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クリスマスで
すよ。
自室内で簡易スタジオを組み、わかなを撮影。
まだいい顔をしてくれているとは言えない。
15:30 一緒に預かっていた弟の子供達が帰る。私の弟は人形の目が嫌いで、だから
我が家に来たときには人形を見せないようにしている。
逆に甥や姪達は人形が大好きで、時々一緒に遊んでいる。
「兄貴は子供達を奪われて頭がおかしくなり、人形を自分の子供だと思っている」
これが弟のスタンスだ。ある意味、有り難い「理解」だと思う。 |
2005
年12月25日(日)
No.52 (日記) |
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この記事へのコメント |
デカルト
[E-Mail]
2005/12/31/09:32:48
No.59 |
私自身は、一般人の目から見て「頭がおかしい人」と見られることを否定しません。
私もドーラーでなかったら、大の男がお人形抱えて遊んでいる様を見て「変だ」と思うに違いありません。
人それぞれドーラーになったきっかけがあるでしょう。
子供を失ったあと、姪や甥達に対して自分の子供のように接していた時期もありましたが、最終的には(身内とは言え)「誰か自分以外の子供」にすぎなかっ
た。
私は私の子供に対する行き場を失った愛情を注ぐための「自分だけの」子供が欲しかった。
それでドーラーになりました。
ドーラー以外の人の目から見ていてもそんなことは判らないでしょう。ただ「変なヤツだ」としか映らないはずです。それは至極当然のことです。
偏見ではなく常識。それも少しずつでも変えていければいいな、とは思いますが、時間が必要ですね。 |
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みなみ
2005/12/30/15:24:33
No.58 |
>「ドーラーは○○が無くて頭がおかしくなり、人形を自分の○○だと思っている」
と、自分も書いてしまいましたが、頭がおかしくなるというよりは、
自分の中に不足した部分を補うものを捜し求めるうちに何かをきっかけにしてたまたま波長の合ったドールに逝ったものだと考えています。
多くの選択肢のなかでなぜドールに逝ったかがドーラーを理解する大事なポイントだと思います。
確かに「人が好き」と言う人はやや少ないかなという気はしますね。 |
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デカルト
[E-Mail]
2005/12/28/18:17:22
No.56 |
> 「兄貴は子供達を奪われて頭がおかしくなり、人形を自分の子供だと思っ
ている」
世間的常識に照らせばまさしく正しい認識であって、ドーラーであることは「頭がおかしいこと」だと認識しています。
ただし、同時に「ドーラーが存在すること」までを否定しているわけではありません。
必然的な理由があって、そういう選択肢を取る人もいる、社会人としての自分とドーラーとしての自分のバランスが保てるなら、それは脇から口を挟むべきこと
ではない、ということを認めている部分において「理解」と呼べると、私は考えるのです。
ドーラー同士に限らず、人間関係をうまく運んでいくのは難しいことですね。
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みなみ
2005/12/28/01:12:58
No.55 |
えーっと(^^;)、もう少し解りやすく表現していただけると愚鈍なみなみは助か
ります(汗)
決して否定はいたしません。
最近の日記にもチラリと書いたんですが、
等身大ドーラーはやはりまだ世間から偏見の目で見られて悲しく思うことがあります。
が、それが本当にただの偏見なのかと疑問に思うこともあるのです。
非ドーラー側の目で見てみると、偏見と思えることの10%位はドーラーの姿そのものかなとも思えます。
最近、私も含めたドーラーという人種のことが少しずつ見えてきてるような気がするのです。 |
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デカルト
[E-Mail]
2005/12/27/19:11:24
No.54 |
これを「理解」とすることは、世俗的社会の中の「仮面」と背反した精神の代償機制
による自我の理性的平衡を、あえて否定することにもなりかねない「逆説的解釈」とも言えます。 |
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みなみ
2005/12/26/19:19:33
No.53 |
「ドーラーは○○が無くて頭がおかしくなり、人形を自分の○○だと思っている」
ある意味、弟さんが一番ドーラーのことを理解されているのかもです。 |
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