのである。これからは無理をすることなく永遠に煙草を吸わずにいられるだろう。

 禁煙者の間で「魔の3日間」と称される一番苦しい時期をすぎると後は次第に楽になっていった。「煙草を吸いたい」という欲求はこの後も間欠泉のように沸き起こってくるし、今でもそうなのだが、しかし僕はもう永遠にニコチンを体に入れることはないだろうと思っている。そういう確信がある。

 今こそ高らかに宣言しよう。

 僕は勝った!

 ・・・さて、この文は禁煙からちょうど1ヵ月後、4月30日に書こうと思っていた。
禁煙からちょうど1ヶ月目の記念に、ということもあるけれど・・・
4月30日は僕の人生にとって最大の記念日になるからだった。

 

 僕はその日に結婚したのです。
 その日から、しようと思っていたのに出来なかったことが出来るように、変えようと思っていたのに変えられなかったことが変えられるように、そういう自信をつけたいと思っていたのです。
 その象徴の意味で、煙草をやめたのです。

2006/5/6

 

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