「お迎え」するということ









 

「お迎え」するということ  お人形を買うその動機については、勿論、人それぞれの形があるだろう。 あくまでも sexual な目的の場合もあるだろうし、もう生身の女には懲りたから とか、あるいは何らかの事情であいてしまった心の穴をお人形によって埋めよう という、止むに止まれぬ理由もあると思う。  ただどの場合にも共通している点があるとするなら 「自分にとっての理想の人間関係を自己完結的に構築したい」 という想いではなかろうか。  往々にして人の心というものは、人と人との交流を阻害する最も大きな障害物となる。 殊に男女の間には、悲しいかなこうした理由によって破壊された関係が、数多の遺骸を さらして広がっている。  いうまでもなく、お人形は心を持たない。あるのはソフトビニールやシリコンなどの 素材で形作られた、美しくもむなしい偶像に過ぎぬ。  しかしお人形には、心を持たない代わりに人の心に入り込んでそこに住み着き 次第にオーナーの心とは別に、お人形独自の心を形成してゆく性質があるように思われる。 これは生身の女性に対して行われる「結晶化」に似たプロセスだが、オーナーの願望を 完全に投影でき得る点で、生身に対するときとは完全に異なっている。  お人形は不平を言えないから、オーナーの心に応じて娘や恋人や、時には犠牲者の 役割をも完璧に演じきって見せる。オーナーがマゾヒスティックな心を持てばお人形は 何度でも殴ってくれるだろうし、お兄ちゃんとして妹を愛撫したい、と思えばあどけなく 甘えてもくれるのである。ただし、それはオーナーの心の中でだけだ。  極論のそしりを恐れずに言うなら、物体としてのお人形は、オーナーの心の中に新たな 「お人形の心」を形成するための種子に過ぎないのであり、ひとたびそれが萌芽を発すれば もはや単なるオブジェと化す、と言っても過言ではないのである。  こんな事を書くと多くのドーラー諸士の反論を受けるだろう。これはあくまで私個人の 意見である。書斎派の私ではあるが、これまでの研究の中で構築してきたピグマリオニスムの 観念を、少ないながら拝見してきたいくつかのドーラーズサイトに通底する雰囲気のようなものと 総合すると、おのずからこうした見識に収斂してゆくのではないかと私は考える。  多くの識者が説いてきたように、、人形愛とはオートエロティシスムの変形である。これに フェティスムやネクロフィリアを含めてもよいだろう。しかし、私はここに「内なるアニマに 対する具象化への願望」を付け加えたい、と思うのである。  表層意識としての自我と合一化してしまえば、最近はやりの性同一性障害ということにもなるし、 あくまで他者としての異性を求めるなら、ドン・ジュアンのごとく満たされぬままにあまたもの 異性を遍歴することになろう。いずれにしても端を発する源は同一のものである。人形愛もまた、 こういった心理に根差すものと私は考えている。投影する「他者」が物体であるというだけの違いだ。 「お人形の心」とはとりもなおさず、この「内なるアニマ」の発露に他ならない。いわば ドーラーは、ドーラーたるべくしてドーラーとなるのであり、「内なるアニマ」の持つベクトルに よって、無意識のうちにも目指される結論なのである。  「お人形に呼ばれる」、これはおそらく、ドーラーの方なら一度は体験したことがあるはずだ。 否、ドーラーでなくとも多かれ少なかれ誰もが持つ経験に違いない。人は誰でもこころの深層に 身体的性と逆の性心理を持っているので、(男性が持つ女性心理=アニマ・逆はアニムス)女性に だって起きうることである。  「お人形に呼ばれる」のは「内なるアニマに呼ばれる」ことであり、具象化へのベクトルを持った 「アニマ」がオーナーの心に働きかけている証左といえるのである。ここに「ドーラー」として 一線を越えるか否かのボーダーがあると私は考えている。